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コラム
 vol.27 僕の考え方 〜肉体の持つ知性・序曲〜

最近は難解な言葉を使うことが増えてきている。思い出せば、木村尚三郎は精神ではなく心の時代が やってくる。とそのようなやさしい言葉を選んだ。 だから一度初心に戻って、肉体の持つ知性とはそもそもどんなものと考えたのかを思い返しておく。

何も見返さずにただ思い出してみると、

肉体の持つ知性とはサミュエル・エトーのインタビューやジャック・マイヨールのことを書いたものを見ているうちに彼らのように、
何かのスポーツや専門的な行為を行う中で、自分の身体をその行為との間で制御していくうちに、その全体を冷静に効率よくしかも肉体という自然に沿って運動 的にコントロールというか、うまくまとめて行くことで、意識がある特殊な位置ですっと落ち着いていられるようになり、身体全体を押さえつけるのではなく、 うまく統率するカピタン(指揮官・隊長)として行動していくうちに、そのような、勉強や知識とは別の理性としての知恵が身についた人間になっていく。その 中で育ってくる知性を肉体の持つ知性と名づけた。

ということであったと思う。


そう考えるとある種の専門的な行為に従事するものの知恵ということになる。

だが、考えてみれば、実際の隊長や、そのような専門性のない生活の中でもその能力は鍛えられる。つまり主体性を持つ対象である他者とのコミュニケーション の問題であると言うことができる。つまり、意識にとっては自分の身体はその最初の対象であったということなのだ。まず自分の身体との対話を通して、こころ に知恵を身につけ、実際に他の人とのコミュニケーションもうまく行くようになる。

さてそれをやさしい言葉で考えれば、

自分の心を自分の身体に向けることで、身体から伝わる感覚をよく聞く事で、自分の身体と会話をしていく。そのことで自分の身体を良く知っていく。そうする ことで親しい友人といるときのように、いつも落ち着いていられるようになり、穏やかな気持ちで、他の人と向き合えるようになる。

という感じになるだろう。

まずこのように優しい言葉で自分にその実感を確かなものとして手元においておくことで、この先また考えていく中でこの最初に感じたことに戻ってくることが できるだろう。そもそもこの穏やかさと知恵の強さを考えてはじめたことなのだから。

僕はこのようにいろいろなものを考え、実践し、経験し、考察し、思い立ち、また考える。それと同時に思い立ったそのことを世界に探し、読んで知り、また考 えるなかで、いろいろな先人たちが同じことに取り組んでいたことを知った。

エトーやマイヨールだけではない。フッサールや荘子は考え、バルセロナの選手や闘牛士たちや技術者たちも行為として実践している。
最近ではマイケル・ポランニーやまだ読んでないが中村雄二郎もすでに30年以上前にそのことを書いているであろうことを感じている。

でも、僕は自分で考え、実践し、経験することを大事にする。だからこの人はきっとこんなことを書いているだろうと思っても、まず自分で考えられるところま で考えて、実際にやってみる一つのフィールドワークを優先する。

ふと本屋でタイトルを見て「これはもしかしてあれについてかいているのでは?」と思っても、まず自分で考えないと手が伸びない。でも気になり、ちらっとめ くり、ああ多分そうだ、まだだめだと、手を引っ込める。妄想だろうか、頑固なのだろうか。

それだとペースは遅いかもしれないが、自分のために考えているので、自分の心にうまく落ち着いてくれないと意味がない。それは主体性の中から生まれるこの 肉体の持つ知性の一番のサネなのだ。

つまりもう考えながらその考えていることを実践している。ということなのだ。

先人たちの足跡を追うのではなく、あえて自分で考えていく、でもその先に彼らが立っていて、「お、よく来たな。いっぱいやってくか?」と言ってくれる。
やっぱりそれがあるから続くのだと思う。つながってるなあというのは大事だ。津波てんでんこだ。みんなが自分でやるという信頼が大事なのだ。

そもそもすべてが対話なのだ。(hayasi keiji,12/2/28)

   
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