vol.40 楽しむ 〜「こと」を保つということ〜
第三回:身構えさせない
ここまでを振り返る。
第一回では「楽しむ」とは生きているものが存立していく中での「ありのままの意志の関わる作用そのもの」と捉えた。それは関係の外から関わることで関係が
できているということをつかんだ。
第二回では「場」と「現場」の関係を踏まえて、「楽しむ」の可能な状態である、外からの視点は「場」を外から捉える全体的な視点であると考えられ、それは
社会のような共有されたルールの外の、生身の人間としての視点を通し価値の並列な状態から、他者を含んだ関係を捉えなおし「現場」をつくる力を手に入れる
ことができることを見た。
ここからは具体的に「楽しむ」ということ自体がどのような力を持ち、新たな場をどのように形成するのかを考える。
(ここでひとこと。場と現場という言葉がやたらと出てきてしまうので、書いている自分自身でも混乱しやすい状態になっている。そこで「場」「現場」という
カッコつきの場合は前回の小田実の指しているものを、それに対し、場というカッコなしで使った場合はその二つを含んだ大きな意味での場を指すことにした
い。ただあくまでもそれは言葉であって、その場という言葉の使われている文脈で場の含むものは拡縮する)
1.コミュニケーション
他者を含んだ関係を捉えなおし、「現場」を作るというのは実は簡単に言うと、コミュニケーションのことであると思う。コミュニケーションはそのような相互
通行的な場の状態をさす。けして一方的なものはコミュニケーションとは言わない。
日本でもっとも「楽しむ」ということを体現している有名人を考えると、僕は笑福亭鶴瓶が思い浮かぶ。
彼は多分あらゆる世代から認知されている有名人という点でみるとトップクラスだろう。
NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」という番組で、少し前に、鶴瓶さんがゲストのバドミントン選手の小椋久美子について、そのコミュニケーションのとり方を見て
「相手を身構えさせない」と言っていた。すぐ場に溶け込み、どこにでも入っていき話をしていく。そういう姿勢をそのように評していたのだが、この「相手を
身構えさせない」というのはすごく重要なことだと思う。
その様子をよく見るとわかるのが、小椋さんは相手をよく見ている。そして、興味を持っていく。それで相手の像をちゃんとつかんでいきながらしゃべってい
く。だから相手は無理する必要がない。だから相手の主体性を奪わないまま相手とコミュニケーションをとっていく。
つまり相手をよく見る、相手に興味を持つ、ということはその人がどんな人なのかに興味があるわけで、相手をまるまる受け入れていくということになる。それ
でも本人が自分のままでいられるということは、その興味を持つ、あるいはコミュニケーションをとる行為に自分があるのであって、「場」に自分があるのでは
ないということだ。そうしてその相手が話をしやすくすることで結果的に相手の行為を生み、行為と行為による「現場」的なコミュニケーションが現れる。
「場」というのは小田実の言うように「立場」のような閉じたものである限り、コミュニケーションは生まれ得ない。
そういった立場同士での関係は相手を取り込むか、相手に取り込まれるかという形になる。
だがこのように「立場」を離れた、自由な意識で接した時、自分が身構えないのと同時に、相手も身構えない。という状態になり、お互いにコミュニケーション
を通して、その「場」にいるその人自身を知り合うことができる。
この番組の中で、最初の温泉街ではそのような自由さを感じたが、後半になり、話す相手がバドミントン部の学生になると、すこし変わっていく。やはりそこに
は先輩後輩のような立場が現れる。だが、それでも小椋さんはその先に行こうとして、もっと突っ込んで相手の家に行き、床に座りみんなで話すことで打ち解け
ていく。それはかなり一方的で「現場」にアプローチしているのは小椋さんだが、それでも「現場」はそれなりに風通しがよい。それは一方的であれ小椋さんが
そのような「風通しのよい場」になるようにしたからだと思う。
そのような場の形成の力は本人の生まれ持った性格だけではなく、多分にバドミントンで築かれたものだろうと思う。
2.自由
ここで言いたいのは、小椋さん自身がそのコミュニケーションを楽しんでいるのがわかり、その作る空間は全体的にもとても楽しいものになっているということ
だ(番組前半の場合はさらに鶴瓶さんの力もあるように思える)。
鶴瓶さん自身も番組を見ればわかるが、そのようにどこへでも入っていき、自由に話すのだが、あまりにも番組が知られているので、相手が「あっ、つるべさん
だ!」と吸い込まれるような状態になっている。そういう場合はあまりうまく行かない。たしかに、それでもうまく行くように「する」技術を鶴瓶さんは持って
いる。それは取り込まれた状態から相手を解放する技術といえる。だが解放するだけでは何も変わらない。そうではなくて、たまに鶴瓶さんと同じくらいの自由
であくのある人間にであったり、そういうものに捕まれない子供たちに会うと、本当の意味で拡がっていく。だから、やはりお互いの自由度が主体的に保たれて
いなくてはこういうコミュニケーションはうまく行かない。
鶴瓶さん自身は常に楽しんでいて、そういう相手を身構えさせない状態でいるが、それが機能するにはお互いが、自由であり、例え有名人であっても、初めて
会った人間同士としてそこでコミュニケーションが生まれることが大事になっている。
3.「こと」を保つ
お互いに自由な関係とはどういうことなのか?
このことを考えるに「おたがいに無関係でありながら、しかも関係を持ち、相手のためにしないで、しかも相手のためになるような人間はいないものだろうか」
という荘子の中の言葉を思い浮かべる。
それは先ほど言った様に相手を取り込まないことと結びつく。自分は、ある立場の人間ではなく、ここにいるこの話しかけている人であり、ここでの行為によっ
て自分というものが現れている。それは言い換えれば、「こと」としての人間である。
この「こと」としての人間として相手の行為を引き出すということは、相手を取り込まないことだけではなく、相手の「こと」としての姿勢を引き出すことであ
る。相手を取り込まないだけだと、相手は取り込もうとするだろう。だがその際に自分はまさに取り込みようのない、「こと」であることによって相手の取り込
もうとする力が無効になる。そうあれたときに、相手は「こと」としての人間にならざるを得ないのである。
この「こと」としての人間というのは、「もの」としての人間と相対するあり方である。「もの」としての人間というのは、行為ではなく、例えば、知識を持っ
て人と対したり、立場を持って相対するということだ。
また、キャラクターという言葉があるが、それを適用し、キャラ的人間という像がある。このように自分で特定のキャラであろうとしたり、あるいは、誰かを
「こう
いうキャラだ」と決めるのも、そのことを通し自分と分断してとらえることで結局、自分を「もの」化している。それがゆえにそういう人たちは自分と「同じ
キャラ」の人を嫌ったりする。
知識を以て人と対するというのはその「場」の中で、ある種の権威として君臨することであり、それが行為に還元されている時はそうではない。だからといって
知識というのを行為に転換、発現し、場を形成することで、「こと」としての人間になるということでもない。
自然としていれば、どんな知識も役に立たないし、ただ身についているものだけがにじみ出るだけである。そもそも知識というのは自分が吸収するために知った
ものであり、それが場と関係するのは、それがそのルールに従っている「場」で通用するか、あるいは過去にはそういうことが通例であるとか、観測的にそうい
う傾向が強いというものであり、今の状況もその通例、前例に必ず従うということではない。
行為によって場が作られているときというのは、その場で起きていることに、その場で作用することで、その点では自分もその新しい状況の形成に関係してい
る。よって知識が場に関わる時には人の行為を通じたその形成においてであり、それに対してそれが知識になるのは、それを読み取る人間が特定の立場として
「その場」の外側で、関わらない形で行われる。だからあくまでも行為においては知識は作用に還元された形でにじみ出る形で現れるものだ。それはもはや知識
ではなく、その結果として形成されたもの、つまりそれが起きた場全体(作用と結果)が新たに「知識の一つ」として前例に加わるだけだ。
ここでいっているのは「行動的であれ」ということではない。人はそれぞれ行為へのアウトプットの仕方が違う。どんな人も「こと的」になればいわゆる「行動
的」な人間になるということではなく、あくまでも行為だけが残るというだけだ。だがそれでよいのであり、そうあるだけならどんなひとにとっても何も無理を
することはない。そして、その行為はその場でその人が行うただ一回きりの行為で、それが次に同じような場で同じ結果を生むとは限らない。
「現場」を作るというのは、前回見たように、主体的な行為によって周りが引き込まれる。だが、全体的視点が準備するのは「並列化された状態」にすぎず、べ
つに無理に行為をしようとするということではなく、自分を行為だけにするということで、その人らしい場との関わりが形成されるのだと思う。
一見主体的でないように見えても、それが包み込むような形で、場を形成することもある。それはそれで主体性は維持されているのだ。そのように「こと的」に
場が形成されるときは、関係性というもの自体が保たれることで自然と出来上がるのであり、押されれば引く、引かれれば押すというような相互関係性によって
出来上がるので、どっちが優位とかいうことではない。ただその「こと」を保つこと、それだけだ。
それが経験として積み重ねられて熟練するとしたら、その場への「ふれ方」の技術としてだろう。笑福亭鶴瓶はそのような意味で「楽しむ」ことの達人なのだと
思う。つまり、行動的であろうとなかろうと、その場に向き合い観察しふれる、そこはかわらない。だから、その技術というのは動的でも静的でもたしかにあ
る。
4.「楽しめる場」
そのように形成された場が、その場をだれかが占拠することなく外からみんなが関わって「転がし続けている状態」で、作られた場自体に「転がっていく力」が
与えられて、場は自然に展開していく。関わっている人はその場の共有性、風通しのよさを保つことに努力し(その意味で自分が入らずに、行為を注ぐ)、その
場に関わる時に外から石炭をほうりこむようにエネルギーを与える。そのような場を僕は「楽しめる場」と考える。
貴戸理恵さんは「『コミュニケーション能力がない』と悩むまえに」(岩波ブックレット806)という冊子で、関係性ということを、「『個人』にも『社会』
にも還元することを可能なかぎり先送りしながら、そのまま『関係性』の水準で捉えてみること」という非常に大事な視点で考えている。
その中で、「浦河べてるの家」といういろいろな障害を持つ人たちの集まるグループホームから、数人のメンバーを働き手として雇用している小山直さんの話を
載せている。そのまま引用する。
「私の会社には、べてるから毎日三、四人のメンバーが働きにきています。ゴミ処理の仕事や、ホームセンターやスーパーから委託を受けている配送の仕事など
です。もう、八、九年つづいていて、トラブルもいろいろ起きますが、メンバーの成長を目の当たりにできるのは、喜びでもあります。
近年、私がいちばん困ったメンバーにA君という分裂病〔当時。現在は統合失調症。引用者(貴戸さん)付記〕の青年がいます。彼と一緒に仕事をする人は大変
でした。出勤時刻は守れないし、途中で帰ってしまうこともあるし、何を話しているのかわからないことも多いからです。もちろん、私の会社では問題があるた
びに彼と話をしますが、それで次の日から変わるようだったら、彼はべてるにいる必要がないでしょう。やっかいなことに彼は勤労意欲満々というめずらしいメ
ンバーで、なかなか休んでもらうことができません。病状が徐々に悪くなり、皆がかなり参ってきたころ、私は社員にこう言われました。『A君を個人的に否定
するつもりは全くないが、会社は仕事をするところであり、その仕事に支障をきたしている彼には休んでもらうのが自然なことではないのか』と。
もっともな意見で、本来なら経営者である私が、とっくにそう判断していなければいけないところです。ところが私は、彼に辞めてもらおうとはそれまで一度も
思わなかったのです。
私は考え込んでしまいました。なぜA君を休ませなかったのだろうか、と。自分が優柔不断だからか? それもある。彼のひたむきさが伝わってくるから言えな
いのか? それも理由の一つだ。でも、それだけではない。私は考えました。そして気づいたのは、私はべてると10年かかわるうちに、人を選ぶということに
ひどくいい加減な人間になってしまっていた、ということだったのです。
かつての私は、どうでもよい些細な事柄でまわりの人間を峻別しては、嫌ったり嫌われたりして人間関係をこじらせてしまうのが得意でした。その私が『選ぶ』
という行為を放棄してぼんやりしてしまっていたのです。それは無意識のうちに、人生でどんな人と出会うかは、じつは選べそうで選べないことだと思うように
なった自分と出会うことでした。これは、なかなか愉快なことでした。」(浦河べてるの家、2002「べてるの家の『非』援助論−そのままでいいと思えるた
めの25章」医学書院)
実にユーモアのあるすてきな文章ではないだろうか?
この文に対し、貴戸さんは「ここには、他者との共存を、『選べない出会い』という受動性を帯びたものとして捉えるとき、『惜しむことのできないコスト』が
発生することが、よく示されている」という。
「隣に現れる他者は『使える人』かもしれないし、『使えない人』かもしれません。『強い人』であることもあれば、『弱い人』である場合もあるでしょう。け
れども、その人と『わたし』はともにやっていくのです。その人を含みこんでまわっていく場づくりに、もともとの場の構成員は知恵を絞るのです。ともに学ん
だり、働いたりする関係とはそういうものであり、そうであるかぎり、緻密な峻別や便利さの追求は、しすぎてもしょうがありません。そしてその受動の感覚
は、『なかなか愉快』でもあるというのです。」
また、貴戸さんは「『関係性のレベルで考える』とは、問題解決の責任を個人に負わせるのではなく、その個人を含みこむ『場』が担うものとして、問題を周囲
の人びとで共有するということです」とも言っている。
その点では小山さんは上の貴戸さんのいうような形で場を捉えていたために、問題を直接、自分の裁量で決めてしまわないようにしていたということだ。共に働
く場を誰かが考え、工夫していくのではなく、むしろそのために、積極的に場を「作ろう」とせずに、場から一歩引いている。
「こと」として行為として考えるというのはこのような、別に場が効率的である、とか協調性があるとかいうことではなく、関わり合い自体を「楽しめる場」で
あるということだ。だからその人が「使えるかどうか」よりも、この人たちで何かをするにはどうしたらいいか考える、あるいは自然にできるものを受け入れて
いくことだ。
5.楽しい
このようにして「楽しめる場」がつくられ、行為として関わる、「こと」としての人間として、場にエネルギーを与える。それこそが「楽しんでいる」というこ
とではないだろうかと思う。
第二回において、野生も現場主義者も、関係性というあり方に変わることで、自分の外に出ることが出来、その自分を含めて場を捉えなおすことが「楽しむ」を
可能にすると言った。
その時にいったように、その外にいる人は、今までいた「場」、例えばサッカーから離れるが、そのことによって初めて、ボールを蹴るのが「楽しい」ので、
「サッカーをしている」という、「サッカーをすること」が可能になる。
だからこの「楽しめる場」というのはみんなによって共有されているものである必要があり、その意味では明らかに、「現場」ではなく「場」なのだ。つまり関
係性に自分があるということは他人と自分がいて成り立つ「場」であり、関係性ということはじつは「場」と同じ意味を持ち、それは一人ではなく共有によって
生まれることを是認することだ(第二回の4章で、「その人『自身』が『場』の中にある状態においてこそ『楽しむ』は有効になる」と言ったのはそれが故
だ)。
そのような「場」は「生きた場」であり、小田実の言う「立場」のような形骸化した「場」になる前のものだ。
その「場」に外から関わるというときに、野生なら「ボールを使って遊ぶそのこと」を現場主義者なら「みんなが誇りを持っているそのクラブチーム」を愛して
いるのであり、それは現にここにいる人びとの集まりとしての「場」としてあるのだ。
そのように「現場」を作る力をもって、場をフレッシュな「生きた場」に戻し、活力を与える。
それには「現場」を作りながら、それを自覚し、コントロールせずに、「楽しめる場」として保つ努力が必要だ。
場をあくまでも行為によってのみ動かしつつも、ある意味で放棄する。そのように「立場」にならないようにしながら、「現場」としての主体的行為をもちなが
ら、己を捨て、現場の緊急性も消す。そういう「風通しのよい楽しめる場」の状態こそ、関係性にあるということであり、「楽しむ」を生むのである。
ここまで、長い時間をかけて、「楽しむ」ということについて考えてみた。そして結局のところ、「楽しむ」というのは「楽しい」を生む場を作ることでもある
ということになるだろう。「楽しめる場」というのはそこに関わっている人が楽しい場なのだ。
もちろん積極的に関わって場をコントロールしようとしないので、それはそのような場を作っている自覚をあまり生まないだろう。だが、結果的にそのような意
識に上らないレベルに距離をとっていること自体が、「楽しめる場」をつくる。むしろその場で自覚する時に感じるのは、以前の没入している「楽しい」ではな
く「なかなか愉快」という「楽しい」であり、そこにあるのは「楽しむ」という行為だけなのだ。だからその距離感、ふれ方を自覚的に掴んでいく。それは自分
が「もの化」しないように自分というものを開くということでもあるだろう。
そのように「こと」を保つこと自体、結構大変なことなのだ。
さて、以上でとりあえず「楽しむ」についての考察を終了したい。が、もちろん今後もこのことはいろいろなところに関わってくるので、他の考察の果てにあら
たな「楽しむ」に関することが見えてくることだろう。それはその時また、考えてみたい。
(hayasi
keiji,13/1/25)
参考文献
小川環樹編 世界の名著4『老子・荘子』(中央公論社)
小田実 岩波新書 黄341『われ=われの哲学』(岩波書店)
貴戸理恵 岩波ブックレットNo.806 『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに』(岩波書店)
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