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コラム
vol.43 2つの問題〜「楽しむ」に関するafterservice2〜


コラム「楽しむ」を上梓したのち、間違っている点に気づいた。そこを整理しておかないことには今後の考察が立ち行かなくなるので、今回はそのことを微に入 り、細に穿ち考えてみようと思う。(これらの問題についてafter service1でも別の方向から考えたのでそちらも参考にしていただきたい)

もう一度整理する。

ポイントは現場主義者と野生の部分だ。
現場主義者はともすれば文化としての野生となりうる。その点は現時点でもそうだと考えている。それに対し、野生は「環境=文化」としての野生だと言った。 これはどうやらおかしいことに気づいた。
ここには2つの問題がある。


1.サッカーとの向き合い方

まずはサッカーに対する現場主義者と野生の向き合い方だ。
現場主義者はサッカーを「文化」として捉えている。それは環境=文化として、その社会の中にあるものだ。それに対し野生はサッカーを「ボールとの関わり」 と捉えている。

だからそれぞれにとって「サッカー」の指すものが違う。野生にとっても文化としてのサッカーの存在は確かにある。みんなとボールを蹴る「サッカー」をする には、その共有を求められるからだ。 つまりボールとの関わりを通して、他人と関わりサッカーをする際に受け入れなくてはならないルールとしてあり、自分がボールをうまくあつかうことで、それ を乗り越えようとする。

だから野生はあくまでも文化としてのサッカーを共通認識としてではなく、「クリアすべき障害」として捉え、それをクリアするためにボールをうまくあつかえ るようにする。

現場主義者はそれに対し、他人と関わりサッカーをする際に受け入れなくてはならないルール=文化を全的に受け入れ、その中で最大限の結果を出すことが出来 るように、ルール内でのあらゆる可能性を考慮に入れ行動する。

このように彼らはサッカーに対し向き合い方が違う。野生にとってサッカーはボールを蹴ることの延長にある、「みんなとやるゲーム」であり、現場主義者に とっては自分がその中に入り参加する文化としてある(ボールはその中に含まれる)。つまり野生はサッカーという文化の外にいて、あくまでもボールとの関わ りの中で、サッカーと関わっていく。だから野生はサッカーという「環境=文化」としての野生ではない。むしろ現場主義者のほうが「環境=文化」としての野 生だということになる。そうなると非常に分かりにくいことになる。それが2点目だ。


2.野生とは何か

環境=文化としての野生とメッシのような野生。これらの関係を考え直してみる。

問題は野生という言葉の使われ方にある。
野生というのは人間以外の、「人間の社会から逃れている存在」という風に(例えば野生動物)元来は使われている。だがそれは「自立している」ということで あり、人間以外の社会において疑いなく暮らしている生き物がすべて野生ならば、人間の社会のもとで、その環境、文化に疑いなく生きているものも「野生」と なる。インパラはインパラの、アフリカゾウはアフリカゾウの社会の中にいて、それに対して自己改変も疑いも抱いていない。それが「野生」であり、人間も同 じで、自分の育った環境や文化に対し疑いを抱いていないことが「野生」であるということも出来る。そういう言い方をすると、もはや野生という言葉は適切で はなくなる。

いままで使ってきたうち、「環境=文化」としての野生は、その人間の属する社会に「疑いを持っていない」という意味での野生であり、それに対し、あるス ポーツ選手の状態を指した野生は「人間の社会から逃れている存在」として野生という語を使っていた。つまり、野生という言葉の区分がうまく出来ていない。
実際今までのところ、「『環境=文化』としての野生」と「野生」がそれぞれそのように分けてあり、単独での野生という言葉は基本的に後者の「人間の社会か ら逃れている存在」として使ってはきたが、どう考えても混乱をしてくる。

この際、「環境=文化」としての野生のような「社会的自己に対し疑いなく暮らしているもの」のみに野生という言葉を使い、「人間の社会から逃れている存 在」のほうは別の言葉を適用すべきかもしれない。それは自覚を持っているために人間としてはむしろ野生ではないのではないか。

というのも、この存在に野生という言い方がなされるのは人間の社会を中心とした偏った見方が紛れ込んでいるからである。むしろ彼は自覚がある分、社会とい う点で見るなら彼のほうが「疑いを持っていない=野生」ではないことは明らかだ。ただ肉体的なだけだ。つまり肉体の持つ知性を持っているということだ。い ままでそのような存在に「アウトロー」という表現を使ったこともあるが、それも適切ではない。彼らは人間社会に対して反発する反社会的な存在も含むから だ。その場合それはけして「人間の社会から逃れている存在=非社会的」ではない。

また、「環境としての野生」も結果として、自覚しないうちは肉体的=自然的な力を手に入れることが出来ている(例えば「豪傑たち」であつかった水滸伝の鉄 牛)ので、その点では「人間の社会から逃れている存在」と同等の力を手に入れている。メッシたちとこの「環境としての野生」の違いは、その力の源へのアプ ローチを自分自身にするか、環境=自然との一体化で行うかの違いである。


このように言葉は使うことで制限される。非常に厄介なものだということをつくづく感じた。使った言葉に対し、「では、そのサッカーとはどんな意味を持って いるのか、あのサッカーとこのサッカーは違うのではないか」と考えるのはとても大事なことだと気づかされる。何かに限定されるのではなく、「でも、それが すべてではない」と考えること。これが大事だ。


3.現場主義者と「環境=文化」としての野生

もうちょっと整理しよう。 サッカーにおける現場主義者は、環境=文化としてのスポーツにおける野生である。当然だが彼にとって現場はサッカーより前には無い。サッカーをやり始め て、その中での現場への対応が徐々に現場主義者を作っていく。つまり全的に受け入れる精神状態になっていく。


そもそも現場主義者というのはその「現場性に対する対応=勝利」に必要な自由度を手に入れるために、ある信念をもち現場にすべてを捧げるということによっ ていて、それはクラブチームや職場(警察官、消防士などからサラリーマンまで)や、愛するものを守るという愛や忠誠、信念のような精神性をもってなされ る。

だが、現場での対応においてそれは逆に言えばクラブチームのためにするという非主体的な状態でもある。そのような構造はクラブチームの状態やファンとの関 係性のようなものに左右されるということであり、そのクラブを保持しているその文化全体における野生=疑い得ないものとして、その文化自体が環境的に持っ ている改変性を通しての変化以外は不可能だということだ。

例えば「クラブチームの理念=どのようなサッカーをすべきか」はその社会において「どのようなサッカーが望ましいか」というものに従うことになる。
つまり現場主義者はその信念に従うかぎり「環境=文化」としての野生とならざるをえず、そのクラブチームの属する社会が「環境=文化」としてそのサッカー を改変可能であろうとなかろうと、彼自身にとって疑い得ないものであり、まずその文化を通してしかアプローチできない。だが実際に彼が行うのは今そこにあ る現場への対応である。

だからその中で真に自由度を保つには常に「そこにある現場」に向き合うという姿勢が必要であり、その現場性が彼のなかに逆説的にすべてを並列的に捉える非 社会的な状態を作る。だが彼らはそのために文化、クラブへの愛を以て現場への対応性を挙げている以上つねに自分から文化としての野生状態を作ろうとしてい ることになるともいえる。つまり常にその「現場性」と「環境=文化」の間を揺れ動いているのである。


4.野生ではないもの

現場主義者は「環境=文化」によってささえられるが、メッシや一部のアウトローのような「野生」は、ボールを通して「社会=ルール」をすべて相対化し「人 間の社会から逃れている存在=野生」に還っているため、彼にとっての環境は唯一変わらない「自分」だけである。

だから最終的に自分以外を相対化し、自覚をしても、その際に自分というものがどのようにあるのかが理解されるために、むしろそのことを通して本質的な野性 の力を捉えることが可能になる。

それに対し「環境としての野生」はその自分の状態を自覚した(外から見た)時に、元来自分の力を引き出していたものである環境への接触をその文化との一体 化に頼っており、それがゆえに失う。それは「文化としての野生」も同じことで、文化そのものが自己のアイデンティティの源泉であったので、自覚することで 自分自身が崩壊する。

だが文化も最初の生み出された環境の下にあったときのように、生まれ続け機能し続けているならば、それはそこにいる「人々」によって共有的に生み出されて いる。その共有性によって作られるものとしてのその中身=文化ではなく、共有=関係性が発生する地点に立つことが大事なのであり、あくまでも「文化は生み 出されたもの」である。

現場主義者は最初はどうであれ、その文化の下で「現場=今」への対応をし続けるうちに自由になる。その自由は関係性を全体的に並列化すること(使えるもの は何でも使う)で得られるのだから、その並列性が大事なだけであることに気づいたなら、もはや彼は「『環境=文化』としての野生」ではなく「関係性の下に いる人」になる。それは共有された「もの」の外側にいることになるからだ。
関係性の元に移るというのは自己を失うことではないことはすでに書いたがもう一度言っておくと、関係性とは自分を含め、他者化することで可能になるという ことだ。自分も他人も、他者である、という地点に自己を置く。その地点から主体的に行動することは文化の外側から自分を含む文化を捉えなおし行動できると いうことにほかならない。つまり生身の人間に戻り、今発生するものに向き合うことだ。

メッシのような野生もボールや拳銃というアイテムへの物理的な接触を通して、社会から解放されているが、それらの道具から自由ではない。その道具はその時 点では、身体と一体化し切り離せないという点で疑い得ないものとしてあるうちは「疑い得ないもの=野生」の状態だが、その道具をも他者として扱い、そこへ の触れ方を通して、関係性を持ち、その関係性から他者との関係を作るようになる。そのときにコントロール的ではない触れ方を磨くことで他の人との関係性に おいてもコントロール的ではない「関係性にある状態」という「こと的状態」が現れることになる。

つまり専門家あるいは職人としてのあり方から、本当に生き延びるにはその道具を従来のあつかい方(「場」的な文化的概念)以外の見方でも捉えられるよう に、むしろその道具を自分から引き離す必要がある。そのような地点にあって初めて非社会的な人間であり、ボールとの非言語的な会話をするという点で、「野 生動物的」になる。つまり自分自身という環境から自分の力を引き出している。それが結果として彼が関わることになる現場や文化自体を発生させる力を有して いる。

そこまで行くと彼は、「人間の社会から逃れている存在」としてだけでなく「疑い得ないもの」としての野生をもその中に含みこみ、その文化を発生さている地 点として生きている本当の意味での「人間としての野生」になるのではないだろうか?

メッシや木村沙織、マカロニウェスタンの名無しはボールや銃に関する専門家や職人であり、環境やルールや状況への対応がやがて「人間としての野生」を呼び 出すように思える。彼らはそこに至る道が、肉体的であり、直接的だ。
それに対し現場主義者はその「環境=文化」としての野生の力を最大限に引き出すために信念、愛、信仰にたより極限まで精神的になり、その結果、現場へと向 き合う非常にリアリスティックな姿勢が生み出されるという逆説的な跳躍が起こる。

つまりその信仰や信念をこえて、今ここで発生しているものへの対応という行為を通し、最終的に関係性のもとにいるだけという状態にいたることは可能だ。だ がそれにはやはりそこには信仰から物理的なものへの飛躍ということを起こす何かのきっかけが要るのかもしれない。

それは精神性を捨て物理性を取れというように見える。だがそれは非人間的ではない。現場主義者も結局のところ一人の生身の人間なのである。つまりその生身 の人間からの発生という発生的な精神になるだけだ。それこそが文化の生きている、生まれたての状態であり、すべてを楽しむ状態である。

つまり「人間としての野生」になるのだ。
(hayasi keiji,13/2/27)


   
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