vol.44 サッカーをめ
ぐる再分解〜その結果としての構築〜
このところの一連のコラムで「サッカーは文化である」と言った。
今回はそんなサッカーはどのようにこの社会とつながっているのかを見る。そのことで少し今までのコラムを読む助けにもなるのではないかと思う。
1.文化
まず文化とはなにかというところからはじめなくてはならない。
文化とは「共有しているもの」である。と考えている。ある社会の発生そのものが、ある文化の発生に繋がる。人間がその土地で生きていくとき、その地勢や生
態系に応じて、生きていく方図は変わる。その中で、共有しているものとして文化は発生していく。誰かがひとりでやっているだけでは文化にはならない。それ
は共有されその社会の中で一定の型として定まっていったことで文化になる。
2.スポーツ
スポーツは文化であるというのはそのような意味で捉えれば、スポーツもある社会の中に一体となってあった儀式や遊戯が、あるいは生活上の行為が、それ自体
が生産性を持たずに、やがてその行為自体が目的となっていったものだろう。
それは社会の中の社会ということになる。「プレイ」というのは規制があって成り立つ。そうでなければただの行為だ。鬼ごっこも、お医者さんごっこも、サッ
カーも同じことだ。
3.ルール
それはルールによって成り立つ。スポーツはそのルールを共有しその中でする行為ということだ。
そのルール自体が本来の社会の影響を受けていることは十分に考えられる。それは模倣であっても、理想であっても、影響の元にある。もしかしたら純粋なその
行為のもつ快楽の元に生まれたものもあるかもしれない。そういうものは若干違う意味合いを帯びてくるかもしれない。
だがボールを蹴ることの持つ快楽性とそれがあるルールの元に置かれることはまた別だ。だからボールゲームのルールにはある種の社会の影響があるだろう。
4.ルール以外
ではルールはゲームの中でどれほどの影響力を持つのか。たしかにサッカーにおいてフィールド内のプレイヤーはキーパー以外原則的に手でボールに触ることが
出来ない。
だがルールの元でのプレイ、例えばただのドリブル、ボールを足元で繰り返し蹴りながら走ることにおいても、そのやり方は千差万別であるし、ゴールの目指し
方、チーム全体の関係性のあり方は、その関係性の形自体に千差万別があるだろう。ゴールまでボールを届けることが目的なのだから、その達成において、フラ
ンス人もドイツ人もイングランド人もウェールズ人もスペイン人もそれぞれ自由に考えることになる。それならばそれらの人々の考え方がそのプレイに影響をも
たらすことは十分に考えられる。
5.人々
そう考えた時に、もちろんフランス人にもいろいろいるだろうし、スペイン人にもいろいろいる。リーグアン(フランス1次リーグ)でプレイするドイツ人もい
るだろうし、リーガ・エスパニョラ(スペイン1次リーグ)でプレイするナイジェリア人もいる。
だから簡単には言えないが、大多数のプレイヤーも観客もそのリーグのある国の人間であり、いろいろな性格はあるだろうが、それぞれのリーグは集約的にそこ
に住む人々の価値観の影響を受けていることは間違いない。
だからといって民族主義やナショナリズムの話ではなく、人間もそこまで単純ではなく、同じ国にいろいろな価値観を持った人々がいて(スペインのカタルー
ニャやマドリードやバスクのように)、それは時には正反対と言っていいほど違ってくる。だからその中身は多様化していく。
6.つながり
その中で関係性が作られる。関係性はもちろんしっかりとした監督の意向や選手の意向をふまえたものではあるが、多様な人々のプレイするフィールドを同じ価
値観で語るのは非常に難しい。
1995年のボスマン判決以後、EUの労働規約に則った契約に基づき、EU内の選手は比較的容易にEU内のほかの国でのプレイが可能になり、もはや「外国
人」ではなくなった。
だがファンはやはりそのクラブチームの地元のファンが基本であり、その中で育つクラブチームの価値観も当然プロであるからその影響を受ける。みんなが見た
いものがプレイすべきものになる。だから関係性は選手だけではなく地元のファン、つまりその土地とのつながりを持ち続けるのである。
7.個人
そのつながりの中で個人はゴールへボールを届けるために、あるいは勝利するために、自分のプレイをする。それはもちろん周囲とのつながりを持つが、やはり
やることは脚でボールを蹴ることである。
その二つの、つまり関係性と個人のせめぎあいの中にどれだけ多くの可能性、選択肢、あるいは自由を見出すか。それが選手に求められる、いや選手自身が自ら
に求めることになる。そしてそのせめぎあいはそれ自体が関係性との関わりかたという自分のあり方に繋がっていく。
8.文化への再配分
そのような中での個人のプレイはそのままそれを見る人々の脳裏に焼きついていく。
オランダ人であるヨハン・クライフのプレイがスペインのFCバルセロナに与えた絶大な影響は国籍を超えて残り続けている。
同じリーガ・エスパニョラのアスレチック・ビルバオのようにバスク人のプレイヤーにこだわるチームもあれば、レアル・ソシエダのように同じバスクでもバス
ク人比率が少ないチームもある。
イングランドのプレミアリーグでは同じマンチェスターの市民が二つに分かれ、ユナイテッドとシティを応援している。
クラブチームに栄光をもたらすことがファンにとっては一番大事なことだ。
だがただ勝てばいいというのでもない。ファンの好む「勝ち方」というものがある。フィールド内の文化とフィールド外の文化。それはお互いに影響を受けなが
ら存続する。
そしてやはり最後には、そのフィールドで起きたことが、その土地の文化、その中で暮らす人々の価値観に回帰していくのである。
「文化の中の文化」は「社会の中の社会」である。
そして、それは裏返しに文化の外でもある。内の内は外、反対の反対は賛成なのである。文化のルールが解除され、フィールドのルールという肉体的な世界に
なった時に、芝生の上は文化を超えた活躍の可能性がある「現場」となる。そこでの行為が逆に文化を作っていくことになる。そういう場面を何度でも見せ付け
られてきた(バレーボールに至ってはボールが足元に落ちると失点するというルールのもつその極限性がサッカー以上に「ポジション」という、やはりルールの
あ
たえた文化的行動をとるような余裕を与えないという逆説的状況を生む。また肉体的特長や技術がよりはっきりと実際的効果を持ち始める。それは1つのミスが
即、死
に至る厳しい自然環境のようなものだ。サッカーではそのような状況はゴール前という「最後の空間」に至り、初めておこる)。
スポーツは結果を真剣に受け止め、ファンを含めたみんなが本気になり、議論する。
ごっこ遊びはもはや戦争の代わりにすらなりうる。
(hayasi
keiji,13/3/4)
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