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コラム
vol.37 「最後の空 間」と「出来事」の違い〜肉体の持つ知性・分岐1−4〜


今回のコラムも厄介な言葉をいくらか使わなくてはならなくなった。いずれ難しい言葉なしに説明できるように組み替えていくつもりなので、今回も多少困難で も興味を持った人に読んでもらいたい。


以前、コラム「同期より一段進んだ状態としての親和性」においてバルセロナのサッカーの検証として、「最後の空間」の問題を考察した。その時に書いたもの をまずは引用する。


「・・・だからバルセロナの選手は信頼関係において各自が空間的姿勢をとり、『そこにそのものがある状態』つまり、『ボールを持っている選手に対して、見 えるように確実なパスの通る位置(ある速度で蹴ったボールが敵の妨害を受けないで渡る)に動き、示す』そのことによって確実なパス交換の可能な場を作るの である。
もちろん常にできているとは言わない。時間的なものが大きく流れるサッカーという競技で空間的姿勢に常にいるのは難しい。実際に流れに左右されるシーンは 何度も目にしているが、その大きな力は逃れがたい。『常にいる』というのは無理かもしれない。だから選手たちにはスイッチの切り替えのようなものがあるの だと思う。見ているとスピードアップやテンポの変化などある種のスイッチが入る瞬間が見受けられる。
そのスイッチが入るというのが一番起こるのがゴール前でのシュートチャンスの時である。そこにおいて『勇敢さ』という問題が表れる」

「以前は最後に勇敢さを出すということは最後には時間的姿勢に戻らざるを得ないかもしれないと思っていたが、実際には最後まで空間的姿勢でいることが勇敢 さを生み、すべてを受け入れる=その場でできる最上のことをすることにつながる。『その場』とは『最後の空間』と言えるかもしれない。
『最後の空間』というのはある種の時間的変遷における最後の場という意味である。言い換えれば『一連の空間の最終地点』である。空間の中に一つの流れがあ りその最終到達地点という感じであろうか。」


このように「最後の空間」という考えは現れ、そのあとそれを、共有された空間と時間という「出来事」として検証をしていった(その点はそちらのコラムを読 んでいただきたい)。大体の点においてはこの考察は問題はないと思われるが、いくつか見方が変わってきたものもある。


まず、スイッチの切り替えは空間的姿勢を維持するのが難しいために起こるというより、パスのつなぎで得点するのが難しいために起こる。スイッチは空間的姿 勢の問題ではなく、主体的に「出来事」を発生させる姿勢に入るスイッチのように見受けられる。

それに対し、普段のバルセロナのパスサッカーはそのような「出来事」を起こさないように、空間的姿勢を通して常に連携的な親和性を保とうとしている。

バルセロナのサッカーが究極的にうまく行っているときは、ついに最後まで「最後の空間」を発生させていない。
パスのつなぎがそのまま最後のゴールマウスへのパスという形でゴールになる。これはあくまでも基本であって(グアルディオラのときのキーパーから始まり、 シュートにいたるまでの執拗なまでのパスのつなぎを思い起こすとかなり本気で徹底的にやってはいたが)、もちろんそうでない方法も視野に入れて行動しては いる。

そのそうでないタイプの得点シーンでは「最後の空間」が発生している。
そういう場合はやはり勇敢さが求められるような、シーンが現れる。つまり、時間の終焉がたち現れ、そこにおいて各々ができることを求められ、それに主体的 に勇敢に立ち向かう。という時間的な世界でのありかたが求められる。

つまり普段のバルセロナのおいては選手同士が主体的であることが常につながっていく。つまり確実で成功率の高いパスによってボールを足元に持ち続けるとい うこ とを通して。だが、ゴール前に放り込み、そこにバルセロナの選手も対戦相手の選手も走りよる場合、どうしてもそこに時間的な世界が発生する。

例えばサイドにドリブルをして上がった選手が中にボールを放り込む場合は結局のところ流れはあるがセットプレーと似たような状態になり、ゴール前にいる選 手にとっては優位さにおいて大きな違いがなくなる。このようなシーンではその放り込まれたボールに対して主体的に関わるチャンスは中にいる敵味方すべての 選手に 与えられる。


だが、例えばボールを持っていた選手が、味方にパスを出し、ゴール前に向かい、その選手からまたパスをもらい、そのボールに合わせてシュートを打つという 形ならば、それは主体性の連続をもち、「最後の空間」は確かに立ち現れるが、その「最後の空間」はその選手が主体的に作った空間であり、他の選手がそれに 巻き込まれる形で発生している。
であるから圧倒的にその主体的に作った選手にとって有利なのである。このような場合が「スイッチが入る」ということである。そこではゴールを狙うという明 確なスイッチが押されている。また、ボールを持っていない選手がスイッチを入れるシーンも見受けられるが、この場合も持っている選手との間に共有された空 間が発生しており、その点で気づいていない選手に対して優位になっている。後から気づいたものはその空間に巻き込まれていく。



以前に検証した時の、「最後の空間」と「出来事」はある程度一様にあつかわれていたが、実際には「最後の空間」のような時間の終焉は「出来事」の場合はな いこともある。いや、ないわけではない。空間と時間の強さに差がないため明確に現れないだけである。出来事というのは空間と時間が共有されて発生するとい うことなのであり、むしろ重要なのは「共有」という部分である。

「最後の空間」においてそのたち現れる時間の終焉はある意味では「死」のような強烈さがあり、死ぬ前にどう行動するかというような勇敢さが求められてい る。ゴールを狙うために主体的に「最後の空間」を発生させたものにとってもその終わりまでに結果を出さなくてはならない。それに対し「出来事」はもっと互 いの関わりの関係性によって動いていくようなところがあり、時間の終焉というよりもお互いの関係性が解けることで時間と空間がばらばらにほどけるというこ とである。

それは結局のところ、出来事自体がどう存在するかという問題によってかわってくる。

つまり最後の空間というのは「ボール」を中心に動いているのであり、出来事においても、例えば「戦争」や「刑事事件」のような何か具体的な事態があり、事 件の発生から解決までの流れの中に関係者が関わるということでは起こりうる。解決するのは関係者の行動によってでもあるし、逃亡中の犯人が捕まる、あるい は自殺する、射殺されるなどという要素もある。

つまり日常的な「出来事」はささいなことであればお互いの用事−例えばレジカウンターの係員と客のようにお互いの必要な関係−のもとに発生し行為の終了と ともに解消される。

ボールや犯人のようにころころとある意味では主体的に転がっていくものはない。もし客にそう感じられているとしたら、それは係員の主体的な行動によって主 導権をもっていかれているからであり、出来事のもつ時間的な部分が主体性を失うことで際立って現れるだけである。

さらに言えば、その際にその客がぼーっとしたり、何かほかの事に意識が行けばその出来事の持つ空間性すら一時的に消え、そのことによってその出来事の発生 に関わる他者は置き去りにされる。「お客様どういたしましたか?」などと尋ねられることによって、引き戻され、再び空間の共有が取り戻されることが求めら れることになる。

つまり関わったものにとって、時間性は主導権の問題であり、主体的に関わることである程度の主導性もっていることは大事になるが、その共有は何か一つのも のを争うような場面ではないので、そこにおいてはむしろ共同作業として、あいてが同じ空間の中にいることが求められるのである。
つまり主体性がお互いにあってもそれがぶつかり合うわけではなく、共同作業を首尾よく完遂させる方向に向かう(ただしレジカウンターではなく、相手が八百 屋ならそこには「高く売りたい」と「安く買いたい」という対立的な関係が発生し、主導権を相手に与えないようにする行動も必要になっていく)。だから相手 がぼーっとしていて同じ空間の中にいないことはもはや前提条件としての出来事の発生そのものが解消されてしまう。その点において、出来事というのは本質的 には空間的なものなのである。

冒頭でも述べたように、一つのボールを争う場合にはむしろ相手とのあいだに「出来事」を発生させないほうがいい。
つまり相手との間に空間的な関係そのものを発生させないほうがより良いのであり、もし「最後の空間」のように発生したとしても、そこにおいて時間的に優位 に立つことが求められる。そして味方との空間性は常に維持されていて、対戦相手との間にはなるべく空間性は持たないようにするということになる。

だが、極端な言い方をすればそのような姿勢は自分たちの世界の外にいる相手の存在を認めないということにつながるようにも思える。だがそうではない。空間 的姿勢にあってはむしろその物理的な周囲がすべてであり、例えば対戦相手ならばその選手が近づいてくるのをしっかりと認識しているからこそ、その空間の発 生をすぐさま解消しようとするのである。自分の足元からボールが消えてしまえば、相手の選手にとってその主体的にボールを奪いに行く行為がすべて消え去っ てしまう。その主導権をボールを持っていることで完全に握っている。つまり空間内の他者を認めないのではなく、意識的に「共有」を拒否している。

そもそも「共有」という観点でみていることによって、その点では「誰かが俺にパスを出してくれる」とか、ボールを放り込んで誰かに決めてもらうような期待 的で妄想的なな行為に比べても、非常に現実的で認識的な方法であり、その放棄しないで立ち向かう姿勢こそ相手の存在を認めていると言えるように思うのだ。
そしてどのようにしたら相手と共有でき、どうしたら拒否できるのかというコミュニケーション能力を磨いているというふうにもいえるように思う。結果的には それが「最後の空間」にいたる一連の出来事においても主体的に向き合う力を作っている。


バルセロナのパスサッカーは「最後の空間」の果てにある「死」の発生を抑えるという点では盛り上がりづらいとも言える。僕自身もスペインでバルサとは対極 にあるようなベティスのサッカーも大好きなのだ。
だがそれでもバルセロナのサッカーはおもしろい。それはこのサッカーの魅力がそのボールを共有する仲間とのコミュニケーションを見ることにあるからだ。つ まり、非常に人間くさいのである。
(hayasi keiji,12/11/5)


   
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