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院生の独り言

ある いんせい
ほんとの速報!! 認定申請の腹を固めた「出水の会」の役員会    <2004/11/01>

このコラムの筆者〈ある いんせい〉さんが東京で最高裁判決を聞き、熊本へ戻って休む間もなく、鹿児島県出水(いずみ)市や周辺地域の水俣病患者団体の会合に顔を出した。そこで見聞きしたことは“終っていない水俣病事件”の最先端の動きであった。〈ある いんせい〉さんから寄せられたメモを≪環っ波≫編集部がまとめた。したがって、文責は≪環っ波≫編集部にあることをお断りしておく。


「未認定申請」へ向い、詰めた意見交換が行われた
=2004年10月25日、出水市の尾上会長宅で

11月15日に「訴訟」も視野に入れ、全員集会で決定へ

出水市や周辺地域の患者団体「水俣病出水の会」(尾上利夫会長)は2004年10月25日夜、会長宅で役員会を開いた。かねてより訴訟を検討して、水俣病関西訴訟の最高裁判決を待っていたが、最高裁が「国・県の責任を認める」判決を下したのを踏まえて、集団で鹿児島・熊本両県に認定申請するという方針を決めた。

この話し合いを行っている最中に尾上会長に電話が入り、伊藤祐一郎鹿児島県知事の談話が出たと分かった。知事は、同日の定例会見で、関西訴訟の最高裁判決で生じた司法と国の2つの認定基準について触れ、「環境省がこの状況をどうするのか、きちんと整理してほしい」と述べたようだ。そのとき、電話をかけてきた**さんは、「知事が今良いことを言った。前向きに検討すると言った。尾上さん、良かったねえ。」と言ったという。知事は、2つの認定基準について、国から業務を受託している県の立場を説明し、「県内の事情を伝えるなり、何らかの形でまず事務的な連絡を環境省と取りたい」と述べた。尾上さんは、「今の知事は地元(出水?)の出身じゃから、前向きに検討して当然のことだ。」と発言した。

当日の役員会には、出水市潟(がた)地区から5人の男性、当日松本医院に診察を受けに来た**さんら15人が出席し、新聞記者(熊日・毎日・南日本)らも来た。今回申請するのは、これまで棄却された人、初めての人も含めて130人を予定している。130人の内訳は、前回までの掘り起こし(平成11年〜13年)で原田・鶴田両医師が診察した80人と、松本医師が診察した30人の計110人(2人認定、1人保留、残りは棄却)に加え、関西訴訟最高裁判決後に初申請を希望している20人である。(当日の朝も4人が希望してきた)

すでに集団申請を決めた水俣市や葦北郡3町の未認定患者約30人との連携も確認した。松本医院、**先生、協立病院の高岡先生の3グループに分かれて、診断書をもらい、一定数が揃い次第、申請を行う。これまでと同様な患者切り捨ての棄却が続けば、訴訟も検討する予定である。

今回、話し合いで出た課題は、3医者の診断書料の差を患者が納得できるようにするにはどうするか、検討が必要であるということ。また、**先生の協力を得られるか確認しなければならないということ、などが出た。なお、既に始まっている松本医院での診断書・申請書作成が大変なため、申請書作成に必要な聞き取りをどんどん行っていくことになった。潟の漁師らが、ノリの種付けで忙しい時期であることを考慮して、11月15日に出水市の漁村の家で会員集会を開き、会としての方針を最終決定する予定である。

同会の動向が新聞報道されて以来、尾上さんの元には、息子を頼む、子どもを申請させたい、自分が申請したい、という連絡が相次いでいる。随時、松本医院を中心として検診し、診断書をもらっている。

当日、松本医師(中央)の診断を受けに来た患者もいた
25日に、尾上さんの紹介で松本医院の診察を受けたのは、出水の男性3人である。加えて、新聞を見て直接同院を訪問した男性と女性が1人ずつの計5人。尾上さんの簡単な紹介の後、診察が始まった。手の震えや片足立ち、つぎ足歩きの検査は、「あなたも体験したほうがいい。」という松本先生の助言で、私も参加した。出水郡の男性、**さんはあまりに手のふるえがひどく、視野を調べるときに斜眼子を持つ手が震えて、見ていられなかった。百聞から来た女性は、両親がチッソのサラリーマンであったため、家族全体が申請そのものを行わなかったそうである。地元の病院で水俣病の申請のところに行けば、近所の人に会って、どう思われるか分からないから、松本医院ならばと思って参加した、ということだった。

そして、この日私が泊まった民宿のオーナーも申請を希望していると語った。

“終っていない水俣病”がまた一歩動き始めた、というのがこの日の私の強い印象でした。

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