▼宮澤信雄(水俣病研究会・関西訴訟を支える会支援者):「不知火海の水銀汚染」
最高裁判決が無視される日本はもはや法治国家にあらず
どのようにして不知火海でメチル水銀の汚染が続いたのか
関西訴訟の最高裁判決を受けて、国はその判決を無視したいという態度です。日本は三権分立という建前ですがそれは完全に踏みにじられ、もはや法治国家ではなくなっています。水俣病事件の50年を通してずっとそうであったのですが、今、まさにそれが大きな形で最高裁判決後に現われていると申し上げておきます。
小池百合子環境大臣の私的懇談会の実態とは
その1つとして、環境省は新対策を打ち出していますがこれは判決に則ったものではありません。判決後、小池百合子環境大臣は私的懇談会を作った。色んなメンバーを寄せ集めてこれまで3回ほど開かれている。議事内容はインターネットで公開されているが、この私的懇談会は、この結果を政策に反映させるなど毛頭考えていない、何の実行性も無い単なる時間稼ぎだと考えている。その証拠に水俣の元市長の吉井正澄さんが「小泉首相に謝罪して欲しい」と提案したが、その事を小池環境大臣は「まだ伝えていません」と記者に対して答えていた。水俣病について何らかの結論を出すものではない。水俣病についてああでもないこうでもないと話している間に、小池百合子さんは環境大臣ではなくなるかもしれない。50周年のあれやこれやで有耶無耶になる恐れが十分にある。
懇談会のメンバーの1人に元最高裁判事の亀山継夫さんがいる。彼は水俣病の裁判に関っていたこともある人だ。彼はこの懇談会で「この懇談会でしなければならないことは、なぜ水俣病はこのようなことになってしまったのか、その実相を明らかにしなければならない」と発言している。先ほど高岡先生が言われたように、水俣病の実相は未だ明らかになっていない。亀山さんは本当に良いことを言っているが、私は「あなた、その言葉を自分に向かって言わなければなりませんよ」と言いたい。彼は最高裁の判事になる前には検察の最高責任者であった。その彼が、最高裁の判事になり、現在私的懇談会のメンバーになっている。水俣病事件の節々で検察が乗り出すべき時に、大勢の人が苦しんでいる時に、動かなかった。
1963年の初めに、水俣病の原因物質は塩化メチル水銀だということも明らかになって大きく報道された。熊大研究班の世良完介医学部長が『熊本日日新聞』の記者に「原因物質が明らかになったのだから検察に行きなさい。責任を追及するように検察のお尻をつつきなさい」と言った。しかし検察や警察は逃げてしまった。「原因が分かったら何かする」と言っていたのに原因が分かったのに何もしなかった。亀山さん、水俣病がこんな風になったのはあなた達の責任ですよ。その事をあなたは自分ではっきりさせることができますか。
昭和51年、川本輝夫さんがチッソとの交渉の際に「チッソの工場内でチッソの社員に怪我を負わせた」として傷害で起訴されました。罰金5万円、執行猶予が1年ついた。事実上の有罪。それに対し、水俣病の患者さんたちは「チッソは何だ。あんなに大勢の人を殺しておいて何もないのか」と告訴した。それでようやく検察側は重い腰を上げた。ほとんどの被害者については時効になっていた。結果的にはたった2人だけが時効を免れ、胎児性患者として認められた。これが日本の現実だ。
被害が拡大した理由
なぜ被害が広がってしまったのか。それは、チッソ水俣工場で作っていたアセトアルデヒドをずっと作り続けたかったという、それだけの理由。水俣病が起きた頃、日本では塩化ビニルの需要がものすごく増えていた。塩化ビニルを柔らかくする可塑剤であるオクタノールが欲しかった。そのオクタノールを作ることができるのはチッソ水俣工場であり、日本は国策として輸入はするな(1ドル360円台の時代)としており、通産省は水俣工場にオクタノールの大量生産を求めていた。だから、水俣病の原因は塩化メチル水銀だと分かっていても、1968年5月まで、チッソ水俣工場でアセトアルデヒドをずっと作り続けていた。なぜ1968年でストップしたのかというと、石油化学方式で作ることができるようになったから。逆に言うとその時まで、作りたい放題作って不知火海に廃液を流し続けていたという事。だから、不知火海沿岸一円に被害者が存在している。
1956(昭和31)年5月に水俣病の公式確認があり、半年後の11月には「原因物質はマンガンか何か、ある種の重金属中毒で、それは水俣湾の魚介類を食べたことにより発生し、その原因物質は工場排水の中に含まれている」ことがこの時期に分かっていた。その気になれば、この段階で水俣病を防ぐことはできた。先程の富樫先生の話にもあったが、人がバタバタ死んでいる時に、それを防ぐためにはどこまで原因物質が分かればいいのか。工場廃水が怪しいということだけで十分なのではないのか。魚を食べたら怪しいということ、その原因が工場ということで十分なんだ。
検察は「この段階で水俣病の原因は何か、チッソの排水であることはチッソ工場は認識しえた」と言っている。
1956年11月下旬に、厚生省の厚生科学研究班も水俣へ来て現地調査をした。熊大と同じ結論になった。どうも工場廃水が原因だと。熊本県の衛生部長の蟻田重雄さんも厚生科学研究班と一緒に現地に行って調べまわり実感した。現地に行って見た結果「工場排水が奇病の原因だ」と思った。その結果を県庁に戻り知事に報告した。すると、水上長吉という副知事が「あ〜た、八代から南には行かんでよござんす」と蟻田さんに向かってそう言った。つまり、「工場廃水が原因なんていうあなたは、もう水俣へは行かないでくれ」、そういうことです。この水上という人は、翌年の春以降の水俣病対策の責任者になるんです。何をしてきたのかを知っておく必要があります。
昭和32年1月17日。水俣漁協の漁民たちは「工場排水を止めてくれ、止めないんだったらきれいになったことを証明して流してくれ」とチッソに要求する。ところが工場は「昔から、流しているものは変わっていない」と嘯く。漁民たちは知事に嘆願しに行くが、熊本県も知らない顔。この時に何らかの形で対応していれば、こんなに長引くこともなかったはずだ。
昭和32年3月4日。水上副知事が座長となり、熊本県水俣奇病対策連絡会がスタートする。そこで決めたことは「漁業法による漁獲禁止はできません」「食品衛生法も原因不明なので適用できません」。そこで「漁民に漁を自粛させて、社会不安を取り除きましょう」という事を決めてしまった。
食品衛生法の解釈を間違っている
食品衛生法は、「原因が分からなければ適用されない」というわけではない。「原因が分からないからこそ、一刻も早く中毒を防ぐために適用する」わけです。原因物質がついているかもしれないものは売らないというのが食品衛生法であるのに、熊本県は終始一貫して原因物質が分からなければ適用しないと言い続けた。熊大の研究班が、2月26日に「水俣湾の魚が原因なんだ。だから水俣湾の魚を獲らない、売らないようにしよう」とはっきりと会議で打ち出した。しかしその日のうちに熊本県の役人が「原因物質が分からないから法律は適用できない」と。県の年報にも書いてある。その事を問わなかった大阪高裁も最高裁も、法律の責任者としては欠陥があるのではないかと思う。
さらに、第一回の熊本県水俣奇病対策連絡会で、水上長吉さんは「工場と奇病との関係については現在は分からないということで臨みましょう」「県として統一する」と上から言った。これが、水俣病に対する熊本県の基本姿勢なんです。関係はないことにして今日まで熊本県はその姿勢を貫いている。
これは漁民に対する棄民策です。何の手立てもせずに漁を自粛させるのだから。「お前ら、死んでしまってもいいよ、海を工場に明け渡しなさい、どんどん汚水をチッソに流させなさい」、そう言っているのと同じこと。
厚生省も水俣に調査に来て「水俣湾は、チッソの工場排水により非常に汚染されている。その影響で湾内の魚も汚染されている。汚染物質は化学物質か金属類である。今後も汚染状態を調べて原因を明らかにしたい」と報告書を提出している。
厚生省は、4月5日付けで各省庁に呼びかけている。通産省・農水省・建設省・文部省・労働省へと。通産省へ呼びかけたことの重要性。これは「伝染性疾患とは考えられず、地域的事情による化学的物質の中毒」であることが分かっていたからである。現地調査に参加した厚生省食品衛生課・岡崎正太郎が「この適切な処理には厚生省だけでは不十分だと考えたから、通産省その他に呼びかけた」と記録している。
ここでも「対策を講じる前に原因物質の究明を」「原因が分からないから対策は立てられない、立てなくてもいい」というキーワードが貫かれた。これは、水俣病事件史50年間、今日に至るまで通じるものがある。これは何をしたら良いのかを分かっていて、対策を立てないための口実に過ぎない。
工場内では、どの排水が原因なのか最初から分かっていた。昭和31年11月3日に熊大研究班が「マンガンではないか」といった時に、西田工場長は「マンガンはもう2〜3年前から使っていないし、もしマンガンが原因なら工場の従業員がとっくに中毒になっているはずだ。だからマンガンではないと思った。その代わり、水銀だと思った」と。アセトアルデヒド製造で水銀を大量に使用しており、奇病が出る前からずっと流しているのはこの排水だけだということは分かっていた。そこで、昭和32年4月に工場の中に「アセトアルデヒド廃液処理工事計画」を立てる。これは廃液中の水銀をなるべく取り除いて水俣湾の反対側の八幡プールに流すという計画で、そうすることにより、不知火海の海水に薄められて水俣病の被害は出ないだろう、そういう思惑であった。
ところが9月14日にこの計画を中止する。どうやら熊大研究班は水銀に気がついていないということが分かったから、この廃液処理計画を止めたんだろうと思います。それ以外の理由は解釈できない。それと、急に廃液ルートうを変更すると、どの廃液が原因かが分かってしまうということも考えたのであろう。
1958(昭和33)年7月7日。厚生省は「いわゆる水俣病の研究成果、その対策について」で、今まで患者は46人、死んだ人は21人、入院治療中の人が7人、その他の障害を残している人が33人います。これを何とか防がなければならない。厚生省は「原因物質は分からないが水俣工場廃棄物に含まれている化学物質だ。何なのかはこれから調べます。今、分かっている段階での対策を講じてください」と、熊本県、通産省、水俣工場関係各部署にこの通達を出す。すると、通産省とチッソは「原因物質が何かも分かっていないのに人を名指しするとはけしからん」と抗議の申し込みに行く。一方では密かに排出先を変えている。1958(昭和33)年の9月から1年間にかけて。メチル水銀は排出先を変更しても濃縮されて汚染が減るわけではない。水銀の垂れ流しが10年間も続いた。
1959(昭和34)年7月22日、熊大は有機水銀説を発表する。8月6日、水俣市漁協は「排水を止めてくれ」と、漁民補償要求闘争を続ける。これに対して通産省、チッソ、日本化学工業協会は躍起になって反論した。同年10月6日、工場内で細川一医師が密かに行っていた猫実験で「猫400号」が発症する。工場の中でも立証されたわけだ。
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行政は元より法学者へも注文をつける宮澤さん |
漁民たちは東京へ行き、各省庁に要求を行う。秋山武夫は「アセトアルデヒド排水を、もう一度水俣湾に戻せよ」という、つまり彼らもそれが原因であると分かっていた。10月30日、水俣工場は八幡プールから工場内へ排水の逆送を開始し「八幡海域への排水は皆無」を装う。これに水俣漁民も国会議員も騙される。
水俣病騒ぎの沈静策は3つある
原因不明の状態をそのままに保ち続けること。食品衛生調査会が「ある種の有機水銀が原因だ」と答申したのに池田隼人通産大臣は「水銀と奇病との関係を今言うのは早過ぎる」と一言で終わってしまった。
水俣病総合調査研究連絡協議会を経済企画庁の中につくり、水俣病の原因を曖昧にするための研究を続けた。
2つめは、被害補償を早く済ませること。不知火海全体の漁民、1人当り1万円。患者の場合は成人の年金10万円、未成人の場合は年金3万円。今後、原因がチッソであったとしても新たな要求はしませんと約束させた。
3つめは、「排水はきれいになりました」と見せかけること。それがサイクレーターの設置。私が初めて昭和34年の8月の末にチッソ水俣工場へ行った時に最初に連れて行かれたのもサイクレーターの場所で、「きちんと処理しています」と案内された。しかし、このサイクレーターが何の効果もないことは分かっていた。設計段階でも分かっていた。水銀を含んだ水をサイクレーターに入れていたわけではなく、それを八幡プールに溜め込んでいた。
1960年9月29日。水俣病総合調査研究連絡協議会の3回目の会合で、ひょんな事から「チッソが出している図面は嘘だよ、サイクレーターに排水を入れてあるように書いてあるけど嘘だ」と東京工業大学の教授清浦雷作がばらしてしまう。厚生省は「排水はサイクレーターを通りきれいになっている」と思っていたので驚いてしまう。すると通産省の藤岡工業用水課長が「以前は百間港に流していました。昭和33年9月に百間港に流すのをやめて八幡プールに出すようにしています」とはっきり言っている。チッソも同じ事を言っていた。通産省はチッソの行っていることを把握していた。こうして直接不知火海一円に被害を広げた。
1965年11月に新しいプールに入れ始める。海に近い場所だったので海に染み込み被害が広がっていった。今、北八幡プールはゴルフ場になっている。今、水銀値を測ってみてもおそらく高い値が出るだろう。
松島義一さんは熊本県の衛生研究所に所属し、不知火海周辺の住民の毛髪水銀量を調べた人。熊本県は長いことそのデータを隠していた。公表された。1960年の秋から3年間かけて約3000人について調べた。天草の竜ヶ岳、水俣、津奈木、湯浦、芦北、田ノ浦、御所浦のおよそ1000人分を測った。すると全体の80〜90%の人が10ppm以上であった。日本人の平均は3ppmだ。報告書に書いてある。
汚染源は水俣で、汚染は続いている。
1963年5月。水俣では平均が17.3ppm、最高62ppm。津奈木では31ppm、最高が108ppm。御所浦では平均13.6ppm、最高が121ppm。「汚染がまったく終息したものとは思えない」
結局、汚染は続いていた。
新潟でも水俣病は発生し、不知火海にも水銀は流出し続けていた。
1968年9月26日に政府見解が出る。この時から私は水俣病とかかわり始める。政府見解には「患者の発生は昭和35年を最後として終わった」と書いてある。政府の公式見解であるのに、きちんと調べていなかった。「昭和32年、魚介類の摂食が禁止された」とあるが、禁止なんか1回もされなかった。この事実はない。「昭和35年1月以降、廃水処理サイクレーターが整備できたので水俣病は終わっている」と言っているが、廃水は不知火海に流され続けていた。
政府見解で事実を述べていたのは、「アセトアルデヒド酢酸設備は操業廃止した」のみ。操業廃止を待って、政府見解が出たといってよい。翌年1959年2月、水質二法がようやく水俣湾周辺に適用されることとなった。
不作為とか何とか言うが、明らかに知っていながら行っている。後は終わったことにして知らない顔をしている。
その責任を今度の最高裁判決でようやく認めてくれた。水俣病事件を見た時に、行政の責任を問わざるを得ない、あの最高裁判決でもさすがにそう思った。それで、大阪高裁での判決をそのまま認めることとしようとなった。
食品衛生法に関して適用されなかったのは、認めてしまうとあまりにも国の責任が重くなってしまうからであろう。行政指導に効果があったとは思えないし、仮にあったとしてこんなに患者が増えたのに説明がつくのか。あの判断はインチであるといえる。
国がすべき事は分かっていた。何らかの法律を適用して被害を防ごう、あるいは責任を問う時に、一番最初は食品衛生法だと思います。変な条理は通用して、まともな条理は通用しないのがこの国なんです。漁業調整規則であっても食品衛生法であっても、存在する法律を使って規制しないでどうやって被害を防ぐことができるのか。法律の先生方はその点をよく考えていただきたいと私は思います。大変失礼いたしました。 |