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コラム
 vol.28 同期より一 段進んだ状態としての親和性〜肉体の持つ知性・分岐1−1〜

今回は親和性の問題を取り上げる。それがサッカーや職人、音楽などのいろいろな行為の中でどのよ うに働くかを見ていく。対応的なもう一つのコラム”「専門化」のなかの知性のヴァリエイション”で補完的に解説があるのでそちらも参照してもらいたい。


1.同期と親和性

草稿「心身合一について」や「メッシの時間論」のなかで以前考察したところでは、親和性と同期は対立的であるいう風に思えたが、実際には同期という能力は 親和性の中で一部として使われていると思われる。
空中にほうったボールを見ながら落ちてきたところを手で受け止める。という能力はその受動性からして同期におけるスレイブそのものだが、サッカーのドリブ ルにおける足の運びとボールタッチの関係で構成されるサイクルではその能力は全体の一部として機能しているように思われる。

だがサッカーのドリブルというのはちょっと特殊な例なのかもしれない、普通の道具の場合はマイケル・ポランニーの言うように身体の一部として機能する(延 長的に拡張される)。〔包丁や武器、棒やノミ〕
これは一見道具を自分に同期させるように思えるがそうでもない。場合によってはこちらがあわせる必要もある。たとえば極端に重いものがある。そうでなくて もたとえばコップの大きさや形状、重さによって手のコップの支え方(扱い方)は変わってくるだろう。つまりそれを身体の一部として一時的に扱う場合、それ を含めたバランスを全体で取り直していると考えられる。とはいえそれはやはり「直接持っている」ことで、自分の一部になり、道具の主体性のようなものはな い。

それに比べて慣性が働くようなものを扱う場合は、そこに同期以上の扱い方が発生する。〔車や自転車、運搬用カート、サッカーボール〕

慣性の場合はとくにそこに相手の主体性のようなものが発生する。その場合は単なる身体の延長としてのコントロール=「対象を自分に取り込む」ではな い。

それは”自分が相手に合わせる”という要素を持つわけで、その点において、他人との関係においても同期以上の姿勢が必要になる。他人との関係が同期になる とコントロールという危険が発生する(アウシュビッツやパワーハラスメント)。

だが、ただ合わせるのでも同期させられることになる。
FCバルセロナがその点で同期ではなく親和性としての機能を果たしているのは非常に重要なのである。

人間関係には相互に合わせることがある。そのことを人との関係においては同期しあうというな硬質な表現の与える感覚よりも、”受け入れあう”というような 柔軟な関係性をあらわすような表現のほうが適切であると思う。親和性はそのような状態に近い。

それをむしろ道具にまで応用して、ボールとの関係や車の運転を”受け入れ合い”と表現するとどのような姿勢でメッシやドライバーが向き合っているあるい は、向き合うべきかが分かる。


2.心身合一の構造

心身合一における全体の形は

心身合一のできている状態=

自分の範囲の認識(心+体)→道具との同期→他者との同期

心身合一のできていない状態=

自分の範囲の認識(心+体→道具との同期→他者との同期)

とあらわしていたが、


改めて書くと、


自分の範囲の認識(心←〔身体)⇔道具〕⇔自主性のある相手との関係

というような形になる。だいぶ複雑になってきたが、当然なのである。我々の住む世界は複雑なのだ。実際にはこのような図式や言語的表現ではとても表しきれ ない。


3.バランス

複雑の話ついでに書いておくが、バランスのとり方には価値観(ある種の信仰的態度や身の回りの環境からの影響や育ち方)、心(本質的信仰)と身体(非社会 的態度)の大きさのバランス関係、物理的な身体の構造、個人の主観的感性(感性の個性=好み)といったものの個人レベルでの違いがあるのは当然であり、空 間的態度や心身合一をしたとしても、そのもとである個人の感性や身体の構造(物理的身体的特徴)によって出来上がる状態、つまりどんなことにどのように反 応するかや、どう感じるかは変わる。

ダニ・アウヴェスやプジョルのように勇敢さによって堂々とした姿勢としての空間的態度が前に出る人もいれば、メッシのように下半身の重心的な特化がなされ るには特に「足の短さ」という一般的には短所として扱われるものによってなされ、それによって結果的に他の人よりもその空間的態度がうまく行っている場合 もある。
イルカ・クエンカの特殊な足の運びはむしろ逆で、上半身に重心がありふわふわしたボールの扱いによって、まだうまく行っているとはいえないが特徴的なボー ルの運びになっている。偉大なるシャビ・エルナンデスはその二人と比べれば身体バランスに偏りがなく、その点で考えれば一番理想的(オールマイティという ほうが良い)なのかもしれない。

ダニやプジョルはバルサの特徴である空間的態度を個人の生き方としての精神性によって得ているのか、それともトレーニングや経験から身につけた身体性から 得ているのかは良く見てみる必要があるだろう。前にも書いたように精神性を追っても行き着けば身体性を研ぎ澄ましたのと同じような状態になる(コラム「ア ウトローと聖者」)。例えばバルサという組織やファンへの奉仕精神(ある意味での軍隊的な従属精神?)のような信仰的態度も行き着けば信頼として機能し、 主体的な人間になると思う。

結果から見ればいろいろな形があっていいわけだ、むしろ空間的態度による親和性というのはその個人の特徴を集団行動の中で失わせないということであり、い ろいろな価値観が許容されることになる。


4.心身合一の方法

「心身の合一について」で目で自分を見ることについて書いたが、そのことについてももう少し見えてきたことを書いておく。

人間は馬や魚に比べれば感覚器官が前に集まっている。
人種や個人によって多少の違いはあるが五感のうち、目、鼻、口は顔の前面に、耳は横から前方に向けてついている。
このように人間にとって意識は前方に向けて払われている形で作られる。 だが触覚によればわかるように自分の身体はもう少し後ろにあることになる。そのことからくるからか、意識は放っておくと身体より少しだけ前方にあるように 感じられやすい。

それを少し後ろに戻してやり、身体に合わせるというのが心身合一であるように思われる。

つまり、目からの手順で言うならば(J・J・ギブソンの言うように人間は視覚的なものに多くを依存している動物であると思う)、目で自分を見ることで、 「自分」が「目」より少し後ろにあることを視覚的に捉えられる。その分を感覚的に後ろに修正する(経験的に言うと映画、映像を見るような感覚になる)。
そのあとに、皮膚や内部感覚としての触覚に意識をむけ、身体を通して自分を感じる。

そのようにして心身合一ができた身体は空間的な姿勢ができており、他者とコミュニケーションをとる際にコントロールするのではなく、親和性という関係性を 築くことが可能になる。こう言うと難しい身体的操作をしないとできないことのようだが、本当はそんなに難しいことではないはずだ。親しい友人といるときは そのような関係を築くのはたやすい。信頼から生まれる開放性は意識をリラックスさせ、身体を通した他人との親密さを高め、受け入れあうことを簡単にしてい るのだ。


5.環境

上のような難しい操作はより高度な作業、特にプロ意識を求められるような作業において本来の能力を発揮するために恣意的に行うことだと思う。
サイクルロードレースとF1とサッカーというヨーロッパ3大スポーツはすべてそのような親和性を求められるスポーツであるというのがとても面白い。またそ の3つすべてに言えるのがほとんど常に動いているスポーツであり、時間内に勝敗を決める、あるいは相手より早くゴールするという時間性を求められるスポー ツということだ。
そのような時間を基準にした動きの中では人間は同期的状態にとらわれてしまいやすい(そのことは追って考えなくてはならないが、そのような時間的な状態が 定常化することの引き起こすことと、それの無効化に関する問題を「静止性の問題」と呼んでいる。例えば静止衛星が動いているのにそのことを意識しない〔そ のことが現れない〕ということ)。その中でうまくプレイするものはいかにそれを脱するかという課題に臨んでいると思う。

また、生活のレベルにより近いところでは、職人の手作業(木の木目や自然物の状態変化に対する向き合い方)のようなものにおいて要求される。
職人も一流になってくると、道具のための身体ともいえる逆転現象が起きてくることは注意しなくてはならない。これは作業の与える身体への負荷を受け入れる ことから起こるものであると考えられる。だが先ほど言ったように、コップを持つときにバランスを全体で取り直すというのは、同じことでもある。だとすれば 職人に起きている状態とは道具を持つことと、その作業をずっとやっていることで「道具を含めた身体」が定常化するからではないかと思う。作業の種類によっ ては体の変形にまで至ることもあるだろう。
それはもはや作業と自分が一体化するということではないだろうか。だからまずそれ以前の段階として、作業のためにその道具をどう扱うか(一体化するのか、 それとも他者でありつづけるのか)が問題になる。普通の専門的な職人は一体化し、作業が高度になるにつれ、道具との触れ方も高度になる。

また、作業対象が変わることと変わらないことでその人がどのようになっていくのかも変わる。たとえば対象が人の場合、ずっと同じ相手とペアを組んでいると その相手がいなくなるともはや自分ではなくなるという問題が起こる。ものの場合でも同じ物を作ってきた人がそのように専門化され、ほかの事に対応しづらく なることもあるだろう。

だが、親和性を持った作業ができるものにとっては、漁の経験で同じように農業ができるかもしれない。そのような普遍化した対応能力を学んでいれば。

親和性は空間を通して変化に対応することなので、このような定常化を解消しマンネリを防ぐという意味でもあるはずだ。常に新鮮であることという状態を高度 な作業状態と共に可能にすることなのである。ここでも心身合一の境界の難しさが現れる。

そのように職人においては道具を身体の延長とする作業をしながら、さらに対象との親和性が求められる。

そういえばブリューゲルの「子供の遊戯」のなかに車輪を棒で転がす遊びをする子供が描かれていたが、これも棒という身体の延長で車輪という慣性を持つ対象 を動かすという複雑な作業をこなしている。

ここまで来てみると、冒頭で書いた、「空中にほうったボールを見ながら落ちてきたところを手で受け止める」という行為を、実際にはまず投げるところから始 まるというその点まで入れると、ドリブルと同じような構造を二極化した姿をあらわすことになる。投げるときはこちらから相手をコントロールし、受け取ると きはボールにあわせる。これを繰り返しているのがジャグリングである。大道芸というのはかなりの身体性と共に観客へのアプローチも必要になる。これには相 当の親和性的能力を要求されるのである(道化について書いた本としては重要な山口昌男の「道化の民俗学」におけるアルレッキーノの身体性もそういうことを 踏まえて読む必要があるだろう)。

そこで親和性の話に戻せば、親和性というのは身体的延長という、部分における同期よりも、自主性を持つ対象との関係性の構築というより複雑で大きなものを 示す状態なのである。


6.三角関係

さて、親和性の構造に含まれるのが自主性を持つ他者ということならば、大道芸と同じように音楽における親和性は楽器との同期あるいは、楽器の特性に合わせ た親和性に近いアプローチ(姿勢、指先の微妙な感覚や呼吸などかなり柔らかいものが求められる)だけでなく、一緒に演奏する仲間や聞いている観客という自 主性のある対象との関係性の構築という課題が見えてくる。

ただここで問題になるのは、演奏仲間と観客はまるで違う存在であるということである。当然だが演奏仲間は自分と同じ状態に置かれているのに対して、観客は 一方的に座って(立って)聞く、と言う場合が多いからである。その場合、親和性としての関係は非常に築きづらいものになる。だが客が一緒に盛り上がり、踊 る。あるいはただ踊るだけでも意味合いは変わる。
踊りという身体を動かすという主体的行為でありながら音楽に合わせるという受動性をもつ親和性的な行為をする場合、そこ、つまり演奏者と客の間には親和性 の関係が生まれるのである(もちろん身体性をどの程度左右するかはその音楽による。踊るというのはその分かりやすい形の一つである)。

また実際には体験しないと非常に分かりづらいとは思うが、演奏者はそのような親和性的アプローチに望んでいる際は場の空気というものに微妙ながら左右され る。だからただ静聴している場合でも、客の出す微妙な空気の変化をその身振り、表情、しぐさ、会話を通し感じ取っている。あるいは、そういうものを通して 間接的に客が伝えているのである。

ではそのような客のアプローチがどのような形で演奏者に影響を与えているのかというとそれも簡単には言い表しづらい。
サッカーの話に戻れば、ホームとアウェイではホームのほうが有利というのはサッカーの間では常識である。結果としてはそれだけ周囲の環境や観客からプレイ において影響を受けていると言える。だがバルセロナは割りとアウェイでも勝利する。というより強いチームというのはホームでもアウェイでも強いのである。 つまり自主的な自分自身のプレイのコントロールにまで及んでくるわけではなく、それよりも周縁部分に働く力として影響を与えるのである。

あくまでもゲームや音楽自体に直接主体的に関わっているのは観客ではなくプレイヤーなのである。だから客の及ぼす力というのは主体の姿勢しだいで変わりう るものになると思う。主体がリラックスしていいプレイをできれば客に影響を及ぼし、よりプレイが良くなることもあるだろう。

だから実際にはまず主体としての個人と、それらの集まりとしての集団全体の親和性が問題になる。


7.集団としての親和性

基本的には先ほど言ったように主体が個人として親和性的な姿勢をつくり、それをそれぞれがやっているという状態が必要である。主体的であるということは、 期待的行動をとらないということである。それが結果的に見れば信頼関係であるといえる。信頼というのは想像や期待とは別のレベルの問題なのである。

さて、以前にも書いたように空間的姿勢をとったものは今という状態にいる。空間的な状態としての今に身をおいて行動するということは、「そこにそのものが ある」という明証的な事態に対応するということである。

だからバルセロナの選手は信頼関係において各自が空間的姿勢をとり、「そこにそのものがある状態」つまり、「ボールを持っている選手に対して、見えるよう に確実なパスの通る位置(ある速度で蹴ったボールが敵の妨害を受けないで渡る)に動き、示す」そのことによって確実なパス交換の可能な場を作るのである。
もちろん常にできているとは言わない。時間的なものが大きく流れるサッカーという競技で空間的姿勢に常にいるのは難しい。実際に流れに左右されるシーンは 何度も目にしているが、その大きな力は逃れがたい。「常にいる」というのは無理かもしれない。だから選手たちにはスイッチの切り替えのようなものがあるの だと思う。見ているとスピードアップやテンポの変化などある種のスイッチが入る瞬間が見受けられる。

そのスイッチが入るというのが一番起こるのがゴール前でのシュートチャンスの時である。そこにおいて「勇敢さ」という問題が表れる。


8.勇敢であるということ=「最後の空間」

以前は最後に勇敢さを出すということは最後には時間的姿勢に戻らざるを得ないかもしれないと思っていたが、実際には最後まで空間的姿勢でいることが勇敢さ を生み、すべてを受け入れる=その場でできる最上のことをすることにつながる。「その場」とは「最後の空間」と言えるかもしれない。

「最後の空間」というのはある種の時間的変遷における最後の場という意味である。言い換えれば「一連の空間の最終地点」である。空間の中に一つの流れがあ りその最終到達地点という感じであろうか。

だがそんなことが可能だろうか?
時間的姿勢に戻らないのに、時間的変遷というのはおかしい。

空間的姿勢は今=無時間的であり続けるのだから一つの矛盾であるように見える。

前に言ったように、空間的態度にあるものにとって一つの空間のなかが一つの停止した時間の中である。このことは個人的な変化としての時間まで止めるという 意味ではない。無時間的であるとは自分の身体的変化という本質的時間にのみ従うという意味である。つまり無効化されるのは社会的な共有化された時間であ る。

だから個人ではなく、この一空間のなかの時間というのはそのフィールドにいる人の間で共有される時間(空間内移動?)という意味であって本質的時間とは別 物である。

ボールを追うという一つの作業において、ある瞬間に一空間が共有的に形成され、それぞれがその中で動き、ある決定的な結果が訪れるとその空間は解除され る。
サッカーにおいてはそういうシーンは良く見受けられる。特にゴールマウス前ではそのようなことが起こりやすい。これはゴール(得点)という非常に難しい行 為に臨むには常にボールを持ってゴールするというのはなかなか難しい。よってそれよりも誰かがパスをしそこに飛び込むような勇敢な行為が必要になり、そこ では一つの慣性的に転がるあるいは蹴りこまれるボールを味方と敵が同時に追うという一連の場が形成されるからである。以前見たように敵とボールを追うとい う行為は時間的であるように見える。だからこの意味において、蹴りこまれた後の「一連の空間」という場は、共有化された時間を通して一時的に形成されると 考えうる。

ただ空間的で無時間的であることのなかでも勇敢さというのはあらわれるので、上で言っているようなことが在り得るかどうか以前に、空間的姿勢にある人間に とっては関係がないと考えることもできるかもしれない。
というのも、勇敢さとは「不可能性への挑戦」という意味で捉えればよいからである。
空間的姿勢にある人間は時間的に難しいことかどうかは関係がなくなっているので、パスの仕組みでもみたように、空間の中で物理的に可能かどうかが問題にな る。
サッカーにおいてゴールとは敵のディフェンダーとゴールキーパーの守る狭いエリアに、ボールを入れるという非常に困難な作業なのであり、最後に待つ行為 (ゴール)はその意味で勇敢な行為であることを要求されるのである。時間的姿勢にならなくても、空間的に敵とボールとの距離間的に難しいことを感じながら 不可能でも挑戦するというふうに捉えられる。

最後の空間という考えに戻ると、その空間性を重視して「ある瞬間に、一空間が共有的に形成される」という風に捉えて考えるならば、最後の場とはその最終性 において時間的終焉があらわれ(もうこの先にはゴールか外すか弾かれるかしかないという状態)、そこにいるすべてのものを無時間=空間的態度に巻き込む場 が形成されるかもしれない(かなり検証のされていない仮説なので相当の考察が必要である)。この場合は時間は関係なくなり、そこにいるすべてのものにとっ て、可能か不可能かという観点を超えて「勇敢さの行動=その場でできる最上のことをする」が残されるのである。


このように見ていくとゴール前であらわれる「最後の空間」とはボールを両方が追うことによる時間性の発生とその時間的最終性による空間性の発生が考えら れ、その両方にも見るべきものがあるように感じられる。
そうだとすれば、最終的には共有された空間とは共有された時間と同じ意味かもしれない。つまり、共有されるのは「出来事」であり、その一連の場で起こる出 来事にすべてのものが主体的に関わっていることで形成されるもの。いや巻き込まれたものはその形成の関係者には含まれないだろう。
だから、主体的に関わっているすべてのものによって、出来事が形成されるということである(だが可能性としては出来事を「受け入れる」ことを通して、出来 事に主体的に関われるようになるかもしれない)。

このように見ると、サッカーにおいてはチームとしての味方との親和性による信頼だけでなくそれ(信頼されている)がゆえの勇敢さと、共有的な空間と時間を 局地的に生み出す「出来事」という複雑な状態が形勢されるのである。もちろんサッカー以外にもこのようなことは見出せるだろう。

このように、親和性や勇敢さ、同期の問題はこれらに大きく関わる考察を要するものなのである。

だからこそ、その一時的に形成された空間と時間=出来事にただ巻き込まれるのではなく、その出来事の中で主体的に動くことが重要であり、そのためには親和 性=信頼や、空間的態度による本質的時間性を持ち、自らが自らのために動くことが必要になってくるのである。 (hayasi keiji,12/3/8)
第1章、修正のため一部改稿”「とはいえそれはやはり〜」の一文の追加と、接続詞の修正”(hayasi keiji,12/3/13)
   
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