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コラム
 vol.18  原子力=アニミズム論

地震以来いろいろなことが起こったわけだが、今一番の話題というか問題は福島の原発のことだろう と思う。
この件に関するニュースが連日報道され、報道に対する反応も連日起こる。それを見ていてふと思ったのだが、 人々の原子力に対する反応というか接し方が非常にアニミズム的だということだ。

アニマ(霊魂)を信仰する精霊信仰的な文化は文明の初期段階のもので、徐々に発展しヨーロッパ的な一神教に至ると言われてきたわけだが それはヨーロッパ中心主義的な偏った見方で、最近の文化人類学、フィールドワーク的な歴史研究、ではその考えにはかなりの疑問が出ている。

アフリカの無頭社会や日本を含む多神教的な世界が一神教の世界より稚拙で遅れているわけではなく、環境に合わせて文化の形は適応的に 変化すると考えるべきだということだ。

少々脱線したが、アニミズムは発展的に消化されるわけではなく文化の中に原始的な形の基礎として残っていると考える。 つまり人間の初歩的な感情、感覚の部分にということだ。

原発周辺の放射線量から始まり、ほうれん草や牛乳、大気、水道に至るあらゆるものにおける放射性物質含有量に対する人々の反応は大体にして 店頭に売られているから安全でしょうという考えと、食べない近寄らない飲まないという拒否的なもののどちらかだ。あまり分析的に考えたり、細か く一つ一つ見ていく事はしない。つまり「よく分からないもの」ということのように思える。

受け止め方としては自分で責任をとる気はない。煽るつもりはないが店で売っているものは安全なんて、ちょっと前まで散々食品偽装があったことを 考えるとちょっと信じられない考えである。だからといってその地域のものは全部食べないというのも同じ自己責任放棄である。よく分からないもの は不安である。畏怖を覚える。そこがアニミズムの原初的な地点なのである。

連日の報道の中で専門用語を交えた説明が繰り返され知識は増えるばかりだが、分かったような分からないようなままであり、実際のところ心の中で すとんとどこかに落ち着かせるという事はできない。半径20キロ圏内には入らず、30キロ圏内は屋内退避といわれても、さらにその外にある食品店 にすら荷物が届かない。生活が成り立たず、結局自主避難せざるおえなくなる。生活の場ではないということは、つまりその領域は不可侵の聖域になってし まった。近づけるものは防護服を着た専門職の人だけ。日本の原始的な信仰の継承である神道における神のましますお社あるいはお山に入れるのは、 禊をした神主と巫女に限られるというような感じである。

神聖なものは有難いだけでなく恐れられる。呪いをもたらすもののように扱われることもある。事故の絶えない工事現場には社を立て魂を鎮める。あ るいはお祓いをする。
怒れる神を社に閉じ込める。出雲大社には大国主命が幽閉されていたのでお社の中が入り組んだ構造になっているという話がある。ミノタウロスは迷 宮の奥に住まわせ生贄をささげた。チェルノブイリの原発もそうやって全体を多い、放射能が外に出ないようにおさめたらしい。事故がおきたらこうな るということは、もともと扱いきれないものを扱っていたということになるのだろうか。
大友克弘のマンガ「AKIRA」の中で、手に終えない 力を持った少年「アキラ」は絶対零度に限りなく近い温度でオリンピック建設予定地の地下に閉じ込められた。その現場を前に軍の責任者である「大佐」 は途切れ途切れの言葉でこう言う。

「見てみろ・・・この慌て振りを・・・怖いのだ・・・・怖くてたまらずに覆い隠したのだ・・・・恥も 尊厳も忘れ・・・・築きあげて来た文明も科学もかなぐり捨てて・・・・自ら開けた恐怖の穴を慌ててふさいだのだ・・・・」

まだ処理は終わっていない。BSニュースでロシアのニュース番組がこの問題は数十年続くようなことを言っていた。よく分からないものに対する反 応は何千年も変わらない。長い時間のかかる話なのだが、人間という種の一人一人の寿命というものはそんなに長くない。(hayasi keiji,11/4/7)

参照:大友克弘「AKIRA(1)」講談社ヤングマガジン・デラックスKC 
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