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コラム
 今回のコラムは少々古いも のを取り上げる。作成日時が2011年4月19日、20:36:39、最終更新日時が2011年4月19日、20:37:04と今回載せる4つの草稿の中 では一番新しいが、作成から最終更新がわずか25秒なので、それ以前に書かれたものをコピーしたものに違いないと思われる。いくらなんでもそんな速くは書 けない。「草稿」としたのは未完成(その意 味においてはどれも未完成である と思う)という意味よりもむしろ、未発表のものと いうのに近い。それに一切の手をつけずにアップしたかったということでもある。その時考えていたものをそのまま載せて、後から見比べて考えたい。よって後 々これらを生かして新たに書く可能性もそのまま保存したい。奇しくも最近興味をもった現象学につながっていると思う(まだインターネット上でタイトルしか 見たことはないが現象学者のメルロー=ポンティにも同じようなタイトルの著作があるようだ)。(2011/8/23 hayashi keiji)  


草稿 「心身合一について 」

体と心というのは可分なのか不可分なのか


同期論の話

心身合一をまずする(意識と体のずれをなくす)

五感を使って、外部情報の収集をする

さらに大きなシステムに参加する(EX:車と自分→自分を含む車と他の車 自分とボール→ボールと一体としての自分と他のフィールドプレイヤー)。あるい は他者とのコミュニケーションを行う。

最初に心身合一ができていないとそれよりも大きな同期には参加できない。もしくは同期ではなく強制的なコントロールになる。自分と他者の範囲の区別がつか なくなる。

自分の範囲の認識(心+体)→道具との同期→他者との同期 が、

自分の範囲の認識(心+体→道具との同期→他者との同期) 

となる可能性があるからである。自分の行動に関することなのに他者がその範囲に含まれる。実際には他者はコントロールできないのでいらつく。そこで強制が 生まれる。

ただしそのもっと大きなシステムへの参加中にどのくらい自分自身の心身合一状態をどのくらい意識しているのか。は、よくわからない。

眼というのは自分以外の外からの情報の収集のためにある。でも自分を見ることもできる(例えば、手)
手っ取り早い心身合一状態の作り方は自分を見ることであると思う。例えば同期する際にはその相手を認識する必要がある。(例えばボール。やってみればわか るが空中にほうったボールを見ていれば、自分の手を見ていなくてもそのボールをとることができる手とボールを同期させ同一点であわせる事でキャッチする)
その認識の相手を自分自身にすることでずれをなくす。自分自身と同期する。これが心身合一の状態だと思う。(僕の言いたいのはよくある武術論としてではな く、もう少し生物学的な意味であるかもしれないが)ただ本来、眼というのは自分以外を見るためにあるとすれば、何かをしている時には自分を見ているわけに はいかない。


例えばサッカーにおいてシュートの際、微妙にボールと足がずれることでボールがゴールの枠ひとつ分ずれたりする。そういうずれは自分のイメージと自分の体 の動きがずれていることに由来する。つまり心身合一ができていないことになる。ではそれをなくすにはどうするか。目以外の自分を認識する方法はというと触 覚しかない。(五感のうちでは。第六感みたいなものはとりあえず入れないでおく)
触覚というのは外部情報入力という意味では皮膚感覚になる。
皮膚感覚をより多く感じ取るには、体をリラックスさせておく必要がある。そのためには姿勢制御ということが出てくる。リラックスしている状態を維持する。

どちらにしても、心身合一に五感が必要なら、最初の図式は堂々巡りになる。五感と合一どっちが先ではないということに変わる。まず五感で自分を認識し、そ れから他者を認識する。こうなる。それとも五感で自分を認識する以外に心身合一方法があるのかもしれない。その懸念の理由のひとつとして、自分を見ること で同期するということは自分を他者として扱うということになるからだ。そう捕らえることも可能なはずだ。

だから触覚のほうが正しいかもしれない。なぜかというと、触覚は内臓感覚や、骨の感覚体内の血管の張りなどまで認識できるからである。体というのは表面だ けではない。内部も含めてである。眼での認識は表面までしかできない。

外部との同期の際は触覚のような感覚を使って自分を認識している。もしくは心身の同期を一度させてあれば外部との同期の際はもう意識しなくていい。という ことかもしれない。ただよく分からないのだが、音楽のような他人の心を魅了するようなものを扱うときは意図的に自分の範囲認識を最初から他者を含めたもの にする場合もあるのかもしれない。(自分としてはそれではまるでヒトラーの演説のようで、強制ではない形でただ単純に素の魅力で魅了できればいいのだと思 うが)実際ヒトラーの演説というのは他者の意図的コントロールなわけだが。演奏は「型」なのか、それとも心身合一に基づくべきなのか?たまにカリスマ性の 強いミュージシャンのライブにおいて生まれる変な一体感はヒトラー型であるとおもう。僕はそれは望まない。

よいライブにおいては何がおきているのか。音楽家は時代を反映するとすれば、それは現在の世界の本当の姿を反映するということであり、つまりは聴衆一人一 人の心の中と反応するということになるのではないかと思う。
ヒトラー型のライブつまり群集心理を利用したあるいは大衆意識を反映したものとしてではなく、個々の人間一人一人と反応する音楽、これこそが理想ではない か。そこにこそ「親和性」の音楽というものがある。同期の場合のマスターとスレイブとしての関係ではなく(大抵の社会における大衆意識や群集心理には引き 金としてのマスターがいる)、相互作用としての音楽。そのための主体性の確立。そういう意味において、心身同一ということは重要なものになるのかもしれな い。


なんにせよ自分でコントロールできる(すべき)範囲は自分までということではある。だから意識して自分自身の範囲というのを規定してあげる必要があるのか もしれない。

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