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コラム
vol.35  和歌からメールへ

このところ和歌に関する本を読んでいる。

NHKの大河ドラマ「平清盛」の音楽で吉松隆が梁塵秘抄の「遊びを せんとや」にメロディをつけた。それは当時の流行歌である”今様”ではあるが、やはり 日本語は あのような複雑な音節を本来は持っていて、その響きこそ日本の歌にはふさわしく思えた。

もともとブラジルポルトガル語とボサノヴァの響きの関係に惹かれていたのもあり、日本語でもそのようなイントネーションを持った歌を作りたく、その点では 古語とブ ラジルポルトガル語は近いように思う。そう感じ、少し古語を扱えるようにしたいと思った。

そこでどうせなら和歌をと思い、「古今和歌集」を読み始めたのだが、確かに美しいが、いくつか腑に落ちないものもあり、渡辺泰明の「和歌とは何か」(岩波 新書)も 併読し始めた。 その本に和歌と演技が非常に密接に関係があるという興味深い説が述べられており、それはかなり確かなように思えた。 それは、和歌と言うのはやはりあの31字という形式の短さとその言葉の中で言葉以上のものを伝えるという際に、それは演技になったということである。つま り現実的 な何かを別の何かに託して「詠もう」とし、それを「読むほう」も知っていると言うことである。

少なくとも知っていないと、何でこんな詰まらんことを言うのだろうと幻滅したり、なんて飛躍したことを言うのかと驚いたりする。僕もそのような疑問があり 解説の必 要を感じた。

その意味では「お題」や本歌取りでは元の歌が、贈答歌ではお互いの歌が大事になる。 31字の中にはその外にある何かからのアプローチや場の空気のようなものに対応するように使われている言葉が含まれている。

こう読んでいくとなんだかメールを思い出した。

それは短い言葉で何かを伝え合うというだけでなく、それが「演技である」と言う点も含まれている。

僕自身はメールを打つのは苦手である。連絡手段としてならともかく、会話をし始めると、それはいつも誤解を生む。うまく伝えられない、伝えきれないと感じ られる。 それがゆえに相手の文面に対しても深読みしてしまうこともあるし、その結果見当違いの返事にいたることもある。それは”字間”を読もうとするからだろう。

だったらメールなど打たなければいいと言う人もいるだろうけれど、少なくとも僕は積極的にではないが使っている。連絡手段と言う実務的な面が大抵だが、そ こには「 何かうまい表現ができるのではないか」というものも感じる。

メールというのは短い文面に自分の今の気分や、相手に対しての距離感、本当の気持ちをほのめかすといった難しいことを裏側に孕んだ形で、伝えられる。その ために短 い文章のなかに効果的に言葉を選び出そうとする。

絵文字はもともとそのようなものを文だけで表現しきれない人にとって助け舟のようなものであり、まさしく字間に使われる。これだけ使われる訳も分かる。
また文が短い分だけ、接続詞の影響も大きいし、とはいえ長文になった時にはそのことを軽く詫びたりする。それもやはり短文で表現すべきという感覚がどこか にあるか らだろう。

和歌の演技について知った時にそれらが腑に落ちた。メールにおいてもそのようにして何かを孕んで表現された場合はとても本当の気持ちをそのまま表現してい るとは言 えず、むしろ「そうですね」と言わずに「そーですね」と言うだけで変わる何かを選んでいく=演技すると言える気がするのだ。演技と言うのはこういう人付き 合いの場 合、悪いイメージがあるだろうけれど、そうではない。

それは演技したほうが、本当に感じていることや伝えたい感じを伝えられると考えるからなのであり、(もちろん仕事で女性に成りすましてメールを送っている と言った 場合は当てはまらないが)自分のとりたい距離感を相手との間に作ることができるというだけで悪意はない。

もちろん基本的には和歌とは違い現実的に伝えたいことを伝え、連絡を取っているだけではある。
だがやはり短い文章であれば工夫し、それがうまく伝わらないこともある。
その時大事なのは「演技である」ということをお互いに知っている必要があるということである。そして和歌を見ても分かるように、それは高度な技術を要する ことなの だ。

贈答歌は相手の使った言葉を引用し自分の文章を組み立てる。あるいはそのままそれがあることが前提である文章を作る。それは行為的にもまさしくメールに他 ならない 。

うまく伝えるための演技であると分かっていて読めば、深読みはしなくなり、むしろ楽しむようになる気がする。児戯のようなもの、戯れのようなもの、と言う ことなの だろう。そのような柔らかなものとしてメールは扱ったほうが良い。

だからこれも「遊びを せんとや」ということなのだ。

でも、そのような演技がうまく出来ない不器用なメールにもその不器用さゆえに十分に何か伝わるものがあるとも思え、なんともおかしい。 ままならないもの だ。
(hayasi keiji,12/7/20)


   
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