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コラム
vol.30  静止性 → 今 → 行動思考  〜肉体の持つ知性・分岐1−3〜

僕は仕事柄、運動をする機会が多い。

簡単に言えば肉体労働ということだけれど、これは簡単に言いすぎである。
肉体労働といってもアメリカで南部から牛を輸送するために線路のレールを敷いたり、エジプトでファラオの命令でピラミッドを作ったりしているわけではない ので、それなりに自分で考えて動く。効率性を考えて動くことで仕事にともなう疲労も少なくてすむ。それに荷物を運ぶ台車なども動きの制御をするコツがあ り、感覚的な運動制御の力が必要になる。忙しければ動きも早くなる。だけれど、安全は一番大事なものだ。

そういったことの中で、自然と運動の中での意識のあり方みたいなものが身についてくる。少なくとも僕はそうだ。なんとなく漫然とやっているよりおもしろ い。そのようにして肉体の持つ知性も自分の体をも実験台にして考えている。

前回のコラム、もう論文に近い気もするが、親和性について書いたときに少し触れたが、そういう運動と意識の関係でキーポイントになるのが「静止性」である と思う。実は線路もピラミッドも関係がないわけではない。やっぱり静止性が大事になる。これは人間が体を使って働くならすべてに関わるからだ。
でも、これはとても分かりづらくて静止性に関することは何度も書き直しながら今に至る。それでもすべてに関わるなら、考えておく必要のあるものだと思う。

まずはその「静止」という言葉のもつニュアンスから考え始めてみたい。


1.静止

静止というと何を思い浮かべるだろうか?

僕が真っ先に思い浮かべたのは静止衛星である。静止衛星というのは、地球の静止軌道上を地球の自転と同じ速度で移動している衛星のことである。
静止と停止は違う。静止衛星は止まっているように見えるだけで、止まってはいない。同じ速度で移動することで地上の観測地点とのずれをおきなくしている。 つまり地上の一地点である現在地であり続ける。これを静止と呼ぶわけである。
実は僕らも同じことだ。僕らは地球上に立っているが、実は地球は回っていて自転も公転もしているらしい。確かめたことはないが。つまり太陽の周りをある速 度で回っているのだから自分も太陽の周りを移動し続けている。でも地球上の一地点では静止しているのである。

静止と停止の違いとはこのように動いているけれど、見た目上、あるいは実感として感じない。ということであると思う。
動いているものと一緒に移動していれば見かけは動いていないのと一緒ということだ。高速道路で隣の車線を走る車と同じ速度ならば、車体は動いていないよう に見える。


2.歩行

じゃあ、それが人が運動する時にどう関係するのかというと、人の意識と体の関係において関係してくると思うのだ。

前に空間的姿勢について書いた時に、意識と体という二つの「私」があることは書いた。
運動というのはこの二つが合わさって、意識によって体を動かして起きると普通考えると思う。でも実はそうでもない。坂道を下る時に付いた勢いが止まらない とか、走っていて角を曲がったら人がいて避け切れなくてぶつかる(こんな少年少女マンガ的なシチュエーションなど僕は経験ないが)、ということがある。
それに、携帯電話でなにかしながら歩いているとんでもなく有能な人たちもいる(私にはそのような器用なことはとてもできないが)。

じつは「歩く」というのはこの坂道を下るのとそこまで変わらない。

歩くというのは言い換えると落下し続けているということができる。どういうことかというと、前傾姿勢になり、倒れそうになるのを片足を出し支える、また片 足を出し支えるというのが歩く原理だからである。このような動きの場合、重心はある一点にある訳ではなく移動し続けていることになる。もちろんこれは単純 化されているが、歩行の基本はこのようになっている。

歩ける人ならだれでも経験があるとは思うが、歩いていて考え事をしたり、歩いていて何かを思い返したりすることはある。でも意識は歩くという命令を下し一 歩一歩足を前に出しているのだろうか?
すくなくとも顕在的な、つまり何かを考えたり、思い返したりしているこの意識はそのような命令をしていない。
実際には歩行という総合的な動作への命令は各々の部位を脳で緩やかに連携しているに過ぎないのだと思う。そのように例えば「横浜駅」まで歩くという時、そ の目的地まで、歩くということを意識したりはしないようになる。

だから意識していないで歩く体と、この考えている意識との間にはギャップがある。その時に僕にはこの意識が体の上でちゃんと静止しているか、という問題が 発生すると思うのである。
考え事をしていた意識がふと歩いている自分に返ったときに、その止まっていない体を見て認識する。この際に静止性という感覚が現れるのである。


3.慣性

歩行は落下し続けると書いたけれど、一般的には慣性運動をしているという。

慣性というのは動き出した体に付随して働いている力とでも言えばいいだろうか。慣性の法則というのは、「外力が働かなければ、静止しているものは慣性系に 対し静止し続け、運動しているものは慣性系に対し等直線運動を続ける」というものだ。きわめて簡単に言えば、無重力状態で後ろから押されれば、ずっと前に 進みつづけるということ。

それは言い換えれば地球上にいる私たちは摩擦と空気抵抗と重力によって慣性の法則が機能しないから止まることができるのである。でももしこれらの力が強け れば筋力次第では動くこともできない。簡単に動けるということは慣性は地球上でもある程度働いているのである。
歩行はそのような慣性の運動と、落下し続けるといったように重力の運動に、摩擦をグリップにした筋力の運動で構成されている。

重力と慣性は意識しても止められない。

じゃあ意識的に落下や慣性を使わないで歩くことができるかといえば、できないことはない。それは筋力とバランスによって移動するということだ。

重心が移動し続けるのが歩くといったけれど、筋力によって歩行するということはその点では「歩行」とはいえない。筋力とバランスによって移動するときは、 片足に重心を乗せ、そこを軸にもう片方の足を前に出しその足が地面に付いたらそちらに重心を移し、またもう片方の足をあげることになる。

このような動きは「意識して」しかできない。それには全身の状態を知覚できる必要がある。


4.空間的姿勢

以前から書き続けている空間的姿勢とは知覚による認識状態に自分をもっていくことである。落下や慣性を働かさないように運動をしている時の身体と空間的で 時間性の解除された身体はちょうど同じ状態であるといって良いと思う。だからといって空間的姿勢にあるものがすべて意識の上で命令を下して一歩一歩動くと いうことではない。先ほど言ったように、歩行という総合的な動作への命令は各々の部位を脳で緩やかに連携しているに過ぎない。それは意識されるべきもので はない。空間的姿勢とは、意識がその歩行が行われている環境の知覚をするということである。

空間的姿勢を簡単に言うと、それは五感を通しての知覚によって世界を捉える。認識をすべてそこからの情報にのみ置くということである。

つまり、自分自身のことも空間を認識するように五感で捉えるということになる。そうすると皮膚や内部の感覚として触覚を通して自分を捉えるということにな る。

五感というとすべて並列のように感じられるが、触覚というのは特別な意味があるように思う。
触覚は一言で言うと自己範囲認定ではないかと思う。

自己範囲認定というのは文字通り、「どこまでが自分であるかを定める」ための機能になる。前にも書いたけれど、職人は道具を体の一部にする。それは特に優 れてその感覚が使われているからに過ぎず、実際にはだれでも体の一部にできる。鉛筆で字を書くのは訓練がいるけれど、たいていの人は書けるようになる。

そのように触れたところを自分の一部に取り込むということは、触れることで、境界があいまいになるということだ。人間にはそのような機能がある。

触覚の自己範囲認定の機能は本来は空間内でどこまでが自分かを定めるわけだから、それを意識すれば自分の身体が今どこにあるのかが分かるという事でもあ る。

空間的姿勢にあるものは無時間状態になると以前に書いた。それは身体は本質的な変化以外の時間は持っていないからであり、社会的な時間性は身体に還ると意 識されなくなるということだ。そして自分が知覚している空間にあるもののみが世界であり、それらすべてによって「今」ができあがる。

またそれは想像や目的の解除にもつながる。今知覚している物で世界が構成されるのだから、意識はその作業に集中しているために想像はなくなる。そのことに よって時間的な目的性もなくなる。だから横浜駅が「ここ」から見えないかぎり、目的としては外されることになる。
残るのは「生きる」と主体性の権利だけである。

だがこのような姿勢は社会的な時間の解除によって起こるわけで、ある意味では自分の本質的な時間性にのみ生き、社会とは関わらないような状態になる。

でも実際には一人では生きていくことはできない。
もし一人で狩猟採集の生活をするとしても、狩猟をするということは何か他の動物を狩るために、追いかけたりしなくてはならない。
人は生きるためには他者は必要だ。

他者とコミュニケーションをとるということは誰かと時間や空間を共有するということだ。狩猟するなら獲物を追いかけて走らなくてはならないこともある。何 か一つの目的に向かうときもある。そのような時に慣性の働く中で意識が体と一致し続けるにはどうしたらよいか?
そのような時には空間的姿勢は解除されて、時間的態度にもどるのだろうか?


5.出来事

親和性のコラムの中で書いた「出来事」というのは、そのような社会的な空間と時間の局所的な発生でもある。最初からあるわけではなく、人と人がいて生まれ る共有的な空間と時間のことだ。突然「ピラミッドを作るぞ!」とファラオが厄介なことを言い出すのも、残念だけれど「出来事」だ。
空間的姿勢にある人はその姿勢の中で高い精度でのコミュニケーションが可能になるといったけれど、それでは人と時間を共有することのなかでどう対処するの か。

そのような時間に関わっていくなかで、空間的姿勢を維持することは不可能なのだろうか?

これはつまり意識の問題である。

意識は身体につながることで空間的な無時間性につながれた。でも「出来事」に関わる中で、行動をする時に必然的に再び共有的な時間性の中に入っていく。
その時に意識が時間的にならずに行動するにはどうすればよいか。そういう問題である。

僕はそのことに静止性が深く関わると思う。

静止性というのは社会的時間の中でも空間的な今であり続けることにつながると思う。それをこれから説明していきたい。


6.今

先ほど書いた、歩いている自分に返ることで静止性に至るということは、目的性の解除のことでもある。意識にとってはすくなくともそうだ。

全体としては歩いているわけだから慣性的なサイクルは解除されてはいない。つまりこの時点で体に働いている目的性は解除されていない。だが歩いている自分 を知覚できる意識は、その知覚可能であることによって、空間的な把握が可能な状態である。
だから空間的姿勢にはなれる。意識が知覚によって自分を認識する際には先ほど言ったように、触覚を使う。

運動というのは普通は筋力で動き始めるが、その後に続く慣性的な動きはそのような筋力で動いているわけではないので、このぐらいの力が入っているから、こ のぐらい動くというような認識は出来ない。慣性の働いている身体の挙動はあくまでも触覚的な認識つかむことになる。

触覚を通して自分の体の位置をつかむ。そのことは意識が体と一致するという「心身合一」の状態になるということでもある。
それは簡単に言えば「ずれのない」状態である。このずれのない状態が「静止」なのである。

静止状態を保つことができている間は意識にとっては動いていないのと同じ状態であるように思う。つまり今であり続けるということだ。

だから「今」というのは体と意識の「ずれのなさ」のことをあらわすのである。つまり触覚的な自分の身体の知覚によって意識が自分の身体の現在地を正確に把 握しつづけている。ということであると思う。

動いていても今でありつづけるというのはこのようなことを指す。

静止衛星が地上の観測地点とのあいだに「ずれのなさ」を保っているかぎり、地上は静止しているように見えるのだ。
そのことで観測自体が可能になる。

体でも同じことで、体の一挙手一投足を精緻につかむにはこのような静止状態を保つ必要がある。

もしこれがうまくできないとどうなるのだろうか?
意識は自分の位置をつかむことはできない。だから身体の正確なコントロールはできなくなる。自分の位置があいまいなままで、どのくらいの外力が働いている かがわからなくては、次にどのくらいの力を加えればよいかも分からない。

また知覚情報もこの体の位置が基準となる。体の位置と、周囲の空間との関係で知覚情報は意味を持ち始める。そのようにして空間の知覚的な構成もまた可能に なる。

つまり身体との「ずれのなさ」を保つことで、動きの中でも空間的姿勢を保つことができると考えられる。

ところで、意識は触覚的に体の現在地を知り、知覚情報に有用性を与えることで、自分に働いている外力も知り、次の行動に必要な力がわかる。
これは確かに可能だろうが、やはり動いている中でこの感覚を取り戻すのは割と難しいように感じる。一番簡単なのは一度立ち止まることだろう。

そうすれば体に働いてる慣性の力も時間性も解除される。そこから空間的姿勢を動きの中に連れて行くようにうまく保っていく。そういうほうが楽だと思う。


7.目的の解除

一度立ち止まるというのは、目的の解除ということだと思う。

陸上の短距離の選手は前傾姿勢になって走るのを見れば分かるように、慣性の力を利用して走っている。
それは先ほどの駅のようにゴールラインという目的地があらかじめ設定され、ただ「そこまで早く着けば良い」からである。慣性系のサイクルとしての動きは 「効率のよさ」であるから一度命令が下ったらその目的のために効率性を上げて動く。

だけれど、ボールを蹴りながらの時はそうではない。周囲を見ながらボールを誰かにパスすることも踏まえて走る。バランスが大事であり、そこまで前傾姿勢に はなれない。
だからといってすべて筋力で走っているわけではない。筋力と慣性系は複合的に使われており、走り、蹴り、止まり、向きを変え、また蹴り、走り、相手をかわ し、速度を上げる。

その際の行動の精度を高く保つには自分の体に働いている慣性と筋力をなるべく正確に認識しなくてはならない。

レールを枕木にとめるために犬釘(スパイク)を打つ際も、ハンマーを効率よく振り上げ、おろすには慣性系を利用したサイクルが大事である。だけれど精度を 上げるにはその挙動を逐一知覚し、修正を加える必要がある。

つまり速く走るのとうまく走るのは違う。目的地が解除されると、「走ること」が目的になる。多分陸上の速い選手もそのようにうまく走ることで速く走ること につなげていると考えられる。


8.目的の他者化

また、荷物を運ぶような時には、目的地自体は解除できない。
例えば台車に荷物を載せある目的地まで運ぶ時を想定するとしよう。

普通は手で押しながら足で歩き、目的地を目指す。そうすると体は荷物の載った台車と手を通して一体化する。全身でコントロールしようとするのだが、そのと き慣性の働いた台車と体で一つのシステム化してしまう。すると足は目的地までサイクルをする動きの中に安定的に固定化し、それに気づいても解除するのは難 しい。一体化した時の体の状態は、台車と不可分になっているので、動きながら下手な力の抜き方をすると荷物に働く慣性によって体を壊してしまう。だから動 きながら解除することはできない。これは荷物にスレイブ的に同期しているということだ。

これをやめるには一度止まり、荷物から手を離し、空間的姿勢を保ちながら、再び作業に入っていくしかない。荷物を押していなくても、目的が意識ごと体をを 支配して、慣性的な運動をしている場合は止めがたい。

やはり一度立ち止まり、目的を解除し、空間的姿勢に戻る必要がある。

では、目的がないと、どうやって命令を下すのかということになる。実は目的を解除するというのは目的がなくなることではない。あくまでも目的は他者化され て存在している。その他者性を保ち意識は知覚的空間処理ををしながら対処的に行動する。

つまり荷物と一体化しないで、他者を他者のままに保ちつつ、触れることが大事になる。手を離し、空間的姿勢を通し触覚の自己範囲認定によって自分の範囲を 知覚した上で、作業する。

考えてみると分かるが本来、荷物を運ぶという作業は、目的性は自分ではなく、荷物の側に付随している。だから荷物の目的性と一体化してしまうと機能の一部 と化した身体の動きを解除できないのである。

空間的姿勢は空間内にあるものは知覚的な認識のうちにあるので目的地としても機能する。では遠くにある目的地、つまり空間内に荷物の目的地がなければ解除 されてしまうのだろうか。だけれど、人間は「想起」という仕方をしていると考えている。想起というのは経験的な「記憶」と「知覚」によって生み出される志 向的なものである。目的地はそのように想起されてある。それはただの記憶でも想像でもない。あくまでも今いる空間に対して対処的に行動する中で機能するの である。逆に言えば記憶や想像はそのような知覚によって更新されなくては空間では機能しない。


9.自由度

サイクル化した体を解除するというのは「自由度を上げる」ということだ。

目的が他者化されれば、目的さえなされればどんな方法でもよい。例えば荷物を押して目的地に持っていくなら、右手で押しても左手で押してもよい。手で押す 以外にも、足で蹴っても、尻で押しても、荒縄をくくりつけて歯で引いてもよいのだ(場合によっては自分でやらなくてもよい)。ルートも一つではない。
つまり目的の他者化は「方法を作る」というところまで自分を戻す。

だから身体はなるべく自由度が高いほうがよい。手で荷物と一体化しているときは、下半身はサイクル化しているので自由度は単純に見ると50ということにな る。荷物は内部感覚的なコントロールのできない固定化されたものなので、実際には「荷物も含めた身体」であるからもっと低い。
簡単に言えば、身体を緩めることはそれを「足の裏」まで自由度を増やしていくことになる。荷物を押していれば脇から突然人が飛び出してくることもある。そ ういった不測の事態に対処的に行動するには、自由度の高い身体である必要がある。
両手で押し、足がサイクル化しているということは方法が限定的に選択され固定化されているということなのである。
例えばピラミッドの石のようなとても重い荷物だったら全身の筋肉を振り絞って押すしかないこともある。それでもあくまでも他者化した上ですべきだ。

ついでに言うと、体を緩めるのには「息を吐く」のがよいと思う。目的を達した時に一息つくのは目的のために使われた体を一度自由にしているという効果を意 味している。ため息も緩める力を持つ。

目的を生むのは荷物だけではない、仕事や出来事もそうだ。本来、荷物を運ぶのはその仕事の一部である。だから荷物を運んでいない体にも、そのような力は働 く。だけれどもそれに対しては、自己内在化された目的を一度分離し、自分の目的を自分で解除することができる。もちろんそんなことをしたら仕事に差し支え る。だが本来、人間の唯一の目的は「生きること」のみであり、仕事上の目的も出来事も一体化せずに、他者であることを維持することが大事だ。
それは「方法から作ること」に引き戻されていることで、仕事や出来事に起こる問題にどう対処するかの自由度が上がるということでもある。
そのようにしてアイディアの浮かびやすい状態が保たれていることで、より良く関わる事ができるようになるのだ。そしてアイディアというのは先ほどの「想 起」ということによって生まれてくる。

とても重い荷物も分割可能なら、二回に分けてもよい。良いアイディアがあれば何かの装置を開発することもできる。ピラミッド建設も、そのように考えればい ろいろな方法はある。寛容なファラオが奴隷の考えを受け入れてくれるならだが。

サッカーにおける「最後の空間」でも知覚し変化を見続けているものだけが、最後まで可能性を捉えることができる。つまり時間的な中でもそのように他者化し 空間的姿勢が保たれることで想像ではなく、「今」に対処的に行動できるのだ。

もう一度走ることの話に戻ると、「うまく走る」にはやはり「停止」から体の挙動をコントロールしていくことは欠かせないと思う。そして目的地も解除はされ ても他者化されたままそこにある。それが速く走るための方法としてのうまく走る身体をつくる。
だから空間的姿勢が維持できずに、一度ずれたら、もう一度停止状態からやり直す。このことはとても大事である。あくまでも停止状態での時間性の解除=空間 的姿勢をして、停止から高速度まで常に、現在地(=今)の把握ができていることが重要になるのである。それが自分の意識と身体がつながり、それ以外が他者 化されている状態である。そのことを考えると普段はあまり慣性の働かない速度で行動するというのも大事ではないかと思う。バルセロナのメッシもボールに関 わらない時にはゆったりと歩いている。


10.行動思考

メッシの動きを見ていても思うけれど、彼は相当複雑な挙動をコントロールしていく。空間的姿勢を維持するということは、つまり自分の中の動きや周囲の情報 をその急激な変化の中で処理しているということになる。それは簡単ではない。

高速度でも緻密な精度を保つという作業は、ダンスをしながら、針の頭に糸を通すようなものだ。そのような処理は当然脳にも影響を与える。

速い運動をしながら正確な自分の位置を把握することは脳においてもより高い速度の処理を要し(メッシくらいの速さなら、一度ずれたら即、計算不能になるだ ろう)、その間に閾下で処理されていた、行動とは関係のない情報の処理も一緒に促進されるのではないかと推察する。

それが行動思考と僕が呼んでいるものだ。

そしてこの行動思考の発生には、その空間的姿勢のほうが速く行動することよりも大事であり、知覚情報の「精度」が重要なのだ。
その点では、あくまでも時間性に逆らっているともとることができる。

でもそれだけではない。これは今という状態の捉え方にある。つまり主体的であるということはただ意識と体が一致しているということにすぎないのである。

問題は主体的行動が「出来事」とどう関わるかであると思う。
そこにあるのはただの知覚情報ではなく人である。だが自然の変化を受け入れることも、周囲の状況や人との関わりの中で受け入れることも同じことである。
それには落ち着いている=リラックスしているということも大事なのだ。出来事の中でよりよい状況判断ができるにはリラックスしている必要がある。動きの中 で静止している意識にはそのような判断力も保つことができる。そして受け入れるということは一体化することではなく、ちゃんと関わることである。だからや はり親和性の問題につながるのだと思う(コラム「『専門化』のなかの知性のヴァリエイション」では「出来事」には対象の他者化は役に立たないかもしれない と書いたが、対象の他者化と空間的姿勢は不可分であり、やはり必要であると考えられる)。


またたとえば裁縫や伝統工芸のようなものは当然、速度ではなく精度である。そのようなものでも行動思考はあがるのではないだろうか。これらの作業で は移動や筋肉的な運動はスポーツほど大きくないが「ずれのなさ」の必要性においてはより精密な作業を要求される。これは行動思考というようなアクティブな ものではなく生活の知恵というような風に捉えるが、精度という点でその実はかなり近いのではないかと思う。

高速というのは「同じことをするのに他の人よりも」という要素を含む。スポーツの分野ではそのように高速さが要求される。高速度でそれをするのが「難し い」から処理速度が上がるのである。ちなみに高速度でのずれはミスを誘発し怪我につながる。このことを踏まえて行動しなくてはならないと思う。プロスポー ツ選手が重大な怪我につながるのはそれだけ危険だからである。だから当然、いきなり高速度で普通の人がやるのは危険である。
そう考えるとやはり普段は慣性が働かない速度で行動するのが重要なのである。この速度なら空間的姿勢は割りと容易に維持できるからである。

あくまでも生活空間での生活の知恵のようなものからも、肉体の持つ知性を身につけていくには可能ではある。
大事なことはリラックスしていること=体との静止性を維持すること、としての空間的姿勢=今なのである。

ただ、その静止性の状態を「走らなくてはならない状況」で維持する。出来事により良く関わるということは、「生きる」のみが唯一である人間が主体的に他者 と関わる、つまりよりよく生きる=自分の感性にしたがって生きるために、自由度の高い意識と身体で速い速度での対応をする、それが行動思考とその先にある 更なる肉体の持つ知性につながると考えられるのだ。(hayasi keiji,12/4/12) 校正(hayasi keiji,13/10/16)


   
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