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コラム
vol.49 休幕〜ことば ではいいあらわせないことへの道程〜


しばらくこのホームページの更新が止まることになるので、最後に挨拶のようなものを書いておこうかと思った。といってもまあ何を書いたものかよくわからな かったので、少し雑然としたものを書くことにする。


今まで書いてきたいろいろなことはなるべく自分で考え、実践し、経験を踏まえ、考えるというスタイルをとり、あくまでもそのようにして出た一応の答えとい うか物事に関する印象を元に、いろいろなものを参照することで、その雑然とした考えを他の人がどう考えたものか知り、また考えるというものだった。それは 私にとっておもしろく、そうであるから考えた。

人はどうか知らないが、古代中国の荘子と20世紀初頭のヨーロッパを生きたフッサールに共通点があるというのは、同じ人なのだから当たり前のようで、ここ まで違う時代と国や人生や、本人にあったわけではないから確かではないのだが、性格をもった2人が同じことを言うということはそこには何らかの「本当のこ と」が含まれているんじゃないかと思い、いったいそれはなんなのかと考えるのは楽しいことだ。

だが、そういう感覚も、そこに親近感を覚える、共感する何かが含まれているからであることも事実だろう。それはだから、自分で考えたことで初めて、ただ知 識として知るのではなく、同じことを感じている人を発見するということになるのだ。

だが、ここまでやってきたそれらのことに、なんとなく煩わしいところがあることも感じてきた。これからそのことについて少し話そう。


基本的に知識について学ぶということは、たとえば文献の正確な引用や文献同士の照らし合わせのような行為から明確に言語化し、考え進めていく。それに関し てはギリシャ哲学も、仏教哲学も、社会学も科学も同じだ。
だが、それらの知識はもとをたどれば誰かが個別の人生の中で発見したことを一般化したものだ。

それならば、たとえば、ヘラクレイトスやブッダやヘーゲルやデカルトやアインシュタインのようなそれらの知識の「発見者たち」の人生がそれぞれの個別的な ものであるのと同じように、今を生きる誰かの個別の人生にもつねに何かの発見が含まれているかもしれないということになる。それは考えるまでもなく当たり 前のことだろう。

そこでは、何かについての正確な知識はさほど重要ではなく、何かの経験をしてきて、ある考え方や感覚をもった誰かが、何かに触れたときに発見が起こる。そ れは新しい何かであると本人に意識されているわけでも、誰かに指し示されているわけでもない。その中では発見の自覚もなく、その一般化(言語化)も行われ ない場合がほとんどだ。
普通の生活を生きる人々のその個別の物語にはそれが何かを指し示されることのない、ただ結果としての状態だけが現れる。

少しだけ話は飛躍するが、そういう、ことばではいいあらわされることのない、もしくは、あらわすことのできないものを、「発見したもの」としてではなく、 そのままの形で、再構築したものが小説であるともいえる(「そうではない小説」もあるのだろうが)。
小説の作家は個別の物語として、ことばでいいあらわすことのできない何かを一つの物語に託す(司馬遼太郎から村上春樹までそうだ)。

だからそこでは人は最初から最後まで、ことばではあらわせないものを行為と結果、そしてふるまいとして知ることになる。本当に言いたい何か(「言いたいこ と」がなくても、書くという行為、あるいは書こうという意志がすでに何かを含んでいる)を、当のことばを使うことなく、目に見えるものを表すことばを組み 合わせて、そこにその何かを引き起こす(その「目に見えるもの」も読者にとってどう見えているかはそれぞれ違う)。

この「ことば」が最初から孕んでいるものに関しては、小説に限らない。
学校の授業でも、それぞれの人生でもかわらない。結局ことばを学ぶことでは人はそのことばが実際にはなんのことなのかを学ぶことはできない。

そして学ぶことの可能なことばがあるとすれば、それは一回限りの何かをあらわした、ただ一つの言葉にすぎない。
無数に違う行為の中のある一つの行為を何かの言葉に(たとえば「愛」に)あてはめ、それが完全に一致した時、そのことばはもう二度と体験することの出来な い一回限りのその行為を含む現象のみを指し示す言葉になる。そしてそれはその時のその人の感覚においてのみ一致が自覚される。
このことを、自分のほうから言葉のほうに身を寄せていって引き起こしたときに初めて、歌や演技ということは可能になるように思う(つまり、ことばにならな い声がすでに何かをあらわしていて、それによってでた言葉がその中に、その何かを含んであらわされる、あるいはことばではない、身振りや表情や行為が何か をあらわしていて、それによってセリフが意味を帯びる。外国映画を見るときに、”字幕の言語的意味”と役者の演技をミックスさせる際の観客の行為がすでに 何かを受け取ることの構造を顕わにしている)。

だから結局、言葉は一般化してうすめられたものとしてあるとき、使用可能になり、そしてそこからは何も知ることはできない。
だがそのことを知ることは、それこそ「言葉(知識)ではない」という人のほとんどが何らかのイデオロギー(あるいは宗教や”気”や音楽や生活など)を無自 覚に信じているように、難しく、だからこれを知るにはそれだけの言葉に対する理解を持たなくてはならない(肯定するにしても否定するにしてもほんとうに宗 教や気や音楽や生活を知ることはそれらを含む、それらをとりまく言葉すべてを自分でかみくだいたあと可能になるか、あるいは一つも言葉を知らないままでい ることが出来た時だけだ)。

だがこの個別の人生の中に、ことばではいいあらわすことのできない発見(知識)があり、それはことばではないものから発し、ことばではいいあらわせないも のとしての結果を生む。
それこそが一般化された言葉の実態であるということを知れば、こうして知識から行為への道があらわれ、ことばにならないことを知ることに身を置き、そこで その、ことばではいいあらわせないものを注視し何らかのことを考えるという姿勢に身を移さざるをえなくなる。これはどのような知識からはじめても多分同じ ことだ。
といってもだいそれたことではないように思う。
なぜなら、いままでだって自分で感じ考えるのが主体だったからだ。だからただ今は、考える地点を言葉になる前に移し、類型化せず、そのまま行為につなげて みたいということだ。だから「本当のこと」とやらを追うのはやめようと思う。多分もう『発生とは何かという問い』で行けるところまではいった。


そういうわけで、これ以上はだらだらと書き連ねても仕方ない。これ以上言いたいことの内側に言葉で踏み込めばそれは類型化されてしまい、いいたいことは本 質を失う。
さっきも言ったようにそういうことを知った時、そしてそのような手順(言葉や数字になる前の不確定性をもった何かそのものがあって、それが類型化されて、 言葉や数字になるということを理解してたずさわること)を踏んだ時、歌や演技や小説が生まれる(そうでないものを、「実験」と呼ぶのだろうか、それとも実 験は何が起こるのかをたしかめるためなのか)。
もちろんこの考えは間違っているのかもしれないし、荘子が「これから私の言うことは妄言だと思って聞いてくれ」といったように、そのうちまた妄言を言いた くなるのかもしれないが・・・。

結局のところ、ことばにならない何かは最初から最後まで、そこに身を置くことでしか知ることは出来ない。やるべきことも話すべき人も多い。だから今はしば らくことばで考えることをやめ、ただそこに身を置き、「個別の物語」を確かめていこうと思う。
(hayasi keiji,13/10/13)
   
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