→main
コラム
 vol.21  視ることと見えないもの〜エドムント・フッサールと荘子〜

以前思想家が苦手だと書いたことがある。何か概念や理想や主義のようなものに終始し現実的な説得 力に欠けると思っていた。今でも大半の思想家には同じ思いでいる。

それに対して何か特定のものを研究あるいは製作していて、たどり着いた思想的なもの。こういったものが私は好きだ。職人や歴史家、旅行者、科学者、スポー ツ選手。まあ個人的な思い入れといえばそうかもしれない。

哲学家と思想家は同じなのかそれとも違うのか。これは僕にはわからない。でも時には同じ役割を果たし、時には相反し対立すると思われる。

政治的なものは思想とつながる。宗教的なものは哲学とつながる。宗教と政治はつながる。どうだろう、でもこれでは単純すぎるかもしれない。

以前叔父からもらってほったらかしになっていた現象学の本をなにげなく読んで、その中でフッサールのことを知ってから少し考えが変わった。エドムント・ フッサールはちょっと違う。

フッサールの主著は「イデーン」と言われていて、その中の特に1−1はその思想の中心が描かれていると評価されているが、とりあえずでかくて重くて高いの で、岩波文庫の「デカルト的省察」を読んだ。はっきり言って、きつかった。こんなに疲れる本はない。厳密極まり、頭に素直に入ってこない。水前寺清子の歌 うとおりだ。三歩進んで、二歩下がる。

だから哲学はいやだ。と思うところだが、そうでもなかった。面倒だが逃げていない。ただこういう風にしか言えないのだ。ただそれだけだったので、何とか踏 みとどまり読みきった。

読んでみるとまあ生きるというのはこういうことだ。と思った。すべての人間が哲学者なのだ。ただし超越論的現象学においてはであるが。言い換える。すべて の人間が現象学者なのだ。

フッサールのポイントはこうだと僕は考える。


まず、私は生まれる。自我はまだ育っていない。それは環境や社会の中で育ち、自我となる。
でもそれは本質的なものではない。私は思考するのをやめ、社会のことを忘れ、判断することをやめても、そこには風景があり、誰かがいて、私がいる。

そこには自我という社会的環境的な後天的性質のものではなく生まれ持った私がいる。それが超越論的自我である。

超越的論的な我への還元。あるがままに周辺環境を認識し、思考による判断をやめれば誰でもそこに戻れる。それが本来の私である。どうせ正しく認識するなん てことは物理的に不可能なのだ。だからこの世界で生きていくには、思考し、判断するたびに、生き生きとした現在を生きるこの現実的な私に戻るべきだ。ある いはこの本来の自分が思考し判断していくべきだ。


とまあ大体こんな感じだと思う。


ところで僕は最近、中国文化にはまっている。囲碁も始めたし、古琴もやりたいと思っている。以前から道教にも興味があった。それで「老子」と「荘子」もそ ろそろと読み始めた。

そうするとどうだろう。なにか重なるものがあるのだ。


「老子」は無名について説く。

万物には名はない。名は人が勝手に付けたものだ。だから本当は名前はない。

これはどうやら儒教に対するアンチテーゼでもあったようだ。
儒教は名を重んじていて、それがいわゆる序列主義につながる。つまり物事を正確につかめるものは、その名を知り、それで物事を正確に運用できるようにな り、結果社会はうまく機能する。ということだ(本当の名を知られると人に操られるというアニミズム的な言霊思想と大して変わらない)。

僕はこれを聞いて、つまり勉強というのはこういうことを言うのだ。と思った。そうやって学校で勉強をする。
暗記して、受験して、就職して、出世して人を物のように使う。やれやれ。中国の伝統的な国家試験であった科挙はまさにこれを体現しているのだ。中国には今 でも暗謡大会とかがある。もちろん日本もたいして変わらない。


社会的には確かにそうなのだ。それが社会というものだ。


だが老子はそれに対し、名ではなくまず物があるのだ。と言った(まあ老子は実在も危ういのだが)。
そして万物の根源として道があり、宇宙生成のような話にまでいく(やがて道教の太一に繋がり、老子は太上老君という神になる)。その話はかなり宗教的であ る。だが科学的な宇宙誕生の話ともよく似通うところがある。

それに対し、荘子はちょっと違う。荘子はそこまで宗教的な感じはしない。老子が神になり荘子がならないところにもそれが表れている。大いなる力ではなく大 いなる生き方という感じである。

荘子はどうやら実在しているらしいのだが、私には荘子はかなりのニヒリストに見える。あえて論拠を破壊するように大鵬(ばかでかい鳥)のようなとんでもな いほら話を言って、それでだからこうなんだよと説明する。非常に他人をバカにしている。そこがいい。「あはは、お前らみたいにちまちましたくだらない人生 など歩きたくないんだよ俺は。一生やってろ」と言う感じである。

その荘子の思想的中心とされる内篇のさらに中心部である斉物論篇というのがある。
そこに「彼れ(かれ)」と「是れ(これ)」の話がある。離れているものが「彼れ」、近くにあるのが「是れ」である。


「物は彼れに非ざるは無く、物は是れに非ざるは無し。彼れよりすれば、則ち見えざるも、自ら知れば、則ち之を知る。故に曰く、彼は是より出で、是は亦彼に 因ると。」(中公バックス4 小川珠樹・森三樹三郎訳「老子・荘子」P177)


彼れと是れは実は同じである。と荘子は言う。彼れは是れにもなるし、是れは彼れにもなる。すべてが相対的な判断に過ぎない。だからすべては同じなのだと。 これを「万物斉同」というらしい。

実はこれによく似た話がある。

フッサールのデカルト的省察の第五省察の第五三節から第五四節である。

フッサールはこことそこは実は入れ替わり得るものだ。という。離れている他者と認識している私は実はすべて同じ我である。


「そこにある異なる物体〔他者の身体〕がここにある私の身体とついになって連合することによって、しかも、そこの物体は知覚において与えられるのであるか ら、共に現にいる我の経験という一つの共現前の核となることによって、このもう一つの我が、意味を与える連合の歩み全体によって必然的に、(「ちょうど私 がそこにいる時のように」)そこという様態においていま共に現にいる我として共現前しなければならない。」(岩波文庫 フッサール著・浜渦辰二訳「デカル ト的省察」P208〜215)

これはいわゆる還元され、判断停止した自我にとってであり、この後に社会的である私固有の我との不一致の問題と、他者の了解が成功した場合の新しい理解可 能性について書かれている。


フッサールの他者に関する考察は後の現象学から否定的に見られている部分もあるようなのだが、僕にはハイデガーなどの弟子たちは無理に根源的なものの特定 に走り、フッサールの立ち位置つまり、他者の他者としての認識不可能性と、それが誰にとっても同じであることによる、同一性による共通了解の大事さを見過 ごしていると思う。

フッサールが社会の生み出す対立と、世界にとっての万物の同一性を考え、異なる価値観の世界の人々の融和を考えたかどうかは知らないが、老子・荘子もフッ サールも社会的なものに対する深い考察の末にたどり着いた答えである気がする。原始社会ではまだ甘い。原初まで帰れということか。でも社会的な自我(この 考察する私)なしにこの考察も成り立たない(原初的なところから社会的なものなしに成長したらどうなるのだろう?)。いまさら遅い。それならば、向こう側 に超えるだけだ。そこがつまるところ「超越する」ということなのだ。

フッサールと荘子は次の点で共通する。

世界の根源や社会の中でのあり方ではなく、この世界でどう生きていくか。

これが宗教や政治思想的な思想家と、この二人の哲学者の違うところだ。


彼らはこう言っているのだ。「そんなことどうでもいい。俺が生きていくのにどうするかだ。」 (hayasi keiji,11/9/27)

参照:岩波文庫 青643−3 フッサール著・浜渦辰二訳「デカルト的省察」
    中公バックス4 小川珠樹・森三樹三郎訳「老子・荘子」
    講談社現代新書846 蜂屋邦夫著「老荘を読む」
  →コラムのトップへ