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コラム
vol.46 発生とは何か という問い 〜肉体の持つ知性outtakeA〜


「肉体の持つ知性」を辿る旅の果てにたどり着いた、他者との「関係性」の地点は『交渉の根源』というコラムで見たように私たちの意識と身体の関係性の問題 としてもあり、そこでの考察はたどり着ける沖の限界地点として「全」と「一」、アナログとデジタル、差異と関係性に行き着いた。だけれどもそれだけでは断 絶がある。もうすこし体力をつけて、辿らねばならないことがある。それが関係性というのはいったい何なのかということだ。

意識と身体はどう発生するのかというときに、意識は発生した後に個体認識をする。だけれど身体は産み落とされた時点でつながりを切り落とし、個体となる。 そして意識よりも前にすでに総合的状態としては機能的な統合がなされている。つまり徐々に「分化」し、運動に至るが、それ以前の問題として一つの生物とし ての全体的生存性が生まれた時に完全に機能している。

だが、よくよく考えてみれば分かるが、なぜ我々の細胞は、離反することなく、一つの協調体制を保っているのだろうか?そこには何かしらの「集まる」という 指示が働いている。

それは実際のところ、この世界のありとあらゆるところに働いている。つまり、「発生」である。
何が一つのもの(あるいは、こと)としての発生を可能にしているのだろうか?
もはや肉体の持つ知性の外側だが、番外編として少しだけそのことを追ってみよう。



僕がフッサールの考え方に協調できるのは、ひとつにこの問題がある。
ハイデガーとフッサールの違いを見たときに、僕はハイデガーは一元的で、フッサールは二元的なのではないかと思っている。
とはいえ、そこには捉え方としての違いこそあれ、物事を見る深度という点では同じか、むしろハイデガーのほうが深いと思う。

話は少し遠回りするが、ここから話そう。

最近気づいたのが、ハイデガーは老子的であり、フッサールは荘子的だということだ。
考え方は近いが根本的には違うこの2つの考えはそれぞれに似通っている。そもそも、ハイデガーの『存在と時間』のころの一番大きなフッサールとの違いは、 存在了解のあり方だと思う。

ハイデガーは『存在と時間』の中で、存在者(例えば、目の前のコップ)は趣向性として発見される「存在可能」として、現存在の存在論的構成に帰されると考 えている。つまり「用具性=有意義性」として。
ハイデガーの言うところの「現存在の存在了解」において、その有意義性は感性的覚知(いわゆる五感的感覚)において存在者自身のもつ趣向性を捉えている事 に帰し、彼の言う「世界性」がその覚知によって得た有意義性を含むものとしてあるということは、そこではフッサールの言うような還元(括弧に入れる)のよ うな作業は無意味であり、意識と身体の二重性はありえないということになる。

つまり、ハイデガーは「世界=内=存在に投企された現存在」にすべてを帰すことで存在そのものを一元的に認識可能であり(それ以外不可能であり)、それ以 外の「客体性」はありえないという見方をしており、つまり感覚的所与も「現存在の存在了解」に含まれると考えている。

だが、フッサールは趣向性のような存在者の「意味」は還元することであくまでも括弧に入るのであり、そのような形での意識と、直感的である身体との二元的 なあり方で考えていた。

この違いはハイデガーがある意味で、非常に人間的であったからだと思う。つまり、彼にすればそのような括弧に入れて存在するなどということはありえない、 というのは「野生」と「意識」の分離はありえない(野生というのは絶対に近づき得ない)ということであり、人間はあくまでも「このままで人間そのもの」な のだということだろう。

さて、話を老子と荘子に戻せば、荘子にとって「意識の世界」というのは宗教的社会的な幻想であり、夢のようなものであり、そのような作為の外側に生きるこ ととして、2つの生を分けている。だが、老子というのは実は丸ごと受け入れて、この社会も作為なく自然にありのままに受け入れればうまく行くという処世術 のようなあり方である。

つまり、そこには分離はなく、あくまでも反転があるのだと言える。その反転こそ、ハイデガーの思考と同じように見える。
「名はない」という有名な老子の言葉は、言い換えれば共通認識などありえないということになるし、それはハイデガーと通ずるものだ。 そのようなある意味で自己中心的な世界観を「意識の世界」を含む社会全体に展開しなおして、適用すると考えているように思う。

矛盾的な聞こえになるが、荘子は「意識の世界」そして社会をも観念的な世界として捉え、それは想像的で宗教的なものと同一だと見ている。だがそれがゆえ に、荘子はそれを真実ではないと見たことで、宗教的ではありえない。荘子の書いたもの、話した物語が非常な想像的自由度を持った妄言として宗教的(信じれ ば存在するもの=括弧に入れたもの)であるがゆえに「荘子自身」は宗教的ではなかった(そのような彼の見方自体が一種の「悟り」だとはいえるが)。荘子自 身の作品であると言われている内篇は老子とは本来全く関係ないもので、むしろ本人が直接書いたものではないと言われている外・雑篇を通して、つまり後の学 者の解釈によって荘子は老子と結び付けられていった。こうして荘子は8世紀頃に至って、添え物のようにして道教の神になった。

それに対し、老子はこの世界を発生から一種の現実として捉え、その現実が宇宙の生成から始まるがゆえに、そもそも宗教的であった。道教において老荘が神に なったのは、荘子ではなくひとえにこの老子の道(タオ)の思想による。
そう考えると、宇宙と社会を一つに括っていく老子はハイデガーと根本的なところで通ずるように思え、その意味においてはフッサールに比べ、ハイデガーは彼 自身が宗教的で神的だったといえないだろうか。



話がだいぶ伸びたが、そこで老子とハイデガーの共通点を探っていたら、1987年に雑誌に連載されたオットー・ペグラーによる「ハイデガーと老子」という 論文があり、それを読んでみた。

それによるとハイデガーの一元的世界も、後に詩的な感性に基づく世界性に変わっていったようだ。その中での考え方はかなり共感できるものだ。そしてそこで はフッサールの再検討も行われた。そして、ハイデガーは老子を知っており、『道徳経』の翻訳も試みたようだ。だが、それでも老子と荘子を同じように取り上 げていることからも両者のあきらかな違いに気づくことはなかったのかもしれない。
現存在から見た一元的な世界が論理性から、詩的なものへ変わっていったが、それは二元性(二元的なもの)に至ることはなく、それがゆえにハイデガーは混乱 が解決できない(揺れ動いている)原因となっているように思う。

さて話を戻そう。

もともとフッサールの言う還元が僕の「肉体の持つ知性」とかなり近い考えであったことがフッサールにある意味で肩入れする理由だったわけだが、実際のとこ ろより深く見ていくと、僕がフッサールの二元的な考え方に協調できるのは僕がスポーツから考えてきた例の関係性(それは木村敏の考えともつながった)とい うのも結局そこに行き着いたからでもある。
だが、二元的な見かたというのは根本的には何時までも通用しない。
関係性というのは二つ以上のものがあるから生まれるが、実際のところ関係性のほうが「自我」より先にあるのならば、そこにある関係が発生していて、それが ゆえに「私」が出来るということだ。

それはつまり二元的な意識と体もそこに関係としてのつながりがあるということだ。だとすればそれは結局一元に向かう。
ハイデガーの言うように確かにそこには分断はないのだともいえるのだ。

つまり、フッサールにとっての「間」(フッサールは直接言及していないかもしれないが、「間」は他者との間だけではない、意識と身体にもある)ハイデガー にとっての「開け」として、そしてそれは「関係性」として繋がっている。だからここが私たちの考えなくてはならない一番のポイントなのだろう。



それでは、関係性とは何か。

そこを辿るのにハイデガーの言う趣向性からはじめよう。
趣向性が存在者の側から与えられるものだとハイデガーが考えていたとしても、それは彼のいう「世界=内=存在」というあり方を存在論的に受け入れないと理 解できない。フッサールが『存在と時間』がさっぱり分からなかったように、私もそうは考えない。

そもそも発生的な機能統合である「生きる主体」としての「私」を「意識」と呼ぶのであるなら、意識は身体と共に発生的にあり、その後に、知覚が機能をはじ め、「自我としての私」が他者との分離として確認される。

もしそのような発生と一体としての意識のことを、ハイデガーが「現存在」と呼んだのなら確かにそれは認識論的には一元的につまりフッサールの還元の後も、 常に維持される存在としてある。だが、もしそれが現存在ならやはり、それはあくまでも「生きる主体」としてしかなく、そこに物に対したときの趣向性や有意 義性は本質的に確保されているものではない。それは生きるうえで手段として利用することはあっても、本質的で疑い得ないものとして存在可能であるところの 物自体にあると認識しているわけではない。ハイデガーの存在論では、その一元性を我々には認識できない世界=内=存在という構成に由来するとし、そこから 用具的存在は生まれてくると考え、社会的な共通認識として私が見ている、言語や文化的意味や価値としての部分までも存在自体に取り込んでいる。

だが、私の見立てでは趣向性はあくまでも存在者に対して自我の中で発生するもので、存在者に本質的に起因するものではない。例えばある石が座るのに適する のは私にとってであり、他の誰かにとってそうではないのならその用具性は存在者ではなく自分に起因する。ハイデガーはそのことも踏まえたうえで「現存在的 にしか私は存在し得ない」つまり、私が私の世界から出られないのなら「私にとって」しか世界には存在しないと考えているのだが。
だがそれをさらに踏まえたうえでみても、その「私にとって」はその用具的存在の用具的な「意味自体」と一致するのかと考えた時にやはり一致せず、文化的な ものであると言わざるを得ない。そしてその「私にとって」はそれらの用具性をはずし「生きるうえで」という地点にまで還元されると思うのだ。
だから私が「関係性にある」ということが自我としての私の外側として本質的なものであると言うときに、そこに趣向性のない「関係性」があり、それでも存在 者と私があってその趣向性が現れるのなら、認識には二重性があるということだ。そして趣向性をともなった認識は生きるということと自我形成に関わった社会 (家族から共同体まで)の先に派生的に現れる”私という自我にとって”という一方通行のものでしかない。

「関係性」としてあるということはそもそも社会的であるということとは次元が違う。社会そのものがその関係性の上にあり、その社会的な部分と一体として、 社会的な意味での「自我」が形成され、その自我が参加する場所として「社会」がある。

本来の生存は偶発性の中におかれ、そのつど、その場で関係性の中に身をおきながら、生存を確保している。だから前後的な意味での時間性はそこにはない。あ くまでも時間は確保の上に形成された社会(共通認識的に確保されているもの=記憶との連関的な作用)としてあり、その「確保」によって長さの別はありなが らも歴史が形成される。



このように趣向性をともなった自我の側は認識的にそう見ているだけだということだ。それは結局のところ「私にとって」というのは私の要求と私の知覚の一致 としてだ。つまり、意識は自我としては、身体を通して発生したものが、その後に社会的に発生しているということであって、それは自我と身体という二つのも のの間の関係性ということにはならない(自我は意識が関係性の中にあることで共同的な状態での個別性として発生する)。

だが、「意識自体」も身体から発生しているわけでもない。なぜなら発生後に個体認識が必要だからだ。意識は知覚の統合の結果として私を私と認識する。それ ならばそこにはすでに最初から関係性があるはずだ。だから意識と身体は「共に」発生している。
そう考えてみた時に、、意識はどこから発生するのかということは、そのまま、では身体はどこから発生したのかという問題になる。身体がひとつの総合的な個 体として発生しているということがどこから発生しているのかということになる。そうすると実は身体も意識も関係性も発生があって生まれてくるということに なる(そうでないと、発生した意識が私を、しかも消去法で認識することなどありえないからだ)。 だが、もしそう考えていくと発生とは何かということはどうやらわからないということになってくる。つまり発生があることは知ることができるが、発生とは何 か(どうして起こるのか)を知ることは出来ない(この問いはどうやら形而上学の主要論題の一つで、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?(Why is there something rather than nothing?)」というらしい)。

「発生」というのは「発生しつづける」ということで、それが止むことが離れること、消えること、あるいはバラバラになることだ。そこから関係性が消えると いうことだ(このことからも身体の統合という関係性は発生なしには考えられない)。
だとしたら発生は関係性としての身体の中でも身体と意識の間でも”つねに”起こり続けている。そのようにすべてのところにある。つまり、発生のほうがすべ てより先にある。そしてどう辿っても「発生とは何か」を知る方法はない。

これはもはや断崖絶壁に立っているようなものだと思う。

たしかに「DNA」という考え方もある。そうなれば発生はすべて論理的なプログラムとして書き込まれたものとして符号的に存在するということになる。だが ここで問題にしているのは”そのような符号が「機能する」のはなぜか”ということなのである。

つまり何かの条件が発生を生むのはなぜかということになる。だがもうそれはわからない。ただあることだけしかわからない。
だから論点を変えて、発生は「どこに起こるのか」ということだけを考えてみたい。



仮にそのような論理的な符号が合えば、機能が起こり、それは機能だから発生ではないとしよう。
だが仮にそうしても、そうすると、現代宇宙物理学を含む壮大な宇宙の歴史はスタート地点まで発生の謎を押し込めただけだということがわかる。超自然的な力 を想定するわけには行かないがゆえに。だがどこかに「発生」がある以上そこにたいした違いがあるとは思えない。 発生には二種類あるように思う。それは一時的なものと二次的なものだ。つまり、何もないところから生まれることと、関係性から生まれることだ。風や子供 は、2つの気圧や2人の人間から生まれる。そのような差異や統合的関係から生まれる。
だが一時的発生はどこかにあるはずだが、それはわからないということだ。それを宇宙の起源にまで押し込めあとは二次的発生で解決したことにした。じつはこ れはキリスト教の論理とよく似ている(科学者たちはむしろ観測の結果であるビッグバン理論を”宗教的である”として相手にしなかった)。キリスト教の創生 神話は発生を神の最初の7日間にだけ適用し、後は連綿と続く子孫たちというあり方をとった。
それに対し、アニミズムにおいては”マナ”のような根源的な超自然力はあらゆるところで働いているとされている。
つまり発生はどこにあるのか、スタート地点かあらゆるところかということだ。あることは確かだがなぜかは分からないものをどこに見るか。

だからハイデガーは意識の側から身体の感覚的な知覚までも取り込み一元化したことを考えれば、それは実にキリスト教的でヨーロッパ的な考え方であるように 思う(ところが彼は敬虔なカトリックの教会管理人の家に生まれ、期待されながらも、思うところあってフライブルグ大学神学部から哲学部に移籍したという経 緯があるらしい)。よく言われるところの、日本人にとってフッサールよりも分かりやすいというのがもし老子との共通点によるなら早計だし、そもそも日本人 の老子理解がどうなのかという問題でもある。無の思想というのはそんなにわかりやすくはない。それにハイデガーにとっての老子というのも「ヨーロッパに とっての老子」という文脈で見なくてはならない。

その点、むしろフッサールのような考え方(彼はユダヤ教からルター派へ改宗している。信仰心の厚かった彼は、信仰と学問が永遠性へと導くと考え「現象学 は、信仰へ の通路をもたない人々のためにある」とし、あえて「神なしに神へ到達することを試みた」らしい)のほうがキリスト教=ヨーロッパ世界では特異であるという ことが出来る。それまでにも「神の存在証明」は神学・哲学者(アウグスティヌスに始まりトマス・アクィナス、アンセルムス、デカルト、ライプニッツなど) の基本的スタンスの表明としてあったことを考えるとその点では伝統的なヨーロッパの姿勢に則ってはいる。だがフッサールの場合そのスタンスはもはや旧来の キリスト教=ヨーロッパ世界の始まる地点にまで戻っているように思う。
ハイデガーやフッサールが客体性とか自然的世界を否定し、現象学的姿勢をとることは実は自分の存在から周囲を定義するという実に古風な哲学であり、その点 ではやはり師弟は哲学全体からみれば同じような姿勢であることはたしかだ。そしてそれは近代哲学よりもむしろ初期キリスト教や古代ギリシャのほうに近いと は言える(ただしハイデガーの「ギリシャ」はドイツロマン派的なギリシャであることは考えなくてはならない)。


近代以降に、キリスト教から科学に”信仰の対象”が移ったことは大きな意味を含んでいる。それは謎を主体的に懐疑的に見る目を人々に与えたということだ。 ビッグバン理論は発生の「謎」をむしろ明らかにし、全知全能の神にはそのような謎に対する懐疑性は許されない。
そして、科学は今カオス理論のような発生の問題に取り組み始め、「創発」はどこにでも起きている現象であることはあきらかである(「生きた場」は作るので はなく外から関わること、というのもこれと無関係ではないだろう)。
だが、そんなことは科学がなくても太平洋諸島の人々の自己認識の中ですでに到達可能だった。
こう考えていくと、僕は割りと安心してくる。というのも発生というのはとりあえずある。自分でどうやっても、人間が何をやっても止まりはしないと考えられ るからだ。自分の存在がそのようにしてあるということは、ある種の安定といえるように思うのだ。

ハイデガーとフッサールの問題は、世界が一元的で、人間を含む生物が意識(社会的なものと身体を結びその上に自我を発生させる)と身体として二元的(二重 的)だったということが問題なのだと思う。それは意識がどこからか発生してきてそれから私を、(関係性の中の「二次的発生」のような形で)「私」と認識す るということがもたらした二重性だ。

だけれども、その意識が発生後に私を私と認識しているかどうかというのは、実は観察の結果(成否はともかくピアジェやヴィゴツキー、あるいはラカンのよう な子供の観察を通して)にすぎず、ハイデガーの言うように世界自体は一元的でもある。だから、ハイデガーとフッサールの違いというのは捉え方の違いであっ てどちらが正解であるということではないようにも思えてくる。とはいえフッサールの言うように知覚だけは意識の前提条件をすべて取り去っても残るのならば そのことはやはり大きな意味を持つようにも思う。アニミズムのマナをとっても、感覚的な世界が意識(社会)の世界よりも劣っているということはないことも 明らかなのだ。



「発生」は何かを知るすべはない。
だが、発生はどんなところに起きて、どこで解消されるのかという流れを知り、その流れに逆らわなければ主体的に関係性にアプローチすることは可能だ。とは いっても発生という矢印の流れには逆らえない。私たちは発生したものを見ることしかできない(「知覚」もそこに属している)。だが、それを見るに当たって も、それが本当にそこにある流れと発生なのか、それともそれは”私にとって”でしかないのかを見極めるためにフッサールの還元、空間性として発生している ものだけを見る姿勢として意識と身体の違い、つまり自意識が見ている”私にとって”と身体が知覚するものを見極め、身体に従い流れを見ることは発生の存在 を知る一つの方法として有効だ。

そのような流れに身をおくことはそのまま発生に身をおくことだ。そして発生に従い行動することは、偶然に身を任せながら必然を知ることだ(それは仏教で言 うところの「因果」だ)。
ハイデガーのほうがフッサールよりも発生に近づいた。それにもかかわらず、フッサールが大きな位置を占めているのは、生きることが哲学と結びつく時に、そ のような流れに身を任せ観察する(生きる)ことを優先し、発生とは何かというような問いを持たなかったこと、そして還元を最後まで捨てることはなかったこ とにあるのではないだろうか。
むしろその方法を放棄してしまったことはやはりハイデガーの一つの躓きであるように思うのである。



ではこれまでの話を踏まえた時に、それでは関係性にある自他は本質的に理解可能か?という問いにどんな答えが出るだろう。

一応今考えるところでは、それは関係性であるかぎり、「私」ではないということだ。発生的という意味では私だが、その私は自他の区別のない存在として発生 している「私」だ。そしてそれがそのように存在するかぎり、誰にとっても同じだということだ。もちろんそれが「他の人にとってもそうなのか」を確かめるこ とは出来ない。だが、確かめなくても自分において世界がそうであり、そこから出られないなら確かめる必要性がない。なぜなら「区別としての私」がないから だ。

そのようにして、共同的というよりも関係性にもとづく行動ということがおこれば、それは社会的に見ても結果的ではあるが、そのような共同性、公共性のよう な状態に基づく行動になる。
それは関係性の上に発生するリアルタイムの共同性になる。それこそがずっと俎上にあった「親和性」なのだろうと思う。

だが、これは意識の発生論からすればこう考えられるだろうということだ。実際ここまではハイデガーの捕らえ方でも同じ答えが出てくるはずだ。「確かめるこ とは出来ないがあるはずだ」という考え方。

それに対し、空間的姿勢における認識ではどうか。
そもそも意識にとって身体というのは発生した後に知覚的に認識するとしても、そこに知覚的統合と自立的発生を感じることになる、安定感を持った一種の自立 的存在である。逆にそのような身体にしたら、意識は発生的統合の結果として現れる「一」として不可欠である。そのようにして発生という契機の元に在る表裏 一体の存在として意識と身体はある。

だから身体というあり方そのものが、意識にとって発生の裏だか表として、確実に、”認識できないがあるもの”としての不明な存在の仕方をかかえて確かに在 る。そのような発生というものにまで考えを引き戻してしまったばあい、もはや、私がどうやって他人を本質的に理解可能かという問い以前の状態として、この 世界にあるあらゆるものが同じ発生の一部としてもはや、本質的には他者ですらないということもありうるのだ。

つまり意識がこの身体を知覚しうること自体が、そこにそのような知覚の本質的な向かう「方向」があることを通して、私の身体の存在を自覚していることが、 その先にある発生としての一体性(その結果としての二重性)までをも貫いているということだ。そのことで、「他の人にとってもそうなのか」を知る方法とし て私の身体が意識では捉えきれない知り方をかかえている可能性があり、それがどんなものかは知りえないが、ありうることは否定できないのだ。



そして、以前『空間的姿勢のもたらす痛みについて』で考えた、「権利を奪うことと痛みはつながるのか?」について、関係性の観点から一つの可能性が考えら れる。

それは他者の死は「関係性」における不在として感じられるのだろうということだ。
発生的で主体的な意識にとってはそのように発生的認識の不在的変化によって現れる。だがその関係性の中で作られた自我としての私は「関係性」を社会的関係 としてとらえ、その中での関係はもはや並列的な自他として認識しているわけではなく、生きるということに基づく派生的な意味が与えられているものになり、 不在の意味はそのようにして自分の生きることにおける価値によって重みが変わってくる。家族のようなかけがえのない関係性における不在は取り返しのつかな い重みを持ち、それに対し、テレビの向こうの俳優の死はそこまでの重みがないとは限らず、その自我主体にとって、生きるうえで欠かせない価値を帯びたテレ ビの向こうの俳優ならばそれは大きな不在になるのだろう。そしてそれは自己の生存の危機として自分の中で「痛み」として現れる。

だとすれば、普通にスーパーで買ってきて食事をしているならどうやっても痛みを感じるすべはない。だが、誰かの死はその人にとっての存在の意味に応じて痛 みになりうる。

映画やテレビのドラマにある拷問シーンやスポーツの決定的瞬間としての怪我シーンは”見ていて痛い”ということがあるが、これはそのような不在ではないこ とは明らかだ。これはむしろテレビを通して、自我を他者に移入するということかもしれない。自我は関係性としての状態から社会的関係として作られるもので あるなら、そのような他我への移入は本質的ではないが、感情的には可能だろう。そして、それが「生きる」としての機能へ「物理的な意味での痛み」として現 れてくる。

だから還元のような操作を通して、我々はむしろそのような移入的な自我(あるいは他我へ)の作用は解除される。だが、そのことでむしろ本質的な意味での関 係性を認識しなおし、そこでの不在の認識は確かなものになる。自我が固定的に作用しているあいだは、むしろ関係性における不在は認識されずに、受け入れら れないだろう。

だからあまりにも当たり前にそこにあった、関係性は失われた時に、しばらく、あるいはいつまでも失われたことを受け入れることが出来ない。

それはアイデンティティとしての存在の根幹までも変更することは我々には非常に難しいのだということをあらわしている。それを変えるにはすべてを捨て(受 け入れ)、それでも「生きる」という選択としてしか現れ得ないのだ。

そして自我としての「私」が本質的ではなく関係性の中で他者でないものとして現れるのならば、その関係性として自他の区別のない発生的な私の「私にとっ て」が「生きるうえで」となる時に、それは関係性の中で、関係性としてあり、他者は自分の一部であり、生きるというのはそういう大きな流れの一部になって しまい、「生きるうえで」は「私が生きるうえで」とは言い切れなくなってしまう。

そのようにして「私にとって」が「生きるうえで」まで還元されることはそのような他者との関係性までも変えてしまう大きな問題なのである。

「生きるうえで」がもはや「私にとって」ではないということは、「確かめることは出来ないがあるはずだ」という考え方を超えて、すでに関係性としての発生 的状態の中に身をおいている。だからといってそれは「われわれ」とか「みんな」ではない。それでもそこにある個体としての「私」、つまり身体を統合的に機 能させるための仕組みとしての個体性があり、そして意識としてはその「発生している」ということの片割れである身体を唯一確かめる方法である「知覚」を通 して確保されている、「生きる」と「主体性」が唯一の行動なのだ。

その意味では「生きるうえで」が「私にとって」の確かな源であることが確認されることが大事なのだ。
(hayasi keiji,13/5/24)

修正・追記:5章に修正・追記した。

修正「当時のヨーロッパ世界では」→「キリスト教=ヨーロッパ世界では」
追記「それにハイデガーにとっての〜」
「それまでにも「神の存在証明」は〜」
「(ただしハイデガーの「ギリシャ」は〜」

その後少し考えてみたが、ハイデガーは当時のヨーロッパの文化人・知識人の知的状況の影響を踏まえてみないと見えてこない部分がたくさんあるように思う。 もちろんそれはフッサールも同じだが。彼らにとっての「ドイツ的」あるいは「ドイツ市民」というものが食い違っていることを、カトリックとプロテスタン ト、そしてユダヤという点からも見ないとなかなか分かりづらい。またこのコラムを書き終えた頃に読み始めたブーバー『我と汝・対話』を読み終え、また見え てきたこともある。といってもこのコラムで書いた「発生」の問題についての基本的な考えに変化はないが、関係性については共通 点も多く参考になるものだった。
ブーバーは、以前叔父にもらった山口一郎『他者経験の現象学』のなかにブーバーとフッサールのことが少し書いてあり、内容が良く理解できなかったこともあ り「なんか関係があるんだな」くらいにしか考えていなかった。だがブーバーが深くユダヤコミュニ ティーと関わっていたことを考えると、フッサールにとってのユダヤ性についても一考の価値が あるように思える。(hayasi keiji,13/6/10)

   
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