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コラム
vol.45 世間士になる 方法 〜肉体の持つ知性・総論〜


長いこと考えてきた「肉体の持つ知性論」もそろそろひと段落させたほうがいいように思う。
なぜなら、今拡がっている問題はこの先、肉体の持つ知性を超え、手に負えない地点になっていくように思えるからだ。

『人間の持つ野生』の中で取り上げた、文化論も、『楽しむ』の中で見た関係性の先にある「生きた場」も、もはやそれを調べるには、文献やメディアに頼る必 要が出てくる。つまり、共通認識に依存し始めることになる。また、今まで考えてきたような神話や豪傑たちに「類型」を見て考察することも結局のところおな じように共通認識に依拠するという矛盾をかかえている。
それは『ドーナツ型の知性』でも見たようにもはや肉体の持つ知性の限界を超えている。共通認識は今までの話からすれば、肉体の持つ知性が解除する対象に なってしまう。

だから、肉体の持つ知性に限定するならば、ここまでで十分な考察が出揃ったように思える。そして「この先の考察」に向けての下準備をしようと思う。


1.動きの中で考える

最初にニーチェやエトーやアフォーダンスから共通する何かを感じ、取り組み始めたわけだが、それ自体もちろん文献や映像でしかない。でもそこから何かを感 じたというのは、今思えば”知覚的に共通の感覚を与える何か”を感じたということではないかと思う。
そもそも、エトーに感じたものを”ヒョウのよう”と言った時に、僕はそれを知性と言っている。
それはヒョウのたたずまいに人間とは違う地点での知性、頭のよさがあるように見えるからだ。そういう感覚をJリーグのサッカー選手からは未だに感じたこと はない。その特殊な知のあり方が、ニーチェやアフォーダンスの指すものと繋がっているように感じた。

だからその感覚を与える源である根を探すことが必要になった。
フッサールのいうように自分で考えるすべての人が哲学者、現象学者になる。ということを考えた時に、結局のところ僕自身の思考の仕方、考察の仕方自体も、 現象学者のそういうあり方、つまり一度すべてを根本から考え直して、組みなおすということになる。

肉体の持つ知性の『outtake1』で僕は旅の状態はいろいろな荷物を捨てていく、そのようにして執着を捨て、五感を残していく。ということを言った。
それはフッサールの言うところの「還元」、つまり知覚を残していく。ということだ(そもそもそのような知覚情報によって自分の周辺に「世界」が形成されて いく。だからそれは「生きる」ということと、それにもとづく統合であるように思える)。

そうして、考察をしていったのだけれども、その結果最終的に行き着いたのは、宮本常一の言う「世間士」、環境を渡り歩く旅人だった。 それは結局スタート地点に帰ってきたということだ。

だがただ戻っただけではない。その考察の中で見えてきたものは、自分の心と身体、生きることと仕事、そして関係性という、最初とは違うより深い理解、精度 を持った構造の認識のように思う。

その全体をもう一度一つにまとめるとどうなるのだろうか。


2.総論

『動きの中で考える』の時はまだ”五感で”という漠然とした普通の視点だったと思う。つまり五感で感じていないところから”五感で”というほうを見てい る。
そこからメッシの時間論まで1年半くらいゆっくり考えていった間に、もうすこし深い地点(”五感で”ということを共通認識的でないものを通して考えるな ら、時間や空間について考える必要が出てくる)でいろいろなものを考え直さなくてはならないということになり、徐々に五感の側に自分が立ち、行為を通して 非顕在的な意識の奥のところで考える。という僕の言葉で言うところの”深思考”で考えるようになった(この間にいくつかの試論やキーワード、草稿ができ る)。そうして最初に出てきたのが「時間論」だった。

まず最初に、速度ではなく精度ということをメッシを通して考えたのだけれど、その時はまだ、”時間論”としてマスターとスレイブの同期の問題として考えて いた。同じ時間の流れにある2人の関係という、あくまでも共通認識としての時間の主導権の問題、そしてその流れと一致すること(それは静止性へとつながる が、まだここでは時間の概念の混同が解けていないのでそこまでいっていない)で、逆に時間を意識しなくなること(すでにある時間の主導権を握るという意味 で、ただ流れに身をまかせること)でしかなかった。だから「時間の中身をより細かく捉えること」という「精度」という概念はまだ”時間論”の枠を出ない。

だが、時間には二種類あり、社会的時間と、本質的時間がある。そして本質的時間というのは、変化の結果としての時間であり、体の認識としては知覚情報のみ という無時間空間的なのだということになる。

そのように空間的であること、その結果としての時間と、社会としての共通認識の時間が違う。そして、共通認識としての時間は意識に、変化の結果としての時 間は身体に関係し、意識は五感を通して、知覚することでそのような社会的な時間から変化としての時間にシフトし、空間的な姿勢になる。

それは「私」が知覚のみを行うという、フッサールの還元の状態になる。これを僕は静止性という問題としても考え、意識と身体の「ずれのなさ=今」として空 間的になると考えた。時間ではなく空間が肉体の持つ知性論の中心になる。そうすると「心身合一」の問題や、メッシの「コミュニケートの精度」もあらためて 違った捉え方ができるようになる。

これはまたいくつものことを同時に引き起こすことになる。

まず、無時間空間的というのは、時間的な思考や存在の解除であり、想像をすることが解除される(時間は発生的になり、物事は偶発的になる)。そして、共通 認識としてあるルールの解除につながる。そのようにして非社会的になる。

と同時に、生物としては生きていくために、想像ではなく、いまここで、関係を作り続けているという状態の認識が生まれる。
そのようにして社会は作り続けるものになる。そのとき意識は「私」から「関係性」に移り、それと同時に、発生的になる(「私」の主体が「身体=知覚の統 合」と「意識」の相互的な発生状態に移る)。

意識というのは身体と違い、”無空間時間的”な存在であるから、つねに自分を他者と分かつ「区切り」が必要になる。自我というのはそのようにして、アイデ ンティティとしての「1=1」を確保している状態である。それは区切ることで個体、「もの」になる。

常に今であることは、自我としての「形あるもの」が解除され、つねに以前の自分ではないことになり、自分の外に出ることになる。
それと同時に意識はそのような区切りを解除される(自他の区切りのない「関係性」になる)。

他者化するということは、そのように自我としての自分が区切ることで作られていることを自覚し、「切り離す」ことだ。つまり、想像としての自分、共通認識 としての自分をすべて疑い得るものにすること。

人はそもそも、身体を統合的に機能させるための仕組みとしての個体性をもっている。そのような「潜在的(実際のところは潜在しているわけではなくただ「在 る」としてある)」なものに対し、社会的な自我は五感の上に成り立つ、パーソナリティーとして生まれた後に発生するのではないだろうか。
そのような潜在的なものに移ることが、知覚によってただ「在る」としての私(本質的な「意識」)が認識することに移ることで可能になる。そうして肉体的な 個になることで、社会とその元にある自我は他者化される。それでも私は私である。パーソナリティーとしての私もやはり私である。だからそのように他者化し ながらも存在する。だからこそ疑いうるものとして、検証可能になり、その上で受け入れていくことになる(アクティブな関係性のなかで「常に発生し続ける自 我」として認識しなおされる)。

そして、その中で、社会は今ある関係性の中で、発生しているものとして、捉えなおされることになり、逆に個体としての自分から、関係性にアプローチするこ とが可能になる(それは例えば運転手が車の構造全体を機能的に理解することで、起こっている故障にどう取り組めばいいかすぐに分かるようになることに似て いる)。
既成概念の外された身体から今一度、生きていくために社会を組みなおしていくための最も「機能する知恵」のあり方。そのことで社会は最も機能する状態とし て現れる(それはむしろ社会の現れる元の部分としての別の次元としての「関係性」に作用するのだと思う。この関係性の結果、社会は発生する)。
それと同時に自分の身体を統合する力としての潜在的な意識(「こと」としての自分)を中心に思考していくこと、それが行動思考であると思う。そのような、 より肉体的で、発生的な思考を通して考え、生きていき、社会を作っていく。それが「肉体の持つ知性」であると思う。

もうそろそろ、一度答えを出してみようと思う。

エトーとニーチェ、アフォーダンスに共通するもの。エトーやジャックマイヨールに見た肉体の持つ知性とは、時間性の解除から生まれる落ち着き。社会的抑圧 に対し、あくまでも主体性を保ち、主体的に関係性を認識し受け入れつつ自らその関係に対し行動し作用していく姿勢に現れている。インディペンデントという のは個人的なのではない。相互的に関係性を構築することにある。そして堂々としていること、社会ではなく身体の時間にしたがって生きること。

ニーチェは宗教=ヨーロッパ的世界の「死」と時間の円環をとおして、「今」という肉体への帰順を考えたのではないだろうか。重さの霊からの開放、軽やかな 肉体の躍動がすべての重みを跳ね除けること。

そして、アフォーダンスは他者化による意味の分離、つまり自由度の視点としてある。小田実のいう「現場」への視点は「手術ができることをアフォードする 机」としてあらわれている。それはハイデガーの言う趣向性とは違い、あくまでも私という発生的な生きる主体の「生きる」ということに基づき、すべては私を 含め趣向性から開放され同質化される(それは言い換えればすべてが別のものであるということ)。だれかが何ものでもないということは、自分も何ものでもな いということ。他者化とは結局のところ自分に向けられ、そのことで自分がただそこにあるという関係性に回帰するのだ。

すべては今というこの空間、ここにあるものを理解し生きることにつながっている。


3.世間士

肉体の持つ知性とはそのような、自我を含む、共通認識の解除が、身体を統合的に機能させるための仕組みとしての個体性によって、自分の身体という環境をと おして、自分の意識そのものを対象化することでなされ、情報と知覚の総体としての「自分という個体」が疑いうるものになり、そのことを通して周りを対象化 し始め、移動可能な状態になること。
それはパーソナリティーやアイデンティティの形成に関わる自分の生まれた土地や文化を離れ、それと共に自分を新たにつかみなおすことになる。

ただ、そのような自分を対象化することは、自分の肉体との対話を通して、意識が研ぎ澄まされていくことが不可欠になる。
そのためにはある種のトーテム(依拠する偶像)が必要になるように思う。メッシや木村沙織のボールはそのような機能を持っていると思う。職人の技能が常に そのような道具との対話を通して、自分の肉体と意識の調整をし、感覚を研ぎ澄まし、その結果精神的な変化がもたらされるのは、そのような道具あってのこと だ。だが、その意識も最終的には道具そのものを対象化し、より自由な状態になる。そのことで、知恵が普遍的なものになっていく。

世間士というのは、宮本常一の場合のように、大工や易者のような技能を有して旅をし、いろいろな人の相談役になっていく人々だ。
それにはバランスの取れた知性が要求される。いろいろなものを対象化し、疑いうるものにすることで、自分が羅針盤のようなバランスの中心を得ていく。それ は、そのままいろいろな情報を取捨選択する(ならべなおす)能力になっていくように思う。


4.旅の開始

だから、最初にも言ったようにドーナツの外に出て行くときには、そのような羅針盤を自分の中に持つ必要がある。
「肉体の持つ知性」はその羅針盤であり、空間的姿勢はそれを作ることなのだと思う。そのようなまっさらな状態にあることを保つことで、徐々に意識は主体性 と「生きる」のみが確かのものになり、そのようにして生きていく上での指針としての羅針盤が自分の中にあらわれる。 そして”より確かなもの”を中心に組み立てなおしていく。そうやって納得の行く行為や理解を可能にしていく。

だが、それは実際のところ「普通」の感覚ではないのだろうか?何の先入観もなく、主体性と生きることを(関係性として並列される)自他共に認めること、そ こから始まる。

文化とか、科学といった「共通認識」は厳密に言えば、確かめようのないものであるがゆえに、肉体の持つ知性によって解除される。
だけれど、それでもそれはある。それは「共通認識」としてはある。文献も神話も「情報」としてはある。フッサールの言うところの括弧に入れる、あくまでも そういう疑い得るものとしてはあるのだ。
結局のところその「情報」の精査は情報が与える感覚による。その感覚と情報の関係は、情報を文献から正確に引き出すことで作られ、その情報がどこでどのよ うな行為と感覚から生まれたかを通して、情報との距離(疑わしさも含む)をつかみ、私の元に感覚的に伝わる。

情報が生きることに関わってくる時にはそうやって最後に感覚に変わる。そのためにどのような行為と感覚がそこ(情報の生まれた場所)にあったのかを知る。 それには情報をよく見なくてはならない。それは生死にかかわるのだから。それまでは判断を保留する精神が必要なのだ。

そうなれば肉体の持つ知性というのは知性といっても、自分の作ったものをも疑いうる知性であり、つくり上げたものを破壊できることだ(それがゆえにアク ティブな知性なのだ)。
だから、僕もこのように今まで考えてきた、肉体の持つ知性論を、「でも、それがすべてではない」として疑い得るものとしてみていくことになる。それこそが 本質だからだ。知覚することそして生きることだけが残り、概念は捨てられる。

そうやって旅に出る私は身軽になり、歩きながらも「今いるここ」に向き合い続ける。五感を感じながら行動している時、考えている余地はなく、ただ生きてい る。そうして私は世間士になるのだ。
(hayasi keiji,13/4/10)


   
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