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コラム
vol.38 楽しむ 〜「こと」を保つということ〜


第一回:出現

何時からか、何処からなのか、気がついたらここにあったというようなものがある。

難しいことではないから、何もしなくてもある。だけれど、そういうものほど、つかみどころがなく、もろい。
それは何度も人生の中でやってくる瞬間であり、それは自分が人より幸せか不幸かとは関係がない。

今僕が考えている「楽しむ」ということもそういうことの一つだ。

ずっと考えているろくでもない問題、とても個人的なのに、すべてに関係すると思い込んでしまいそうで危険な、思想や哲学のような形をとってしか説明できて いない「肉体の持つ知性論」。説明しようとするから、いけないのだとは分かっている。一人で心のうちで分かっているなら、人に説明する必要などない。
だが、考えれば考えるほど分からなくなるのは、腑に落ちないからだ。これが自分自身であるからには、整理しなくてはならない。自分自身であるなら人にわか るように、伝わるように、行動に反映するように、腑に落ちるようにしなくてはならないということだ。人にとって自分が一番悩ましい存在なのだ。そしてどう やら人間は人に説明しようとする時に、いままでばらばらだったものがまとまりはじめる。なんどそうやって自分が何を思っているのか知っただろうか。

この問題を考えていて、振り返るとずいぶんたくさんのコラムを書いてきたなと思う。そして次に考えるべきは、「楽しむ」ということだと思っていた。だが振 り返ってみると今まで「楽しむ」ということについては一度も書いていない。ではいったいどこからこの考えが現れたのか?

そうやって考えると僕にとって「楽しむ」ということとはかなり長い付き合いだということに気づく。

だれだってそうだろう?と思いたいのだが、その確証はない。それが意外とこの「楽しむ」というのの難しいところだ。

以前スーパーで仕事をしていた時、トラックに大量につまれた荷物をおろしていて、直属の上司に「楽しそうだねえ」と言われて、「仕事は楽しまないと損です から」といって布団のつまった不定形の荷物にバックドロップをした。

今思うとこの時、その上司はうちの店に移動してきたばかりでやりづらそうだったのが、その後くらいからずいぶんストレートに自分のやりたいようにやり始め たように思う。逆にこのあと少しして、自分は仕事を結構楽しんでいない期間を過ごしたように思う(それが変わったのは流れに逆らわないことの効果に気づ き、「肉体の持つ知性」を考え始めたころだ)。
自分は好きなように、相手も好きなようにというのが僕にとっては大事だが、きっとその上司にとってもそうだったはずだ。もしかしたらこれが「楽しむ」とい うことを考え始めた発端かもしれない。でももっと前からそれはあった。


「楽しむ」というのは、僕にとっては大事なことだ。
子供のころから、ふとした時に感じるもの。自分が楽しんでいることに気づくこと。あるいは、何か広い空間にいることに、何かの可能性に気づいた時。足かせ が外れるような感じ。だが何も変わっていないのにすぐに忘れ、失う。「楽しむ」ということを思い出すことさえできれば「楽しむ」は戻ってくる。それが難し い。そこがポイントな気がする。

これからしばらく何回かにわたってこの「楽しむ」とは何かを考える。第1回では「楽しむ」ということに関して、自分の過去の記述と、引用から浮き彫りにし たい。


1.反芻

さっきも言ったように、自分の今までのコラムに直接的な「楽しむ」ということについて書いたものはない。
だけれど、それについて考え始めて読んでみると関係することはもういくつもある。つまりすぐそこまで来ていたということかと思う。多分その中で一番関係す るのは、「悪の知性論」だろう。


「彼らは楽しいのが好きである。迷惑をかけるつもりはなく、基本的には好き勝手やって、楽しく暮らしたいだけである。

時間性の解除された人間たちは、今を死ぬまで生き続けるという目的のない人生を歩む。目的というのは時間的に先にあるものとしての目標であり、今をここに はない『実現されるべきそこ』までつなぐことで、時間性が生まれる。

今を生きるものは目の前にあるものを、今感じているとおりにして、すごす。あるのはただ欲求のみだ。簡単には”大いなる暇つぶし”なのである。」


だが、これは「楽しい」ということだ。「楽しい」と「楽しむ」は少し違う。「楽しい」というのは状況が自分に与え、「楽しむ」というのは自分が状況に対し て積極的に感じるものだ。

楽しむのは自分次第だ。

では上のアウトローについての記述は「楽しむこと」とまったく関係ないかというと、そうではない。彼らは一人で何もすることがないと暇でしょうがない。だ から何か楽しそうなことを探す。発見するとこう感じる。

「こいつはしばらく楽しめそうだぜ」

つまり「楽しむ」というのは自分が何かの中に見出すことだ。それは以前目的の他者化として書いたものもそうではないだろうか。


「では、目的がないと、どうやって命令を下すのかということになる。実は目的を解除するというのは目的がなくなることではない。あくまでも目的は他者化さ れて存在している。その他者性を保ち意識は知覚的空間処理ををしながら対処的に行動する。

つまり荷物と一体化しないで、他者を他者のままに保ちつつ、触れることが大事になる。手を離し、空間的姿勢を通し触覚の自己範囲認定によって自分の範囲を 知覚した上で、作業する。

考えてみると分かるが本来、荷物を運ぶという作業は、目的性は自分ではなく、荷物の側に付随している。だから荷物の目的性と一体化してしまうと機能の一部 と化した身体の動きを解除できないのである。」

「サイクル化した体を解除するというのは『自由度を上げる』ということだ。

目的が他者化されれば、目的さえなされればどんな方法でもよい。例えば荷物を押して目的地に持っていくなら、右手で押しても左手で押してもよい。手で押す 以外にも、足で蹴っても、尻で押しても、荒縄をくくりつけて歯で引いてもよいのだ(場合によっては自分でやらなくてもよい)。ルートも一つではない。
つまり目的の他者化は『方法を作る』というところまで自分を戻す。」


先ほどの不定形の荷物をバックドロップした時の僕は、「仕事はする。どうするかはこっちが決める」という感覚でいる。つまり倒す(積む、運ぶetc)とい う目的に対し「どう料理してやろうか」ということであり、「楽しむ」ということなのだと思う。


2.武宮さんの場合

今まで取り上げた人の中に、一人、具体的に「楽しむこと」について強く勧めている人がいる。それは囲碁の武宮正樹だ。
そのまま引用すればすむので長いがそうすることにする。


「『囲碁を打つのは苦しい』と感じている人がいるとしたら、それは大変な悲劇です。碁は楽しいもの。楽しんだ者が勝ち。苦しいことはプロに任せて、アマ チュアの方は存分に碁を楽しむべきです。(中略)
楽しんでいるとき、人間の心は穏やかで素直で広々としています。すると『次はこんな手を打ってみよう』とか『こんな手に挑戦してみたい』と前向きにもな り、発想が豊かにもなり、良いことがいっぱいあるわけです。ところが苦しんでいるときはどうでしょう。悶々として、苦しいということにしか目が向いていま せん。なにしろ心が閉ざされていますから『またひどい手を打ってしまった』と自虐的になり、『きっとこんな手を打ってもダメに決まっている』とか『こんな ことになってしまったら、もう良い手なんてないに違いない』とか、マイナス思考ばかりが頭の中を回ってしまいます。

碁では、誰でも失敗します。その失敗を、対局が終わった後に反省するわけですが、『楽しむ人』は、失敗も楽しむことができる。『なるほど!打っているとき はまったく気がつかなかったけれど、あの場面では、そんなよい手があったのか!』と感動し、広やかで素直な心に、新しい発見をすっかり吸収できるのです。 ところが『苦しむ人』は、反省会でまた苦しむことになります。『そんな手もわからなかったなんて、自分はなんてダメなんだろう』と、ますます自虐的になっ たり、『ああ、本当は勝っていたのか』と結果だけ気にして落ち込んだり。肝心の反省は何もできずに終わってしまいかねません。

ここで、皆さんに気がついていただきたいのは、『楽しんで』も『苦しんで』も強さは一緒、ということです。『弱い人が楽しむ』わけでもなければ、『強い人 が苦しむ』わけでもなく、楽しもうが苦しもうが、現状でのあなたの棋力は同じなわけです。つまり、苦しんだところであなたより強い人間になっているわけで はない。それなら、将来性に富んだ『楽しむ』を選んだほうがどれだけ得策でしょう。

ただ私には『楽しみましょう』と提案することはできても、『楽しめ』と強要することはできません。『楽しい』というのは、その人その人が感じるものであっ て、他人が操作できるものではないからです。
何が『楽しい』のかよくわからない、という人でも、『打っていて、どうもあまり気分がよくない』という感覚を味わったことはあるでしょう。目にははっきり 見えなくても、石の流れがスムーズでないときに、どこかでピンときているのです。

反対に『打っていて楽しい』という感覚を味わったことも、きっとあるはずです。『打っていて楽しい』ときは、自分が打ちたいように売っていることがほとん どのはず。ただ、負けてしまって、『楽しい』と感じたことをすっかり忘れてしまっただけかもしれません。
さて『楽しい』というのは、そう『感じて』いるところがポイントです。『感じながら碁を打つ』のは私の理想。私は『感じる』ということを、人間の最も魅力 的な能力だと思っています。」


このような平易な文章がいかに大事かがよく分かる。ここにある「楽しむ」についての感覚は、ほぼ自分の感覚と一致している。けれど、ここでは明確に分けら れていないが、「楽しむ」というのは「楽しい」とは違う。
打っていて「楽しかった」のに負けてしまって、「楽しい」と感じたことをすっかり忘れてしまう。それが、「楽しい」から「楽しむ」になると勝っても負けて も楽しめている。

「苦しいことはプロに任せて」とあるが本音はプロであっても「楽しんだほうがいい」はずだ。なにせ現状での棋力は同じなのだから。つまりそう思っていても 厳しい状況に置かれると「楽しめなく」なる。
では「楽しむ姿勢」はどう保てばいいのか。このことを解き明かすのにあたってもう少し遠回りをする。


3.逍遙遊

「楽しい」と「楽しむ」は主体が違う。楽しむのは自分次第。勝ってて楽しいのではなく、勝っても負けても楽しむ。
これを説明するのにちょうどいい言葉は何か、それは「遊ぶ」だ。


「遊ぶ」というのは自発的な行為だ。やってみてちっとも楽しくなければ遊びではない。楽しいからやる。つまりやっていないときは「楽しもう」としてやる。 それは「勝ち」も「負け」も含んでいて、相手とやる。「遊び」は負けたらつまらないのか?
だが「遊ぶ」ということは囲碁を含む、ゲームをすること以上にもう少し能動的な範囲を持っている。


以前とりあげた「荘子」(森三樹三郎訳・中公バックス版)の中に逍遙遊篇(しょうようゆうへん)というのがあり、森氏の説明では逍遙遊とは「あてどもなく さまよい遊ぶこと」とある。

その中にこのような文がある。

「若し夫れ、天地の正に乗じて、六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼且(は)た悪(いず)くにか待たんや。故に曰わく『至人は己れ無く、神人は功無 く、聖人は名無し」と。
(読み下し文:これに比べると、天地の正道に身をのせ、六気の変化にうちまたがり、無限の世界に遊ぶものにいたっては、もはや何を頼みとすることがあろう か。だからこそ、至人には己れがなく、神人には功をたてる心がなく、聖人には名を得ようとする心がない、といわれるのである。)

これは過去の世間から超越しているように見える宋栄子や列子を挙げ、それでも彼らもまだ他者(ここでは世間や風)に頼っていて、本当に偉大なものはもっと 自由だということで書かれている。
これについて森氏は「われに対する他者を忘れ、天地の変化のうちに没入して一体となり、絶対の境地にはいるものこそ、至人や神人にほかならない」と注釈し ている。

天地の正?六気の弁?よくわからない。
荘子は冒頭の逍遙遊篇でざっくりと真人(達すべき目標)についてこう説明し、他の篇でもいろいろな物語を駆使しそこに至るにはどうしたら良いかを、それと なくほのめかす。というのも、荘子は「ことば」を批判している。自分のいうことについても「妄言だと思って聞いてくれ」といっているのだ。

これについては本当に難しいのだ。
「楽しむ」というのも感覚だ。言葉で考えるからわからなくなる。こねくり回さずに感じてそのまま捉える。それが本当だ。だが、そこまでわかっていても荘子 は書いた。感覚にうったえるために物語という手法を通して。

言葉はひとつひとつあげつらってもだめだ。不毛だ。だけれど、言葉というのは組み合わせて何かを浮かび上がらせることができる。言葉で言い表せないもの を。だから哲学や思想はだめでも、物語は読みたくなるのだ。

荘子はそのような稀有な「哲学」だ。

ここからは読み下し文から「楽しむ」、「遊ぶ」と関係の深い部分をピックアップしていく。

「すべて、わが身を滅ぼし、わが真実のありかたを失うものは、いたずらに他人のために奉仕するものであり、人の主となりえないものである。かの狐不偕、務 光、伯夷、叔斉、箕子、胥余、紀他、申徒狄などの人びとは、いたずらに他人のことに奉仕し、他人の楽しみに奉仕することを楽しみにしたものであり、みずか らの楽しみを楽しんだものではない。」

このみずからの楽しみを楽しむという部分には「自適」という言葉が使われている。「心の赴くままに楽しむ」という意味の言葉である。
ではこの「自適」を具体的な物語であらわしている部分はないのか?
それが次の話だ。


子桑戸、孟子反、子琴張の三人は互いに友になろうとして、語り合った。

「おたがいに無関係でありながら、しかも関係を持ち、相手のためにしないで、しかも相手のためになるような人間はいないものだろうか。人為を離れて天にの ぼり、差別を消す霧のうちに遊び、無限の境地にさまよい、有限の生を忘れて、はてしない変化の世界に生きるものはないであろうか」
そういったのちに、三人はたがいに顔を見合わせて笑い、心からうちとけて親友になった。

やがてしばらくして子桑戸が死んだ。

葬式のすまないうちに、孔子はその死を聞いて、弟子の子貢を手伝いにやらした。すると孟子反と子琴張のふたりがいて、ひとりは蚕棚のすだれをあみ、ひとり は琴をならし、声を合わせてうたっていた。

「ああ桑戸よ、ああ桑戸よ。お前はもはや真実の世界に帰って行ったが、わしらはまだ人間の世界に残ったままだよ。ああ」

これを見た子貢は、小走りに走りよってふたりにたずねた。

「ちょっとおうかがいしたいのですが、死人を前にしてうたうのは礼にかなったことなのでしょうか」

するとふたりは顔を見合わせて、にやりと笑いながらいった。

「この男には礼の意味がわからんとみえるな」

子貢は帰って、孔子に報告した。

「あのふたりは何ものでしょうか。礼儀作法はまるっきりなく、なりふりかまわず、死人を前にしながらうたい、悲しげな顔つきさえ見せないありさまで、まっ たく何ともいいようのない連中です。あれはいったい何ものなのでしょうか」

すると孔子は答えた。

「あのふたりは世俗の外に遊ぶものであり、それに反して私は世俗の内に遊ぶ人間だ。世俗の外と内とは、かかわりあうものではない。それなのに私がお前を弔 問にやらせたのは何としても私の不明によるものであった。
あのふたりは造物者と友となり、天地根源の一気の世界に遊ぼうとするものだ。かれらはこの人生を、顔にくっついたいぼやたれこぶのように無用の邪魔者と 思っており、死を、吹き出ものやはれものがつぶれたぐらいにしか思っていない。だからこのような人間にとって生と死の優劣がどこにあるのか、まったく問題 にもならない。 人間の身体は、さまざまに異なったものをかり集め、これを一つの形体につくりあげたものとしかみないのだから、どこに肝臓があり、胆嚢があるのやら知るこ ともなく、耳目のあることにも気づかないありさまである。このようにして生死の循環を無限にくりかえし、どこがはじめとも終わりとも知るよしがない。あて どもなく俗塵の世の外をさまよい、無為自然のはたらきのままに逍遙するのである。このような人間が、どうして仰々しく世俗の礼をとりつくろい、衆人の眼前 に見せびらかすことがあろうか」


このように孔子が登場する話は多いのだが、それは孔子に代わりにしゃべってもらおうということだ。言葉に卓越した孔子なら言葉でこう説明するだろうという ことかもしれない。荘子は、孔子が子貢に語る言葉で「私もお前とともに、なんとか世俗の外に出たいものだ」と言わせている。

最後も孔子に語らせた言葉だ。

「つねに楽しい境地にあるものは、笑うひまもないものだ。反対に、特定のことだけを楽しいとして笑うものは、すべてを推移のままにゆだねることができない ものだ。すべてを推移のままにまかせてこれに安んじ、無限の変化のままに従ってゆくならば、やがて静寂の支配する天一の世界−自然のままで差別がなく、す べてが一つである世界にはいることができるであろう。」

僕には天一の世界とやらは静寂も混沌も含むもので、ただ静寂だけとは思えないが、もはやここには「楽しむ」が宗教的な悟りのようなものとして置かれてい る。


4.外と内

「世俗の外に遊ぶもの」とは、私のいうところのアウトローの論理を突き詰めたところにいる。

ここでは世俗のルールというものを超越すること、その社会の外にいるものとして描かれている。
序列社会にとらわれないことはもちろん、生や死にすらとらわれない。だが、それはけして他人の存在を認めないものではない。

子桑戸、孟子反、子琴張の三人はこう言っている。

「おたがいに無関係でありながら、しかも関係を持ち、相手のためにしないで、しかも相手のためになるような人間はいないものだろうか」

つまり、楽しむ姿勢は自分のためでありながら、その姿勢のままに関係性が築かれていく。
出来上がった関係をある関係としてみて、そこに関わるのではない。自分の楽しむ姿勢のままに行動し、その結果としての人との関わりが、関係としてそこに現 れる。

つまり自分で作った関係にせよ、社会にせよ、その外にいて、関わること。この姿勢こそが「楽しむ」ことである。
これは「われに対する他者を忘れ、天地の変化のうちに没入して一体となり、絶対の境地にはいるもの」という森氏の解釈とは矛盾するように思う。

だがそれが矛盾に見えるのは、そこには単純化された次のような構図があるからである。
俗世の執着から解放された人間は苦しい世界から解脱し、一人楽しい世界に遊ぶ。それは

外:楽しい⇔苦しい:内

という形だ。
だがそれは逆に見れば、誰とも関わらないこと、と、関わって世俗の小さなことにとらわれていくことを 修行と快楽という位置づけにして

外:苦しい⇔楽しい:内

と見ることにもなる。どちらの見方も問題を孕む。むしろこのような見方がことを難しくしている。なぜならそこには遮断があるからだ。

生きることにも死ぬことにも執着しないということは「あるがままに過ごす」ということである。それならほっといて死にそうなものだが、そうではない。ある がままに過ごすというのは「心の赴くままに楽しむ」ということである。意志の向くままに過ごす。食べたければ食べる。つまり、「遊ぶ」「楽しむ」姿勢があ り、何かを食べるにしろ、囲碁をするにしろ、そこに関わる他者はやはりいる。だからそこに関係は生まれる。つまり楽しむというのは、ありのままの意志の関 わる作用そのものではないか。

だが生きることにも死ぬことにも執着しないとしても、私そのものが何かを維持することで生まれている。
つまり「生きる」ことで。だが、それは一つの流れであり、とどめようのないものとして執着しない、それが「あるがまま=自適」ということだ。生きようとし ているものはその本能としての意志までは止められない。その「生きる」ということは、周りとの関わりなしには存在しない。その他者との自然なかかわりに 「楽しむ」ということが現れる。

まずは「楽しむ」とはどんな状態なのかを考えた。次回はそれがどのように他者と関わるのかを見ていきたい。
(hayasi keiji,13/1/11)


   
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