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コラム
vol.31  ドーナツ型の世界  〜肉体の持つ知性の限界〜

いままでたくさんの例や用語を使い、あるいは造り、肉体の持つ知性について考えてきた。

そのなかで肉体の持つ知性は空間的姿勢に拠るということが分かってきた。そしてそれは結局のところその姿勢によって認識の限界が生まれるということでもあ る。限界というと一見だめなことのように思う向きもあるかもしれない。

だが、そうではない。

その認識可能な枠の中にこそ無数の人間的な可能性が秘められている。と考えてよいだろう。


1.知覚

空間的姿勢にあるものにとって世界は知覚に依拠する。知覚とは五感による世界認識である。それに基づき体にたくさんの記憶が蓄積される。

五感が作る空間とは一見するところの空間とは違う。例えばある窓のない部屋にいるとする。でも音は部屋の外からも聞こえる。ちり紙交換の軽トラックが部屋 の外を通過し、ヘリコプターが頭上を通過する。風が吹き、木がざわめき、鳥が鳴く。ラーメンの屋台が通りラーメンの匂いがする。

そのように視覚は部屋という空間に限界性をもたらされるが、嗅覚や聴覚は部屋という空間に縛られず、働く。

これらは外側に向かう知覚であるが、逆に内側に向かう知覚というのもある。

体を内部観測的に知覚すると、今食べているオレンジは口の中で酸味や甘味を味覚として伝え、香りが鼻から抜けて嗅覚にも伝わる。
また咽喉を通り、腹に向かい体の中を通っていくのも分かる。それらは内部的な触覚による。触覚は自分という範囲を認定するだけでなく、自分の中の動きも内 部的にとらえる。

本来的な五感が作る空間というのはこのように五感の統合的な空間である。


2.限界突破=文化

そのような五感による知覚を通した認識はそのような空間を形作り、それは本来、生きていくためには十分なものだ。
だが人間の社会は、もう少し大きな認識を利用して出来上がっている。それは共通認識である。文化というものはその共通認識的なものによって形作られる。

例えば言語は特殊な例を除き個人で考えたものではなく、共通認識として徐々に作られ存在する。
宇宙科学も科学的方法を通して認められたものという共通理解の下に認められたものが存在そのものを認められる。
歴史も本来は事実なのだが、結局のところ記録され記憶され、残されていきながら作られる。それは基本的には共通認識的なものである。
脳科学も人間の体には脳があり、こういう仕組み、機能、意味をもつとは言われるが、当然の話、自分で確かめたことはない。自分で認識できない以上、それは 「そういうものがある」という一種の信仰による必要がある。
そのように社会的文化として体の知覚の外側に共通認識としての社会が形成される。

それは本来の五感的な知覚には認識不可能なことなのである。

また、内側にもそれは限界を持つ。
たとえば、ヴィジョンである。それは内的感覚の意識の先鋭化を体の放棄のような形で中に入っていくことで成し遂げる。
アメリカン・インディアンのヴィジョンクエストも体の中に入っていくという意識を通る。

密教的な儀式も、道教の存思という体に宿る神を捉える方法も同じように中側に働きかけ、それは五感の認識ではなく、信仰として認識していく。

それも一種の社会的な共通認識なのである。宗教体験とは得てして社会的な信仰への自分自身の強い働きかけによる。
それらも五感的な知覚には認識不可能である。それは第六感という感覚や幻視、幻覚に依拠するのであり、一種の文化なのである。

そのように内と外に限界を持つ認識の形はちょうど世界をドーナツのような形として捉える。
だから肉体の持つ知性の認識限界はドーナツ型の世界を形作るといえる。


3.肉体の持つ知性の限界

その限界より外や内にあるものをただ利用し肉体の持つ知性を論拠付けることをしても、あまり意味はない。

たとえば言語学によって、肉体の持つ知性の論拠を文化的共通認識に探したり、脳はこういう構造をしているからこういう事が可能なのだと言っても、あまり意 味はないのである。それは社会的に共通認識として必要なものとして策定されているだけなのである。

だが独我論や経験論とも違う。文化や宗教をそのようなものとして信仰的に認めるべきではある。あくまでも信仰的には存在するのである。だから、むしろそれ に人間がどう触れているかのほうがずっと意味を持つ。


4.ドーナツの中身

それではドーナツの輪の中にあるのはなにか。まず箇条書きにして行こう。

内に近いものとしては

・想起
・運動感覚

外に近いものとしては

・技術
・フィールドワーク
・現象学

と大体こう言う感じである。

まず重要な「想起」からはじめたい。


5.想起

想起というのは一見すると想像と似通っていると思う向きもある。だが実際にはかなり違う。

想起というのは思い起こすということである。思い起こすというのは「思い出す」ことでもあり、それは「体が覚えていること」と「記憶」を含み、それと同時 に知覚的な認識と一緒に機能することで、「連想」を生む。場合によっては「思い出す」と「思い出す」の組み合わせとしても想起は起こる。

それは想像とは違う。

記憶とは経験の記憶であり、「思い出す」とはそれを追体験的に想起するのである。だが前にも言ったように経験論とは違う。というのも想起は「思い出す」と 「思い出す」や、「思い出す」と「知覚」によって考え出されたアイディアであり、それに基づき「志向的」に行動をするからである。

想像は知覚的には幻想であり、それに基づき行動することは、五感を無視することにつながる。だから想像はあくまでも括弧に入れておき、実際の経験によって 入れ替えられる必要がある。だが想起による志向は人間の原動力である。そしてある程度経験と知覚によっているものなので、五感を使った知覚的で主体的な行 動を作り出すのである。

運動感覚については散々親和性関連のコラムのなかで書いた。そのようにして想起されたものを運動感覚を通して志向性とし、認識していき、経験していく。


6.外に向かう

フッサール現象学というのは大体このような空間的姿勢の認識と一致する。その意味では言語学や哲学史に拠った、ハイデガーとは違う。
現象学が方法であるというのは中に対しても外に対してもそのような知覚と想起と志向性というものに拠り、想像や共通認識そのものには拠らない。

さて、技術というのは経験的な体が覚えていることや運動感覚を用い、体の外にある空間的な知覚を通して、作業をしていくことである。
それは歩くや持つに始まり、加工やボールのリフティングのように複雑な作業に至るまでの底辺として機能するのである。

そしてそのような認識方法が一番外側に向かい、共通認識や文化との境界地点にたどり着くとそこにあるのが、コミュニケーションや知覚体験を通して世界を観 察するフィールドワークなのである。

歴史認識というのは共通認識的に作られるが、実際にはこのようなフィールドワーク的手法によることで感性的に理解できるものになる。ある種の理論的体系を どれだけ整合的に組み立てても、実際には経験的に当てはめてみないと理解できない。
それこそ想起をし、思い出すことで、「ああ、たしかに…!」と納得するのである。


7.限界の外で

そう考え、どのような歴史認識をするかというと、誰かの記憶をたどるということに一つの可能性が現れる。それをみることで限界の外に触れている時の、空間 的姿勢の維持の重要さがわかる。それは一つの軸として機能する。

誰かの記憶をたどるという歴史は、一番分かりやすく言えば、日記である。堀越孝一をコラムで取り上げた時に、誰かの目を借りてでも自分で見ると書いたが、 彼は「パリ一市民の日記」を代表とした日記的記録資料を多用し誰かの記憶をたどる。これが誰かの目を借りるということである。

もちろんその誰かの記憶違いもありうる。記憶資料というのはそういうものがつき物だ。だがそれは資料に限らず、記憶というものは頼りすぎればそうなのであ る。

だからそれを感性的に捉えることが必要である。感性的に理解できるかは、フィールドワークの肝でもある。限界の外ではそのような手触りや実感を捉える感性 が唯一の頼りなのであり、科学的証明や資料の整合性や共通認識はさほどの意味を持たない。もちろん集め見ることもあるが、それを見る時も感性が重要なので ある。
東南アジアを実際に足で歩き倒し、見て回った鶴見良行は資料も大量の文献をあさりよく読みこんだという。鶴見良行は東南アジアの国の統計資料について、国 がどうあって欲しいかという理想的数字が資料に入り込んでいるという。だからそれを踏まえて見ないといけない。それはまさにそれが理解できるか。実際に歩 き、手触りや実感が与える印象と比べて、理解できるかということなのである。

それは内側に向かうときにも同じである。信仰的な対象は、ことごとく却下され、例えば信仰者がそのような心情に至った過程を追体験し、共感を通して理解で きることはあるかもしれないが、それは空間的姿勢としては体を通しての感情移入であり、文化としての信仰の共有ではない。


8.境界としての身体

このように体はドーナツの形で知覚する。それを言い換えれば、身体というのは境目なのである。

外と内の境目であり、文化と心の境目である。僕にはそれが複雑系における「カオスの縁」のようなものだと感じられる。
秩序化したものとカオス化したものの間。今の時点では文化と心どちらが秩序でカオスかは釈然としないが。

カオス学の創成期の学者のひとりであるミッチェル・ファイゲンバウムはジェイムズ・グリックの書いた「カオス」のなかで、イギリスの画家、ターナーが水の 動きを描く時 にそのスケーリングを描いていると言っていた(スケーリングの話は要約できないのでぜひ読んでほしい)。

「僕らはもっとちがったさまざまな見方を探さなくちゃだめだ。スケーリングの構造を、つまり大きなディテールが小さなディテールにどう関わっているかを見 なくては。(後略)」
「(前略)1600年ごろのオランダのインキ画の水平線のあたりを見ると、ホンモノみたいな小さな木や牛までが書きこんである。よくよく見るとその木には 葉でおおわれた一種の境界みたいなものがあるんだ。しかしそれだけでは本物に見えはしない。その中に小枝みたいなものが、ちょいちょい突き立っている。そ こに柔らかい質感のところと、もっとはっきりした線のあるものとが互いに影響し合っているのは確かだ。そしてその組み合わせが正しい木の感じを出している んだよ。ロイスデールやターナーが、複雑な水を描き出している手法を見ると、はっきり反復的な方法を使ってあるのがわかる。あるレベルのものがあって、そ のうえにまた何かが描きこまれ、その修正がまた重なっているんだ。あの画家たちにとって乱れた流体というものは、必ずスケールの概念を含むものだったわけ だな」(ジェイムズ・グリック「カオス−新しい科学をつくる」新潮文庫320p〜321p)


スケーリングは人間の観察力で十分に認識できるということになる。それは確かに特筆すべき観察眼だが、先入観や想像力を捨て、自然に向き合う力を身につけ れば体を通し理解できるのではないだろうか。そして我々の身体構造自体もそのような自己組織化された自然の構成によって成り立っている。

知覚と感性の作るこのドーナツの中には十分な旨みがある。梅原猛が書いた「森の思想が人類を救う」の森の思想とは縄文的なおおらかな感性を持った人間の力 を取り戻すことであり、そのように捉えると、感性的な人間としての人間の肉体の持つ力が自然に向き合う力として機能していくということなのである。

このように肉体の持つ知性は限界を持つ。であるからそれを持つものは、それを理解する必要がある。そして、その外側のものをあくまでも信仰的に受け入れず に、自分の感性で捉え、可能ならそこへ行き、観察していくことが重要なのである。

科学や哲学、言語学、歴史、社会。こういったものは肉体の持つ知性そのものを論拠として裏付けるものではなく、むしろ逆で肉体の持つ知性をもとに、これら を見ることが大事になる。だからこそ、肉体の持つ知性とは何かを観察をしてこうだったというものを脳科学や言語学、哲学に見て客観的論拠を探す作業が空虚 になるのである。むしろそれらの学にかかわった人間たちの感性や人生にこそ、見るべきものがあるのである。

荘子が環中という言葉を残している。環中とは道枢、つまり扉のとぼそであり、輪の中にある軸のことである。周囲は無限に変化するが軸は安定している。その 軸のように変化を受け入れながら安定する。大体そのような意味で使われている。私のドーナツは軸ではなく輪のようだが、そうではなく軸の中に穴が開いてい るだけである。軸は周囲の無限の変化に対応するが、境界としての輪は内と外の両方に対し変化的に対応しながら大きさを変えながらも実質は変わらない、その うえで輪としての自分が内と外のぶつかるところとしての場として機能する。
人間という場は大体そのようなものではないだろうか。そのドーナツの中に自分という感性が宿るのである。(hayasi keiji,12/5/1)


   
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