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コラム
 vol.20  歩きながら考える〜鶴見良行「ナマコの眼」〜

鶴見良行の「ナマコの眼」を昨日読了した。だいたい1年近くは読んでいたことになるだろうか。
とても読みやすい文章なので本当なら3日もあれば読める。でも1年。というのも基本的にいつもカバンに入れ、といってもカバンを持って出かけるのは週に1 回くらいだったので、そのときに喫茶店でゆっくり読む。たまに電車の移動でも読む。という感じで読んでいたので結構かかった。

でも理由はもうひとつある。もったいなかったのだ。

正直に言って今まで読んだ本の中で一番面白かった。あらゆる本の中で。

1ページ読むごとに何か思わずにはいられない本だった。少し読み、それについて考えることの繰り返しである。そしていささか慕情的に過ぎるかもしれない が、この本を読むと海のにおいがしてくるのである。

話はナマコという日本でもよく知られた海洋生物の視点を借りて、人間の営みを辿るというものだ。
簡単に書きすぎた。ことは複雑である。ナマコをたどるだけで東北アジアから西太平洋と東南アジア、オーストラリア、果てはアメリカとヨーロッパまでたどり 着く。それを逆にたどる。ナマコと人間の交流は非常に複雑怪奇で奥深い。長い航海を経てオーストラリアまでやってきた白人たち、原住民のアボリジニ、東南 アジアのマカッ サルたち、スルー海域の海賊、沖縄の糸満漁民、蝦夷地のアイヌ人、そして消費地の中国人、いろいろな人間の思惑が絡み合う。
それを綿密なフィールドワークと膨大な資料で確かに裏付ける。

でも一番大事なのは鶴見良行という人の視点であり、想像である。イメージではない。たしかにありうべき人間の営みに対する、当たり前の想像力である。それ をもって歩き、ばらばらなまま各地にある確かな実感としての資料を結びつける。
つまり妄想ではなくとても現実的に「こうなのだからこうだったのだろう」と捉えられる。この冷めた視点がとても大事である。この本の中でたびたび海の底で 人間をせせら笑うナマコの姿が登場する。これこそがナマコの視点を借りた鶴見良行の視点である。とても冷めた眼で人間のことを見ている。

しかしこのナマコ、フィールドワークの対象としてのモノとしては絶妙なポジションにあると思う。これを見つけたときはさぞ嬉しかったことだろうし、調べた らどんなことになるか考えて、わくわくしたであろう。そしてこれを見つけることができたのも鶴見良行のとったこの視点だからこそである。

やはりただモノを調べるだけではだめで、この特殊なモノと冷めた視点の二つがあいまってこのすばらしい本が生まれた。
鶴見さんは1926年にアメリカで生まれ、幼い頃は各地を転々とし、小学生くらいの頃に日本に落ち着く。東大を出て、いとこの鶴見俊輔の「思想の科学」に 関り、べ平連に関り、その後アメリカ的なものから離れ、94年になくなるまでアジアを歩き回ったそうだ。多分に多角的な視点を持ってもいる。これか らほかの鶴見さんの本を読んでいくわけだが(もう数冊取り組んでいる)、やはりこの視点はさほど変わらないだろうし、ナマコにたどり着くまで、バナナとエ ビを通り抜けてどんな変遷をたどったのか非常に楽しみである。

話はすこしそれるが、この本の中に串原正峯という人の文章が出てくる。幕府から蝦夷地に派遣されアイヌを調査した時のものだが、この引用文が非常にいい。 非常に理知的である。江戸時代の言語変遷は詳しく知らないが、同時代のほかの文章よりも現代的なところを見ると洗練された都会人だったのだろうか。当時に してはめずらしく偏見のない眼でアイヌの精神性を見抜いてるかのようだ。鶴見さんも彼の思想性に感慨深げに注目している。この人のこともゆくゆく読んでみ た い。

フィールドワークと綿密な資料。手触りと実感を何よりも大事にすること。そこから生まれる連想。こういうのは体が外に対して開けていなくてはなかなか難し い。思想云々ではなく、というよりも本来信頼できる思想というのは、実感に対する素直な感性を中心としているものなのだ。だからフィールドワークという学 術的な単語よりも本当は「歩きながら考える」というセンテンスのほうがふさわしい。単語よりも文章のほうが関連性を大事にしている。行為なのだから。



そう考えると、以前このコラムで書いたフランス中世史の歴史学者、木村尚三郎のことを思い出す。

肉体を持つ知性論でも書いたように木村さんは教会の中で、「これからは感性の時代、『精神』ではなく『こころ』、男性的ではなく女性的な時代なのだ」とい うことを言っていた。「歩きながら歴史について思いをはせる、こういうのが自分にはふさわしい」とも。
平易な言葉で、開かれた体で、歩きながら実感として 学問する。これは本当は誰にでもできるはずだ。

「何でこれはこうなのか」という純粋な疑問に対し、「こうされたらこう感じるだろう」とか「こん なことをしたらこう思うだろう」という、人を思いやるときに持つべき当たり前の気持ちと同じように「こうなのだからこうだったのだろう」という想像力で向 かい合う。これが大事だということだ。(hayasi keiji,11/7/28)

参照: 「ナマコの眼」(鶴見良行・ちくま学芸文庫)
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