vol.17
”ジレクト・インファレンス”について
最近思うことについて書く。先日古書で手に入れた南方熊楠のアンソロジーを読んでいたらこんな記
述があった。千里眼というタイトルのエッセイで
熊楠は千里眼の可能性について肯定的に書き、自分にもそういう経験があるという。
ほとんど発見されていないような希少な植物について、パッとあそこにこれがある気がすると思い、山に入って植物を探しに行くとそこに確かにある
というような経験を何度もしていると言い、その後に次のように書いている。
「しかし予がみずから経験せし神通、千里眼的の諸例を、虚心平気に考察するに、さまで解説し得ぬほどの不思議なこと一つもなし。人間がものを考
えるに、必ずしも論理法に示すがごとき正式を踏んでせず。故ハーバート・スペンセルなども、常人が日常の考慮に順序通りに推理することははなは
だ稀にて、多くは直接到達を用ゆ、と言えり。(中略)また心理学者のいわゆる閾下考慮(サブリミナル・ソーツ)、仏説にいわゆる末那識・阿頼耶
識様の物ありて、昼夜静止なく考慮し働きながら、本人みずからしかと覚えぬ一種の脳力ありとせば、みずから知らぬうちに、地勢、地質、気候等の諸
件かくのごとく備わりたる地には、かかる生物あるも知れずと思い中れるやつが、山居孤独、精神に異常を来たせるゆえ、幽霊などを現出して指示す
と見えたり。」
ハーバート・スペンセルというのは勉強不足なもので初めて聞いたのだが、この「直接到達」という言葉に本では"ジレクト・インファレンス"という
読みが振られていた。ジレクト・インファレンス。これについては思うところがいくつかあった。
最近碁の本を読んでいて、自らも少しばかりやるのだが、囲碁の強い人というのはこのジレクト・インファレンスを用いていると私は思っている。
碁でもパッと見て次にどこに打つのかが分かることが非常に重要である。そういうのをノータイムという。手順としてはまず直感的に解答(どこに打
つか)にたどり着き、そののちこれを裏付けるべく考察する。考慮とはそういうことなのだと思う。
さて、これはじつは先端科学においても重要なことである。サイバネティクスにおける一番の難関はこのジレクト・インファレンスではないかと思う
。大雑把に言えば人間に出来てAI(アーティフィシャル・インテリジェンス=人工知能)にできないことがこれであろう。
なぜできないか。まず一つの作業を比較してみれば分かる。
コンピュータの中にある例えば「尾瀬に旅行に行ったときの写真」を人間とコンピュータ自身に探させてみる。人間ならば、まずそれらしいものが入
っているであろうファイルフォルダを思い浮かべながら、「写真」とか「photo」とかの名前のフォルダを調べ、いつごろ行ったかを思い返し、
「2007」のフォルダをさらに開き、「oze」とかいたフォルダを見つける。人間はこのように関連付けながら探す。もちろんこう上手く行かないかも
しれないが、それはまたそれ。「思い違い」というやつだ。
コンピュータはというと指定された「尾瀬旅行に行ったときの写真」ということで「oze」あるいは「尾瀬」という文字の入った写真形式のファイル
をコンピュータ内の全ハードディスクのなかからしらみつぶしに探す。
つまり、人間…関連付け=連想 AI…しらみつぶし=無連想
という探し方の違いが現れる。
ハードディスク内の情報量にもよるが、普通は人間の方が効率がいいと思う。ただしこれは意識的に関連付けて探す方法である。
熊楠はその点でも閾下考慮という言葉を用いている。
脳には閾下というものがあり、その本人が把握していないような無意識下での活動がある。AIは基本的に考える部分だけで出来ている。であるがゆ
えに考えないでパッとこれとこれとこれを関連付け答えにたどり着くことが出来ない。駅からの帰り道でふっとドラッグストアの前を通りかかり、「
ああ、洗剤が切れかかっていたな」などと思い出すのは、まさにこれであろう。
ようは無意識下での作業はこのいろいろなものを投げ込んで泳がせておき、何かにつけてパッと答えを出すというようなものだ。
ところが、関連付けが効率がいいといったことと矛盾するようだが、先入観があると直接到達は難しいようでもある。碁などでは定石は覚えるべきだ
が、覚えてしかるべき感覚を身につけた後、忘れる方が良いとされている。プロにもいろいろな考えがあって、そうではないと言う人もいるかもしれ
ないが。
私は碁の達人はノータイムでできるようになるために、経験で定石や手筋を覚えるのではなく経験で先入観を解除するのではないかと考えている。
解除→ジレクト・インファレンス→考察→打つ
というわけで、碁の練習はそのための訓練というべきであろう。閾下での関連付けの訓練。
連想というのは意識しても出来るが、無意識下のほうが早く、しかも比較的正確なのである。
もうひとつの問題はAIには脳しかないということである。
人間においては体から入ってくる情報の重要性が非常に重要である。眼や指や全身に対する感覚が自分を作り上げている。
さきほどの碁の場合のノータイムで打つ手を感じる、というのは一種の空間認識力=バランス感覚だと思う。左右の石との距離感や全体の形を見て閾
下で答えを出す。
脳からの直接制御という方法論では人間のような活動は難しいのである。脳からのアウトプットには、逆方向の脳へのインプットに対する制御という
問題がある。だから身体は脳からと外からの両方の力で支えられているといっていいと思う。
AIを搭載したロボットはやはり外部からリアルタイムの情報をリアルタイムで処理する必要があり、それには身体性という脳以外の部分を含む一体
的な見方が必要なのだ。
人間は思い違いをする。AIはしない。思い違いをすることはどうも重要なことなのかもしれない。 (hayasi
keiji,11/1/18) 校正(hayasi keiji,11/1/25)
参照:「南方熊楠コレクションU 南方民俗学」(河出文庫) マイコミ囲碁文庫シリーズ「ノータイム詰碁360〜ヨミからヒラメキヘ」(毎日コミュニ
ケー
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