vol.22
行動は思考ではないのか? 〜思考の形態論〜
一人暮らしをしていたときは当然のように毎日料理をしていた。
金があまりないというのもあるが、料理をするのが嫌いではないというのもあるのだろう。
普通の一人暮らしの男にくらべるとかなり料理をしていたはずだ。
料理というのは結構複雑な作業である。上手くいってうまいものができるときもあれば、失敗してまずいものができることもある。どちらにしろそれを食うしか
ないのだが。
そうして毎日料理していると気づくのが、不味いものを作ってしまうときは大抵段取りが悪いということだ。疲れていて手際よくできない。普段は何も考えなく
てもできることが、えーとこれを切って、いや先にあっちを出すんだったとかやっているうちにだんだん面倒になって失敗料理が近づいてくる。
でもこういうこともある。その日1日いらいらしていたが、帰って、料理をしているうちに、なにげなく色んなことが湧き上がり、反芻し、考察し、気がついた
らすっきりしている。ということ。
アフォーダンスの本の中にコーヒーを作る際の動作の観察というのがあるが、僕は最近ぼんやりと思いついたのだが、もしかしたら行為というのは思考の一形態
ではないだろうか。
僕は思考には浅思考と深思考があると考えている。
思考というのは大抵は頭の中で音声言語化されて行われている。これを顕在化された思考、浅思考と呼んでいる。
でも音声言語で考えるのが脳にとって効率がいいとはとても思えない。速読は字を音声に置き換えず、形のまま捉えて、丸ごと(脳に?)送り込むらしい。
鯨はとても頭がいいという。鯨は人間のような複雑な言語体系は持っていないように見える。鳴き声にはいくつかのパターンがあるだろうがそれを用いて頭の中
で思考しているわけではないだろう。
当然言語を使わない思考の仕組みがあるはずだ。
だから顕在化された思考をしていないときも人間は思考をしている時がある。そういう見えない思考を僕は深思考と呼んでいる。個人的な経験の範囲で思うに、
こっちのほうがすばやくしかも適当な答えを導き出すことが多いと思う。浅思考のほうはああでもないこうでもないと悩んでいるうちによく袋小路に陥る。
行為というのは、つきつめれば人間の行動全般がそれに当たるが、特に顕著なのが道具を扱うことだと思う。
だから本当を言えば行動は「行動」という形での思考の顕在化なのでは?とまで思う。(でも僕が言っているのはラディカルな思考や行動主義のことではない。
もっと肉体的な話だ)
でもそれは行動を通して何かの思考をする意思を持っている場合に行動を利用するということだと思う(でも鯨は思考する意思を持っている?)
そうでなければただ歩いているだけで頭がよくなることもありうるということになる(強いて言えば、旅が意識された歩行といえるかもしれない)。
本来の行動というのは目の前のものに対して行われる、今に属するものに関する思考であるがゆえの他者との対話である。
のに対し、顕在的思考は存在しないものに対して行われる、想像に属するものに関する思考であるがゆえの自己との対話であると言えると思う。
だから他者に関する深い悩み(例えば恋やコミュニケーション)に陥った場合、顕在的思考ばかりしていると、今と想像が混線するのではないかと思う。結局は
悩むのを止め、今と目の前に対峙していくことでしか答えは出にくい。
肉体的に言えば脳から神経を通って信号が送られ、音声言語的に思考するのと、神経を通って信号が送られ、筋肉を動かし行動するのとは実際のところ等距離で
あると思う。
だから思考のひとつの形態としての行動とも言えるが、実際は生物であるから身体を主として考えるならば、身体が今に属しているので行動が主であり(そう考
えれば思考が行動の一形態であるというほうが健全なのかもしれない)、思考は身体や行動にフィードバックされるという形で帰ってきて活用される(補完作
用)。
ということは、ちょっと外れるが想像が現実のために使われフィードバックされ機能するのを主体とすると、フィードバックされずにたどり着くのが小説や芸術
の分野であると言えるかも知れない(想像に対する反動的な芸術もあるが)。
今までにもリオネル・メッシやサミュエル・エトーについて書いてきたが、これらサッカー選手のような一流のスポーツ選手が頭がいいのはこういうことが言え
るかも知れない。
行動の中でももっとも思考効果が顕著なのが道具(それと人)を伴う行為であり、そのなかでもプロスポーツのような行為はより先鋭的行為を要求され、それを
意識的に行うことができるようになることで結果、思考作業も先鋭的思考になり、頭がよくなる。ということだ。
行動でもただ歩いているのと、走りながらボールをコントロールするのではまるで違う。プロスポーツの中でもそこまで到達しているのは一握りであると思う。
メッシの時間論で述べた精度というのはコントロール=コミュニケーションであり、精度というのは速度ではないというのがこのことである。このベクトルで考
えるならば、精度を持った行為が思考的行為といえるかもしれない。
だからそういった精度の高い行為をすることで頭がよくなるということが起こるのではないか。
精度の高い行為の「精度」というのは言い換えれば肉体から行為への伝達の精度であって、それはリアルタイムの情報処理能力の高さといえる。つまり、複雑な
行為を秩序だった一連の動作として処理すること。メッシの場合パスを受けてからシュートまでひとつずつの物事には必要な時間があるが、冷静にやれば最短に
はできる。そうすると結果、「とても速く」できる。ということだ。
複雑な行動をある種の冷静さをもって行い、一連の動作を秩序立てて処理すること。これが言語ではない思考であり、これが実際意識下での思考をも促進させ、
意識の深いところで思考が行われ、気がついたら答え(答えには言語化可能なのもあれば不可能なのもある)が出ているというようなことが起こるのではないだ
ろうか?
こういった精度の高い行為というのはスポーツに限らない。車の運転、武器の扱い、ピアノの演奏、そして包丁やフライパンを伴う料理。
そういった行為には実は深い思考の作用が隠れているのかもしれない。
いくつかの留保が残る。
鯨の話に戻ると、鯨はただただ泳ぐ、そして頭がいい。ならばあるいは、それ自体が思考である。つまり「行動は思考である」ということになるかもしれない。
だとしたら鯨の泳ぎと我々の歩行にはどんな違いがあるのか?
それと、「頭がいい」と散々書いたが、頭がいいとは何か?ということである。
頭がよくなきゃいけないわけではないという向きもあるだろう。僕の言うこの「頭がいい」が、例の肉体の持つ知性のことであり、社会的な知性というより動物
的知性に近いがゆえに、ピカロやアウトローのクレバーさに近いものであることをまた追って書くことにする。
最後に一つ逸話を話そう。荘子の内篇の第三 養生主篇にある話(中公バックスに収録の森三樹三郎さんの訳を少々短くして話すことを先にお断りしておく)。
あるとき庖丁という男が文恵君のために料理をした。
その刀さばきがあまりに見事なので文恵君がその技術をほめると庖丁は刀を置いて答えた
「私が好きなのは道でありまして技術以上のものです。いまでは私は心だけで牛に向かっており、目では見ておりません。感覚の働きは止まってしまい、ただ心
の作用だけが動いているのです。
ひたすら自然のすじめのままに刀を動かし、牛の身体にある自然のすじめを追っておりますから、刀が骨と肉のからみあった難所にぶつかることはありません
し、まして大骨にあたることはありません。
私の刀は今では十九年になり料理した牛は数千頭にもなっていますが、まるで砥石からおろしたてのようで、刃こぼれ一つありません。
骨やすじがからまり集まっているところに出あいますと、私はこれは手ごわいなとみてとり、いきおい心がひきしまって慎重になり、視線はそこにくぎづけと
なって、手の動きもおそくなり、刀のさばきもたいへん微妙になります。やがて、すっかり切り終えますと、ちょうど土のかたまりが地面に落ちるように、肉の
山が地上に横たわります。そこで私も刀をぶらさげたまま、あたりを見まわし、しばらくはその場を立ち去らず、少しばかり満足感にひたっている次第ですが、
やがて刀をぬぐって収めることになります」
これを聞いた文恵君は感にうたれていった。
「なるほど、すばらしいことだ。わしは庖丁の話を聞いて、養生の秘訣を知ったよ」
(hayasi
keiji,11/10/28)
参照:
中公バックス 世界の名著4 「老子・荘子」
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