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コラム
 vol.23  アウトローと聖者 〜「肉体の持つ知性」検証1〜

本当は肉体の持つ知性論の展開として、悪の知性について書く予定だったが、それを書くにはまず基 礎部分のようなものが必要だと思われた。 よって今回はアウトローと聖者というあたかも正反対のような存在の関連について触れる。そのために「続・夕陽のガンマン」と「フロム・ダスク・ティル・ ドーン」という2本の映画を取り上げる。

映画にマカロニウエスタンというジャンルがある。
簡単に言えばイタリアで製作した西部劇のようなものなのだが、細かいことはおいておいて、これに登場するやつらには悪人がやたらと多い。一部のジュリアー ノ・ジェンマ(あるいは変名としてモンゴメリー・ウッド)が出演している作品はやや勧善懲悪的であるが(しかもやたらと強い)。

そのマカロニの中でも傑作として名高いセルジオ・レオーネ監督の「続・夕陽のガンマン」から考察してみたい。

この映画はアメリカ南北戦争の時代に3人の男(トゥーコ・ブロンディー・エンジェル)が隠された20万ドルをめぐって争うという話である。
たった一行に書けるような話なのだが映画はやたらと長い。なぜか。それは本当はこの映画はマカロニウエスタンを利用した歴史絵巻だからである。つまり、本 当に見せたいのは3人の争いのほうではなく、南北戦争のほうなのだ。

だから3人は事あるごとに、南軍と北軍の争いに巻き込まれる。収容所に入れられ、鉄道に乗り、橋を爆破する。でも深くは関わらない。彼らは我々が南北戦争 の時代を見学する案内者なのである。漫画を読んで歴史の勉強になる学研漫画みたいなものだ。いちいち深く関わったらいろいろなシーンを紹介できない。

しかし、なぜそれが可能なのか。

そこがポイントである。いままでに書いてきた肉体の持つ知性論によらずとも、彼らは非社会的な人間であることは誰の目にも明らかである。彼らはそれぞれ UGLY(悪 漢)GOOD(善玉)BAD(悪玉)と称される。

でも実際は大差ない。みんな悪いやつである。社会的に見れば。
しかし本人たちはそうは思わない。トゥーコは鶏(そんなシーンは無いがたぶん盗んだ)を片手に「生きるためになぜせっせと働く?」と言う。二度も。

また聖職者になった兄と再会するシーンでは「貧乏から抜け出すには坊主になるか泥棒になるかだ。泥棒のほうが大変だぜ」と言う。そのあとには「兄貴だっ て、泥棒になる勇気がなくて坊主になった」とも。中身は大差ないというわけだ。

つまり悪いとは思っていない。ただ社会が彼らを悪だと言っているだけだ。むしろそれを利用し懸賞金を強奪し金を稼ぐ。反社会と非社会は違う。

彼らは、社会の外側にいる。つまり南北戦争とは無関係なのだ。社会とは信仰と時間でできている。「これはこういうものだ」という、個人的に判断をしない宗 教的信仰的な決まりごとと、労働時間やノルマ、締め切りのような時間的な決まりである。
そして彼らはそれからも外れる。彼らにも義理があり、個人的な価値観があり、信条がある。でも社会的ではない。つまり彼らのようなアウトロー(ロビンフッ ドのような場合はまた違うと思うが)は宗教的信仰と共に時間的にも外にいる。

だから彼らはその時代を自由に移動し案内できる。ただ、それだけでは面白くない。もちろん三人の駆け引きやバトル、カメラワークすべてにおいて最高の水準 だから このような作品に仕上がったのだ。それらが合わさった結果、マカロニウエスタンという書割の上で南北戦争を紹介するというこの特殊な傑作映画が誕生した。


ところで社会とは信仰と時間でできていると書いたが、まあもちろんそんな単純ではないが、大きく言うとそうだと考えている。木村尚三郎が中世ヨーロッパの 社会に生きる人々を「時間人」と呼んでいる。当時の都市を島に見立て、森を海に見立てる。そしてその間を移動する人々を無時間空間を移動しているという。

都市にはそれぞれに時間があり、それを元に一つの社会が形成されている。その間を移動する商人や巡礼、芸人や学生はそのような社会から離れているがゆえに 時間が無い状態に置かれる。ということだ。

往々にして旅人は不安定であり、定住者は安定する。まさに地に足が着いているということだ。

当時は教会の鐘が時間をつかさどり信仰が社会的習慣として共有されそこに帰属することで安心感がもたらされた。だが、当然の話として、キリスト教社会も封 建社会も司教や貴族は裕福で農民は貧しい。信仰は貧しさを耐える役割を果たし、それがゆえに貧富の差を盲目的に受け入れさせる手段として利用される。

時代は流れ、キリスト教の主張した世界観は徐々に崩れ、資本主義社会が訪れる。
ありていに言えば、鐘から金に信仰対象が移ったということだ。もはや王でなくとも裕福になれる。
それでも一応現代の西洋社会では聖職者はある程度の社会的役割を認められてはいる。しかしそれはかなり形骸化したものだ。

そのようにして貧しいものは坊主になるより銀行強盗をする。いや貧しくなくとも。


ロバート・ロドリゲス監督の「フロム・ダスク・ティル・ドーン」は銀行強盗と聖職者の一家がメキシコでバンパイアと戦う一夜を描いた、意味のわからん傑作 映画である。
ジョージ・クルーニーとクエンティン・タランティーノ扮する銀行強盗のゲッコー兄弟が(そういえばレオーネの「夕陽のギャングたち」 という映画でも銀行が 輝かしい栄光の地として形容されていた。)メキシコに逃亡する。その道すがら、脅され国境を越えるのに協力させられるのが、ハーヴェイ・カイテル扮する牧 師ジェイコブの一家である。

説明するのもめんどくさい(バカらしい)ような娯楽映画なのでここから何か読み取ること自体馬鹿げているのだろうが、ここにもアウトローと聖者の物語があ る。

無事メキシコに抜けてからが本番の始まりなのだが、メキシコ側にいる逃亡協力者と落ち合うために指定された酒場が一度入ったら出てこられないバンパイアの 巣窟で、そこで彼らがバンパイアと壮絶なバトルを繰り広げ、最後には強盗の兄セスと牧師の娘ケイト(ジュリエット・ルイス)だけが生き残る。

この兄、セスは義賊の風がある。人質の女を殺した弟、リッチーに対し「覚えておけ俺はプロの強盗だ。必要のない殺しやレイプは死ねえぞ。お前がやってるこ とは仁義に反することだ」と言う。アウトローには社会性は無いが個人的ルールがある。 その彼が酒場で因縁をつけられいつまでも怒っているのに対し牧師が諭すときに、こう言う。

「君は勝ったことが分からんバカか?テキサスの当局者たちとFBIが君を追ったが逮捕できたか?逮捕できん。君の勝ちだ。美酒に酔え」それにしても気の利 いた言葉だ。とても聖職者の言葉とは思えない。まさにアウトローの言葉だ。

彼らはメキシコに無事に入国した。ここはアメリカではない。違う社会なのである。もう警察も追ってはこれない。 でもここは彼らの社会ではない。異郷である。だから、何が起こるかわからない。
牧師はバンパイアに襲われた時、信仰を失っている。妻を交通事故で亡くしたことが原因だろうと兄は言う。 よくある話だ。

牧師は言う。「神に仕える者はある共通した疑問を根底に持っている。それは牧師でも司祭でも尼僧でも僧侶でも同じだ。鏡に映る自分の顔を見て一生の内に何 度も自問する。”私はバカでは(I am a fool?)”と。この迷いに私は負けた。これは悟りにも似たものだ」

今や牧師など遊園地にいるピエロのようなものなのだ。中世では人々の心の安定のために機能していた。
宗教は日々の苦しみに対するサービス業なのである。ところが今や、宗教的な信仰の与える心の安らぎなど、金で買える強力な娯楽や快楽の前では歯が立たない という訳だ。

信仰には二種類あると思う。それらを仮に宗教的(戒律的)信仰と本質的信仰と呼ぶことにする。

宗教的信仰はさっき言ったような社会の安定としてそこに帰属することで心の安定を与える。それに対し本質的信仰はもっと原初的である。神はいつでも見てい る。でも何もしてはくれない。行動するのは自分自身である。だから神を信じ自分の意思で行動する。これが本質的信仰である。

よく教会の牧師が告解に対し言うのがこの本質的信仰心のことである。

もともとキリストと使徒たちの時代にはこのような信仰としてキリスト教はあったのである。
イエズス会の司祭で上智大学文学部教授のピーター・ミルワードは「素朴と無垢の精神史」でこのように語る。

「イエスのねらいは、人々に新しい目で貧しさを見つめなおしてもらうことにある。(中略)貧しいがゆえに、この世ではいっさいを奪われ一文無し同然に見え る。けれども、自分の心眼を開いて真理を見さえすれば、すべてを持っているという真実を悟ることができるのだ。」

この清貧の思想の理解がさらにすすみ、中世には聖フランチェスコの清貧思想や著者不明の「不可知の雲」という書物が現れる。その中では

「やさしく愛を呼び起こし、あなたの心を神のもとへ高く捧げなさい。神のみを求め、神からの御利益は何も求めてはならない。神以外には何も考えないように 肝に銘じなさい。そうすればあなたの心や意思に働きかけるのは神を除いて何もない。」

と書かれていると言う。これがわかりやすい意味での本質的信仰であると思う。

ハーヴェイカイテル扮する牧師は、この本質的信仰までも失っている。 その彼がメキシコという異なる社会で悪魔と対面する。

セスはバンパイアに対抗できるのは本物の牧師だけだと言う。そして信仰を失った牧師に対しこう言う。「俺は神を信じなかったが考えを変えたぞ。外に集まっ ている化け物どもは地獄の産物だ。やつらを生んだ地獄があるなら天国もきっとあるはずだぞ。」そしてその本質的信仰を要求する。「どっちだ?お前は信仰心 を失った牧師か熱烈なる神のしもべか」

かくして牧師は信仰を取り戻し聖者になる。その証拠に水を聖水に変える。


社会的にはとても受け入れられないような(正直な話、僕にも突然すぎてよく分からない)強力な脅威には、アウトローと聖者だけが立ち向かえるということな のだ。

この本質的信仰をもつ聖者はアウトローとは正反対だが、実によくアウトローに似る。それは時間に対する姿勢においてもである。 聖者にとって時間とは永遠のかなたにある。どういうことか。

聖者にとって生きているうえでの目的は唯一、神の意に沿い、天国に行くことである。
この世の雑事などどうでもよいのである。ただ信仰に生きる。結果的に無目的であるがゆえに現世的な時間は引き延ばされ、永遠にも等しいものになる。つまり 意識されなくなる。

アウトローはただ今があるのみであり無時間であるのと、限りなく近似するのだ。

このようにして彼らは非社会的にして、時間から解放され、己(あるいは己を通した神)の意思にのみ従うものになる。
そのようなものだけが非社会的世界では通用するのである。

ただ牧師はバンパイアにかまれて結局自身もバンパイアになって息子スコットに撃ち殺されてしまうのだが(ちなみにその息子もかまれ、バンパイアたちと共 に撃ち殺されるのであった)、そのかまれる少し前から、変わってしまうまでのつかの間、信仰を取り戻し聖者になるというわけだ(聖者であってもバンパイア になってしまうという点については今後の考察を要する)。


このようにしてアウトローと聖者は似て非なるものというよりも正反対であるがゆえに似るものとして機能する。 パルプフィクションのサミュエル・L・ジャクソンなどはこの両者が一体となっていて性質が悪い。信仰の力で銃を撃つアウトローとかも未確認だがいるかもし れない。
ともかく往々にして彼らは社会的にはほとんど力が無いが、個人的には非常に強く非社会的な物事に対してはとても上手に対処する。というよりもそうしなくて は生きていけない。

戦い、生き延びたセスがケイトに一緒に連れてってと言われたとき、セスはケイトに札束を渡しこう言う。

「家へ帰れ。優しい悪党からの忠告だ」


それにしてもジョージ・クルーニー が後にコーエン兄弟の映画「オー・ブラザー!」で「続・夕陽のガンマン」のイーライ・ウォーラック(トゥーコ)とクリン ト・イーストウッド(ブロンディー)の二人と同じようにアメリカ社会を紹介する案内者となるのはなんとも感慨深い。


さて我々は彼らのように社会の外では生きていない。彼らは非社会的なものに対し、非社会的な存在として力を発揮して生きる。あるいは社会を超越している。 ほとんど社会とは無関係である。
それでは彼らのようにありたいが、社会と関わりながら生きていく。このようなことはどうしたら可能になるだろうか?
もちろん信仰や時間を抱えてしまったら、もうその非社会性による力は失われる。そういうものを持たずにだ。

またも悪の知性論を先延ばしにすることになるが、その可能性について、次の検証でフィリップ・マーロウを通して見てみることにする。 (hayasi keiji,11/11/24)

   
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