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コラム
 vol.16  本を読む姿勢

世の中にはたくさんの本がある。僕の言うことはそのすべてに適用できるとはいえないかもしれない が、 本には作者がいる。著者というべきか。

よくインターネットの書店で本を調べるのだが、各本の詳細に購入者の書評が載っている。
当然良いものから、批判的なものまである。そのどちらにもいえるのだが、本の書いてある中身だけをそのまま飲み込んで、批評していることがある。
そういうのを見ると本を読む姿勢がどうなのか?と思ってしまう。
本を読む姿勢というのは、つまり作者がいて、本があるということを踏まえて読むということだ。本に対する自分の位置、距離感。
もう少し遠くから見るとすれば、出版社があって、国があって、時代がある。 そういうことを考えて読むと、どうやらどんな本にもそれなりに読む価値がある気がしてくる。

ジグムンド・フロイトの「モーセと一神教」という本がある。フロイトは一般的には心理学者として知られている。この本はモーセはエジプト人だっ たのではないかということを書いた心理学者らしからぬ本だが、フロイトはこの本を自己懐疑的に書いたらしい。文の端々にその迷いが見える。そし て、今まで自分が言ってきたエディプスコンプレックスや超自我を中心にした心理学を否定するかのようなところにまでいたる。

少々込み入るが詳しく書こう。

モーセはエジプト人だった。そしてユダヤ人はそのモーセによって選ばれた民ではないか?というのがこの本の主題なのだが、そうなるとユダヤの神 に導かれたモーセ。という構図は代わり、モーセの掟、いわゆる十戒はモーセが神の名の下にユダヤの民に付したことになる。
その掟をフロイトは人間の最も根源たる意識の流れ、「エス」に結びつける。神という超越的存在(超自然的存在)が掟を与えている間はいいが、人 たるモーセになると事情が違う。歴史の中の人為的な流れが本来、歴史性を一切拒否するはずの自然的意識のエスに入り込む。そうなると今まで心理 分析の客観性の根拠になっていた物が失われ、フロイトの心理学は足元から崩れ去ることになりかねない。

そのこともあって現在まで続くフロイト心理学者はこの本をまるでなかったかのようにあつかっているらしい。
と訳者は書く。そして当然読む僕らは、フロイトの本の中身、経歴に加え、訳者自身の経歴、今いる位置も踏まえて読み取ったほうがいい。 僕が言いたいのはそういう姿勢だ。自分はフロイトの視点なのか、訳者の視点なのか、あるいは読者の視点なのか。そこを自在に移動できる必要がある。顕微鏡 の焦点を変えるように。


先ほど言ったもう少し遠くということも少し挙げよう。


出版社でいえば工作舎のサイエンス本は科学書コーナーにあるが魔術書だったりする。

「ガリバー旅行記」はまるで本当の話のように書かれているが(いや、きっと実話に違いない)、当時のイギリスのこと情勢を踏まえなくては読んで も分からないこともある。

同じようにペシミズム文学では、ヴォルテールが自分の名を出さずに書いた「カンディード」も冒険活劇のスタイルをとった当時の社会に対するナイフだ。

西遊記には唐の時代にはなかった官職(明代のもの)が登場するがそれも見方を変えれば、考証にはおもしろい。


このように何が正しいということはない。だから自分のいる位置を自覚的にする必要がある。
そうすればどの本も、あるいは作者も、自分という基準に照らして、判断できる。そうすると今度は、その自分が今世の中の全体的な価値観のどこに いるか(例えば右傾化しているとか)ということになってくるのだが、 まあそういう、自分のいる位置を自覚的に捉えられない人はそもそも基準をもてないのだから、できる人は大丈夫だということになるかと思う。 「自分は右傾化しているなあ」と思うというのは右傾化していないということになる気がする。

自分と著者の位置関係。そのために、ではないかもしれないが、著者(あるいは訳者)略歴といったものが本の端のほうに載っている。書くほうにも 姿勢がある。

もちろん、著者がどんなやつでどんな姿勢で書いても、読むほうにとって価値が見出せればよいのだとも思う。
ウィリアム・サローヤンは家庭では暴力的な一面があったらしいが、あんなにも美しくハートウォーミングな小説が書けた。
読まなくても、PHP新書のこの本はあたりさわりがないから枕にちょうどいい。とか、ブコウスキーの本はゴキブリをひっぱたくのにちょうどいい。とか、 ウィトゲンシュタインの本はミンザイ替わりにちょうどいい。とかでもいいと思う。

それにしてもフロイトの「間違っちゃったかも」的なカミング・アウトはなんというか心に触れるものがある。どんな状況、理由であれそれは確かに 本に書かれている。過去の経歴を考えると勇気がいったことも確かだろう。
なんとなく僕は、フロイト自身とモーセが重ねあわされている気がする。フロイト心理学を絶対視すること自体が、モーセの十戒を絶対視する盲目性 の危険と同じだと、そうフロイトは考えていたのではないかと。もちろん、ユダヤ人としての誇りは持ったままだが。

そういえば、動物行動学者のコンラート・ローレンツはその研究から発展して「攻撃」という本で、ついには人類の袋小路的な攻撃性、つまり戦争の話にまで突 入 する。そのときも同じような心の振るえを感じた。そうなるともう思想家というべきかもしれない。なんというか文に見える著者の迷いと思い切りが 、その本を書いているときの著者の心情を映すという感じ。

本にもいろいろあるのだ。


最後にもうひとつの姿勢もふれておこう。僕は昼休み、電車の中、喫茶店では椅子に座って。一番長いのが寝る前で、ベッドの上で寝転んで読む。そのどれも読 む本が違う。

今は昼休みが「囲碁の民話学」、車内が「東大教養囲碁講座」、喫茶店が「ナマコの眼」、ベッドの上が「マルドゥック・スクランブル(完全版)」。寝る前に は電波とか触れたくないので電子書籍にはあまり惹かれない。「ケツもふけねえ本は本じゃねえ」とブコウスキーが言ったとか言わないとか…。 (hayasi keiji,10/11/18)


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