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コラム
vol.39 楽しむ 〜「こと」を保つということ〜


第二回 没入

前回は「楽しむ」とは何かを見た。そこでは「楽しむ」とは生きているものが存立していく中での「ありのままの意志の関わる作用そのもの」と捉えた。それは 関係の外から関わることで関係ができているということだ。
ではその楽しむ姿勢はどのように周囲と関わるのか。今回はそのことを見ていく。


1.没入の視界

「没入」という言葉がある。没入というのは何にするのかというと、自分にではなく、行為に没入する。
たとえば、草野球、サッカー、プラモデル作り、演奏、読書、書き物などだ。いわば、熱中している状態だ。

その時、自分は行為全体(対象を含む)の一部になり、没入しているときは行為の中に完全にはまっている。
行為しているとき、行為に含まれている物や事態はよく見えているが、その行為の外、まわりにあるものはその集中によって逆に見えていない。
確かに没入しているときは楽しい。だがその中にいるときの熱中しているときの「楽しい」と、それを外から見たときに可能になる「楽しむ」は違う。

「楽しむ」というのは、外から見たときに「可能になる」ものであって、主体的な行為だ。だから楽しくない事態の中にあるとき(例えば:仕事でミスして叱ら れている時)にも、場合によっては外からその状況を見ることによって「楽しむ」ことができるようになる。
「あー、すげえ怒ってんなあ、この人。湯気でてるよ。・・・もったいないなあ。こういうのは再生可能エネルギーっていわないのかな?」と、怒られながら自 分の状況を外から見ることも可能だ。それは自覚がないということよりも、その人に怒られる必要がないからだ。ミスがあったなら、ミスだけで十分なダメージ であり、怒られること自体には意味はない。だがこの場合の「楽しむ」は冷静に現状を見ているということであり、それがただ無関心になるだけということなら 何も意味はない。「楽しむ」とはこのように次に何かを生む可能性を提供されているだけでもある。

空間的姿勢によって空間に含まれるものとして自分を捉えなおす事については以前書いた。(vol.25 「すべてをつなぐ場」3章)

空間の全体が見えているときには私の行為は空間の一部であり、自分はその空間全体の中で特定の位置にいる。そのことに気づき、その位置にいる人はどうすれ ばいいかという視点にたち、それを主体的に実行する。

これは「出来事」のような「共有された空間」においても同じである。

行為に没入しているときは、自分の行動は動かしがたい出来事全体の一部としての行為として他のものに左右される。それはその視点が今ある空間全体をとらえ なおさないからであり、それに対し、出来事の外の視点に立ったときには、自分の行為が全体に「作用」するという視点に立ち、行為に全体を動かす力が与えら れる。

それは、いわば主観的視点ではない全体的視点(俯瞰ではない。あくまでもあらゆる点で無数の多角的視点、全体的視点ということだ)をもち、中では主体的に 動くということだ。主観的ではなく客観的でもなく、そして主体的ではある。
一応言っておくと全体を見る視点とは、けしてイメージや想像力ではない、(体との関係として)意識のあり方によって実際に見えてくるものだ。体操の内村航 平はそのような視点を「イメージ」という言葉で表現したが、それは実際にはもっと具体的な体全体を全方位から捉えなおす感覚を通して、その行為を実際に可 能にするという、「全体像を把握する能力」だと思う。
それをもって実技に入る。そのように体全体で空間を知覚し、その事を通して逆に体全体の大きな動きから微細な動きまでを同時に空間から把握する。
それは非常に機敏な反応を持った身体的な感覚であり、そこに意識がつながれている状態である。


「楽しむ」というのが外から見ることによって可能になるという場合もそのような視点をもって事態を捉えているということであると思う。外というとスタジア ムの、あるいは試合の外ということに聞こえてしまうが、実際には自分のかかえている概念(保有している文化)の外ということになるように思う。

だから視力にしろ、聴力にしろ、それを通して把握したものを自分の中にある意味(イメージ)でとらえるのではなく、そこにある全体の中でとらえるというこ とだ。それは意味も含めて、関係の中で発生することとして、自分に取り込まずに、そのままにしておくということだ。

例えばサッカーならそれを味方全員ができれば、全員の視点はばらばらでもその含んでいる内容、つまりフィールドのなかの関係全体は一致する。そして各々の 位置を把握し各々が主体的に動く。そうすることで親和的な行動、自己組織的な動きが起こる。ただし当然だがあくまでも捉えた場の情報が一致するだけであ り、その主体性は各々にゆだねられている。だからそこから主体的に回りを巻き込む行動の自由は保持されている。

サッカーというのは「サッカーという競技」をしている状態の全体が、一つの「出来事=共有された空間」である。
それはルールによって共有された空間だ。

以前バレーボールのコラムで「ルールは環境」といったが、それは「その中が全て」の状態(ある意味では没入している)にあるときであり、ルールは一般的に はむしろ文化や社会(それが法律という「もの」に凝縮される)であるといえる。床が全て「死」であるという、サッカーで言うところの「最後の空間」の連続 であるという、「死」が身近にある状態=生きることがくっきりと現れる、バレーボールのような場合には生物と環境の関係のようなむき出しな状態が現れる が、サッカーにおいてそのような「死」があらわれるのはゴール前の「最後の空間」のような場面だけだ(「最後の空間」とはゴール前に放り込まれた、あるい は持ち込まれたボールにそこにいるすべての人が集まっていく決定的な状況のことだ)。だからサッカーの場合はその環境の中にさらに「文化」を持つ余地があ ると言える。

一般的にはルールは共有された約束事であり、であるから、サッカーはルールを元に共有された空間と時間であるところの「社会的な出来事」だ。


2.「われ=われの哲学」

さて、ここからさらに進めていくのにあたり、小田実の書いた「われ=われの哲学」という本を引用したいと思う。そこで先に述べておきたいことがある。それ は小田実の考えたことがそのまま僕の考察していることにうまくはまるとはいえないということだ。できたら皆さんにはこの本を読んでもらいたい。名著という べきすばらしい本であるが、それは古典ではなく「生きた本」であり、徹底的な市民としてあった小田実はここで他の人が達することのできない視点に達してい る。
ここで引用するのはこの本にある「場」と「現場」の考えが私の考えを助けてくれるものだったからだ。

小田さんのいう「場」とは、社会全体によって形作られる、日常的な安定したものであり、それはある種の閉鎖性を持った、本人の安住する場所でもあり、空気 のよ うな目に見えないものだ。それは自分が属する社会全体に「そういうもの」として支えられてはいるが、結局のところそれはある特定の見方によって支えられた ものにすぎず、それが崩壊するときに「現場」が現れる。いやむしろ「現場」が何者かの行動によって出現したときに、「場」が所詮は架空の目に見えないもの であったことに気づく。

「『現場』はきわだって意識される、されざるを得ないものとして私たちのくらしのなかにあるが、『場』はそれにくらべると空気のようなものだろう。(中 略)『現場』の緊急性、不安定性によって、私たちは『場』の平穏無事性、安定性、を意識し、同時にそうした特性を本質的に持つ『場』の存在そのものを意識 する(後略)」(小田実「われ=われの哲学」岩波新書15p)

「場」はなくなった時に存在に気づくというようなものである。普段我々の社会を形作っている、もろもろの価値観の結晶のようなものだ。その中にいるときは 人間はその社会のある種の立場に所属しているものとして生きている。
現場というのはそれに対し、「運動によって起こる何かが発生する場所」というようなニュアンスで使われているように思う。
小田さんは「現場ということば」について、次のように言う。

「『現場』ということばは、多かれ少なかれ、波風の立つことばだ。ことがまるっきり平穏無事に進行しているときには、私たちはこのことばは使わない。ふつ うのくらしの場の平穏無事に対して波乱万丈。安定に対して不安定。継続、反復、情勢に対して切断、一回こっきり。ただの自然死に対して、私たちは『現場』 の死だとは考えないし、言わない。しかし、『殺人の現場』、『自殺の現場』とは言うだろう。あるいは、ことを逆にきわだたせようとして、私たちは『現場』 をあえて持ち込む。ことがらに、このことばで事件性、切迫性、緊張性をあたえようとする」(同、10p)

「現場」は言葉としては「場」の中に含まれるかたちでも「仕事の現場」として使われる。それは「実際の物事の起きている場所」という意味として使われてい る。だが、この本の中で小田さんが問題にしているのはもっと根本的な「現場」である。それは「場」が崩壊することであらわれる「現場」で、例えば、「殺戮 の現 場」のようなことだ。

この二つの現場に共通するのは小田さんによれば、「こうした例が示しているように、『現場』には、ことばのどこかに時間と場所の特定が附随している。そこ で のっぺらぼうの時間と空間に切れ目を入れている感じだ。」(12p)とあるように「特定性」だ。

それはその現場に居合わせた人間がその現場に関わっていることで初めて意味を持つということだ。
「運動によって起こる何かが発生する場所」というのはつまり、「仕事の現場」というのは会社としては生産や利益の発生、社員にとっては給料の発生という点 で捉えるとである。だが実際には個人個人がその場で考えるよりも会社の方針に従う形で行われる。そのことでそこは安定した「場」になっている。

それに対し、「現場」の本来的なものというのは個人個人の行動があつまって「現場」そのものを形成している、発生の持続している状態だ。だから外側に全体 の動きを決める方針はない。そこにいる各自が持っているだけだ。

この「場」と「現場」の状態を踏まえて、小田さんはこのように言う。

「『現場』にあってかんじんなことは、人びと自身をふくめて、事物が何んであるかということよりも、それが何をするのかということだ。何をするのかによっ て、それが何んであるのかも決まる。(中略)

階層のなかの『場』にあっては、私たちは私たち自身をふくめて、存在としての事物に基本をおいて生きているのだろう。存在としての事物は『場』のなかに、 そのところを得て分相応に存在し、『場』はそれらの事物を含みこんで、階層のなかにそれぞれまたそのところを得て分相応に存在する。もちろん、そこでも人 びとは動き、事物も動くのだが、その動きはすべて事物の決められたワク組みのなかでの動きであって、『場』を『現場』に変える運動のように、事物のワク組 みの外に出て、ワク組みそのものをゆり動かす動きではない。ワク組みは安泰で、したがって、『場』にゆるぎはない。(中略)
この『場』で、人は自分の存在のなかに閉じ込もることができる。たとえば、家庭の主婦は『主婦の座』に、会社員は『わが社の立場』、日本人は『日本人の立 場』に閉じ込もり、たてこもって、他者をすべて異分子として斥けることができる。(中略)こうした『場』の閉鎖性は空間的にだけあるのではない。時間的に も存在していて、その過去は『現場』の過去のように現在、過去、未来へと四方にひろがって行く過去ではない。(中略)

こうした『場』のありようは、『現場』のありようとくらべてみればはっきりする。『現場』は空間的にも時間的にも現在、過去、未来にむかって開かれてい る。ということは、そこに無数に存在する『他者』にむかって開かれているということだ。『現場』での運動、行為は、そうした無数の『他者』と衝突するので あれ、手を結ぶのであれ、『他者』との関係をいやおうなしにかたちづくる。

『現場』で、人は『主婦の座』『わが社の立場』『日本人の立場』に閉じこもっていることはできない。
『現場』には、非『主婦の座』、非『わが社の立場』、非『日本人の立場』を主張する人どころか、反『主婦の座』、反『わが社の立場』、反『日本人の立場』 をふりかざす人もあまたいて、それらの人と自分との関係はあくまで対等、平等の関係にある。そして、おたがい、それゆえに、そこで自由だ。

しかも『現場』には『他者』があまたいるゆえに、よほどしっかりと自分を持ちつづけていないと、それこそ『他者』にのみ込まれてしまうということがある。 自主、自決がそこで要求されるのは当然のことだが、もうひとつ、『現場』には、さきに触れたことだが、人がそこにいっしょに何人いようと、『現場』の壁に ひとりでむきあっているようなところがある。(中略)
『現場』には究極的には人間は自分ひとりしかいないのだから、そこに噴出して来る問題の解決は、これもまた究極的には自分ひとりでしていかなくてはならな い。『わたしはこの問題の専門家ではない』とか、『わたしはただの庶民です』と逃げているわけにはいかない。また、十分な道具がないとか、手だてをつくせ ないとか言っているわけにはいかない。そのあいだにも容赦なく風が吹き入って来るのだ。人はそこでありあわせのものであろうと何んであろうと、手持ちの知 識と手持ちの物一切を使って風を防ぐ壁をつくり上げる。レビイ=ストロース流に言えば、『現場』での仕事は、どうあっても『器用仕事』的なところがある仕 事だろう。」(同、34p〜37p)

この本ではこのあと「こと」と「もの」の関係という重要な話も展開するのだが、今回はそこまではあつかわない。
ただひとつ、そこで言われているのは、場と逆で、現場では「こと」が「もの」を決めるということだ。

「今机のある『場』が何んらかの『現場』と化したとすれば、その机が突然緊急の手術台ともなればバリケードともなるという事態も十分にあり得ることだ。も ちろん、この場合、机が手術台となるのは、緊急の手術という行為のなかに、それがその行為の不可欠な部分としてあるからで、行為の外ではそれはいぜんとし て机であってべつに手術台に転じたわけではない。『もの』としての机は緊急手術という行為のなかで『こと』として手術台となり、その『もの』と『こと』が 全体で『緊急の手術台となった机』という『事物』をかたちづくっている」(85p)

机という「ことば」や「概念」は現場で一度崩され、行為のなかに組み立てなおされる。もはやそこにことばの出番はない。そこではすべての事物はその行為の なされる時間と空間の中での一回限りのものとなる。


3.現場とは何か

さきほどのルールとして共有された社会的な空間と時間の話に戻る。

小田実が「われ=われの哲学」で言った「現場」はその点ではそれらの社会的ルールを剥ぎ取られた地点であり、残されたのは「生きる」と「主体性」の権利だ けという状態が一時的に訪れた場所であると思う。

つまり「生きる」ためには最悪の場合、それを脅かすものの主体性に立ち向かう権利が与えられる。誰かの主体性を奪う権利はだれにもないということは、誰か の主体性を奪おうとする行為に対しては、主体性と主体性はぶつかり合うということだ。それは社会的な姿勢を捨てて純粋に「生きる」という視点、つまり、社 会の外側からの視点を手に入れ、行動するということだ。それは小田実の例えでは「殺戮の現場」にそのまま現れる。


「『殺戮の現場』のことで言うなら、自分で殺戮者にたちむかって行かなければならない。この場合、もちろん、その『現場』にいるみんなでいっしょにたちむ かって行くということはあるだろう。しかし、その場合でも、とにかくまず自分がたたかうという覚悟をきめていかなくてはならないにちがいない。どういう場 合にせよ、自分で『殺戮』という殺戮者の行為によってかたちづくられた『現場』にまともにむきあわなければならないのだ。
あるいは、こういう場合もよくあることだろう。『殺戮の現場』の目撃者、あるいは、ただの野次馬の見物人が、『現場』の光景を見るに見かねて救出作業に参 加し、殺戮者に『殺すな!』と叫ぶことで、当人自身が『現場』の当事者、行為者となってしまう場合だ。はじめはただの野次馬で、いつでもそこに背をむけて 『現場』を『あたかもすべてないものであった』ようにすることのできた彼は、もうそこで『現場』の当事者、行為者となってぬきさしならぬ状態にいる。」 (同、14p)

このような現場ではもはや社会的なルールを持って訴えても意味はない。ただ、「殺すな!」ということでしかなく、その現場に当事者として加わった彼にとっ ては「生き延びること」がただ求められる。それは自分が現場の当事者になることを決心した「ある信念」によってつき動かされているのだろう。
これはサッカーでの「最後の空間」にも通じるように思える。

もちろんサッカーでは得点を入れることはルールのうちの行為であり、逆にそのルールを犯せばファールになるが、どうしても必要な場合、つまりその先に失点 という「死」がある場合は「あえて止める=ファールする」こともあり、ファールである以上は正当防衛にはならない(レッドカードならいわば”死刑”を受け ることになる)が、そこまで考慮に入れた視点で行動する時、その場は限りなく「現場」に近くなる。それは点を取ろうとする相手の主体的な行為が、「現場」 を作っているからだろう。

「最後の空間」においても「殺戮の現場」においても生き残るチャンスは一瞬である。

だからこの「現場」に集中する必要があり、それはまさに「没入」の様相を呈する。だが相手が作った「現場」でその流れの中で行為に没入しては結局のところ その出来事を推し進めることになる。ではどうすればよいのか。
だから行為にではなく出来事に没入しなくてはならないと言いたくなるが、出来事に没入するというのはどうにもおかしい。
だがよくよく考えてみれば、生き残るチャンスの行動というのは没入ではなく迷いのない主体的行動が必要なだけだ。出来事全体の視点に立ち、行為はやはり適 切に「行われる」ことで、出来事全体に影響を及ぼす。

だがここまで考えてみて、矛盾のようなものがくっきりしてくる。

というのも、「現場」はルールを剥ぎ取られた、安定した社会の外の地点なのに、「殺人の現場」や「緊急手術の現場」は「楽しむ」に結びつかないように思え るからだ。 サッカーで言えば「最後の空間」に入る前までは全体を見る視点に移ることができるが、入ってしまうとそのような外側から見て「楽しむ」を維持するような状 態ではないように見える。もし「楽しむ」を可能にするような姿勢が、外から見るものならば、同じように「現場」から自分を引き離してしまいそうだ。

それを考えるにはまず外にいる状態と「現場」の状態をよく比べてみる必要がある。
実際に「現場」と空間的姿勢というのは一見似ているようで構造はかなり違う。むしろ正反対である。
では、どうなっているのか?


4.現場を作る

「楽しむ」というのが外から見るということなら、それは「場からはなれること」で現れるのではないだろうかと思う。
それは言い換えれば、その人「自身」が「場」の中にある状態においてこそ「楽しむ」は有効になる。「楽しむ」というのは「場」にいるものが全体的な視点と いう意識のあり方によって「その場」から離れて見たときに自由を感じ、「ただ生きている」状態の生身に戻ることで「場」のことは対象化される。どうでもよ い、あるいはどうとでもできるものになり、「今」からどうとでもできるものと捉えることで、自由を感じ、そこから再び「場」にアプローチする。それは一時 的にできている「現場」ですら同じだろう。
それは自分ひとりに戻ることで、「場」を動かす力を取り戻すようなところがある。

それに対し、「現場」は共有というか、誰かの引き起こした何かの事態にまきこまれているか、自分が何かの事態を引き起こしたものであり、関わったものは 「場」のように共有しているが、もっと即時的なものだ。

「場」のようにルールによって決められた時間のもとに90分プレーするのではなく、事態によって時間が生成されるため、時間は決まっておらず、事が終わる と消失し、その共有された時間は消える。その点は「最後の空間」と同じ、生死を争う場面であり、「楽しむ」状態ではない。なぜならそれは「場」と同じく共 有されているものであり、巻き込まれている以上は対象化できないからだ。もし離れればそれは「自分の現場」でないために作用することはできない。

だがこの二つは共通することがある。

それはどちらも「場」からはなれることである。つまり「楽しむ」のうまれる「場」からの解放と「場」から「現場」、「最後の空間」へ移ることはどちらも、 「場」という日常、ルール主体から、個人主体の生と死が喚起される状態へ移るということでは同じである。
だが時間と空間の主体が違う。サッカーでの全体的視点は「現場」に移ることではなく「場」をはなれることであり、「最後の空間」は否応なく「現場」に入っ ていくことで「生」と「死」を争う。
「現場」というのはその点では「最後の空間」と同じように、時間的な空間であり、「楽しむ」の可能になる、全体的視点を与える空間的姿勢とは正反対のよう だ。

だがここで注意しなくてはならないのは、全体的視点が「現場」を作る力をもたらすということだ。
全体から見たことで自分の状態が見え、そして主体的に動くことで、周りを巻き込んでいく。
そのようにして、「現場」を作る。あるいはすでにある「現場」を巻き返していく。

これは「場」にいては見えてこない。「場」のルールから離れることで可能になる。「場」がもはやその人間の住むことのできない「場」になった時、自然と 「場の論理」に反した事が行われるというときも、「場」から離れているという点では同じだ(公民権運動のひとつのきっかけであったローザ・パークスの「立 つ必要は感じません」は42歳の疲れてもいない彼女にとってただ当然のことだからだった)。

「楽しむ」という、外から見た視点の話と関連するのは、そういう意味ではやはり「現場」を作るには「楽しむ」を可能にするような視点が必要だということ だ。「現場」は「場」を外からゆり動かすことでできる。だがあくまでも現場は個人的営為によって作られるものだ。それはすでにある現場に関わるときでも同 じだ。そのできた「現場」に今度は取り込まれそうになる、なぜなら実際には自分の行為だけでなく、そこに関わるすべての人の行為が「現場」に関わることが 可能だからだ。

それは当然サッカー以外でも革命や殺人ですら同じようにできている。
「現場」というのは「場」が誰かの行動で覆されていることだ。それは空間的世界とは程遠い、不安的な時間的世界であり、いずれ確実に終焉が訪れ、「場」に 戻る。

だから革命の場合、実はその「現場」的な状態、すべてをシャッフルし新しい力場を作ろうとしているその状態こそが革命の理想の世界だが、それは全員によっ て形作られる「場」に再び戻るために、その前にその戻る「場」をより良い違う「場」にしようとする。だから社会主義革命のようなものはまさに現場の状態を 理想とするために「場」との差異があらわれ失敗する。しかもそこに「現場を作ったもの=革命を主体的に起こしたもの」の理想が含まれる事で、結局新たな権 力構造が生まれることがほとんどだ。それは結局「場」の中で生まれた論理による考えだ。

また殺人という行為は新たな「場」の中で「殺人者」という立場になり裁かれる。
サッカーにおいては点が入った状態という「場」に戻っても覆らない状態を達成することで、「1対0」という優位な新たな場を形成する。もちろんペナル ティーエリア内はそのような革命家にとっては限りなく不利な状態(敵が多い、キーパーは手を使える)であり、それらの銃弾をかいくぐり、達成を目指す力 は、社会の外から社会を見るという視点なしには達成しづらい。

ここまで見ると「全体的視点」と「場と現場」のつながりは分かる。

出来事全体に視点を移したときに、「場」から「現場」に移るというのはむしろ逆で、つまり「場」と「現場」というのはそのような視点の変更、つまり行為か ら出来事全体に視点を移したときに、「場」は「現場」に変わるのではなく、むしろ場を離れて「現場を形成する力」を得る。そうするとたとえばファールの話 ならばルール全体・試合全体が見えたときに「ここでファールしてもいいか」ということでファールする。それはためらいのない犯罪のようなものだ。「現場」 とは、作られたものであるにせよ、すべてが並列におかれた世界に戻って、最初の一手を行うがごとき、ごく自然な行為なのだ。
だから先ほど言った矛盾、「楽しむ」を可能にするような姿勢が、外から見るものならば、同じように「現場」から自分を引き離してしまう。ということは確か で、自分は「現場」を作ったが、自分にとっては「現場」ではないのだ。そして現場に関わりその中にいるものは当然「楽しむ」状態ではない。その「現場」は やがて関わったものたちによって固定された「場」に変化していく。


5.対象化

このように多角的、全体的な視点を、つまりルールの外側の視点をもつということは出来事全体を見る「生身の人間」の視点に戻るということだ。最初のほうで も言ったように概念の外ということだ。
「場」においてはあくまでディフェンダーなりフォワードなりの視点であり、全体的な視点においてはサッカー全体を見る視点である。
全体的視点を通し、相手や他の味方の事を踏まえた上でファールするのである。外から捉えなおした上で「場」に主体的にアプローチしファールする。その際に はもうその「一つの行為」に没入しているようにも見える。だがその行為は明らかに全体という「現場」における最善の行為として行われているだけだ。

実際のところ「良い仕事」には、その仕事の外に出て他の人(社会的な職業なら、客)を含めて全体として自分の行為を捉えなおす。ということが「良い仕事」 に導くことは良くある。

このように考えると、全体的視点は「場の外」にその人を移すが、必ずしも「現場」を作るとは限らない。
先ほども言ったような「場」からはなれた状態とは、もはや「場」という概念がないということになるだろう。つまり「場」というのは意識の問題であるから、 「場」から離れて状況を捉え、「場」に戻るのではなく、「場」から離れたまま、行為をし、それが「場」に影響を及ぼすということになるのだ。

確かにその行為は主体にとって「現場」のような価値の並列化された状態を作るだろう。けれども、そこに革命のような主体の理想にもとづく行為や「現場」の ような目的的な行為がなければ、そこはただの「並列化された場」にすぎない。
その影響を受けた「場」は「場という概念がない」ということから来るように、それは既存の「場」ではなく、新たに生まれた「生きた場」であり、それはそこ にいる全員によって新たに形作られる「場」にもなれば、特定の目的を持った「現場」にもなる。

「楽しむ」というのはそういう風に外側に立ち、「場」を他人を含めてとらえることで可能になる。

行為に没入しているときに感じているのは「楽しむ」ではなく「楽しい」ということだ。「楽しい」というのは思い通りに行った場合だけであり、それに対して 「楽しむ」はもっと大きなものだ。

没入    [出来事(対象)〔←行為(見る)〈体〉〕]

全体的視点 [出来事(他者)〔←行為〈体〉〕]←見る

行為に没入しているだけでは周囲は対象であり、他者も思い通りに動かない「対象」であると思う。
だがそこが他者を含む場であり、その「場自体」を対象化することができるようになれば変わってくる。それはじつは言い換えれば他者をではなく、自分を含め ることで可能になっている。自分を含めるというのは自分を切り離し、場の中の一人として捉えなおすということだ。だがそれはけして心を身体から引き離すこ とではなく、むしろ心を場に捨ててくることである。だからその媒介になるのは身体である。
空間的姿勢はそのように視点を全体の関係の中におくことができる。その視点を切り替える能力を鍛えること、動的な変化をする全体としての「こと」的な私で あることが重要であり肉体の持つ知性の「知的な部分」というのはそのような対応能力であると思う。


6.現場主義

「楽しむ」というのは他人の存在を認めて場を捉えること、ならばそれがゆえに個人的なものであり、誰かに与えられるものではないと考える。では人はそのよ うな環境の中でどのような意識におかれているのか。

「現場主義者」というのは「現場」での対処を中心にすべてを捉え直す人だ。あるいは、「場」を「現場」としてしか見ていない人間だ。普通、人は「現場」が 発生することによって、そこに関わる時に「現場の意識」になるものだ。だからその現場を人々は一時的なものとして共有している。だが常に「現場の意識」で あるものにとっては逆説的にもはや現場など存在しないも同然だ。つまり世界全体を「現場」にしてしまっている。
だから「現場主義者」というのは、アウトローのような外側にいる人とは正反対であるがゆえに紙一重だ。

それとは逆のものとして「野生の人」がいる。
以前書いた、木村沙織のようなバレーにおける野生は、バレーという「最後の空間」の連なりの中に対応するために、社会性をはいでしまった外の状態に戻るこ とによって生まれているのだと思う。それはサッカーで言えばメッシがそうだ。

それに対し、竹下佳江やカルロス・プジョルはむしろ警官や軍人として「現場」に人生を捧げているような「現場主義者」のように見える。

その点では木村沙織と竹下佳江、メッシとプジョルはたしかに正反対である。だが、「現場主義者」が日常よりも「現場」が自分の居場所になって、「現場」を 愛するか のような状態になってしまうのは、もはや世界が現場でしかないからであり、その意味では現場を「生きる」ための生身の状態の人間になってしまったからで、 その点では野生と何ら変わらない。同じものを相手にしているから同じようになった。ただあり方が違うだけだ。
それは先ほどの全体的視点のもつ、「非常に機敏な反応を持った身体的な感覚」が必要とされるがゆえにそうなっていったということだ。その感覚は自由な行為 の選択の保持のために必要なものだ。

「現場主義者」は自分を捧げるという「意識のあり方」から来ている点では、「生」よりも「死」を意識している。「死」を受け入れることで、できているよう に思える。時間的である「現場」に立ち向かう覚悟ができている。むしろその時間を自分の人生の時間と合致させている。それは「市民を守る」とか「勝利する =生き残る」といった信念によって作られる。

先ほど、没入は出来事にはできないと言った。没入は出来事にはできなくても行為にはできる。だが行為に没入することは先ほど言ったように全体的視点を奪 う。
没入とは「現場」においてそのような状態があるとすればそれは、確実に目標を達成することに没入することを意味し、周りからの支配を跳ね除けることに力が 使われている。 その点では「生き残ること」、相手に死=「負け」をもたらすことに集中する。
つまりもっともうまく状況を処理することに集中して、それに使えるものは何でも使う。そのような意味では、かなり自由であり、「場」の状態では普通やらな いようなことまでも選択肢にあるのだ。

つまり「現場」において「現場主義者」には目の前と全体的視点は同時に保有されている。全体的視点は「現場」のためにすべてのものが並列に捉えなおされる ことで確保される。その際、体と全体の間をつなぐネットワークのような位置に意識が置かれている。没入というにはあまりに中途半端な地点である。だからや はりそれは維持であり、没入ではない。
それは恐るべきことで、つまり現場主義者は常に信念にもとづく迷いのなさを保ち続けるがゆえに、没入が必要ないのだ。それは必要があればいつでも殺す準備 が出来ているというようなものだ。

また、それは結局のところ、野生の人と変わらない。
ただ、彼らの場合「場」から解放され続けているがゆえに、そのまま「現場」に入っていくことができる。彼らには「現場」という認識も「現場主義者」のよう な覚悟も無い。ただただ、したいようにする。限りなく自由だ。その自由はボールに触れるという、意識ではなく「身体のあり方」から生まれ、その事で全体的 な視点を持つことが出来ている。だから、そういう野生のものは逆に悩んだりしだすと良くない。覚悟などしてはいけないのだ。それは「場」がその人にとって 厳しいがゆえにその人が自然にその「場」に反する行為をする時もそうだ。そこには自分が「現場」を作ったという意識はなく、人間として普通に行動したとい うだけにすぎない。だから「現場」と「場の外」というのは同じようにルールをはがれ、生きるか死ぬかしかないということで、自由度という点では同じであ る。

だがじつはまだ大きな問題がある。それは彼らの自由度を保つ要因そのものが致命的な欠点になっているということ、つまり、彼らがそのスポーツの環境=文化 自体によって、その意識を持てているということだ。


7.信念とボール

関わることが「楽しむ」につながるという点では、現場主義者は野生よりも関わっているように見える。だがじつは違う。現場主義者は現場を世界全体(世界そ のもの)に拡張することで自由度を保っている、その現場の拡張を可能にしているのは「信念」である。それがゆえに、その信念だけは失うことができないゆえ に、また絶対に現場から出られないがゆえに野生に比べ自由ではなく、本当の意味での「楽しむ」、自適の域には至らない。また彼らは現場のために使えるもの は使うという危険な思想的純粋をもっている。それはつまるところ関係性を道具主義で捉えるということだ。ただ、他者の存在自体の自覚はできており、「どう 思われてもいい、ただ勝ちたい。」ということだ。その実現には「今」に向き合い、自由度を保つために「思い続ける」必要があり、その自覚は精神的にはかな りの疲労をもたらすだろうし、その疲労に耐えられなければ、自覚のない「文化としての野生」という信仰状態に陥るだろう。

それに対し野生はあらゆる点で場も現場もないので、自由ではあるが、その行為が現場を作っているのに、その自覚がない、つまり自分が行為を通し関係を生ん でいるのに、その関係には気づいていないため、関係性に対する意識的なアプローチは下手だ。その状態で自覚すると自由度は失われる。
また彼らの自由度は信念ではなくボールを中心におかれている。ボールのあるところでは楽しんでいるように見えるが、ボールに依存しているゆえの自由度の限 界、つまりその意味での専門性があり、絵筆やピアノを与えられると生き生きとする人と同じで、ボールのないところでは、楽しめないことになる。
それは言うなれば、サッカー(あるいはバレー)という「環境=文化」における野生であり、それがゆえに「この現場」からは自由なのである。ただただサッ カー がしたいだけということで、つまり今この試合の「現場」の外側にはいるが、サッカーという世界の外ではない。サッカーが社会ではなく世界なので、社会が存 在しないというべきか。
だが、それは彼らの野生がボールを追う犬のように、つまりボールがなくても「自適」でいられることかはわからない。だが彼らがボールを通して「今」につな がれていて、「今」だけを追っていることは確かだ。

このように彼らは一見自由だが、それは信念とボールによって支えられているものにすぎず、彼らにとっての「現場」「世界」はサッカー(あるいはバレー)な のであり、サッカーという「環境=文化」の外に出ることはできない。ではどうすればよいのか?


8.脱出の方法

まず全体的視点によってチーム全員が一致するというのは確かだ。それは現場を世界(サッカー全体)に広げる現場主義者も、サッカー全体が世界であり、その 中でのアウトローである野生も同じく全体という点で一致している。そのような世界の一様性(それゆえにすべてが「違う」ということ)が全体的視点には欠か さない。だが、ここで取り上げている「楽しむ」に至るには、その「サッカー」の外に出る必要がある。それはここでは成り立っていない。

では「楽しむ」にはどうすれば良いのか。
野生の場合、ボールを中心に成り立つ「環境としての野生」から自分が脱すること(つまりそれはまだ本当に外に出たことにはなっていない、自由ではないこと を知ること) また「現場主義者」も同じく、その「現場」の外に出ること。つまり自覚を通して自己対象化することしかない。
それは自分を含めて関係を捉えなおすことだ。

バルサの場合もバレーの場合も個々人がその社会性を排除することは必要だ。それはサッカーという環境=ルールのことではなく、そのさらに中に作られている ものだ。ポジションを外れたり、慣習を排除したりというような「ふつうやらない」は「やってはいけない」とは違う。野生はそれが完全に行われている状態だ (もちろん理想状態としてだが)。また、「現場主義者」も「現場」にすることで安定的な社会性は排除されている。とはいえ、それだけでは所詮その環境の外 に意識があることにはならない。

実際に大事なのは関係を捉えなおすことである。そのことで外から見ることが出来るようになる。

この外からというときの「外」という表現は誤解を生みやすい。実際には関係に自分を含めえて捉えなおすだけ、ではないだろうか?

つまり外というものはなくて、それは内というものもないということだが、関係という構造で捉えなおすことであり、外に出る必要はない。だから関係という構 造にのみ本質があり、そこには現場主義者でも、野生でもたどり着ける。それが自分の外であるということだ。つまり自分の「思っている何か」はただ自分が 「ある」には必要ない。ただ「関係」だけがある。サッカーからもルールからも自分から出ることでその外に出られる。もちろんだからといってなくなりはしな い。なくなったらサッカーをしている意味がなくなる。だがサッカーはその自分から出ることで、自分のかかえているサッカーをも外から捉えることができる。 ということだ。サッカーをする意味も対象化される。そのうえでするから「楽しむ」なのだ。だが野生というのは疑い得ないから野生なのであって、結局自分か ら外に出るということ自体成り立たないのではないのか?と考えることも出来る。

ただこの場合、自分の外に出ようとはしていない。ただ関係性として捉えただけで、結果として外に出るということだ。たしかに関係性として捉えることが全体 的視点であるということは確かだろう。だから社会の中にあっても、関係性でその自分のいる社会を捉えた時には、もう外にいる。だが、それが外に出るという ことで、それが出来ているなら、もう野生ではない。つまり、メッシや木村沙織の野生はその時点でなくなる。ではそうなったメッシや木村沙織は関係性だけで 捉えてい るのか?多分そうではない。少なくとも彼らの基本はそこではなく、環境としての野生の時と同じようにボールにつながれている。つまり彼らはボールを蹴るの が「楽しい」ので、「サッカーをしている」のである。

つまり、環境としての野生と現場主義者とは別のものとして、全体的視点はある。だが彼らはその野生と、現場主義者であることを通して、限りなく全体的視点 に近づいていったということではないだろうか?つまりサッカーの中の社会性の排除はそのような野生や現場主義においても可能だ(つまりサッカー全体までを 一つの世界にしてしまうこと)。そしてその結果、彼ら自らによってそのような自己対象化がなされる。つまり関係性としての人間になることで、そのような自 己撞着の外側に出ることが出来る。つまりサッカーを対象化できるようになる。(もちろん彼らにだってサッカーの外に世界があること自体は人間としてはわ かっているのだが)。プロであることでその中が世界の中心になったことによって彼らにとってサッカーは社会そのものになった。そのサッカーという擬似的な 社会を通じて結果、実際に社会性の外側=関係性としての社会の対象化に至る。そうなればもはや、サッカー意外においても同じであろう。

そのことで、「楽しむ」の境地に至る。普段われわれがたまに感じ取る「楽しむ」は囲碁でもサッカーでもそのような「外」を中心としていることでおこるもの だが、それは自分の仕事、生きる社会の対象化とは意味が違う。だから小さなことにおいてのものは小さな「楽しむ」しかおきない。所詮アマチュアでありそこ が世界ではないからだ。本当に何でも楽しむことが出来るようになるには、そのような自分の属する社会自体の対象化=関係性において捉えなおすことをしなく ては到達は出来ない。それまでは「楽しむ」は小さな偶然の産物に過ぎない。外に出るのではない、関係性として捉えなおす。外に出るだけなら、所詮関わりが なくなるだけだ。たしかに「楽しむ」には「関わる」ということ以前に、場からの解放という自由そのものがすでにその感覚を引き起こすように思う。それは社 会性からの解放があたえる一種の身体的快楽のようにも思える。だが、そのような楽になることはそれだけでしかない。そうではなく、捉えなおし、しっかりと 関わる。そこでものを見るのだ。


9.最古のもの

これで大体明らかになってきた。
「自覚」という点では信念に対する自覚の有無が、現場主義者が、文化としての野生になってしまうかどうかのポイントだ(文化としての野生については今は細 かく説明できないが、概念によってなりたっている人間のことだ。「環境としての野生」に対するもう一つの野生と考えているもので、今後のコラムでちゃんと 取り上げてみたい)。 そして、信念があるか、ないかが現場主義者か野生かを分けることになる。その信念を守らねばならないがゆえに、現場主義者は「死」を意識する。逆に野生 は、ただただボールを追う「今」を生き、ボールによって「生」につながれる。

だが現場主義者も野生も関係性によって捉えなおすことができる地点にまでたどり着いており、同じものをそのような切り替えによって捉えなおすことで、自分 の外に出ることが出来る。だからこそ「楽しむ」とはそこに気づいた時にはもういる地点なのだ。

その外と内をつなぐものこそが「全体的視点」なのだろう。

よって「楽しむ」ということは、どちらもそれだけではだめで、ボールや信念につながれるのではなく、「他者との関係性」との関わり方を自覚しつつ、取り込 まれず外から関わることができるような姿勢が必要になる。最近のメッシはそのようなアプローチにおいても熟練してきたことで、以前より強くなっているよう に見える。その点ではバルサの中心、シャビ・エルナンデスはチームの司令塔であり、驚異的なパス成功率からして、そのような関係性を最初から中心において いるのかもしれない。「現場」というのはそこに関わっているすべての人の行為によって作られていることは現場を作る人間も、現場の中にいる人間もかわらな い。関係性というのは何よりも先にそこにあるのだから。


ここまでは小田実の「われ=われの哲学」にある「場」と「現場」、それと僕の「空間的姿勢」と「最後の空間」の関係、を没入などを通して見て、結果、社会 の外にでるということは、関係性として捉えなおすことだということがわかった。だが僕が明らかにしたいのは、「楽しむ」ということだ。

ここまで見てきたことで分かったのは、「楽しむ」には「場」の外に立つ必要があり、それは「場」があるからこそ生まれる。そしてその外側において楽しむ姿 勢を通してあらわれてくるのは、その「場」に主体的に作用する力、「場」を「現場」に変える力であり、さらにその「場」あるいは「現場」に関わる力である ということだ。

さて、次は具体的に「楽しむ」ということ自体が「場」においてどのような力を持つのか。その事を考えたい。
(hayasi keiji,13/1/21)

履歴

文章の校正(13/1/28)


   
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