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コラム
 今回のコラムは少々古いも のを取り上げる。作成日が2010年7月28日、最終更新日が2010年9月14日(別の草稿「タイムラグと迷いの種」と同じ日付だがUSBメモリに移し た日付が同じ で、それ以降にやはり同じ日に更新したためと思われる)なのでそれ以前に書かれた事に なる。「草稿」としたのは未完成(その意 味においてはどれも未完成である と思う)という意味よりもむしろ、未発表のものと いうのに近い。それに一切の手をつけずにアップしたかったということでもある。その時考えていたものをそのまま載せて、後から見比べて考えたい。よって後 々これらを生かして新たに書く可能性もそのまま保存したい。(2011/8/23 hayashi keiji)  


草稿 「2つの想像力について 」

想像するということには二つのあり方があると思う。

A.何か(誰か)について、こうかもしれない、こう思っているかもしれない、こうするとこういう反応をするだろう こうするとこういうことが起こるだろう。ということを自分の中で想起すること。

B.何か(誰か)には自分とはまったく違う、自分には想像もつかない要素があって そこでは自分とはまったく違う価値観やそれにもとづく何かが起こる可能性について想起すること。

の二つである。

簡単に言うと、Aは妄想である。ただし、Aは想像力を本来あるべき自由性を持って使うので、芸術やら哲学やら宗教やらには向くかもしれない。

BはAほど飛躍的ではない。ある意味では想像しないことですらある。だが科学や生活において欠かせない想像力だと思う。

この2つの想像力を人は混同し、誰かに接するとき、Aでもって接して、Bをしばしば忘れる。
そのことによって、人を傷つけたり、失敗したりする。


生きていくうえで、なるべくBを、つまりそこにいるのは自分が考えているような相手ではなく、独立した心を持った誰かなのだから、誰かに接するときは、そ の人と一緒に場を作るのだ。ということを忘れないようにするべきだと思う。

宗教の問題は、基本的に世界中のほとんどの宗教はAで出来上がっているということだ。
決め付けである。

日本人の良いところは宗教を持たず信仰心(それも強い信仰心)を持っているところだと思う。

信仰というのは、自分にとってもっとも大事なものを守るために、自分のささいな価値観を捨て去ることだ。 それはひどく自己中心的に聴こえるかもしれないが、宗教とは違い誰かに何かを押し付けるものではない。


つまり信仰というのは自分の大事なもののために、自分には想像もつかないほどの大きなものに身をゆだねるということだ。
それは自己中心的とはいえない気がする。


宗教というのは、救われるためにはこういう教えを守って、こうするのだ。というものを受け入れることだ。
自分で考えたのではない何かを自分のものとして無条件に受け入れることだ。それはとても受動的な考え方だ。

そこに祈りはない。

Aという想像力は自分の外にあるものを最初から決定していく作業である。だからそこでBで想起すべきようなことがおきた時に、ギャップが生まれる。
Aにはそのギャップを乗り越える力はない。そこに対立が生まれる。


大事なのは自分の外側で起こる物事を自発的にうけいれることであり、それが信仰であると思う。

それはBとしての想像力を持つことと繋がると思う。

祈りというのは、自分の本当に大事なものを、自分には想像もつかない大きな力に守ってもらいたいと願うことだと思う。

そしてそこには何の要求もない。

それから我々は自分の目の前に起こっていく物事を、ただ受け入れ、受け入れられるがゆえに、自発的に動く(どう対処したらいいかが分かる)ということが可 能になる。そんな気がする。


Aの価値観に基づいて生き、乗り越えようのないものに出会う(それは些細な壁でしかない場合も多い)
そのときに人はただ神にすがるしかなくなり、自発的な行動指針を失う。

そして、「さあ皆さん神に祈りましょう、すべてを委ねるのです。」となってしまう。
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