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コラム
vol.48 心の複数性に ついて


1.宮沢賢治


 わたくしという現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

見田宗介は『宮沢賢治 存在の祭りの中で』という著書で、この一節や若くして亡くなった賢治の妹"とし子"が死後、賢治の中で何度も対話される相手 として見出さ れ、"実際に"対話されていた、ということと関連する話の中で、

「このような複合体としての自我の、すなわち"主体の複数性"としての自我の、賢治におけるそのきわだって透明なあり方ともいうべきものは、賢治の"文体 "や"作品構成"や"作品形成"の過程の特質としてしばしば注目されてきたものの、共通の源泉をもなしている。
 作品内部についていうならば、益田勝実らの指摘するような、賢治の話法や想像の起点における<主体転換の並外れた自由さ>、―語り手の多重 構造や視点の自在な移動性などがこのことに由来することはいうまでもない」

「自我が一つの複合体であるということは、"原理としては"あのインドラの網のように、それぞれの個がすべての他者たちをたがいに包摂し触発しながら、し かもたがいに犯すことなく並び立つ明るい世界の"可能性を基礎づける"ものだ。けれどもその自我の内部にひしめく他者たちが、たがいに相克するものである かぎり、複合体としての自我は、矛盾として存立せざるをえない」

と述べている(""内は著者自身による傍点部分)。

「その自我の内部にひしめく他者たち」とは、やはり著者の引用する賢治の作品の次の一節でわかる。

 海がこんなに青いのに
 わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
 なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
 悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
 またわたくしのなかでいふ

著者はこの賢治の自我について、賢治のその他者に対する感受性と生まれの矛盾、つまり選ぶことのできない"自我の原形質"として、"質屋である宮沢家の御 曹子"であることによって、それがゆえに関わらざるをえない他者たちの社会的な貧困を含んだ関係全体のうえに自分が成り立っているということが核となって いると考えている。


「賢治が非常に早い時期から<見られている自我>の意識を色濃くもっていたことはすでにみてきた。そのときに賢治の幻覚する視線の質は、ひと つとして好意にあふれたものではなかった。<うしろよりにらむ>目であり、<はらだたしげににらむ>目であり、<目をいか らして見る>視線であり、<うらめしくわれをながめて>つと消えてゆく目であった。
 それは賢治の自我が"関係"であるばかりでなく、"矛盾"である事、矛盾としての関係であるという事を、するどく感受し"具象化"する資質をもっていた からである。これらのうらめしい目の数々は、もちろん賢治の自我から世界に投射された幻影に他ならないが、他ならぬこのような目の幻影を投射する自我の構 造は、それじたいまた、この自我のありかを結節点とする"関係の客観性の"、投影に他ならないのだ。だからこれらの目とはたしかにそれじたいとして客観的 にあるものではないが、とはいえたんなる主観ではなく、"主観をとおして純化された客観性"にほかならないのだ」

と述べている。見田はうまくバランスを取りながら、それがゆえに"主観をとおして純化された客観性"というほとんど意味不明なことばにしてしまっている が、つまりこういうことだと思う。


賢治の詩的直観にささえられたある種の霊感は、ほぼ逆らうことも出来ずに、この複数性(自分の中に他者がいる)の中にいて「まわりの目」を気にしている。
これはだから見ようによっては、ただの自意識過剰にも見える。
しかし彼は、本当にその複数性が見えていたのではないか?
彼の精神はまっすぐに自分と他のものの平等性を認識していたために(これ自体は一自我の中での問題だ)、自我の複数性においてそのうちの一つの存在に"自 身"をもとぼしめ、そのことで自分の身体の中においても、いごこちのわるさを覚えていたのではないか?

じっさい賢治の文章から感じられるのはそういったものだと思う。

だが"わたし"というのは本来的に見ればこの身体としてのわたしもある。それは明らかに平等性を欠いた基準をもって個として存在する。賢治の場合その身体 が宮沢家の稼ぎによって"物理的に"構成されているということが"目に見えること"が問題だった。だからそれを言い出せば、宮沢家に限らず、我々自身、も はや日本人であること自体が拡大した経済共同体の一部として、他の国の足元を見ている、そういうほかの国の栄養を吸って"物理的に"成長しているというこ ともできるのだ。

だが言い方はわるいがそのような他人から吸い上げた経済的環境の中で出来たのが、他者をも含んだその"自我自身"である以上、その自我自身をとぼしめるこ とはできないように思う。どこまでもその自我自身はその身体としてのわたしとしての主体性がある。だからこそ"自我から世界に投射された幻影"としてでは なく、じっさいに体の中に存在する自我自体が"最初から"複数であると考えるべきである。 賢治の場合、見田の言うようなあり方をその"自我"がしたのなら、それは身体とはなれ、自我から"わたくし"を分割した個にしてしまった際に、彼は他者と してそれらの自分自身を切り離してしまったことが問題なだけで、その見えていた他者は最初から自分を構成している一部としてある。 だが、複数性というのは複数である以上どこかで分割されているものでもある。それは、多分、例えばその複数性が3であるなら、複合体としての3であると同 時に3という一つの数字であることによるものであり、わたしは、"一つの数字"としての3であるものとしてあるべきで、賢治はそれを3の中の1つにしてし まったということなのだ。

だが、それも事実なのではないかとも思う。3の中の一つはやはり"わたし"でもある"わたくし"だ。なぜならそれは関係性として"自我自体"が、そもそも そのようにつくり上げられているからに他ならない(そのあたりはコラム『発生とは何かという問い』を参照してほしい)。
見田も「他ならぬこのような目の幻影を投射する自我の構造は、それじたいまた、この自我のありかを結節点とする"関係の客観性の"、投影に他ならないの だ」というようにそのことを認識しているがゆえに、うまく言えないでいるようだ。
つまりはっきり言っていいと思うが、賢治の見るその幻影のような他者は俺の心がここにあるように"実際にそこにあるもの"だということだ。オカルティック な話のようだが、発生の構造に由来するこれは仕方ないことのように思う。それは賢治という存在がその他者を含んで存在しているからなのだ。

だからそこにおいて、その平等性において、賢治が精神的に安定していて、他者との関係性を開かれた公平なものとして、自分を見ることができたときには(そ れはもっぱら自然のなかにおいてだったが)彼の詩的感性はその作品に見られるような無限の宇宙を包摂したものとして現れる。だが、そのような無制限な世界 はつまり明るい光だけではなく暗い闇を含む"平等性に"降りていかなくては成り立たないのである。


2.南方熊楠


南方熊楠の膨大な著述は未だ整理されきっておらず、それは粘菌の研究者としてだけではなく、民俗学や仏教哲学、ロンドンでの交流や独学による研究の中で吸 収した膨大な学識を含んだ"知の総体"としてもまだ明らかにはなっていない。それらの資料の中に、やはり心の複数性としての問題に言及したものがある。そ れは「南方マンダラ」として有名な心身の構造に言及した土宜法竜への書簡の中にある。

「(一)箇人心は単一にあらず、複心なり。すなわち一人の心は一にあらずして、数心が集まりたるものなり。この数心常にかわりゆく、またかわりながら以前 の心の項要を印し留めゆく(このことは予実見せしことなり)。
 (二)しかるに複心なる以上はその数心みな死後に留まらず。しかしながら、またみな一時に滅せず、多少は残る(予は永留の部分ありと信ず)。
 (三)右を実証す」(縦書きゆえに右とあるが上の(一)〜(二)のこと)

これが南方−土宜書簡のなかにある「複心」つまり心の複数性に関する記述である。もしかしたら整理されていない資料のうちにもこれに関連するものがまだあ るのかもしれないが、実態は明らかではない。熊楠自身もこれらの書簡があまり人目にさらされることを望んではいなかったようだ。

熊楠に関してはあまりにいろんなことを"思いつき"、またそれをうっちゃり、ほかの事を考えるような人間だったようなので、この問題についてはこれ以上見 出しづらい。しかし、考えてみれば熊楠は自分というものがあまりない。それでありながら自分という大系をもっていることをわかっており、それがゆえに賢治 と同じような<主体転換の並外れた自由さ>を確保している。
彼の話は次から次へと飛んで、収拾がつかなくなる。それは賢治のように複数の中の一つに自我をとぼしめることなく、自在に対応できたからである。それはも しかしたらロンドンという地に行くことで、賢治と違い自分こそ搾取されている側の人間であるという認識に立っていたからかもしれないが、そのような認識以 前に彼の自我自体の自由度の高さが最初からあるように思う。

彼は賢治と同じように、科学と仏教を抱え込んでいるが、こうも違った結果をもたらしているのは、やはり存立自体の違いでもあるように思う。なんとなくでは あるが、それは"体の強さ"が大きく影響しているように思われる。

賢治は体が弱かった。そして自身の看病が自己否定の根源であるところの、父によってなされたこと。そして、農業に向き合う上でその体の弱さがネックになっ たということが、自我自身を身体の主体としての"最初から複数であるところの単体"としての主体性から引き離してしまったのではないかということだ。

それに比べ、熊楠はどうにも体が強そうに思う。彼の猥談や写真からしてもそういう体の強さが感じられる。年表などによれば彼は歯の治療こそすれ、大きな病 歴は見当たらない。とはいえ実際にはかなり自分を演出するところもあったらしく、やはりそのような自我の複数性の自覚のあるものらしく精神的に不安定な面 もあったそうだ。それはつまり、そのような精神状態におちいることがあっても、体の強さという紛れもないアドバンテージがあるということだ。体が強いとい うことはその点で意識しなくても自分を保つことのできる大きなメリットであるのかもしれない。

あえて言っておかねばならないのは、どちらにしても彼ら2人はその洞察力の深さ、あるいは、自由さによって自我の複数性を意識していたことは確かだという ことだ。


さて、この心の複数性とは一体何のことか。普通に聞くとさっぱり分からないだろう。
だが、これは実は否定しづらいはずだ。なぜならわたしたちの心自体がどのように発生しているのか、私たち自身には分かることができないからだ。 それが自分の中にある他者の同位性(→優位性)を助長する原因ともなる。だから唯一<私はこの体であるという実感>のみが救いとなる。

この複数性はそれにしても、日本的概念なのか、あるいは日本がその点の観察において進んでいるのか、ただ"日本人の心"が複数なのかはわからないが、賢治 や熊楠のそれらの感覚に対し、ハイデガーのように心の複数性という概念そのものが理解不能で、その世界=内=存在としての現存在そのものがもはや単一以外 ありえない構造であるということ(「共同存在」は一見近そうに見えるが、ある種の社会的概念というべきで、よくよく見ると非常に主観的なものだ)や、あの フッサールの間主観性における歯切れの悪さを考えると、彼らには複数という考えは思いもよらないのではないかと思う。ちなみに言っておくと、"最初から複 数"というのは、いわゆる多重人格などを相手にする精神病理学の考えとも違うようにみえる。

それはこの独特の概念は多分に多神教的な価値観とむすびついているからではないか。
だからといってただの概念だとはやはり思えない。さっきも言ったようにこれは発生の構造に由来すると考えている。だが、それを受け入れられる心理的要素が 日本には準備されているがゆえに容易にそれを受け入れられたのが、賢治や熊楠だったということではないだろうか。

ヨーロッパにおいてもカフカのようにそれに近い感性を持っていたと思われる人もいる。彼ら3人が、いずれも自分の残した文章の扱いに対して、それが固着し 残ってしまうことを懸念したところにも何らかの共通性があるように感じられる。

それは彼らの中に他者が大きな力を持って存在し、その複数性のなかで、自分が硬化してしまうのを恐れたからではないだろうか。
わたしたちの自我自体が根源的に見てなぜできているのか明らかではない以上、その自我という個によっては、心の中の他者をただの幻覚として引き離すことは できない。
賢治とカフカが時にそれらの闇を恐れていたのに対し、熊楠のみがその体の強さにおいて、その複数性を自覚しながらも、あのような強さと明るさを発揮できた ということはなんらかの救いであるように思う。だが生きていること自体においてはどれもかわらず"その中にある"ということを認識しないわけにはいかない のである。(hayasi keiji,13/10/10)


参照:見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫)
   南方熊楠コレクション1『南方マンダラ』(河出文庫)
   ユリイカ2008年 1月号『特集 南方熊楠』(青土社)
   
校正(hayasi keiji,13/10/11)
   
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