vol.24 フィリッ
プ・マーロウの思想 あるいは、私立探偵的社会性のすすめ〜「肉体の持つ知性」検証2〜
勧められても困るというものである。でも分かりきった話だが、非社会的人間が、社会の中で生きて
いくのは非常に難しい。できる仕事は限られてくる。でもたとえその仕事に就けなくとも、何がしかのヒントはある。
まずフィリップ・マーロウとはだれかを説明しなくてはなるまい。
かれは1888年シカゴ生まれの作家、レイモンド・チャンドラーの一連の作品に登場する私立探偵である。
その一連の作品は当時、興隆を極めたブラックマスクという雑誌から生まれたハード・ボイルド小説の代表の一つに位置づけられ、チャンドラーは遅咲きながら
(デビューは45歳)ダシール・ハメットらと並び称される、現代でも読み継がれるハードボイルド作家となった。
と、偉そうなことを書いたが、僕は全部は読んでいない。代表作に位置づけられる、「長いお別れ」すら読んでいない。
時系列に読んでいるものだから、まだ「高い窓」の最後のほうを読んでいるところである。
本当だったら全部読んでから言うべきことかもしれないが、マーロウの性格はもうしっかりと現れ、社会的位置づけももう見えているので、この後その探偵生活
や人生がどうなっていくかはわからないが、十分起用するに足りると思われる。主題はマーロウではなく肉体の持つ知性である。
まず端的にいうとこう言える。
マーロウは社会と非社会をつなぐものである。
理由を箇条書きにしよう。
・依頼者がそれなりに社会的な地位を持つこと=依頼者本人が社会の外に出ずに解決したい。
・依頼内容が社会的に秘密であること。(警察にはお願いしたくないetc)
・であるがゆえに、その引き受けた依頼を外部に漏らさないこと(言っていいようなことならとっくに何とかなっている)。
・法を犯すようなことはしない。
・自分の家業が妨げられない限り、依頼者の意向に沿う。
つまり社会の外側(非社会の領域)に出て行ってしまった問題を解決するために、法を犯さずに、依頼者の代わりに遂行すること。
だいたいこうであると思う。
まず依頼人。フィリップ・マーロウの住所はカリフォルニア州ハリウッド、ノース・ブリストル街一六三四番地、ブリストルアパートメント。ハリウッドにはい
ろいろな人間がいる。
処女長編「大いなる眠り」の依頼人はインド象の一隊を入れられるくらいの玄関扉を持つ邸宅に住む、ガイ・スターンウッド将軍。3作目の「高い窓」の依頼人
はエリザベス・ブライト・マードックというパサデナに住む大富豪ジャスパー・マードックの未亡人である。どちらも依頼内容を聞く場所は温室である。
次は内容。スターンウッド将軍からの仕事はゆすりの処理である。将軍の娘が賭博でした借金、その法的には返済請求不可能な借金を名誉と自尊心のために、ご
く内々に処理したいということだ。
「いいかなマーロウ君。わしは家庭の秘密をお話しておるのじゃ」
「その件は今でも秘密です」私はこたえた。(「大いなる眠り」双葉十三郎訳・15p)
マードック夫人の場合。死んだ夫がコレクションしていた金貨のなかにあった、ブラシャー・ダブルーンというコインが、突然家を出て行った彼女の息子の妻と
共になくなった。それを取り戻して欲しいというものだ。
「なにをするのですか、マードック夫人」
「いうまでもなく、ごく内密のことです。警察にまかせるようなことではないのです。もし警察にまかせていいことだったら警察にたのんでいます」(「高い
窓」清水俊二訳・14p)
次は法律の遵守。これはかなり大事なことだ。殺し屋と探偵、ギャングと探偵の違いである。彼は社会的に認められた職業についているのである。
たとえばスターンウッド将軍にマーロウを紹介したのは、地方検事局の捜査課長バーニー・オウルズである。
マードック夫人のところで秘書に身元保証人を教えて欲しいといわれたときも・・・長いので会話だけ紹介する。
「身元保証人を?」
「そうですわ。身元保証人です。そんなに驚きになった?」
「夫人は私のことを何も知らないで私を呼んだのですか」
「奥さまはあなたの名をカリフォルニア保証銀行の支店の一つの支店長から聞いたのですけど、支店長はあなたを個人的に知らないのです」
「鉛筆をとりたまえ」
そして、むきになったようにずらずらと名前を挙げる。銀行副頭取、州上院議員、弁護士。
その最後のほうで・・・。
「(前略)それから、警察の人間を挙げろというのなら、地方検事直属のバーナード・オウルズ、市警本部殺人課のカール・ランドール警部補。このくらいでい
いかな」
「私を笑わないでください」と、彼女はいった。「いわれたことをやってるだけなんですから」
「どういう仕事なのかわかるまであとの二人には電話しない方がいいな」と、私はいった。(「高い窓」清水俊二訳・9〜11p)
また、傑作「さらば愛しき女よ」ではリンゼイ・マリオという男にホールド・アップ(強盗・強奪)にあった翡翠を大金で取り戻す際の現場の「用心棒」をたの
まれる。
その際には、
「(前略)仕事によっては、引きうけないのかね?」
「法律にふれる仕事でなければ、何でも引きうけますよ」
電話の声は、いっそう冷たくなった。「法律にふれる仕事なら君には頼まないさ」(さらば愛しき女よ・53p)
と、言っている。相手は犯罪者である。だから危険ではある。でもこちらは法に触れない。
そして最後に、依頼人の意向に沿うということ。たとえば、
「あなたは僕より強味が一つおありです。あなたから奪いたくない強味です。あなたが何をおっしゃっても僕は怒れないという強味です。どうやらお金はお返し
したほうがいいようですね。もっとも、あなたにとっては、返して貰っても意味がないでしょうが、僕にとってはおお有りです」
「どういう意味じゃ」
「不満足な仕事に対する支払いはお断りしたいという意味です」
「不満足な仕事はたびたびするのかな?」
「ほんのすこし。誰でもそうでしょう」(「大いなる眠り」双葉十三郎訳・251p)
また、マードック夫人との話では、
「どっちなのです、あなたはこの仕事が欲しいのですか、欲しくないのですか」
「欲しいですよ。あなたが事実を話してくださって、私の考えどおりに捜査をすすめられるのならお引き受けしたいです。乗り越えるのにつまずくような手枷
(かせ)足枷をいくつもおつくりになるのなら、手をつけたくはありません」
彼女は険しい顔つきで苦笑した。
「この事件は家庭のなかだけのことなのですよ、マーロウさん。こまかいことに神経を働かせて扱わなくてはならないのです」
「あなたが雇ってくださるなら、仕事に支障のないかぎり、できるだけこまかく神経を働かせるつもりです。私がそれだけのこまかい神経を持っていないなら、
私をお雇いにならぬ方がよいでしょう。たとえば、あなたはおそらく息子さんの嫁に罠をかけることに反対なさる。私はそこまで気を使うわけにいきません」
彼女は顔を赤かぶのようにまっかにして、大声をあげようと口を開いた。それから、叫ぶのはまずいと思い直して、ワインのグラスを取り上げ、”持薬”をまた
咽喉に流しこんだ。
「あなたに頼みます」と、彼女はそっけない口調でいった。(「高い窓」清水俊二訳・21〜22p)
かなりの引用になったが、書いてないことを言うわけにはいかない。
長いのですべて引用できない例では、「高い窓」の20〜22章(195〜221p)のあいだのマードック邸での問答で、嘘をついていた依頼人のために殺人
事件の中で「困難な立場に立たされた」マーロウの怒りが発露するシーンがある。
「いま、今週、今日はです。来週も違う依頼人のために働いていたいと思っています。そして、その次の週もまた違う依頼人のために働いていたいと思っていま
す。そのためには警察とある程度友好的関係を保っておかなければなりません(後略)」
「法律はそれがどんな法律にせよ、与えて奪うんですよ、マードック夫人。ほかの多くのものと同じなんです。私がたとえ、口をつぐんでいる―話すことを拒む
法律上の権利を持っていて、一度はそれで逃れたとしても、私の稼業はそれで終わりでしょう(後略)」
「私だって困難な立場に立たされているんだ」と、私は大きな声を出した。「耳たぶまで困難な立場に漬かってるんだ、何だって君は泣いてるんだ」
「(前略)困難な立場に落ちこんでるのは事実だろうが、私は発掘作業を仕事にはしていない。ほんとのことを話してもらわなきゃ仕事にならない」
ほかにも変わったところでは、「高い窓」の17章(163p〜)の警備員とのやり取り(「そして、これを民主主義といっているのだね」)も面白い。
ざっとこんなものでいいだろう。きりがない。
さて、話を戻せば、まずマーロウに頼らず、私なりに社会と非社会をうまくつなぐにはどうしたらいいかを考えてみた。その結果四つのキイが見えてきた。
・(誰かに何かを、あるいはあり方を)求めない
・媚を売らない
・(代償を求めずに)与える
・(与えられているものを)もらう
である。
人が唯一所有しているのは、生きる権利である。
生きていくためには必要なものを自分で手に入れるか、買うかである。
自給自足を選ばないものは、社会に身をおいて仕事をすることになる。
社会で仕事をするということは求められることをするということである。
そのときに、自分に対し社会が要求する信仰的態度と時間的態度を打ち消す必要がある。
というのもこの二つが社会的であるものの大きな要素だからである。そして前回見たように、これの外側にいることが非社会性の条件である。
この2つを打ち消すにはさきほどの四つのキイを守ることが大事であると思う。そのことによって身体や心から出る自然な感情や愛情が守られる。
最初の二つは相対関係にある。
誰かに求めるということは、そのかわりに何がしかの代償を必要とする。(たとえば媚を売ることになる。)
誰かに求めるということは自分から期待をするということである。
社会は求めるものには必ず要求する。(金⇔仕事)
だから最低限以上は求めないことが大事である。そうすれば余計な媚を売らなくてもよくなる。求めるということは期待的想像をするということであり何かに対
する執着にもつながる。
そのように何も求めず要求をこなしていく。それ以外の関係は社会的関係というより個人的関係である。
ただこういう働き方は組織の中では通用しにくい。周囲に同調しなかったり、媚を売らなければ(信仰的態度をとることをしなければ)時間的に余計に求められ
ることが多い。(ノルマが大きい、時間的に余分に働かされる、時間内めいっぱいきつい労働が待っている。など)その点を解消するにはパートタイマーになる
しかない(賃金は安くなる。)
必然的に非社会的な者が働く場は個人的になる。ここでマーロウとつながる。
そしてさっきのように求められたことを遂行する。社会的であるがゆえに、法を犯さずに。
ただし日雇いである。つまりたとえば「1日25ドル」である(時間的態度の解消)。必用経費はまた別に請求する(必要な情報は求めずに金で買う)。要求に
さえ答えれば依頼者(雇い主であり客)にも関係者にも媚を売るようなこともない(信仰的態度の解消)。
「君は奇妙なユーモアを持っている」と、彼は言った。
「奇妙なのではなく」と、私はいった。「ただ、遠慮がないだけです」(「さらば愛しき女よ」清水俊二訳・62p)
それはわかりやすく言えば「私立探偵的社会性」とでも呼べる。
そしてここがポイントなのだが、彼の非社会性がセールスポイントになるということだ。
彼は社会的な地位のある人では到底できないことができる。その仕事が法に触れない限り、彼はなんでもできる。タフだし、嫌われてもなんとも思わないので媚
も売らない。ただ依頼者の要求が賃金(生活)に見合う場合のみ引き受ける(なんといっても法を犯すわけにはいかない)。ふしぎなことに社会では必ず齟齬が
生み出され、何らかの非社会性に頼らざるを得ない事態が生み出されるのだ(まさにそれが人間が社会で生きることによって生み出されるものなのだ)。
社会はいつでも人間性とのあつれきでぎしぎしときしみ、たえきれなくなったものは、非社会の領域へとバラバラとこぼれおちてゆくのだ。
多くはないが、仕事は少しは選べる。それになんといっても相手は困っているのだ。
さてこういう風に生きるものにも友人の一人や二人いる。僕は詰まらない友人がたくさんいるよりこういう方がずっといいと考えている。
彼らの関係は社会的でなくとても個人的だ。そこにあるのは非常に分かりやすいものだ。つまり「与える」と「もらう」だ。余計な儀式はいらないのだ。とても
気持ちのいい関係だ。
「高い窓」ではいくつもの殺人現場に出くわす。
その最初のジョージ・アンスン・フィリップスの殺害現場での担当警部補のジェス・ブリーズとの問答では、依頼内容を守秘するマーロウは重要証人としてぶち
込ん
でおくこともできると脅され、社会的な力を持つ友人がいないか訊ねられた時に、こう言っている。
「君はどこかに友だちがいるはずだ。まちがいない」
「シェリフのオフィスに親しい友だちが一人いる。だが、この事件にはかかわりにしたくない」
彼は眉をつり上げた。「なぜだね。友だちが必要になるかもしれないよ。警官からわれわれがもっともだと思う一言があると、それがものをいうんだ」
「ただの友だちとしてつき合ってるんだ」と、私はいった。「まきこみたくない。私がまずいことになるし、彼に迷惑がかかる」(「高い窓」清水俊二訳・
116〜117p)
ただこう考えている。自分に社会的な圧力が及んできたとき、友人たちには一切迷惑をかけたくないと。よく知っているのだ、自分たちが非社会的なつながりで
あること、そういうことを大事にしていることを。鍵をあずけて、死んでしまった同業者のフィリップスにもマーロウは好意を抱いている(「高い窓」清水俊二
訳・73p)。
「与える」と「もらう」は社会の中でその人間が個人的なつながりに値するかを測る尺度である。彼は好意を持てば代償を求めず、与えるが、求められても答え
ない。与えられればもらうのである。求められて答えるのは仕事だけである(かなりおおざっぱに言うとだが。人によって社会的なストレスをどの程度排除する
かは微妙に異なるかもしれない)。そのようにして歯に衣着せぬユーモアに耐えられる、少ない友人が残る。
「高い窓」でのマーロウの「法律はそれがどんな法律にせよ、与えて奪うんですよ」というセリフは「与える⇔もらう(贈与)」と「与える⇔奪う(権利と収
奪)」の関係の持つ意味を孕んでいるようでこの先も考察を要する。
こうなると結局のところ、タフならタフなだけ求められたことには答えられる。ただ生きるためだけに求められたことに答える。後は自分で選ぶ。大事なものだ
けが残る。ハードボイルドな生き方ということはこういうことであると思う。
前後関係も気になるとは思うが、次の言葉はマーロウのあり方を端的に表していると思う。訳はひどいが。
「さよう。拙者はすこぶるりこう者でござる。血も涙もないんだ。欲しくてうずうずしているのは金だけだ。あんまり欲張りなんで、一日二十五ドルと雑費だ
け、それもガソリン代とウイスキーにつかっちまう。物事は他人さまに迷惑をかけず自分だけで考える。警察やエディ・マースやその仲間の憤慨も平気で危険を
おかす。弾丸をくぐりぬけ、ビンタを食らい、ありがとうございますと礼を言う。このさき何かもめごとが起こったら僕を思い出したまえ。念のため名刺だけ置
いておくからね。今夜のことは何もかも、一日二十五ドルのためと、死にかけた老人の血潮の中に残されたわずかな矜持を守るためにやったんだ。(後略)」
(「大いなる眠り」双葉十三郎訳・268p)
僕が思うに、さっきの4つのキイを少しでも実践できれば社会の中にいても少しずつ非社会性の領域が保てるようになると思う。このようにそれなりにタフでな
くては厳しいが。
最後にひとつ気になるのが、探偵が動物(犬あるいは猫、その他)を探すモチーフ(こう書くと、村上春樹の「海辺のカフカ」に登場するナカタさんを思い起こ
す)。そういうのがよくある。
これも結局のところ探偵の社会と非社会(野生=動物的世界)をつなぐ役割からくる仕事かもしれない。今のところチャンドラーの作品に動物探しは出てこな
い。
さすがのマーロウも、猫の言葉はわからないのだ。
(hayasi
keiji,11/12/20)
参照:レイモンド・チャンドラー「大いなる眠り」双葉十三郎訳(創元推理文庫一三一−1)「さらば愛しき女よ」清水俊二訳(ハヤカワ文庫・HM7−2)
「高い窓」清水俊二訳(ハヤカワ文庫・HM7−5)
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