vol.19
リオネル・メッシの時間論 〜肉体の持つ知性(体系−1)〜
ここ数年考えていることに肉体の持つ知性論というのがあり、それを中心としてまだ記述はないが
「親和性」、「同期」、「コミュニケートの精度」「深思考、浅思考」などというキイワードも浮かび上がっている。そのあたりは追って少しずつ、思考がまと
まったたびに書いていこうと思う。
私はもう十年来のスペインのサッカーチーム、FCバルセロナのファンである。最初にファンになった頃はまだ二十世紀で、当時のメンバーで今も残っているも
のはシャビ・エルナンデスくらいになってしまった。といっても今でこそスペイン代表の核となったシャビもまだトップチーム入りしたばかりで試合にはあまり
出ていなかった。メンバーはクライファートらオランダ人が多く、その年、99年は確か4位で終り、次のシーズンには一時期12位まで落ちるというどん底ぶ
りだった。
その後ロナウジーニョやエトー、マルケス、シウビーニョ、ラーション、アンリと外国人もオランダ勢ではなく第三世界からの選手も増え、下部組織で育成され
た選手も頭角を現し、現在再び黄金期を迎えている。
その中でも世界中から注目されているのがリオネル・メッシだろう。二年連続ヨーロッパ最優秀選手に選ばれ、まだその才能は伸び続けている。ウィニングイレ
ブンというゲームの表紙にもなっているようだ。これを書いている今、スペインのリーグ戦はシーズンの終盤、残すところ4試合だがこの時点でスペインのチー
ムでの年間ゴール記録を更新している。メッシの偉大さは誰の眼にも明らかだ。だが、それにしてもメッシはなぜすごいのか。どこが他の選手と違うのだろう
か。
そのことについて考えるとき再び肉体の持つ知性論と結びついてくる。というよりも肉体の持つ知性論を解き明かすのにメッシとその周囲の選手が非常に大きな
証例となってくれる。
今のバルセロナのメンバーの中核、ミッドフィールダー(MF)の選手は主にシャビ、イニエスタの二人で、フォーワードのトップを右にペドロ、左にビジャ、
中央、若干下がり気味の位置にメッシとなっている。
攻撃のパターンはあまりに多彩を極め説明することはもはや難しい。そのあたりは省く。そもそもサッカーは日本人には理解しづらいスポーツであるようで、
ルールがよく分からない、オフサイドの基準がよく分からないという話をよく耳にする。僕もうまくは説明できない。ルールに非常に微妙なラインがあることは
確かだ。説明しながら書くのも無理なので、興味を持った方はそういうことを説明することを目的とした本を読んでもらうか、辛抱強く試合を見続けてもらいた
い。
僕が今分かりやすく言うとしたら、ひとつのボールをみんなで争うゲームとそのボールを特定の場所に入れるゲームということだけを分かっていてもらいたい。
「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のようなものだ。最初のパーティのシーンでハリソン・フォードがダイヤ(だったか?)を追いかけるシーンはダニエ
ウ・アウベスやプジョルがボールを奪い取るためスライディングするシーンと酷似している。
メッシがボールを持つところからの話をする。ゴールまでは十数メートルである。相手チームのディフェンスは当然ボールを奪うかメッシのプレイを止めようと
する。その際に選手はメッシの速度に合わせようとする。人間は他の人間と歩調を合わせるということができるようにできている。僕はそのことを「同期」と呼
んでいる。その場合主体(マスター)と客体(スレイブ)がいる。合わせる側がスレイブである。合わせるために主体的に客体化するわけである。
マスターは自分の時間軸で動いている。スレイブはそこに同期する。それが基本である。そのように相手のドリブルに合わせてスライディングしボールを奪う。
うまく合わせられなければ、例えば相手のほうが少し速ければボールではなく相手の足にスライディングしてしまうことになり、相手の選手が倒れファールとな
る。
ところがメッシは違う。まずボールを奪われない。スライディングされても倒れないでよけてしまう。とてもバランスがいいのだ。ものすごい速さでドリブルを
していたのに、突然リフティングのように空中にゆったりとしたボールを上げることもある。相手が予想もしないタイミングでパスを出す、あるいはシュートを
打ち、ゴールする。見ているほうはまるでメッシ以外の選手が止まって見えたりする。もちろん調子の良し悪しはあり、悪いときはあっさりと奪われる。
だが良い時というのは他の選手の良いときと違う。その理由のひとつに僕はメッシが時間を基準にしていないところにあると思うのである。ボールを持ったメッ
シは主体でありスピードの変化は自由であるが普通はボールと同期し時間を合わせるためある程度の制限がある。ボールとのギブアンドテイクというわけだ。し
かしメッシは基準が速度ではなく精度のほうにあるようなのだ。
精度というのはつまり、いかに細かく把握しているかということである。話は変わるがCDなどの音質の話によくビットレートというものがでてくる。Mbps
という単位で表されビット毎秒などというのだが、つまり一秒間の中にどれだけ解析可能な情報が入っているかということである。例えば歌声ならばビットレー
トが高ければ高いほど原音(生の声)に忠実であるということになる。
この原理と同じであり、人間も自分の体の挙動をどこまで細かく把握しているかということがある。それができているほど正確に体を扱えることになる。ただし
理論上ではあるが。だから神経の速度に筋肉がついてこなければ達成はできない。
基準が精度にあるということは速度が速くても遅くても関係ないということだ。精度を維持できればミスはない。
だからメッシは全速力から突然止まったかのようなボールをポーンと上げることができる。
ただその場に立って足元にあるボールを足で自由に転がすことはわりと簡単なはずだ。であるから、自分とボールが同期していれば走っていてもそれは同じとい
うことだ。大事なのはボールへのアプローチ、つまりコミュニケートの精度である。もちろん他の選手においてもそうなはずなのだが、メッシはその精度が非常
に高い。
もうひとつメッシが人と違うところは、メッシは背が低いということだ。まるで指輪物語のホビット庄からやってきたかのようだ。足も短い。それはこの場合と
ても有利に働いているように見える。そういえばメッシと同じアルゼンチン人選手にはよくこういう感じの選手がいる。きっと中つ国とはアルゼンチンのことに
違いない。
メッシは走っているときの歩幅が非常に狭く、まるで赤塚富士夫の漫画のようなのである。下半身は高速で回っており、上半身はぶれない(下半身つまり足が高
速で回っているということはそれだけ多くボールに触っているということでもあり、ビジャやペドロへのパスのタイミングの選択肢がふえることになる)。これ
はこの背の低さがひとつの鍵なっている。というのはただ背が低いだけではだめで、重心が低いことが大事なのである。他の選手よりも低く、しかも体の構造的
にも低い位置つまり腰骨から骨盤の辺りに重心を置く。そうすると倒れにくい状態になる。
日本人は伝統的に腰の強さを重視してきた。文化の中心にまでそれがいきわたり、相撲などには端的に現れている。つまり相手の腰と自分の腰を合わせ、どちら
が強いかを競う。
サッカーでもそれは変わらない。ヨーロッパで培われてきたスポーツでも肉体のレベルの問題は同じことなのだ。
メッシは生まれつき背が低かったわけで有利な上にボールとのコミュニケートの精度においても他の追随を許さないレベルに達している。そのことがメッシと他
の選手を分けていると思う。
つまり、走っていてもただ立っているときのように非常に正確に分析できる能力。こういうものがより高次の肉体のコントロールということになるのだろうか。
そういうことをできる頭脳も明晰と言うと思う。
最後にひとつ付け加えなくてはならないが、それはメッシのそういった能力が一番活きるチームがバルセロナだったということである。
バルセロナというチームはロングボールを使わずに細かく律儀なまでにパスをつなぐ。それをなるべく速くする事で相手チームからスペースを作る。つまり必ず
相手と対峙するわけである。相手や味方ののいないところにロングボールを送り込んで相手より速く走りこむようなことはしない。ボールは常に誰かの足元にあ
る状態をなるべく作る。
それが結果、個人対個人の競技の要素を持つことになる。例えば相撲のような。自分に同期してくる相手からすっと時間を変えてやる、合気道に近いそんな作法
を考えるのもバルセロナならではということだ。
今回はメッシとボール、相手選手の関係だけに絞っておいた。他の選手とのパス交換における同期や視野の広さの問題など他にも書くべきことはまだあるが、そ
れはまた追って書くことにする。(hayasi
keiji,11/5/10)
|