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コラム
vol.42 野生の可能性〜「楽しむ」に関するafter service1〜


コラム「楽しむ」を踏まえて、気づいた野生について言及しておきたい。
野生という言葉の問題や、サッカーの持つ意味やそこへの関わり方の野生と現場主義者の違いについてはafterservice2でも書いたのでそちらを参 考にしていただきたい。ここではその野生自体の可能性を追求する。


サッカーやバレーにおいて、現場主義者と野生というあり方を提示した。
その際、どちらもそれぞれ信念とボールという依存しているものがあり、そこから抜けて、関係性に移った時に、そのサッカーの外側に出られ、サッカーを「楽 しむこと」が可能になるといった。

もう一度このあたりを見返して気づいたのだが、僕はこのコラムで野生について、もともと彼らはボールを蹴るのが「楽しい」ので、「サッカーをしている」の である。と書いた。その野生をこうも言った。

「それは言うなれば、サッカー(あるいはバレー)という『環境=文化』における野生であり、それがゆえに『この現場』からは自由なのである。ただただサッ カーがしたいだけということで、つまり今この試合の『現場』の外側にはいるが、サッカーという世界の外ではない。サッカーが社会ではなく世界なので、社会 が存在しないというべきか。
だが、それは彼らの野生がボールを追う犬のように、つまりボールがなくても『自適』でいられることかはわからない。だが彼らがボールを通して『今』につな がれていて、『今』だけを追っていることは確かだ。」

だがどうも間違っていたようだ。よく見ると、野生にとってのサッカーと、現場主義者にとってのサッカーは違う。
野生にとってはサッカーというのは自分とボールとの間を結ぶ遊戯、それがひろがり、周囲との関係、共通項になっている地点であり、それに対し現場主義者に とっては最初からサッカーという文化としてある。野生にとって、「サッカーという世界の外ではない」という時に、そのサッカーは「ボールとの関わり」とは イコールだが、文化としてのサッカーを直接指してはいない。

そのボールというのは物理的なものであり、信念というのは意識的なものだ。信念はサッカーという文化とのかかわりの中に存在する。だからそのままでは出ら れないというのは当然だが、それ自体が、そのまま現実の社会のモチーフとしてクラブチームを形成するという意味では、「文化の中の文化」としてその中にい ながら外の文化と繋がっているとも言える。

それに対し、ボールはそれに最初に触れるときに、人にもよるだろうがルールよりも前に「ボールに触れる」ということが自分の中でサッカーをやる楽しさとし てあった場合、それはそのボールとの関わりによって、サッカーの外から、サッカーによって共有されている社会、つまりクラブチームやチームメイトとの関係 性を貫いて、そのボールとその人との関係がある。だからそのことによって、彼は「社会=サッカー」の外つまり、野生としてあるのではないか。ということは サッカーという共有された「場」の外にいることになり、「楽しむ」との関わりで言えばサッカーをするとき常に「楽しむ」ことはできることになる。彼が楽し めなくなるのはボールをうまく扱えなくなる、あるいはボールに触れる機会がなくなる時だ。

ともかく、彼はボールとの繋がりからは逃れられないが、サッカーという文化からは逃れることが出来ている。つまりサッカーという「環境=文化」としての野 生ではない。ただ、やはり「楽しむ」のコラムで言ったように、関係性に関わる地点にあることで「楽しむ」というのはこの場合、ボールとの関係性という点で も同じく常に他者的でなくてはならず、そうでないならばそれは「楽しい」というボールとの一体状態でしかないし、周囲との関係性という意味での「楽しむ」 に移ることにもならない(極論を言えば、ボールを自分から奪い取るものはすべて「敵」となりかねない)。

その点は変わらないが、やはりボールというのは、物理的なものであり、そことの関係的な「こと」的状態を通して、「楽しむ」ことが可能になっている、とい う点では、彼らは現場主義者と違い、原理的にサッカーという文化の外にいることは大きい。
彼らはボールとの関係から、コントロール的にはできないということを体得していき、そのことを通して人との関係を知る。その点では関係性に移るという際の 超越はない。


彼らが楽しめなくなるのはボールに触れる機会がなくなる時だと書いた。
その時ボールへ関わる機会を自分から増やしていくように関係性全体に意識を向けていく必要がある。そうすると守備はボールを奪い取る機会であるし、そこか ら主体的に場を組み立てていけば、自分がボールに関わる機会は増えていく。ただその姿勢はボールに触りたいからという根源的なものがある以上、その作った 関係には最終的に「自分が蹴る」という自己中心的なありかたになりうるし、それがゆえにチーム全体の勝利における可能性を減らすことも起こり得る。だが サッカーはやはりそれでも結果が出ればよいわけで、その「自分が」と「チームが」の間で揺れることになる。

野生である彼らもプロとしてサッカーをしている以上は、物理的にはそのサッカーという文化の中にいる。だがやはりその本質的な「自分とボール」という源地 点があることで、その「場」にはいない。その結果、彼らには社会的な立場からアプローチするような力はない。だからこそ現場主義者に比べて一見関係性への アプローチは下手に見える。だがそれは既存の「社会的な関係」であるがゆえに、むしろできない相談なのだ。だから彼らはあくまでも利害が一致したためにそ の町(クラブチーム)に貢献するアウトローのようなポジションなのだと言える。

だがクラブチームが全体で一つの攻撃をなすというときに、やはりそのボールとの関係から「関係性への関係」という、より本源的なサッカーの発生地点になる ことが求められることは言うまでもない。

バルセロナというのはそういう意味で「攻撃的サッカー」といいながらアウトローを求めない。それは「関係としてのサッカー」という特異点なのである。もち ろんそのようなサッカーだけが「サッカー」であるわけではない。

再び話を戻そう。

現場主義者も野生と同じようにその姿勢は社会的な「立場」というような生易しいものではなく、それは絶対的なクラブチームという文化への帰依としてある。 それは求道者というより、その急進的な信仰の姿勢によって逆に組織を生ぬるいものにさせないという支配性をもつ。


そして現場の状況に対応するために、そこにいる人をその状況の打破という文脈において結びつける。極論を言えば味方も自分がクラブチームを勝利に導く道具 にすぎないということであり、その信念に基づく文脈でしか捉えない。
だから現場主義者は特殊な「現場」としての関係性へのアプローチはできても、それは通常の社会的な関係ではなく、むしろそういうアプローチは上手ではな い。

現場主義者は確かにその「勝つためには何をやってもいい」という信念を持って、現場に絶対的な並列性を見出すが、現場的には並列性さえもたらされればそん な信念はどうでもいいはずだ。むしろその信念は「どうあるべきか」という姿勢を縛ることで結果的にクラブチームを硬化させることもあると思う。そのような 限定性が文化としてのクラブチームの中で作られたアイデンティティによってもたらされるならば、それは本来クラブチームが発生した時にはなかったものだ。 むしろ関係性を発生させるという地点は、みんなによって今行われていることから、クラブチームが発生しているという発生地点に立つことと同じだろう。
そしてクラブチームの勝利が、逆に文化を作ることも起こり得ると思う。
弱肉強食ということの意味は本来、社会はそのように組み替えられるものだということだ。
つまりその信念を通して徹底した並列性をもたらそうとする時に最後に障害となるのは、その信念自体なのだ。
現場主義者はもし関係性の発生する地点に移るならば、すべてを支えていた信念を捨てなくてはならない。それが困難なことはまちがいない。


だからと言って、すでに「楽しむ」のコラムで見たように、「場」に「立場」からアプローチするということは、結局のところそこで今発生している「生きた 場」への主体性はない。
その点ではやはり自分を並列化された関係性に関わる地点に置くということが非常に重要であるということだ。

先ほど見たように野生にもそのような自己中心的な現場の組み立てがありうる。だが守備としてボールを奪ってから自分で最後までドリブルすることはやはり難 しく、どこかでボールをパスし誰かにゆだねることになる。それでも、そこをよく見るとボールを手放すことでボールがやってくるというパラドックスのような ものがある。それは場に主体的に関わっているならば「場の行方」が見えており、最終的に自分が一番可能性を見据えていられるからだろう。それはボールがな くてもそこにある関係性は見えているということだ。
野生は最初の地点である「ボールとの関わり」の地点から、ボールをコントロールするという、自分にボールを取り込む一体的な姿勢ではなくて、「こと」的 な、ボールを他者としてそことの関係性として全体のサッカーが捉えられているならば、個人的な姿勢から関係性へ移ることに断絶はない。むしろ野生の場合そ のような非コントロール的なボールとの関わりをもってして始めて現場で生き残ることが出来る。

このように野生はやはり最初からそのサッカーの外にいるということが非常に大きな意味を持っているように思う。

最後にこの二つを最終的に分ける大きな違いがある。現場主義者は否応なく、現場から離れること(引退)によって抜け殻になるが、その点では野生はまた、 ボールとの個人的な関係にもどり、そのボールを通し周囲との関係を結びなおすことが出来るということだ。
現場主義者は、監督になることで現場にい続けるか、信念ではなく関係性と関わることで、新たな世界を切り開くしかない。「その現場」は、自分の行くところ に持っていくことが出来ないからだ。
もちろん野生も他の人なくしては、ボールを蹴ることはできても、「サッカーということ」は出来ない。バレーもボールとの個人的な関係だけというのは無理 だ。セッターなくしてスパイクはない。
だがそれでも彼らはまずボールがあって人がいるという順番において、自由であり越境的だ。彼らはボールと友だちであることを通して、人との関係を知る。そ れに対し現場主義者の平等は現場への受け入れとしてであり、現場で働くものは誰であれ拒まないということだ。

サッカーは文化であり、その多様性がおもしろいことはいうまでもない。だから、「現場と文化」、「自分とみんな」の間で揺れる彼らを見てわれわれは感動す るのだろう。現場主義者もその土地の人と環境から発生し続けている「生きた文化」につながれているかぎり、それは野生と同じ可能性を持っていることも確か だろう。

だが野生は地球がなくなってもボールがあればいい。他の星の人とまたバレーやサッカーをすればいい。そこには関係性とはまた違った次元の可能性が秘められ ていると言うことができるかもしれない。

再度言おう。

つまり彼らはボールを蹴るのが「楽しい」ので、「サッカーをしている」のである。
(hayasi keiji,13/2/24)


   
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