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コラム
 vol.29 「専門化」 のなかの知性のヴァリエイション〜肉体の持つ知性・分岐1−2〜

このコラムは”同期より一段進んだ状態としての親和性”の補完のために書かれたものなので、そち らのコラムと対応的に見てもらいたい。


肉体の持つ知性は体を通しての制御のうちに見出すものであるならば、専門化することのうちにも見出せるし、専門的な作業の中で専門化に抵抗するための意識 の保ち方の中にも見出せるかもしれない。つまり肉体の持つ知性にはその大きな身体という枠組みを通して、いくつかのヴァリエイションがあるといえるかもし れない。


1.専門化の中で身に付く知性

この場合は職人の持つ知性についてである。とはいえ大雑把に「職人」といってもいろいろあるだろう。今想定しているのは、何かの道具、機械で何かを作る人 ということである。特にある特定のものを作る専門職の人について考える。

このような人にも肉体の持つ知性があると考えるが、

まずその関係をみると

〔(心+身体+道具)→作業〕→対象 である。

つまり道具を体の一部にし、作業をする中で、その作業に専一的になることで作業のための身体になる。作業のために自らの体の道具化がされており、ここまで は自分の手先のように動く。どのような微妙な作業も身体的な範囲での認識が可能なレベルまでは可能になると考えうる。
さらに作業のために体が特化していくことでより高度な作業が可能になる。その結果、作業対象=製品の質が上がる。

問題は求められている、あるいは自らが自らに求める作業の質のためにできることが自らに属している範囲までで、その先にある結果(またはその質)とは区別 しなくてはいけないということである。

つまり空間的な姿勢はやはりそこでも必要になるのではないだろうか?
この場合、作業に自らを組み込むことで自主性はない様に思えるが、結局のところそれは作業が対象に対してより高度な接し方をするために必要とされることと しての一体化であって、作業が対象に及ぼす質をあげるには対象のもともと持っている性質に対応的に行われる必要性が浮かび上がる。

つまり例えば対象が木材ならば木目の質や硬軟、目の流れ、必要なものの大きさなどは毎回違うことになる。であればその度にあわせなおす必要がある。天気に よっても素材と作業の関係も変わる。

工業化されたような100%同じものを毎日作る場合は硬化した作業でも問題がなく、究極的には対象までが自分にの範囲に組み込まれる=ある種の完全機械化 ということもあるかもしれない。

だがこの場合にはそのような対応的なものから生まれる知性は現れないのではないだろうか?別な種類の知性(たとえば現状を打開するための、つまりこの作業 から抜け出すためにはどうしたらいいかを毎日考えるような)は生まれるかもしれないが、全体を緩やかに統合する柔らかい知性としての肉体の持つ知性ではな い。

作業の質のために道具と一体化する、そしてその対象への接し方においてはある種の自由度と柔軟性を持って親和性的な対応が求められる。
スポーツにおいてはサイクルロードレース(プロの自転車レース)がそのいい代表である。

サイクルロードレースの選手は自転車に乗るための身体に自分を変えていく。現在の日本人のトップ選手のひとりである別府史之選手は以前番組の中で、ロード レースのための体に仕上げているシーズン中は「歩く」という作業が大変になる。というようなことを言っていた。

つまり足首が細く、腿が太くなり、足のバランスが自転車のペタルをこぐための筋肉の付き方になっているために、歩行には向かないのである。

このように自転車と一体化するが、さらにヒルクライム(山登り)、タイムトライアル(一定の距離のコースでの競争)、スプリント(ゴール前での短距離競 争)アシスト(エースの動きを援護する)とその人が目指すものによって筋肉の付き方はばらばらである。ヒルクライム向きの選手にはスプリント勝負で勝つこ とは非常に難しい。

そこまでが体を合わせるということでできることである。
実際にはそこから先が本当のレースだ。

その日のコース設定によってどのような走り方をするかも変わる。天候によっても変わる。また体調の管理、一緒に走るチームメイト、あるいはライバル選手の 動きの把握、一時的に利害の一致した選手との共謀的な逃げ集団形成などを走りながら行う。

この際に親和性や自主性に基づいた対応的行動がどのように作られるかが関わってくるのである。ここにおいては明らかに柔らかい知性としての肉体の持つ知性 は生まれるだろう。

では作業の質を上げるという部分の一体化の中では知性は発生しないのだろうか?

そこも問題である。作業と対象を一つとして、結果に対してどのような作業をすべきか、ということを考える場合には発生すると思う。
だがこの場合には一体化しないのであって、つまりは専門化ではない。

だからやはりこの場合は専門化しないとできないような作業を通して対象と接する、その時にその作業と対象との間でより高度な結果に対応するために、「その 作業のみを選択する」ことでそのことに専念する覚悟をもち、専門化した人のみが達成できる精度を通し、知性を持つということではないだろうか?


2.専門化に抵抗する中で身に付く知性

では専門化しないことで身に付く知性とはどういうことかというと、さっきも言ったように、作業と対象を一つとして、求められる結果に対して、どのような作 業をすべきかということの中で起こると思う。

空間的姿勢とは以前にも書いたように旅をするときの感覚に近いと思う。
旅をしている人は日常的な生活や就いている仕事から離れることで、役割としての定常化や固定化から開放され移動を始める。

旅というのは実は移動することを通して、認識することを新鮮な状態で行うことなのである。そしてそのことによって「あることに専念しない」ということなの である。

しいて言えば、旅において旅人が行うのは、歩くことと、「他者」と関わることに専念すること。である。つまり特定の職業性を剥奪され、移動者であることに よって、当然だが旅先で訪れた共同体に一員として関わることを不能とする。

専門化した人の特徴。作業の一部として自らを組み込み、場合によっては体を変形させる。これは言い換えれば、他者を自分にすることを通して、ある単独の行 為の受け入れを行うことなのである。

通常はサッカーにおいても役割が求められる。エースストライカーは足が速く、シュートが正確であることを求められ、その作業のために特化する。それはピッ チ上でのポジショニングに至るまで規制される。ディフェンダーはやはり背が高いほうがよく、ジャンプ力も求められ、体の強さも要求される。そのようにポジ ションによって筋肉の付き方も変わるだろう。

だが以前から取り上げているように、バルセロナというチームはそのような作業を求めない。
バルセロナにおいてはよく言われるように全員攻撃=全員守備を求められる。

そのことで特定の役割は解除される。
そこへの順応は他のチームからやってきた選手にとっては既成概念としての「役割」を自分に押し付ける姿勢を解消し、「すべての作業」に主体的に関わること を求められるので、通常とは違う「役割の解除」の苦労をするのである。

このように旅の姿勢と同じく、定常化・固定化の解除としての「専門化の解除」は他者を他者のままとして「他者と一体化しないこと」を必要とするのである。 そのようにしてピッチ上のチームメイトのそれぞれが自主性を求められるのである。

そして、そのような関係の中でそれぞれにとっての自分以外の他者と親和性的に関わり、作業と対象(チームの求める全体的な方向性とその結果の質)を高めて 行くのである。言い換えれば、対象のためにどのような作業が必要かという問題に対し逐一主体的に対応を変えていくことが重要なのである。
サッカーにおいてボール以外の道具は自分の身体以外にはないが、そのボールをどう扱うかという作業は自由なのである。

ちなみに、このことはもう一つのコラムであげた「出来事」においてはもはや、あまり関係ないかもしれない。

というのも、出来事は「最後の空間」という形でチーム全体の方向性や結果の質を求めた結果訪れた状況なのである。この状況の中ではもはや勇敢さを通して最 上の結果を求めるための不可能性への挑戦をすることが残されているのみなのである。

ここでできることは出来事を受け入れるとともに主体的に関わり、空間的姿勢による精度的対応をすることのみである。
得点シーンに見られる、「パスを出し、そこから再びボールをもらい、シュートを打つ」というのが最後の空間への有効なあり方であるのも、そのことと関係が あるかもしれない。

専門化に抵抗する中で身に付く知性とはこのように、より普遍的な対応が可能な主体を作り上げ、あらゆる可能性の中からフレキシブルに対応するという非専念 =非固定化としての知性なのである。


1も2もどちらも肉体を通して行うことは変わりないし、そのことによりどこまでが自分でどこからが他者かのラインが違うだけである。そしてその境界上では 親和性的な他者への対応が求められることも変わりないのである。(hayasi keiji,12/3/8)

   
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