vol.32
空間的姿勢のもたらす痛みについて 〜肉体の持つ知性・分岐2−1〜
フッサールとハイデガーの関係には少なからぬ何かがある。最近そう思う。
フッサールに関するものを読んでいくとその弟子であり20世紀最大の哲学者とも言われたハイデガーとぶつからないわけには行かなくなってくる。
とはいえまだ「存在と時間」を全部読んでいない私がえらそうにハイデガーを批判するわけにはいかない。
私が読んだハイデガーの文章といえば、存在と時間の一部分と、ブリタニカ草稿のハイデガーの書いた部分、アガンベンの「開かれ」を通してのハイデガーから
の引用く
らいだ。
だからハイデガーのイメージは竹田青嗣の「はじめての現象学」のなかでのハイデガーの項目、ブリタニカ草稿のなかでのハイデガーとフッサールの話、「存在
と時間」
の途中まで、そして「開かれ」だけだ。
中途半端だということは分かっているが、それでもここまで読んだだけでも、ハイデガーの哲学はどこかおかしい気がする。
いや、多分おかしくはないのだろう。ハイデガーの現象学が、フッサールの現象学を見た私からすると、おかしいのだ。
むしろハイデガーの現象学という名の哲学はヨーロッパの伝統から鑑みれば必要不可欠な到達地点であり、もっとも大きな根源的地点の走査として十分理解でき
る。つま
り厳密な学としての現象学というフッサールがいった意味からすれば、フッサールの標榜したものに近い気もする。
ただその学の厳密さという意味が、人間の営為として行われてきた社会の中のもろもろの学問に対して行われる厳密さという意味か、人間にとっての認識という
分析行為
としての学としての厳密さという意味かで違うと言えるだろう。
だからここで私が感じている「おかしい」というのは多分、哲学の中では一般的ではないだろう。
だが私は哲学の世界で認識できることだけで世界ができているわけではないし、ヨーロッパ哲学の伝統のみが人間の感じ、考えてきたことではないと思う。その
点では私
は現代の日本という東洋とも西洋ともいえない所に生きていることが少し良かったように思える。
それにフッサールもハイデガーもドイツ的世界が歴史の中で特異的な姿を現した時代を生きたのだ。私とはまったく見方が違うに決まっている。
だから我々はただその哲学やハイデガーのナチズムとの関連を単独で取り上げ考察するわけにはいかない。ハイデガーはナチスとの食い違いがあってフライブル
グ大学学
長を一年で辞任し後期の思想に変わっていったと言うが、だからといって「存在と時間」に意味がなくなったわけではない。先ほどもいったように、ヨーロッパ
哲学にと
っては到達地点とも言えるものだ。
実を言うとこのコラムは今年の1月くらいに、コラム「すべてをつなぐ場」のすぐ後に出そうと書いた。それを何度か手直しし、やっと上梓する決心が付いた。
ハイデガ
ーの文章をもっと読み込んでおいてから言うべきではないか?と何度か悩んだのだが、私としては今の時点での、つまりフッサール現象学を読み、そのあとにハ
イデガー
の哲学に触れてすぐの、いわば生々しい感覚のあるうちにその感じたことを述べておくのも、何かしら意味があるように思うようになった。
私はフッサールもハイデガーもその生き方とあわせて哲学を見てとりたい。しばらくかかるだろうが、この二人の生涯と哲学の絡み合う姿を見て取れば、たくさ
んの得る
ものがあることは確かだろう。
ともかく今回は痛みについて書こうと思う。
ここまで私の書いてきた肉体の持つ知性がフッサールの還元と絡み合うところがあり、私のいう空間的姿勢はその還元された「私」と近似するように感じられ
る。直感的
には同じものだと感じている。その際に現れる痛みの問題についてここに書いておく。私にとってはフッサールはとても普通であり、人間的であるのは、ここに
ある痛み
のようなものを感じ、生きていくとはどういうことかをその哲学を通して顕わにしていたからだと思うからだ。
まだこの先理解を深めるたびに考えは変わるかもしれないが、ここまで見て感じ思ったことを書いておいても良いだろう。
フッサールの言う志向性を、「還元」を通した判断停止によって限定すると、そこに残るのは人間の本質的な内在からあらわれるものになる。その還元された志
向性=生
きるということなら、フッサールの還元がその内在的な志向性をあらわにする。
私にはそれはそぎ落とされた主体性から現れる「生きる」姿勢だと思われる。
「すべてをつなぐ場」のなかで、空間的姿勢は時間と想像を解除することで、最後に生きる権利と主体性が残ることを書いた。
そこで「自分がそれをされたらどう感じるか」が想像ではなく実体験であることと、個人としてのコミュニケートが自分と相手に対し生きる権利と主体性の権利
を認め、
それに沿った自然な行為として主体性と生きる権利を脅かされないかぎり戦うことはしなくなることになると書いた。
でも我々には生きていくうえでどうしても避けられないものがある。それは「食べる」ということである。
これがどういうことにつながるかというと、「痛み」であると思う。
つまり生きるということは必然的に相手の「生きる」を奪うことになる。それではどうやって相手の生きる権利と主体性の権利を認めることができるというの
か。それは
こういうことである。
ここは一から空間的姿勢が他者の痛みの実感につながる流れを考えてみたい。
まず空間的姿勢とはどういうことかというと、それは五感を通しての知覚によって世界を捉え、認識をすべてそこからの情報にのみ置くということである。
たとえば、自分の目で自分を見るということがある。
視覚は目を通して、空間内の他者を認識すると共に、自分の体も見ることができる。同じように他の感覚器官も機能する。その情報にのみ絞る場合、他人を認識
するのと
同じ方法で自分を認識するという方法の同一性が起こる。その同一性によって自分と他者が同質化する。つまり知覚による空間的な把握を通して、自分も他人も
認識する
ということである。
それと同時に空間的姿勢は知覚からの情報に集中することで、想像が解除される。また空間内に存在しない「時間経過的に現れてくること」を意識しない。目的
もそのよ
うにして時間的なものは解除され、感覚的欲求のみが残る。
それは「生きるのに必要なもの」のみを残して他の自我的な欲求が消えていき、今、生物として自分がすることとしての「生きる」と主体的行動のみが残る。そ
れは言わ
ば生物の生得的な権利であり、すべてを剥ぎ取っても残る。
そのようにして空間的姿勢の中で、自己と他者の同質化と自己の存在理由とでも言うべき「生きる」と主体性の権利が合わさり、必然的に他者の「生きる」と主
体性の権
利が現れる。
「生きる」には「食べる」ことが必要になる。これは生きる権利に含まれる行為である。
だが「食べる」ということは、生物的な意味での生きると主体性の権利を認めてある他者からその権利を奪うことになる。
だからそこに同質化した相手の”痛み”を認識するのである。
ここで、権利を奪うことと痛みはつながるのか?という疑問があらわれる。
その可能性としては、同質化した相手は「自分がその権利を奪われる時に感じること」と同じことを感じているであろうと、認識することで、自分が奪われる時
に感じる
痛みも相手が同じように痛みという感覚で持っているというものである。これは見ようによっては感情移入ともとれる。
だがそれは実際的ではなく想像的である。想像を解除された主体にはその可能性はない。あくまでもそれは実感でなくてはならない。
その方向では、空間性を通しての同質化が自分の体にもその痛みの反応をもたらし体の触覚的な緊張やそれを通した精神的な痛みとして現れるという可能性も考
えうる。
これは自分を一度空間を通して認識することで他者化しているため、自分に対して自分でするという形で、痛みを感じるという構造が生じているのではないだろ
うか。
これはあくまでも自分が感じていることを、空間を通して他者的に捉えるという円環的な構造だともいえる。
それとは違う方向では、五感の物理的機能的な能力を通して、実際に他者が出しているものを情報として実感するというのも可能性としてはある。
つまり、同質化するときに使われる五感が相手の感性まで捉えられるのかということになる。
それは多分ある程度可能ではある。それは身振りの認識能力とおなじで、顔や声のトーン、死の臭いなどを感覚的に情報として認識するということである。
だが普通に考えて、これは植物や虫にまでその感覚が至らないことをあらわす。植物の顔や声などというのは視覚情報としてはないだろう。たとえば他の人間が
痛みを感
じているのは表情を通して比較的容易に感じられるが、植物に関してはそういう風には感じられない。
多分このような認識は、鳥類や哺乳類などのある適度の大きさの動物以上になって生きて初めて機能する。
一見表情には出ないが、魚は痛みを感じているという調査結果があるらしいので、それは痛みというのが主体自身に対する注意喚起信号である以上、痛みの実感
を身体的
に出している、あるいは同種の仲間に伝えるために分かるように表に出す可能性はある。つまりそのような表面に現れる痛みの信号を、空間的姿勢にあるものが
その知覚
能力を通して感性的に読み取っているという可能性も考えられなくはない。
このように五感を通して、相手の痛みまで同質化の中で認識するということが考えうる。だがこれらは実感なのか感情移入なのかは判断が付きづらい。あくまで
も可能性
の域を出ない。
だが相手の死に関しては確かに「分かる」ように思える。それは樹であっても、虫であってもわかる。だから食べることは何かの死と捉えるほうがいいのかもし
れない。
その死の認識によって、相手に自分と同じように生きる権利がある以上、それを奪ったことを認めなくてはならず、そのことが”自分にとって”痛みとして現れ
るのでは
ないだろうか?
そして、それでも食べることで相手の死をそのつど背負うのである。それは一時的かもしれないが、毎度感じるわけである。
それは空間的姿勢にあるものにとって避けられないことなのである。
もう一度まとめよう。
空間的姿勢を通して五感による知覚対象としての自己と他者の同質化とともに想像の放棄をすることで、そのことが自分に生きる権利と主体性の権利を獲得させ
る。それ
とともに同質である他者に生きる権利と主体性の権利が存在することを認めることに必然的にいたる。
それでも生きる権利としての食料の獲得や主体性を守るために戦うことになるときは、その際に相手の痛みを、空間を通しての同質化によって自分に対しても自
覚的に認
識する。相手の死は、それがゆえに背負うことになるのである。つまり相手の権利を奪うことを毎回感じ続けることである。
さて、ここからが肝心だ。
相手の権利を奪うことを毎回感じ続けるがゆえに、我々は生きるうえでの痛みをなるべく減らすために、無駄な殺しを減らしたり、儀式を通して痛みを中和した
りしたの
ではなかろうか。
だが、その儀式を通して、痛みは社会システムを通して社会全体で引きうけることになる。
そのように社会的になるにつれて、そして社会が大きくなるにつれて、今や自分で殺すことなく豚や牛を食べている。つまり生きるうえでの代償としての痛みを
引きうけ
なくなったのである。
そのようにして痛みを知ることなく生きることで、主体性や生きる権利に関してまでもが認識しづらくなったとも言える。
すくなくとも我々は食べることを通して他者を認識していたのではないだろうか?それは紛れもなく「存在すること」を認めないわけにはいかないはずだ。
たとえばアイヌのイオマンテのような共同体の中での儀式を通して、本来はそのようなものを感じていたのではないかと思う。
また帰ってきてくれるように精一杯のもてなしをして感謝をして送り返す。それが痛みを中和していたのであろう。
森林の中に山ほどいる生き物を捕って食べるのにわざわざ面倒な儀式をするところが世界中にあるのなら、それはそこに生かされている上での痛みがあるからだ
と思う。
世界は人間のために在り、神によって食料としての生き物を与えられていると考えたら、「捕り放題だぜ」と考えるはずである。だから同等の存在としての相手
を認める
が故の痛みの実感=アニミズム的には捕られた者の霊に恨みを抱かせないという意味も含むであろう。
かなり壮大な話だが、これらの儀式と痛みの関係はもっと考えなくてはならない。
もう一度言えば、フッサールの還元が志向性=生きるを顕わにするならば、それはそのようにして痛みを伴う生きる意志として機能するのである。
だからハイデガーとフッサールのあいだの問題が、生きる意志の存在の問題につながるのなら私はそのようなものとしての本質的な志向性は確かに存在し、それ
はフッサ
ールの言うように、構造が生み出す流れとしての志向性=生きる意志として現れるのであると思う。それは身体に備わった超越(外に出ること=外との直接連
絡)の獲得
にいたるために、還元を通して身体のもたらす内在的システムに還るということではないかと思う。
ハイデガーは存在者(現存在)がなぜ存在できるようになったのかという問題を抱えているように思われる。(ジョルジョ・アガンベン「開かれ」20章参照)
フッサールの構造としての志向性の発生は
(A→B)→
のように一つの構造に見える(思考停止を通して自我が身体に還るということであり、そこに分離はない)が、ハイデガーの「開かれ」としての存在者Aと動物
としての
身体Bの関係は、
(A)→(B→)→
として分離しているために、二つになっているように見える。
だとすれば、それがほかの動物にはなくて、人間にはあるということを言い、ハイデガーが人間存在を特別視するとすれば、どうしてわれわれは現存在を分離で
きたのか
?という問いが発生してしまう。動物は永遠に開かれえないはずなのだから。それはキリスト教の説明するように人間は他の動物とは別に作られたとでも言うの
だろうか
?
ハイデガーにはどこか他者を無視したようなところがあると「ブリタニカ草稿」の解説で谷徹が書いていた。私にもそれがハイデガーが超越論的還元を認めな
かったとい
うことと大きく関係すると思われる。そもそも上のようなハイデガーのAとBの関係では還元は不可能に思える。でももしハイデガーが還元すら認めなかった
ら、ハイデ
ガーの現象学はフッサールの言った厳密な学としての哲学ではなくただの哲学=独我論ではないか?
なぜならフッサールにとっては還元がすべての始まりなのだから。ならばそもそもフッサールとハイデガーの現象学はまったく別物である。それが最初に述べた
違いであ
る。だからハイデガーの思想はヨーロッパ哲学の伝統の上での到達点としてのものであると思う。
ハイデガーは20世紀最大の哲学者であったかもしれないが、フッサールは時代を超越している哲学者であるように見える。フッサールはヨーロッパの伝統の最
終地点で
それを超えてしまったのだと私は思う。
いいすぎだろうか?これでは私のフッサール信仰のようにみえるかもしれないが、共感はしているが信仰はしていない。もちろんフッサールだけでなく誰も信仰
していな
い。
またハイデガー嫌っているわけではない。ハイデガーだって当然痛みを感じていたのだ。だからシュピーゲル対談を死ぬまで公開しないで欲しいといったのでは
ないだろ
うか?
先ほども言ったように誰かを知るには、書いたものだけではなく人生も知らねばならないのだと思う。
すくなくとも現象学はふたたびフッサールの地点まで戻るべきではないかと思う。
思うのだが、フッサールは第二次大戦を見ることなくこの世を去った。ハイデガーはフライブルグ大学総長としてナチスとの関係まで話が出てしまう。
時代はちょうどハイデガーと同調していたのだ。その意味においてハイデガーは20世紀的であったのではないか?
フッサールは第二次大戦前にあの学にたどり着いた。でもそれは早すぎたのだろうか?そんなことはないはずだ。
あの戦争の前に人類がたどり着きつつあったものがあるのならばそのことについて、もう一度考えなくてはならない。
同時代にフッサールと共鳴するものがほかにもあるように思える。あの時代の人類は驚くべき多様性を見せていて、そして今は世界中どこでも均質化していこう
としてい
る(アルベール・カーンの集めた写真に写る人々の多様性を思い起こす)。われわれは手を伸ばしもう少しでつかめたはずのものをあの大戦で失ったのではない
かといった
ら、格好つけているようにしか聞こえないだろう。
だが還元という方法によって超越することの構造をもう一度良く見ておくべきだと私は思う。私にはそこに再び世界がすべての人々にとっての共通のものとして
取り戻さ
れる可能性があるように思える。
それは文化が形骸化する前の、痛みを感じ日々の営みを大事にすることでお互いの文化が尊重されあう創造的な世界ではないだろうか?
(hayasi
keiji,12/5/11)
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