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コラム
vol.34  豪傑たち  〜悪の知性論〜

肉体の持つ知性とはどのようなものかを見てきた中で、アウトローと聖者で述べたように、非社会的 な ものということが重要なキーワードになってくる。そのような人々が我々の歴史や物語にはわんさかいる。それは”アウトロー=豪傑”ともいえるものになって くる。そのうち数人を取り上げ、見ていこう。


1.鉄牛と武松

中国には「三国志」「史記」のような特定の時代に編纂・記録された歴史書がある。それが基になって歴史小説といえるような独特の本が生まれていく。
それは「三国志演義」や「水滸伝」のように民衆に広く愛されてきた。

その中には山ほど「豪傑」と呼ばれるものが出てくる。そのうち「水滸伝」に出てくる二人、鉄牛と武松は二人とも「トラ殺し」で有名だ。

鉄牛は社会から追われ、犯罪者になったり、居場所を失ったつわものたちがあつまり一大勢力になった梁山泊に入り、そこに自分の母を呼び寄せようと迎えに行 く。彼は気性が荒く、頭に血が上りやすく、酒が好き。思ったように行動する。でも義理堅く、子供のように無邪気。という豪傑の典型的なタイプの一人であ る。

ほぼ無理やり連れて行き、母を背負い、梁山泊に戻る途中、母が咽喉が渇いたといい、水を探しに行って戻ってきたら母がいない。あたりを探すと血痕があり、 手だか足だかが落ちていて2匹の子供の虎が食べていた。成り行きを悟り、ぶちきれた鉄牛は襲い掛かり、さらに親の虎を巣穴で待ち伏せ、合計4匹を殺してし まう。

墓を作っていると近くの人が見つけ、話を聞き、仰天する。
そのトラはその地域で何人もの人間を食い殺してきた「人食い虎」だったのだ。

お次は武松の話。
武松は清河県にいる兄を訪ねての旅の途中にあった。一休みして酒を飲んでいると、そこの主人がこの先の峠には人食い虎が出るんで行かないほうがいいと言っ た。だがそこを越さないわけには行かず、武松は話を信じずによっぱらったまま、また歩き始める。だが途中で酔いが回りふらついて歩けなくなり、昼寝をしよ うと寝転び目をつぶると、そこに人食い虎が現れる。虎に気づいた武松はしぶしぶぱっと起き上がり、虎と素手で戦い、ぼろぼろになりながらもついに倒す。

そのまま先を急ぐと猟師に会い、虎が出るはずの山からすたすたと降りてきた武松を見て驚き、虎と戦ったと言ってもにわかに信じてもらえず、皆で登って虎を 発見し、大騒ぎになる。

そして、その県で報奨金をもらい、兵隊頭になるが、いろいろあって兄を殺され、真相を知った武松は関わった兄の妻や役人たちを皆殺しにする(普段はすぐ切 れる武松がこの時ばかりは計略を駆使する)。そのようにして武松は犯罪者になり、いろいろあって(このあたりの話がかなり込み入っていて面倒である)梁山 泊に入った。

水滸伝というのはどうやらかなり自由な小説であるようで、作られるたびに話が些細なものから、大きなものまで変わっていく。これはもともと実話と空想が入 り混じってできた物語の特質とも言える。一応この引用は岩波文庫版の”百回本”の筋によっている。


さて、この二人は虎殺しで有名だが、この物語に特徴的なのは、家族思いだということと、ぶち切れるということである。

ぶちきれて犯罪を犯すのはよくある話。だが彼らがぶちきれたのは自分がされたことや目の当たりにしたことが納得のいかないことだったからである。梁山泊の 物語は主にこのような理由で犯罪者になった豪傑たちの話である。
物語であるから、実際にあったらそうすっきりした話ではいかないが、このような構図が小説として成り立つのは、腐敗した現実の社会に対し、このような義理 や家族への思いやりがそれを上回るものとして庶民をとらえ、そういうものを通して犯罪者になったものを認める心があったからである。実際我々がこれらの物 語を読んで、共感するのもそういうことによる。

だとすれば彼らは社会の側から見ると悪であるが、庶民から見ると善のように見えるということだ。
だが実際には善ではない。自分を抑えられず、好き勝手振舞うのは社会云々以前に誰にとっても迷惑な話だ。実際に鉄牛の言い出したら止まらない行動には梁山 泊の連中ですら困っている。

彼ら自身としても善悪で動いているのではない。自分の思いで動いている。兄に会いに行くのに虎がいて、「ああ邪魔だな・・・、やっちまえ」と思っただけで ある。 鉄牛も母を殺されて、「母ちゃんにこれから親孝行しようと思ったのに!」と切れて虎を殺した。実際には虎云々よりも親孝行できないことへの「個人的」な悔 しさにあるように見受けられる。なにせ母親自身は事態がよく分からないまま無理やり連れて行かれている。ほとんど巻き込まれただけなのだ。
ほめられれば、「へへっ、それほどでもないぜ」と喜び、けなされれば「もう許せねえ」となる。自分の思いを理解してもらえればそれでいいのである。かなり 迷惑な話だ。だが、彼らが虎をも上回るのはそのようなストレートなシステムの生み出す力、判断力のよどみのなさによる。

親孝行というのは確かに刷り込みと言えるかもしれない。これは中国には儒教社会の生み出した「親孝行は何よりも大事なもの」という考えがあるからである。 だが親子の愛はそのような刷り込み以前の生存上必要な感情ともいえる。このあたりはまた別のコラムでもじっくりと考えたいと思う。

どちらにしろ社会の腐敗にたいし、もともとその社会が持っていた文化背景が刷り込みにせよストレートに入ってそれのもとに感情的に生きているに過ぎない。 だからそれは一種の環境的での自然な感情といえるだろう。そのようなその社会のもともとの文化背景とは土地の環境とそこに住むものの感性が合わさってでき たものだ。鉄牛は言い換えれば純粋素朴な田舎者の象徴でもあるのではないか?

そのような環境的な感情のままに生きたものは人間という種としての”野生”といえるかもしれない。つまりたまたま環境に起因しているだけで今の社会に対し て、社会的であろうとしているわけではない。彼らがやたらと強いのは、思い通りに生きるためには強くなくてはならず、その方向でのみ能力が磨かれているか らであり、それはそのように育った人と自然の対話能力の象徴的な形での”虎殺し”ではないだろうか?彼らの肉体の持つ知性は動物的な能力としてそのように 磨かれて研ぎ澄まされているのである。


2.無言の力

マカロニ・ウェスタンのガンファイターも社会的な義賊ではなく、個人的、野生的な豪傑に属する。

高島俊男が取り上げたように、普通は社会にいられなくなったものは集団化し、”バンディッツ=盗賊”と化す。
その中には彼ら自身の欲求を満たすこととして、社会そのものを変えようとするものもいれば、自分たちが楽しく暮らせればいいというものもいる。

だが、それらは近代化の中で消滅していく。それは社会権力に立ち向かうには、逃げ込む場所がなくなったからといえる。むしろそれらの感情を吸収するのは国 家クラスになっている気もする。社会主義国家や民族主義国家という形でそれらの国に逃げ込む。

それはさておき、集団化しないということが近代に向かう中で生まれている気もする。
もともとは梁山泊にしろ、ロビンフッドたちにしろ、バンディッツたちは反社会的集団として機能している。腐敗した社会においては、非社会的人間は反社会的 勢力の中にいるほうが居心地が良かった。鉄牛も武松もさすがに一人で官軍を敵に回したら生きていけない。だがそれも近代化の中で成り立たなくなる。

今や普通の社会の中でいろいろな価値観が認められ、社会でも反社会でもない非社会としてのものは、集団にはいることなく個人として生きていくことになる。

それが現れているのがマカロニウェスタンの豪傑たちである。

再び、「続・夕陽のガンマン」から始めることにしよう。”悪漢=AGLY”として表現されるトゥーコはブロンディやエンジェルにくらべるとさほど強くはな い。そして口が回る。

そんな彼がほとんどしゃべらないシーンがある。

それは、身包みはがされて、命からがら町にたどり着き、銃砲店に入り銃を選ぶシーンである。
店主に対し、「ん」とかあごで指したりとかして、普段はおしゃべりなトゥーコが一向にしゃべらない。黙々とシリンダーを回し音を聞き、トリガリングや照準 の精度を 確かめ、良くないとそこで一言、「リボルバー!」と短い単語で意図を示し、最後にはすべて出させて、一つを選ぶ。

ブロンディの横にいる時のトゥーコは道化の様でもある。道化の物まねの力を思い起こすと、銃を選ぶシーンは「アウトローの真似をする道化」とも取れる。店 主もそう 思っているのかもしれない。

選んだ銃を持って、射撃場で試し撃ちをする。六発全てを撃ったが最後のまとはすぐに倒れない。したり顔の店主だ。
だが店主の思いと違い、命中していた的が倒れて、トゥーコは笑いながら去ってゆく。もちろん金は払っていない。むしろ賭けに勝ったかのように、有り金をま きあげて 。

この間、トゥーコは長いセンテンスを一度も発さず、しゃべるのは店主のほうである。

彼は一見泥棒や強盗をしたり言葉巧みに詐欺をしてこそこそ暮らしていて大して強くないように見えたが、実はそんなことはなかったのである。そのことを倒れ た的が証 明する。やはり一人で生きていくには強くなくてはならない。銃の状態のチェックをするシーンは彼のそのような技術を顕わにする。生き延びるための知性は半 端ではな い。


ブロンディやエンジェルは無口である。というよりもマカロニに出てくる本当に強い男はたいてい無口なのである。

「怒りのガンマン・銀山の大虐殺」という映画では、リー・ヴァン・クリーフ演じるクレイトンがその無言の力を見せ付ける。

冒頭の町でのシーンはこの映画の最大の見ものだ。そのシーンだけでも良いくらいだ。
その町には一味に追われた男が潜んでいて、それを数人の殺し屋が取り囲んでいる。町は封鎖されている。

彼はここで酒を飲みたいというだけでの理由で、街に入っていく(後々分かるが実際には酒が理由ではない)。
そのあいだぴりぴりした空気の中に入ってくる邪魔者を消そうと殺し屋たちは彼を狙うが、それにことごとく気づいている彼は一言も発さずに、手や身振りだけ で相手より強いことを悟らせ、撃たれること無く、すたすたと酒場まで入っていく。

このシーンは口で説明するのは難しい。何せ一言も発さないのだ。見ていただくしかない。

ここで「ものを言う」のは一発も撃っていないのだから彼の射撃の腕ではない。身振りの力である。

物腰や身振りは言葉よりもずっと鬼気迫り、相手にどちらが強いかを分からせてしまう。身振りにはこのような言葉では伝えられないものを瞬時に伝達する力が ある。これは相手の感じ取る力に直接訴える方法なのであり、相手にも感受性が必要である。それが分からないやつは撃ってくる。そして殺られる。


3.酒と楽しみ

このシーンでの理由だった「酒を飲みに行く」は実は大きなファクターである。鉄牛も武松も大酒のみである。酒を飲んで気持ちよくなり、楽しい気持ちにな る。


彼らは楽しいのが好きである。迷惑をかけるつもりはなく、基本的には好き勝手やって、楽しく暮らしたいだけである。

時間性の解除された人間たちは、今を死ぬまで生き続けるという目的のない人生を歩む。目的というのは時間的に先にあるものとしての目標であり、今をここに はない「実現されるべきそこ」までつなぐことで、時間性が生まれる。

今を生きるものは目の前にあるものを、今感じているとおりにして、すごす。あるのはただ欲求のみだ。簡単には”大いなる暇つぶし”なのである。

「続・夕陽のガンマン」の20万ドルはそれを考えるとかなり珍しい目標である。あれはアメリカを縦断させるというセルジオ・レオーネの目標を達成するため に彼らを動かす材料だったのであろう。それは彼らの暇つぶしにはちょうど良かったのかもしれない。

彼らは自分で楽しみを探して生きる。だから彼らは”楽しい思いつき”を邪魔されることに切れるのである。今ここにある欲求には忠実である。だがさすがに殺 されては元も子もない。簡単に勝てなければ頭を使う。そうやって彼らは力と知恵を磨く。知恵の目的が”限りなく浅はか”であり、それがゆえにとても自由な のである。楽しめなくては意味がない。どうやったらうまく行くかも楽しんで行動する。彼らはめんどくさがりであり、いかに楽に、いかに楽しく、あくせく働 くことなく、自分を捻じ曲げることなく生きるかのために頭を使う。

それがゆえに、クレイトンが「酒を飲むため」に取り囲まれた街に入っていく時に、「えっ!それだけのために?」というほど浅はかであり、またかっこよくも 思うのである。


4.悪の知性

悪の知性というのは簡単に言うと自分のための知性といえる。つまり自分が自分の欲を叶えるために使う知恵である。
だがそれはそれ自体では悪いはずもない。問題はその欲望が社会的に認められないからなのである。

”私腹を肥やす”というのがそれである。だがそういう場合には社会的権力を使って私腹を肥やすことになるのである。それは逆に言えば社会的権力を用いずに それを成し遂げた場合には、”反社会的=法を破る”といわれないかぎり社会の中でも可能になる。悪知恵というのは法を破らないかぎりすばらしい知恵にすぎ ない。それを認めないのは社会性に縛られた人間であるからである。ではその社会的権力が腐っていた場合はどうなのだろうか?

社会的権力を利用し、隠れて私腹を肥やすのは社会的にも犯罪なのである。それ以外に民主主義社会では難しいが、社会的権力を用いて、相手を力で押さえつけ て私腹を肥やす。これはもはや民主主義に反するため、反社会になった庶民や国民を生み出しそれが多数になり打倒される。あるいはその権力自体は周りの国々 というもっと大きなもの(現代的に言えば国際社会)に認められることで成り立っており、それが認められなければ外から崩されることもある。このように社会 性の恩恵を預かれば、どこまでも社会性に縛られるのである。

アウトローは文字通りでは”法の外”である。反社会は法を守らないことであり、法の外というのは反社会ではなく非社会である。だからアウトロー同士の戦い の場合には法や社会性はもはや関係がない。ただの力比べや知恵比べなのである。それは悪知恵が働いたやつ、あるいは野生の力の強いやつが勝つ。という非常 にシビアな世界なのである。

そしてその力は社会的権力が腐っている場合には、たまたま社会にも通用し、反社会性となって動くのである。

反社会勢力というのは”大義名分”がある。だから本来は非社会性の”浅はかさ”とはまるで違う。そこを忘れてはいけない。実際には今思いついた”楽しい思 いつき”のために行動していたのである。それがいつのまにやら反社会になって政治的な流れに巻き込まれる。マカロニウェスタンの定番のテーマの一つであ る”メキシコ革命もの”はまさにそのことを扱っており、ここでは深く触れられないが、傑作である「豹・ジャガー」「夕陽のギャングたち」はぜひ見ていただ きたい。


社会性と反社会性というのは交換可能である。イデオロギーが体制派か反体制派かである場合は、反体制派が権力を支配したら体制派になるだけである。
それはどちらも少数派の意見を反映しないという可能性を常に秘める。新興宗教的、あるいはマルクス主義的な反社会的勢力もその意味では一つの社会であり、 社会と同じく「信仰」という基盤によって支えられている、組織なのである。その点では体制側となんら変わりはない。

基本的には豪傑やアウトローの知性はそれらと関係がない。彼らは少数派どころか個人だ。

彼らは自分の欲のために自分で決めて行動する。ただそれだけである。だから責任も命がけで自分ひとりで負うことになる。


5.民話・童話の世界

民話や童話というのは実は結構シビアな話が多い。
人と動物、あるいは動物同士の知恵比べや、力比べ。悪いやつと良いやつでも知恵比べ、力比べをする。
そして負けたほうはたいてい死ぬ。

グリム童話の白水社から出た初稿版はそのようなオブラートに包まれていないアウトロー同士の戦いが垣間見られる。またドイツのラインケ狐、日本の猿蟹合戦 や、宮沢賢治の童話、アイヌの神話(ユーカラ)にもそれらは現れている。

だが、そもそも物語りに現実の問題を読み取ろうとするのがどのくらい妥当なのかという問題はある。

どのような考察も、「結論ありき」になってはならない。どれだけ魅力的な考えも、「そうである」ように周りをつじつまを合わせ、その答えにふさわしいもの だけを集めて、都合の悪いものを無視してはならない。あくまでも検証が必要である。より良く生きる方法を探るのにごまかしは効かない。意味がない。

ある一つの民話にこうあるから、こうだというのは難しい。それとは反対の展開をする民話も往々にしてある。
人は”二度あることは三度ある”といえば”三度目の正直”といってみたりするし、”君子危うきに近寄らず”といえば、”虎穴にいらずんば虎児を得ず”とも 言う。


だから大事なことはそれをさらに掘り下げることである。
鉄牛も武松もクレイトンも物語であるし、それらがそうなのだから実際にそうだということにはならない。

だが、それらの物語の表面ではなく、内側にある無意識に語られている部分には何か確かなものがあるのではないだろうか?
「かちかち山」や中国の青い鳥や世界中の神話にその社会や人々の根源をとらえる作業はそのように行われれば、得るものがあると思う。
鉄牛や武松もその人物的な背景をもっと見なくてはならないとは言えるだろう。それが読むほうにとってどういう存在だったかが大事になるのだ。


そのような視点で見た時に、人と動物の知恵比べはどちらが勝つ結末であろうと、「それが可能であった」というところがポイントである。
まだ人と他の動物は対話可能であったということがそこに示されている。

社会がただの人間の集まりだったころにはこのような考えが割りと常識であり、法の外に属していた世界は割と広い。木村尚三郎の言うように我々は森という海 の中の孤島としての集落に住んでいた。
我々が結局のところどこまでも相手にしなくてはならない自然は、そのような対話法や能力しか通用しない。

そのような自然に通用する力とは非言語的な力になると思う。
言語は共通了解として機能する抽象的な媒体である(響きのもたらすイメージの共通性はあるかもしれないが)。
文字の場合は若干違い、象形文字のように知覚されたものの単純化によって作られる場合が多い。文字は最初はそのような見た目で分かる共通性、つまりその文 字を知らなくても、形を見て意味が分かる状態から始まり(木・馬・火)、徐々に抽象化されていった。つまり見た目では意味が分からない共通了解的なものに なっていった。
形や動きを認識する能力とは共通認識に頼らない、それらの非言語的なメッセージとしての自然を認識する能力である。


6.身振りの力

マカロニ・ウェスタンのヒーローたちの力とはそのような、形や動きを認識する能力を先鋭化させ武器にしたものである。
だから一言も発さずに相手を圧倒できるのである。

身振りというのは私に対して相手の及ぼす力、私の知覚的な総合認識に対して相手の及ぼす影響である。「身の安全」のためのテリトリーや声の届かない距離で の情報認識、あるいは「言葉の通じない相手の及ぼす危険」にたいする警戒能力でもある。

そのような警戒能力としての力であるとともに、それは共通認識的な力を非言語的な共通行動において共有するものとして機能させる。つまりそれが親和性であ る。何も言わないでも伝わり、あるいは気づいているということを共有し、同時に動き出すということ。

たとえば音楽の身振りは、その「言わんとすること」が言葉でなく身振りとして体から現れる。それは音の持つ表現の補填ではなくて、無声映画の活弁士の説明 的表現と音楽の関係に近い。とはいえその説明は具体的ではない。直接相手の内側、つまり文化的なレベルを超えたさらに中の肉体的な部分に直接アプローチす るものである。表現側も意識的、意図的にそのような表現をしているというより内から自然と出る形で行う。その意味では感情的なものに近いのである。
また、モダンダンスの前衛的身体表現も同じような力を使い観客と場を共有する。つまり普通の演技ではない、より抽象化された普遍性のある動きにすること で、観衆を選ばない表現を目指す。

とはいえ本来は身振りやしぐさというのは、文化的なものでもある。ゼスチュアというのはある国では友好的な意味でも、ある国では敵対的な意味を持つことが あるかもしれない。だからそのようなものも共通認識として文化の一部をなすと考えられる。多分それはゼスチュア自体の成り立ちにも拠るだろう(何かの形態 を表現しているのか、それともそれが「これこれの意味を持つ」という、より言語的なものなのか、それとも自然なそれを見たものにあたえる感情によって成り 立ったものか)。

つまり自然と体から出ているようなつもりでいる身振りも、しぐさもその意味では歴史的な積み重ねによって出来上がっており、一度解除される必要があるかも しれない。

さきほどの音楽の際に自然と沸き起こる身振りとはそのような文化的なレベルを超える肉体的表現である。だがそれが訓練されたものつまり演技されたものとそ うでないものの違いは、その動きの見た目が同じなら「受ける側にとって」特にあるわけではない。

ただ演技されたものというのは意図に沿って行われているということであり、先にその表現に対する共通了解が確認できている、つまり文化的なものということ である。だがその表現が文化的であるならば、与えるほうにとって、(その文化を理解できる相手のみに)受ける側を選別することになる。

つまり伝えるほうにとっては本当に伝えたいことをきっちり伝えられないことは本来表現が求める、伝達性を損なうのである。だから演技ではない内から出る身 振りのほうが影響力は大きい。

ましてや、ガンマンの身振りとは「生き残るために」という、文化を超えた牽制であり、絶対に伝わらなくてはならないのである。


7.陰謀と愛

このように身振りやしぐさは無言の伝達力がある。だからこそ他の人にわからないように何かを伝える力も持つ。

これは豪傑とはあまり関係しないかもしれない。というのも豪傑はあまり社会に対して必要性を感じていないというか、社会的な地位のようなものによって自分 の行動を成り立たせていないので、媚を売ったりすることもないし、隠れて何かをすることもない。大抵はゆったりと時間性を持たずに堂々と行う。

だからこれはあくまでも社会の中での人々の行動においてだが、社会的関係の中で表ざたにならないように、非社会的あるいは反社会的な行動を取るときや、そ のような行動を共にする人の関係性の確認の中でこのような身振りやしぐさが使われる。

つまりそれは秘密裏に何かをすることに使われる。とはいえ先ほども書いたように、身振りもしぐさもゼスチュアのようにアイコンとして文化の中で共通認識さ れてもいる。

だからもっと微妙な目や手のちょっとした動きで何かを指し示すようなやり方で人と情報を伝え合うことになる。

そのような能力は恋愛における男女の微妙なやり取りにも現れる(たとえば映画「マッドマックス」のなかで主人公と妻が合図しあう”Crazy・ about・you”のしぐさのように)。

隠れて何かをするということは、他の人にわからないように動くということ、文化の裏で人と人が直接気持ちのやり取りをすることなのである。

悪の力、悪の知性、悪知恵は言い換えれば文化の裏で働き、人間を直接つなげる力であるとともに、文化コードの向こうにある”種としての人間の力”とも言え るのである。一人の人間が社会にとらわれずに、社会に対してうまく生きる。その力が時として野生的な動物的能力となり、非社会的な悪知恵となる。あくまで も組織ではなく一人で切り抜け生き延びる力、それが悪の知性の本質なのではないだろうか?

いままでの肉体の持つ知性論で見てきたように、それは親和性という形での共同、協調の状態を作る力の源でもある。
社会性というのは最初からあるものではなく、必要によって作られたものであり、社会的な自己もそのようにして社会性の元で作られてきたものだ。

だがそれは形骸化して、文化となってしまえば本当の意味で現実感のある関係とはいえないものとなってしまう。

つまりこの力とは、それ以前の動物的な知覚的、肉体的な機能の現れであり、社会性であれ非社会性であれ、どちらの源でもあるのではないだろうか?
この力によって「たった今作られている社会性」は親和性を持ったリアルな社会性であり、二人で生き延びる、あるいは、みんなで生き延びる力として機能して くるのだと思うのである。


今回は物語の人物だけだが、歴史の人物(ロビン・フッド、関羽、ジェシー・ジェームズなど)もあらゆる脚色の上に残されている。だがやはり違いがあるだろ う。何せ我々は現実に生きている(だからこそメッシが参考になるのだが)。次の”悪の知性論”の時は歴史上の人物も取り上げたいと思っている。 (hayasi keiji,12/6/26)


   
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