vol.33
社会を作り続けることについて 〜バレーボールにみる社会の作り方〜
今年2012年は4年に一度のオリンピックがロンドンで開催される。
代表候補が次々と決まっていく中、まだバレーボール女子は決まっていない。
アジア最終予選が五月の半ばにあり、そこで決まる。
バレーボールにはなんともいえない魅力がある。
ワールドカップもやっていると何となくついつい見てしまう。
今年は本腰を入れて、Vリーグも見たが、女子バレーボールの選手は美人が多い。当然それにつられて見たわけだが、もちろんそれだけじゃない。実際に見始め
ると面白くて、なかなかはまる。
今までもいろいろなスポーツの中に、肉体の持つ知性を見てきたが、バレーボールというのはちょっと特殊だ。
僕はバレーというのは小さな小さな社会の縮図、6人の社会のように思える。
時間性の問題は肉体の持つ知性においては解除しなくてはならない大きな問題だったが、バレーというのはそれが非常に強い。次々と点が入り、落ち着く暇はな
い。8点目と16点目にどちらかのチームが先行した時の60秒のテクニカルタイムアウトと、監督に与えられた二回の任意のタイムアウトだけが流れを止め
る。そのタイムアウトは30秒であり、音楽によってあおられる感じがある。
応援の仕方も他のスポーツと比べてもかなり体育会系のにおいが強く、僕はあまり好かない。全体的に強制力が強いように感じられる。
だがバレーをやっている選手、バレーという競技があのようなある種の協調性を「場」として作る。すくなくともその中にはそうせざる終えないものがある(何
も客までそうなる必要はないと思うが)。圧倒的な信頼を共有することで、心と行動の自由度を保っているとでも言えばよいだろうか?
ここのところ注目している、「出来事」という言葉はそもそもサッカーに見た「最後の空間」を突き詰めたものとして現れた。
バレーはその点ではとても際立っていて、簡単に言えば常に「最後の空間」がお互いに続く競技である。つまり三回で相手のコートに返すというルールがつねに
終焉としての可能性を孕み、皆がそこに引きずり込まれる。「最後の空間」とはそのような強制力のある共有された空間のことであった。それは引きずり込まれ
ることで必然的に時間性を要求される。そのようにして空間と時間がたち現れ、出来事が起こる。
バレーは簡単に言うと、サッカーで言うところのPKエリアを向かい合わせに2つ並べたようなものだ。サッカーでそんなことしたらとんでもなく忙しくなる。
このようにバレーというのは非常に簡単に作られた出来事を起こす装置であり、そこにいるものは「常に」出来事に対処しなくてはならない。
バレーの時間性の強さは選手に対し肉体の持つ知性を発揮させづらいように思えるが、実際にはそうでもない。
見ていると分かるが、彼女たちは肉体的にも精神的にも非常に柔軟な姿勢を求められ、それは一般的な社会の中ではなかなか見られないものだ。
どうもむしろこの最後の空間の応酬こそが、彼女たちに柔軟な姿勢でないと対応できない状況を作っているようなのだ。
だからコートの中の選手たちの柔軟性と、その外側から観客席までの強制力の強い空間とにはとても大きなギャップが感じられる。その点は不思議でならないの
だが、それでもプレイ中の柔軟性はその外側にあるその強固な協調性が生んでいるのだとも思える。だが選手たちの信頼感は試合や共同生活の中ではぐくまれた
ものだ。だからやはり逆で、プレイの中で徐々に作られた信頼感が外側に伝わるのだろうか?なんとなくだが、実際には応援と競技はかみ合っていないとも言え
る。つまり協調の発生の仕方の違いが質の違いをもたらす。
とすれば、多分両方なのだ。信頼と信仰の違いがここに複合的に重なり合っている姿がここに見える。
さて、厳密ではないがバレーボールの大体のルールを述べておこう。
バレーボールはそれぞれのチームのフィールドプレーヤーが6人で構成され、それは大きく前衛と後衛に分かれる。
まずサーブ権のあるチームから、サーブが打たれ、受けるチームはボールを受けたら、多くても3度のタッチで相手のコートに返さなくてはならず、後衛の選手
はアタックにおいては、自陣の中間近くにあるアタックラインを超えて撃ってはならないというルールがある。
そして一点入るごとに、入れたチームにサーブ権が移り、それが相手チームに移る時(つまりサーブ側が点を失った時)にローテーションが起こる。ローテー
ションによって6人はポジションを移っていき、6回で一周することになる。
ルールというのはゲームが成り立つようにするものである。ゲームにおいてはルールを破ること、守ることは社会性とはあまり関係はない。ルールとはむしろ破
れば反則であり、無条件の死である。つまりこの場合、ルールは環境である。
以前、コラム「すべてをつなぐ場」でルールについていくらか書いたが、その時には碁のルールの意味を(ルール)としか書けなかった。それはまだルールの意
味が読み込めていなかったからだと思うし、ルールという言葉をどのようなものに適用するかのうえで混乱が生まれているだけだった。
今考えると、ゲームのルールは「環境」であり、アウトローのルールは「個人的な拘り」である。だがそれはアウトローであり続けるためのものである。それは
自分が生きていくための「制限」としてのルールであり、生きていくために必要なものである。
そしてゲームのルールとは場としての「制限」である。
それは人の側ではなく場の側についている。だからその場で生き残るため、人は工夫する。
バレーの場合は社会性はルールという制限の中で選手が作っていく関係にある。
さて、ゲームの中に戻ろう。
ボールを三回以内で相手のコートに返さなくてはならない。基本的には三回目でアタックをする。
そしてアタックというのはそれを受けるチームにとって、一つの降りかかる「出来事」である。それには強制力がある。
選手たちは相手コートに返してからそのボールを拾われた場合、相手が組み立てる2回のタッチの間に、次のアタックに対応すべく準備をしなくてはならない。
たとえば2回目のタッチの代わりにアタックで返すいわゆる「ツーアタック」はそのような準備をされる前にあるいは予期していないタイミングで返すというこ
とに効果がある。
そしてうまく対応できて相手のアタックを拾い上げた場合、またそれを相手のコートに落とすべく、連係してプレーする。
サッカーに比べて、フィールドに対して得点になる場所は狭くはない。床一面すべてそうなのである。
つまりレシーブは1人では物理的に不可能である。身体性には個人差があり、だから一人では対応できない。お互いに補い合い、守らなくてはならない。そして
すでにその時点で攻撃のことも考慮に入れている。
例えばレシーブではつまり背が低ければ、床に近いので背の高い選手よりもレシーブへの対応能力は高い。
日本代表のリベロである佐野優子(身長159cmと小柄である)はどんなボールでも上げろと要求される。それは背の高い選手にはできない床に落ちるボール
を拾い上げる行為への専門的な要求である。逆に背の高い選手あるいはジャンプ力のある選手はブロック力がある。
そのように自分たちで個人差を補い、よりよい対応ができるようにシステムを作り、やり方を考え、それを実践していく。
だが、前もって行っている練習も現状への対応を通して発揮されるので、ただ練習通りではうまく行かない。
例えば前衛はアタックブロックをするので、背が高いほうがよい(基本バレーの選手は一般的に見れば背が高いので、あくまで比較的だが)。
だが、ローテーションすれば当然背の高い選手が後ろに移ってしまう。そのように自分たちのポジションも相手のポジションも刻一刻と変わっていく。
だから練習通りなどありえない。システムを固定化することはできないので、その都度、新たに作っていかなくてはならない。そのように事態に現場で対応する
能力が問われていく。柔軟でなくてはならない。あらゆる手段は考慮に入れられる。可能性は増やさなくてはならない。たとえば後衛によるアタック、つまり
バックアタックはそのようにして攻撃のヴァリエイションを増やす。
このようにして攻撃においても防衛においても、あらゆる可能性に対処する。それはつまり相手を見続ける、想像しないということである。
それがバレーにおける肉体の持つ知性を育むと思うのである。そして、連携や協力、協調性がそのような出来事に立ち向かうべく構築されていく。
つまりバレーのフィールドというのはそこにおいて今、社会が作られている。そして状況の変化に対応すべく、社会は作られ続けているのである。
それは実際にその場で起きていることを知覚し、対応し行動する。そのときに必要なことは、一人ではできないことに、みんなが協力していくということであ
る。それは最良の結果に向けて、お互いが主体的に動くという親和性としての関係である。誰かが強制力を持つということではなく、最良の手段に向けて、全員
が対応的で主体的にシステムを作る動きをするということである。
そのような出来事の現場にさらされている中で、冷静さを要求される。
東レの木村沙織はアタックを打つ際に飛んでから、相手のコートの状況に合わせてアタックの打ち方を変える。そのような冷静な対応力を発揮するには、常に見
続ける必要があり、その自らに要求した打ち方に体が対応できるように体の自由度も高くなくてはできない。
もちろんそれを皆ができていれば、苦労はない。それは一握りの人たち、あるいはそうであっても、そうでなくても、”うまく行ったとき”にだけ出来ることで
ある。それでも、それは日々の練習や試合から生まれている。うまく行くように。
バレーというスポーツはそのような対応力を身につけたものが生き延びる世界であり、そのためのチーム作りとして、社会がフレキシブルに、常に生成される関
係性をチームがもつことを求められるのである。
ただし、このような能力は一種の野生の力でもあると思う。だからその点では対応力は身につけるというより、呼び覚ますに近いかもしれない。
木村の試合後のインタビューを見ていると答えている時の顔は無表情だ。そして考えて答えている。それは僕には野生動物の無表情さに似たものを感じる。その
ような野生の知性を持つものは、周囲を知覚するために意識が向けられており、無表情になるのだと思う。
久光の新鍋理沙の特集番組で見た、新鍋の受け答えもどこか無表情である。やはりサバンナの草食動物が周囲の安全を確保するときの顔にどことなく似ている。
これは視野の広さが作る顔なのであろうか?
そうだとすればまさに、人間としての野生(生き延びるための能力)が社会を作り出す、その瞬間のフレッシュな「最も機能している社会」ということになるの
かもしれない。
我々の社会も人が環境の中で必要で作ったものだ。それはみんながより良く生きていくために、生き延びるために本来はある。
だからここに小さなモデルを見ることも可能だと思う。スポーツにおいては点が入るということは一つの終わりなのであって、バレーは他のスポーツよりもその
点では苛酷な環境=ルールなのである。ゲームにおいてルールは法律ではない。世界なのだ。
そこで戦い続ける人たちが見ているほうの気持ちを惹きつけるのは、なにか僕らの生活とも関係があるからだと思う。
そして、バレーが育む肉体の持つ知性とその社会性のなかに、肉体の持つ知性を持つものが生きていくうえでの社会とのかかわり方や、もっと進んで、新しい社
会のあり方を見る気がするのだ。
(hayasi
keiji,12/5/15)
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