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寄稿 永野いつ香さん

22回目を迎えた「天草環境会議」に初参加した熊本学園大学の院生・永野いつ香さんが丁寧なレポートを寄稿してくれた。1日目の水俣病をめぐる8人の講師の話。2日目の苓北火電の見学記と率直な感想がつづられている。今回の天草環境会議は天草環境会議実行委員会「はえん風」と、今年4月スタートした熊本学園大学水俣学研究センターの共催により開催された。

【写真撮影・提供=堀田眞丘さん、松本基督さん】


=====第22回 天草環境会議プログラム=====

「子どもらへつなぐ水俣病50年の軌跡in天草・・・なぜ、いま、天草で水俣病か・・・」

7月9日(土)13時〜18時/苓北町志岐集会所ホール

花田昌宣

熊本学園大学教授

開会挨拶

原田正純

熊本学園大学教授

「なぜ、今、天草で水俣か」

小野田学

弁護士(関西訴訟を支える会)

「関西訴訟最高裁判決を受けて」

富樫貞夫

熊本学園大学教授

「同−法学者の立場から」

高岡 滋

協立病院総院長

「新しい申請患者の実態」

宮沢信雄

水俣病研究会

「不知火海の水銀汚染」

高倉史朗

溝口訴訟を支援する会

「溝口訴訟の現況」

尾上利夫

出水の会代表

「人権救済申し立て」

アン・マクドナルド

立命館アジア太平洋大学客員教授

「カナダ水俣病」

松本繁喜

NGO

「苓北火力発電が抱える問題」

須藤久仁恵

NGO

「川辺川からのアピール」


7月10日(日)9時〜12時/苓北町志岐集会所公民館分室

1.苓北めぐりと発電所見学

2.公開特別座談会

「水俣病は終わっていない」
司  会:寺西俊一(一橋大学大学院教授)
出席者:原田正純(熊本学園大学教授)
      淡路剛久(立教大学大学院教授)
      礒野弥生(東京経済大学教授)
      高岡 滋(協立病院総院長)
      小野田学(弁護士)
      宮澤信雄(フリージャーナリスト)


=第22回天草環境会議に参加して=

「水俣病は何1つ解決していない」を再認識

うやむやな状況では何年たっても解決しない

熊本学園大学大学院 永野いつ香

22回の歴史の中で、初めて「水俣病問題」をテーマ
に取り上げた

 2005年7月9、10日に行われた「第22回天草環境会議」に初めて参加させていただきました。今年のメインテーマは「水俣病50年の軌跡」でしたが、水俣病事件に関っている方々の話を聞き、「水俣病は何一つ解決していない」ことを改めて認識しました。

 1956(昭和31)年、チッソ付属病院・細川一院長が水俣保健所に原因不明の神経疾患児続発を報告したことで、水俣病は「公式発見」されてから来年2006年で50年の月日が経ちます。公式発見以前にも水俣病患者の存在はあったとされていますので、正確にはもっと長い月日が経っているであろうと思われます。

 50年も経ったのだから少しは解決していることがあるだろうと思うのは大間違いで、水俣病事件はその月日の分だけ、より複雑な歴史を歩み続けています。国や熊本県、チッソ株式会社が一体となり原因を隠し続け、公式発見から12年後の1968(昭和43)年9月26日に、ようやく政府は公害と認定します。同年5月に水俣工場のアセトアルデヒド製造設備が廃止となりますが、これは決して偶然ではなく、製造設備廃止を国が待っていたのだと思います。国・県・チッソにより事実は隠蔽され、多くの人の補償は先送りにされ、1995(平成7)年の政治解決によって、わずかな補償により半ば強制的に解決させられと、被害者は理不尽な扱いを受け続けています。

 そんな中、昨年2004年10月15日のチッソ水俣病関西訴訟最高裁判決により、ようやく国・熊本県の責任が明らかとなりました。しかし、未だに解決の糸口は見えないままです。責任とは、「ごめんなさい」と謝罪することだけなのでしょうか。被害を受けた人々が安心して生活できるような補償と、これまで隠蔽してきた出来事を一つ一つ明らかにし水俣病事件の全貌を明らかにしていく、最低限この二つを国や熊本県が真剣に取り組むことは、そんなに難しいことなのでしょうか。

 行政の立場の方々は、一刻も早く水俣病を解決したいと思っているようですが、一つ一つの事柄に筋を通していかなくては本当の解決へは行き着かないのではないかと思います。水俣病事件史を明らかにしていくことは、国や熊本県、チッソにとって都合の悪い事実が出てくることでしょうから、今後も有耶無耶にしていきたいと考えているはずです。当然のことですが、私は、今の状況(有耶無耶のまま)では何の解決にもならないと考えています。

 今回の「天草環境会議」の話を多くの方に知っていただき、今後の国・県の動向に注目していただきたいと思います。参加できなかった方々に、発表された内容をできるだけ詳しく再現してみました。

【一日目】シンポジウム

▼花田昌宣(熊本学園大学教授・社会福祉学部長):開会あいさつ


被害者・地域住民とともに歩む「水俣学センター」

 平成17年度4月より、熊本学園大学の中に「水俣学センター」が立ち上がり、8月には水俣にも「水俣学現地研究センター」がオープンします。水俣学とは、水俣病の事だけを研究するのではなく、水俣病事件を鏡にして環境問題や社会そのものを見直すような研究をしたいという趣旨です。来年、水俣病公式確認から50年経ちますが、水俣学研究センターのスタンスは被害者や地域住民とともに歩んでいくといったものです。今回、天草環境会議を一緒にと声を掛けていただき、本当にありがたく思います。天草の苓北の地で長年闘ってこられている方々とつながっていく良いスタートになるのではないかと思っております。


▼原田正純(熊本学園大学教授):「なぜ、今、天草で水俣か」

過去の手法は通じない。今後の行政の出方に注目したい

今回の話は、『環境と公害』(10月号)に載せたいと思っております。

 なぜ、今、天草で水俣問題を取り上げなくてはならないかといいますと、一つには水俣病事件を教訓に色々な問題を考えていこうという「水俣学研究センター」の考えがあります。天草環境会議は、火力発電所の反対運動から始まりました。当時の若い青年が中心となって火電反対運動をしましたが、結局火力発電所はできてしまいました。しかし、その時のつながりを大事にして天草を考えていこうという事で、今年は22回目です。その中で海を中心とした様々な議論をしてきました。水俣問題は、川本輝夫さんがアピールしたりもしましたが、メインテーマで取り上げることは今回が初めてです。

 水俣病は、発生させてはいけなかったのに発生させてしまった。発生したら、被害を最小限に食い止めなくてはならなかったのに被害を最大限に拡大させてしまった。被害を最大限に拡大させてしまったら、できることは被害者に対してできる限りの償いをするしかなかった。つまり、「発生をさせてしまった責任」、「被害を拡大した責任」、「被害者に償いをする責任」の三つの責任(それだけではないが)があったと思うのだが、その三つの責任をサボってきた50年が水俣病の歴史だと思うんです。その50年の歴史そのものが、巨大な人権侵害だと思います。関西訴訟の最高裁の判決が、その巨大な人権侵害をきちんと証明してくれたのではないかと思っています。詳しい話は、小野田さんと富樫さんにしていただくわけですが、簡単に言うと、国や県の責任を認めたということ、原告側が主張した病像を認めたということ。これはすごく大きな意味を持っている。今までの行政のやり方は破綻したという事ではないかと。最初から方針の決まっているものを学者や専門家に丸投げし、学者や専門家は行政の意のままの答申をし、研究費をもらう。これは何も水俣病に限った話ではなく、エイズにしても金融関係にしても、「専門家が国に動員されて、専門家が行政に添うような答申をして物事を進めてきた」という歴史だったと思うんです。しかし、関西訴訟判決により、「もうそういう行政のやり方では成り立たないよ」ということを示したのではないかと。これからは、物事を決めるときにはいろんな人が最初から参加して議論をしながら決めていかなくてはどうにもならないことを示したのではないだろうか。その証拠に、関西訴訟判決以来審査会が成り立たない。しかし、それも卑怯な話。30数億の研究費をもらっておいて、ここで投げ出すのは無責任だろう。とにかく、これまでの行政の手法は通用しなくなった。そういった意味でもこの50年を前にして関西訴訟で得られた成果は非常に大きな意味がある。今後、行政がどのような施策を進めていくのか私たちは注目する必要があると思っています。

 この30年間、何が水俣病であるかを争ってきた。最初は、目の前にいる患者さんをどうするかという切実な問題として受け止めて一生懸命取り組んでいたが、実は気がついてみると、単に水俣の問題だけではないんですね。もちろん関西訴訟原告の人達だけの問題でもない。関西訴訟で、原告の言う水俣病像を勝ち取ったということは、多くの、まだ申請もしていない不知火海一帯の被害者へも大きく影響するわけで、単に原告だけの話ではない。と同時に、日本だけでなく国際的な広がりを持っている。例えばカナダやアマゾンでも水銀汚染が進行しており、髪の毛や魚の水銀値を測れば汚染があることは認めざるを得ない。しかし、患者が出ているかどうかの議論の際に、何が水俣病であるかが蒸し返されてしまう。カナダやブラジルの政府は日本の政府に「水俣病が出ているかどうか」を相談するため、行政と被害者の対立関係がそのまま持ち込まれる。したがって、ローカルな問題だと思っていたものは実はグローバルな問題に広がっているものであった。

新申請者を放っておいて「50年」なんて……
と指弾する原田さん

 水俣病正式発見50年というが...

 行政の正式発見50周年で、慰霊祭を初め行政が様々な行事を計画していると聞いています。しかし、最高裁の判決以来、問題の解決の糸口さえ見つかっていない。しかも、2,000人を超える新たな申請患者が出ている。そういう人達を放っておいて50周年も慰霊祭も成り立たないと思うんです。関西訴訟の判決後、「頭を下げて終わったような雰囲気」、「委員会を作って建設的な意見を出し展望を見出す」等々なされている。行政が保健手帳を交付すると提案しているわけだが、「だれがいつどのように」手帳を出すのか一切決まっていない。保健手帳は、医療費をみることが中心。1995年の和解の際の人達がもらった手帳とどう違うのかもはっきりしていない。問題は何も解決されようとしていないのに、50周年という行事に意味はあるのだろうか。

 私たちであれば、どのように問題を解決に迫っていくのかを考えたいと思っている。被害の実態を、単に医学的な症状の側面からだけでなく、生活実態や生活被害を含めて再調査をきちんとする。そしてせめて、全被害者に対して最低限医療の心配がないだけの事を踏まえたうえで、それぞれの症状や生活困難に対する援助を上乗せするといったようなことができないかと考えています。

 今日は、いろんな立場からいろんな議論をしていただきたいと思います。

 水俣病が50年目を迎えるにあたり、国民や被害者の立場で問題を考える機会を是非持ちたいと思います。環境問題・公害の原点は「水俣病」だと言われている。水俣病以前に、人類は多くの「中毒」を経験したが、環境汚染・食物連鎖によって中毒を起こしたというのは「水俣病」が初めてであった。これまで、「最初に環境汚染の影響を受けるのは、地域に住むお腹の中の赤ちゃんや子ども、老人など弱い人だ」という言い方をしてきた。しかし、食物連鎖という視点から考えるならば、ゴカイやプランクトンの存在を見逃すことはできない。自然界のサイクルの中でも一番弱い存在、一番弱い命が最初に影響を受けていく。それは決して他人事ではなく、自分たちに必ずはね返ってくるものという話があるが、水俣病も原点にかえればそういうことだと思います。天草と水俣病とは関係ないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、天草環境会議は、「天草の森や山をきちんと守らないと海も守れない」ということをテーマにしてきました。その事と、水俣病の原点を振り返ることはどこかでつながっているのではないかと考えています。

▼小野田学(関西訴訟を支える会):「関西訴訟最高裁判決を受けて−弁護士として」

関西訴訟判、決評価するが行政変えるインパクトにはならなかった

 22年間、関西訴訟に関わることになったきっかけ

 当初は、22年間も関わることになるとは夢にも思っていなかった。たまたま私の甥が水俣の生活学校に行っておりまして、その甥が私に昭和57年の新潟訴訟の調書がパンフレットになっている本を私に送ってくれた。それを見て、「少し面白そうだな」と思い関わることとなった。正直、関わり出した時には、「水俣病は、もうとっくに終わった問題ではないのか」と思っていたのだが、私が最初に目を通した記録が新潟訴訟で証人として法廷に立った日本化学工業協会(日化協)の大島竹治の証言であり、それを見てびっくりした。日本化学工業協会(日化協)は、昭和34年の「有機水銀説」が問題になった時点で、既に解決済みの「爆薬説」を蒸し返してきた。大島竹治の調書を見ていると、昭和34年の夏に、爆薬説を蒸し返すための現地調査をしたということを話している。調査に行く前に、当時の通産省(彼は化学局長と言っているが、その時にはもう無いのでおそらく軽工業局の間違いだと思うが)の化学局長に会い、激励されて行ったと。そして現地調査から帰ってきて一部始終の報告をしているという内容の証言をしている。

 これを読み、私は非常に驚いた。水俣病はとっくに解決している問題だと思っていたが、実は、調べてみるといろんな問題がある。1つにはチッソの犯罪行為に国家、あるいは熊本県が相当積極的にコミットしていたという問題を大島竹治の証言調書を読んで感じました。それが水俣訴訟に深入りしていった経緯です。

 2004年10月15日に最高裁の判決が下されました。評価される面もあるが、問題もある。病像の問題は省略させていただいて、私は主として「最高裁の判決で行政の加害責任が認められた意義」について今回は焦点を絞って話をしてみたいと思います。

 関西訴訟の証人として、通産省関係の証人は3名、経済企画庁の証人は2人、学者として関わった清浦雷作。学者としての証人の1人に東京都立大学の半谷高久先生がおられました。昭和34年秋から昭和35年にかけて中央の水俣病総合調査連絡協議会メンバーの1人であった。水俣病総合調査連絡協議会は昭和34年の秋に明らかになりました「有機水銀説」が出された時に、それをもみ消すために作られた御用機関であった。半谷高久先生は当時若かったため本当の意味が分からず「有機水銀説を潰す為の御用機関にうまく利用された」と述懐されています。また、先生が最近悔恨されているのは、原因究明をしようとして「科学的であろうとすればする程、被害は拡大し患者は増えた」と。行政の加害責任の核心について触れたのではないかと思っております。

 最高裁判決により、昭和34年11月以降の排水規制をしなかったという行政の加害責任が認められました。しかし我々はもっと時期を遡って昭和31年以降の行政の責任が認められてしかるべきではないかと思っています。チッソとの関係では、4分の1の責任しかないとされている。最高裁判決にも限界や欠陥、いたらない点があります。

 昭和31年の秋から昭和32年にかけて問題になっていた食品衛生法の適用については、法律論から見ても、誰もが納得できる問題ではないかと思っていましたが、残念ながら最高裁判決では我々の主張を採用しませんでした。その根拠として、漁獲禁止とまではいかないまでも、熊本県は漁協に対して自主規制を指導しており、ある程度の効果をあげていたとしている。我々からするとそれは虚構であるのだが。

 仮に最高裁の論理に則ると、昭和34年11月以降にチッソに対し排水規制をしていたら被害の拡大防止ができていたと。しかし、それだけで十分に被害を防ぐことができたのだろうか。それ以前に水銀を海に流しているのだから、排水規制をしただけで何ら措置を講じなければ有毒化された魚を介して被害はひろがってしまうではないか、という主張であったわけです。

 問題点が多々あるとしても、最高裁判決で、行政の加害責任を認めたことの意義に関しては過小評価されてはならないと思います。それはどういう意味なのかをお話させていただきたいと思います。

 私事で恐縮ですが、最高裁で勝ったことは一度もありません(笑い)。他の事例を踏まえた私の経験からいうと、最高裁の判決は法律の解釈に関して厳格であり、保守的な傾向が非常に強いと言えます。形式的な法の解釈であると評価できます。この傾向を頭に入れて水俣の訴訟を見てみると、部分的にでも行政の責任が認められたことは非常に稀有な事例で意味があると思います。しかし、この裁判の判決が出されるのに22年間も時間が経過したということは問題です。ある事実について双方の当事者がそれぞれの立場から主張し争う。どちらの主張が正しいのかを裁判所が判断するわけですが、私どもにとっては当たり前の論理であるとは思うのですが、それを認めてもらうのに22年間費やすこととなった。

 排水問題に関して国・県の主張の要点は、次のようなものである。

 行政活動は、行政が自主的に行政の裁量によるものであるため、仮に何らかの被害が発生した場合、それだけで直ちに賠償責任を負わないといけないということはない。そのため、科学的な証拠が無ければ行政による強制的な規制はなかなかできない。

 本件の場合は、例えば昭和34年の秋に、有毒物質が何かということは科学的に明らかになっていなかったし、チッソの排水が水俣病の原因であるということも科学的に確定していなかった。昭和40年代にならないと、有機水銀が原因物質であるということは技術的にも分からなかったじゃないかという主張であった。ここは巧妙なすり替えなのですが、昭和43年9月26日の時点で、ようやく厚生省が水俣病の原因物質はメチル水銀である、チッソからのアセトアルデヒド排水であると公式に発表しました。国・県は、正式に確定できたのは昭和43年になってからであり、それまでは科学的な確証があったわけではないのだから、行政サイドからの規制は不可能であったという論理で主張し裁判を長引かせてきた。

 この排水規制問題に関する国・県の論理にどのように対抗していくのかに苦心しました。そこで、第一審、第二審の段階で通産省3名、経済企画庁2名に対して取調べをしてもらいました。そうすることで冒頭でも言ったとおり、単にチッソの不法行為ではなく、国・県・チッソが三位一体となって行った重大な共同不法行為であることが証人尋問を通じて明らかになった。

最高裁判決が優先されないこの国の仕組みはおか
しいとする小野田さん

 昭和51年になってから遅すぎる起訴となったチッソの工場長と社長。その刑事事件の中で明らかとなった刑事記録の書類の中に、実は昭和32年の春の段階で、チッソ内部では水銀の危険性に気がついていたというものがある。そういった関係書類を用いて、国・県に対する反論を導き出した。第一審の訴訟だけでも11年くらいかかった。地道に国・県の責任を立証していった。それが今回の最高裁の判決につながっているのではないかと思っている。

 排水規制の問題について、国・県の行政責任について8つの裁判所で判決が出た。

 一番最初の国賠訴訟の判決は、昭和62年3月30日の熊本地方裁判所の第三次訴訟判決です。この判決は割と立派なもので、我々は基本的にはこの判決の骨子を援用させてもらっている。最高裁の判決が出るまでに紆余曲折があった。最高裁は非常に厳格だと言うが、水俣病事件史につまっている事実の大きさを素直に直視するなら法律解釈にはある程度幅を利かせてもよいのではないか(伸縮自在というわけではない)と思っている。最高裁でも事案の解決のためには法律解釈をある程度柔軟にせざるを得ない側面があったと思う。

 水産資源保護法に基づいて作られた熊本県漁業調整規則32条がある。

 第一審では漁業調整規則は本来、水産資源を目的とするものであり、人間の健康や生命を直接に守る事が法の目的ではない。法の目的を逸脱してチッソに除害施設を作るよう指示することはできなかったと判断している。

 最高裁判決の中では県がチッソに対して除害施設を作るように指示を出すべきであった。人命のためには必要であったと解釈している。

 水質二法の判断

 控訴審判決の一番の核心は、「昭和34年の11月には死者や患者が多数出ており、一刻の猶予も許さない緊急事態、非常事態であった。それに対して行政機関はあらゆる法規を駆使して人命救助を行わねばならなかった」としている部分。最高裁判決もそれを採用した。これは非常に当たり前のことであると思う。筑豊の塵肺訴訟でも同じような判断をしている。もんじゅ訴訟の場合は、行政側に柔軟な姿勢を示しているようだ。

 亡くなった戒脳能道孝先生の言葉に「人間の尊厳の他に、重要な価値があると人間が判断した時点で公害が始まる」という名言がある。

 水俣病事件の本質は、人間の尊厳よりも産業・企業の経済価値や財産権を重視するという価値観に基づいて、行政が一企業・一産業に傾斜して人間の尊厳を踏みにじったもの。この本質を最高裁なりに「人間の尊厳が失われた時には、行政機関はあらゆる手段を尽くして防護措置をとらなければならない」と的確に判断したと思っている。

 行政が何のためにあるのかという原点を考えさせてくれた判決であったと思う。22年間かかったが、それなりに甲斐があったのではないかと思っている。

 最高裁判決が触れなかった最大の問題

 水俣病事件史の中で見ると、司法機関、捜査機関が少なくとも昭和34年秋には適正に捜査権限を行使してチッソ水俣工場に対して立ち入り調査をし、例えば業務上過失・致死とすべきであった。

 川本輝夫さんの裁判で控訴棄却をした寺尾判決でも指摘されている。

 検察は、昭和34年11月2日に工場に乱入したとされている漁民に対しては厳しく処罰したのに対して、工場に対しては何ら手を加えなかった。この不平等が指摘されている。

 チッソと行政との共同不法行為の側面が問題であった。最高裁では残念ながらチッソに対する適切な捜査権限が行使されなかった点はすくい上げられなかった。この点でも悔いが残ります。

 行政を直接動かすインパクトにはなりえていない現状

 不十分な点を含みながらも、最高裁判決において「国民の生命・健康が危機に瀕している事態において、行政はあらゆる法規を駆使して人命・人身の保護を優先的に図る義務がある」とはっきりと明示した。人間の尊厳を他の財産権などよりも尊重したという点においては重要な意味を持っている。

 こういった判決が出たにも関わらず、残念ながら行政には最高裁の判決に基づいて、直ちにこれまでの水俣病の救済策を改める、考え直すという姿勢は見らない。わが国の建前では、最高裁の司法の優位が言われているが、実際には最高裁判決の意味が行政を動かすといった大きなインパクトにはなりえていない状況がある。

 半谷先生に一審の大阪地裁に証人として出ていただいた。因果関係の科学的な問題について、どれほどの科学的な証拠が揃っておれば行政は手を打つことができるのか。これに対し「事態の重大性・緊急性の程度如何によって相対的に決まるものである」とおっしゃった。水俣病の昭和34年の秋を思い浮かべていただくと、死者や患者が多数発生していた。こういった緊急の場合には「十分に証拠がそろっていないとしても緊急性がある場合には、行政が打てるだけの手は打たなければならない。他方、事態がそれほど緊急性が無い場合は、科学的に厳密な根拠がないと規制措置を講じることは控えるべきだ」と述べています。

 予防の原則にしても、いずれにしても最高裁判決で示された「人命の、健康の保護」が行政の第一義的な原則であると。これが今後の足がかりになるのではないかと思っております。

 食品衛生法が認められなかった話についてはまた別の機会にするとして、今回の私の話は終わりたいと思います。
▼ 富樫貞夫(熊本学園大学教授):「関西訴訟最高裁判決を受けて−法学者として」

2000人超える新申請者の環境省の扱い重視すべき

 水俣病の第一次訴訟の時から法学者として関わっている。

 昨年2004年10月15日に出ました関西訴訟最高裁判決を見ての感想を述べたいと思います。30数年水俣病事件に取り組んで今現在に至っています。水俣病事件が50年になろうとしているこれまでの歴史に照らし合わせて考えると、今回の判決は、それほど驚くような画期的な内容だとは思いませんでした。国・熊本県の国家賠償を最大限認めた判決に過ぎないという感想が私の場合、先にありました。

 1956年5月以降の水俣病事件の経過に照らし合わせて考えますと、国・熊本県は成すべき事をしてきていない。水俣病の発生拡大に対して、国・熊本県の行政に責任があるということは私にとっては常識です。それを認めてもらうために22年間もの時間を費やしたということが異常だと感じています。1番不満な点は、大阪高裁・関西訴訟最高裁とも、水俣病の被害拡大に対する行政の責任は1959年11月から発生すると考えている点です。裏を返すと、それ以前の被害発生拡大に関しては認めていない。そういった意味では行政の責任を極めて限定してとらえていることになる。これは極めて不十分なことである。

 水質二法。これは1958年に、ある事件がきっかけとなりバタバタと作られたものなんですよ。本州製紙江戸川工場事件。戦後の重化学工業化による水質汚濁の悪化により漁業被害があり、1958年6月には浦安の漁民騒動が起きた。これは政府のお膝元で起きた事件であったために社会的に大きなインパクトを持ちまして、こういう事件を二度と起こしてはならないということで、1958年「公共用水域の水質の保全に関する法律(略称:水質保全法)」「工場排水等の規制に関する法律」が制定される。水質二法は国レベルの初めての公害対策法だった。翌年1959年から施行された。

 これを根拠として、大阪高裁・最高裁も国の責任を断定したわけです。これについて2つ疑問があります。1つは、もし東京湾で漁民騒動が起こらず水質二法もあの時期に成立していなかったら、何を根拠に水俣病の被害拡大に対し国に責任があると言えるのだろうか。もし、水質二法が成立していなかったら、そういうことは言えなくなるのではないか。もう1つは、1956年5月に水俣病の発生公式確認以後、日を追って被害は拡大しており、判決が言うように1956年から1959年にかけては非常事態が水俣湾や不知火海沿岸で進行していたわけです。それをいち早く食い止めるには、どう考えても1959年末では遅すぎるわけです。小野田弁護士が言うように、1956年の末か、1957年の夏ごろに、被害拡大に対する対策を講じていれば相当被害は抑えられたんだろうと思うんです。しかしその時点で水質二法のような法律は無いわけです。水質二法は戦後、日本で作られた最初の公害規制の法律です。かといって食品衛生法を適用させて行政の責任を問おうとしても難しい問題が発生していた。

 以上のように判決の責任のとらえ方や内容には不満があります。

 判決はこのようなとらえ方しかできなかったのか。裁判所も、水俣病の医学者、行政も含めて、水俣病を引き起こす原因物質は何かという点にあまりにもこだわり過ぎている。水俣病の歴史はそのような歴史であったといっても言い過ぎではない。原因物質がきちんと突き止められるまでは対策は立てられません、被害の拡大防止もできませんというのが行政の公式見解であった。そうして正当化してきていた。

 岡山大学医学部の疫学の専門家、津田敏秀先生が「原因物質は2つ3つあっても構わない」と言っている。要するに、1956年の時点、1957年の夏ごろの時点で「水俣湾で有毒化した魚を食べれば、ほぼ確実に水俣病になる」ということはかなり高い蓋然性があった。毒物が人間の体に入ることを断ち切るようにすれば、水俣病の被害は食い止められたはずなんです。何も化学構造まで細かく追究する必要はなかったし、それを追究しなければ防止対策を立てられないというものでもないと思う。

 しかし最高裁の判決を読んでも、「原因物質がある程度突き止められないと対策は立てられない。だから、突き止められた時点以後でないと国・熊本県の責任は追及できない」という構造になっている。

 1959年の7月には熊本大学の有機水銀説が確定。同年11月には食品衛生調査会の有機水銀説答申が出ている。有機水銀説はかなり有力となっているのだが、それ以後でないと行政の責任は問われないというとらえかたに問題があるのではないかと思う。

 水俣病事件の実態に即して行政に責任論を構成しようとするのなら、とにかく法の不備で直接適用できる法律が無いのだから、論理を立てざるを得ない。それを裁判所がどこまで認めてくれるかは分からないしリスクも伴う。ただ水俣病の置かれた環境や経過に照らすならば、そういう論理の組み立ての方法になるのではないかと思うのだが、残念ながらそういった方法にはならなかった。

国・熊本県の行政の責任を認めた最高裁判決は
象徴的意義ある、とする富樫さん

 関西訴訟の最高裁判決は、あまりにも問題があり、不十分な内容であると指摘したわけですが、しかし、関西訴訟の患者・家族が22年間頑張らなければ、この判決は無かっただろう。1995年の政治解決をはねのけてでも、最高裁を闘い続けたという事の非常に大きな成果が最高裁判決であった。長い水俣病の歴史の中で最高裁の判決で、国・熊本県の行政の責任を認めたという象徴的な意義を受け止めるべきだと思う。

その後の動き

判決後、関西訴訟の原告団は、いくつかの要求を出しています。

・医療費の自己負担分を支給せよ。

・1977年の判断条件を見直せ。

・汚染地区の健康調査と水俣湾及び不知火海一帯の環境調査の実施。

 これは、22年間の関西訴訟を闘ってきた原告団ならではの真っ当な要求だと思う。にもかかわらず、国・環境省の対応は、極めて不十分。

 取りあえずは、関西訴訟原告及び、第二次訴訟の原告に対して医療費の自己負担分は支給しようとなっている。

 最高裁の判決をきっかけとして、新しい申請者が2,000名を超えている。これは、最高裁判決がもたらした非常に大きな波及効果である。

 環境省側は、基本的には1977年の判断条件は見直さない、1995年の政治解決の枠組みは維持すると。その中で、政治解決の一環として行われている保健手帳による医療救済をしようという救済策を提示している。しかし、これに対して被害者側からの「単に医療費の自己負担分支給だけではだけでは足りない、療養費も」といった要求が出ている。

 関西訴訟原告団が求めた、汚染地域の徹底した健康調査や、水俣湾・不知火海一帯の環境調査の問題については完全に棚上げの状態になっている。

 そんな状況の中、来年2006年5月、我々は水俣病公式確認から50年目という非常に大きな区切りを迎える。

 認定要件の問題

 大阪高裁は、「水俣病」という言葉でなく、「メチル水銀中毒症」という言葉を使っていた。大脳皮質からきた感覚障害を中心に判断している考え方を判決の中で言っている。二点識別各異常がないと、メチル水銀中毒症とは認めない。この考え方には問題があるのではないかと思っている。

 最高裁が示した新しい認定要件をどう考えるのか。これは「ニセ基準」ではないかという議論も出た。結果として1977年以来使用されてきた判断条件が揺らいでおり、いずれにしても見直す必要があるのではないか、そういう時期にきているのではないかと思っている。しかし、環境省は全くそういった姿勢を見せていない。

 環境省が今後、2,000名以上の新しい認定申請者に対する対応をどうするかが、当面の最大の問題ではないかと思っている。環境省が考えている政治解決の枠内で、必要最少限度の手当てをして事態を収拾しようとしている。それに対して患者側が妥協せずに闘いを更にに強化してもっと違った見解を導いていけるようにしていく。予断を許さない状況だろうと思います。

▼高岡 滋(協立病院総院長):「新しい申請患者の実態」

真実は「認定のための検診」では見出せない

 2004年10月15日に最高裁の判決が出され、半年後の4月には診断書作成者は578名であった。これまで申請したことのある方は全体の2割に満たない。8割以上の方が、初めて認定申請をする方々でした。家族に認定の方がおられる方が29名、家族の中に総合対策医療事業の医療手帳をもっておられる方が45%です。

 第三次訴訟に関わってきて診断書を書きましたけど、その方々の年代は70代。私自身も地元にいながら最高裁判決が出されるまでは、この状況になるとは予想がつかなかった。今、考えてみれば当たり前だなと思うことは、40〜60代の方も濃厚汚染の時期を生きている。この年代の方々は殆ど裁判にも入ってこられなかった方々。その方々の感覚障害を診てみました。一番古典的な方法は、筆とピンを使う方法。四肢末梢性又は全身性感覚障害は9割。一番多いのは、痛覚だけの障害。私たちが9割と表現しているのは、手首より抹消以上の触覚と痛覚の両方を備えている人だと。それ以外の障害というのは、水俣病以外のファクターの可能性が高い。

 視野狭窄失調の頻度。頻度は2〜3割。私たちは厳しめの判断をしている。

 皮膚感覚はいろいろあると言ったが、痛覚・触覚・進歩感覚・二点識別覚位置感覚などがある。

全体像の明確化と被害者の全面救済が本当の解決
だと語る高岡さん

 位置感覚は、目をつぶって、指が上に行ったか下に行ったかを筋肉にある感覚レセプターが感知する。医者が「上にありますか、下にありますか」とたずね、2cm動かし、調べる。足の親指で5mm動かすと、年齢にかかわらず大体の人は感知する。6割の方は、ほとんど感知しない。6cm動かしても分からない方もいらっしゃる。これは大変なことなんです。水俣病の失調には、小脳失調もあるが、でこぼこの道を歩くには表面の皮膚感覚、進歩感覚がしっかりしていることが必須条件。「普段はきちんと歩けていても、思わぬところで転んでしまう」とよく言われますけれども、その原因の1つになっているのではないかと思います。

 定量化すると、何でも分かったような感覚に陥るが、感覚を測る事は非常に難しい。そして、再現化が必ずしもあるわけではない。しかし大切なのは、数字が変わったとしても、正常な人で分からないということはまず無いという点。

 どうして今になって受診したのか

 元から症状があるという方も多いのですが、最近自覚症状がひどくなったからという方もおられます。加齢によってどのような変化があるのか、今まで追究できていない。医学的に厳密な意味で遅発性があるのかは今後の検討課題。今の方々が5年、10年後にどうなっていくのか。

 医療費がかかるからという方。逆に言うと、医療費がかさばらなかったら、障害を我慢していたという方もおられる。

 これまで申請認定しなかった理由のほとんどは非差別意識から。「家族から反対された」、「子供たちのことを考えて」、「申請すること自体恥ずかしい」など、差別を恐れての理由であった。

 制度を知らなかった方も。1995年に行政が積極的に申請を勧めたわけではなかったですし。

 私たち自身も、まとまった情報を市民の方に提供できなかった。

 普通、こういう汚染があった場合は、「こういう症状が出ますよ、調子の悪い方は、是非検査に来てください」といったものがあってもよいと思うのだが、水俣周辺地域では何もない。私の所属している「NPOみなまた」から、「どういう症状があるのか」を書いたパンフレットを今月か来月、出そうと考えている。

 4月30日に、水俣で講演会をした時に紹介したのですが、つまようじ(1本2mmの太さ)を2つ重ねて唇に当ててみて、1つか2つかが分かるかの検査があります。この話を踏まえて、社会的な責任という意味の問題点は、データの前に行政の押し付けた結論があったということ。今ではEBM(Evidence Based Medicine)といって、きちんとしたデータに基づいて疾患を診断・治療しなさいといったものがあるが、それがないままになされていた。また、行政に反する結果の出る研究はなされなかった。

 感覚障害の基準をどこにおくかといった、救済に関する問題があるが、それに必要なのはデータです。にもかかわらず、感覚障害は変動性があるから難しいといって医学的追究をしていない。感覚障害だけでは水俣病とされていなかったため、感覚障害のみの研究がなされていない。もしも、研究をして感覚障害だけでも水俣病であるという客観的医学的証拠が出てしまうと、その結論を出した医学者は国に対してはむかう事となってしまう。したがって、感覚障害に関する深い研究はできない、タブーであったと言える。井形昭弘先生たちは「脳の中でも視野狭窄を引き起こす後頭葉がやられている」と、事実ではなく自分たちの結論を導き出す理論を作り出してきたとしか思えない。

 純粋に医学の立場から見てどうであったのか

 水俣病を検診してきた殆どの医者は認定のための視点で患者を診てきており、その事に医者は疑問を抱いていない。普通は、この人を認定するかどうかという視点では診察しない。どういう病気か診断し、治療方法を見つけ、その後に認定申請などの手続きが必要であれば関わると良いと思うのだが、日本神経学会では詐病などのテーマが話題に上がる。そういうことが問題であると思っておられればいいが、そうではない。

 感覚障害をタブー視してきている点がある。熊大の神経内科の先生方の論文を見ていると、「感覚障害のような主観的なものを」という言葉が出てくる。確かに感覚障害は主観的なファクターが強い。しかし大勢の人の訴えを、「主観的」と言って切ってしまっても良いのだろうか。感覚障害自体の追究がなされていない。

 現地に来て検診してみないと分からない点が多い。

 真相を議論する前に、真実を調べない徹底した行政の姿勢があった。社会組織が追随したと思っている。

 水俣病の解決とは、基準をどこにするのかという話の前の段階で、全体像を明らかにすることと被害者が全面救済されることであろうと思っている。

▼宮澤信雄(水俣病研究会・関西訴訟を支える会支援者):「不知火海の水銀汚染」

最高裁判決が無視される日本はもはや法治国家にあらず

 どのようにして不知火海でメチル水銀の汚染が続いたのか

 関西訴訟の最高裁判決を受けて、国はその判決を無視したいという態度です。日本は三権分立という建前ですがそれは完全に踏みにじられ、もはや法治国家ではなくなっています。水俣病事件の50年を通してずっとそうであったのですが、今、まさにそれが大きな形で最高裁判決後に現われていると申し上げておきます。

 小池百合子環境大臣の私的懇談会の実態とは

 その1つとして、環境省は新対策を打ち出していますがこれは判決に則ったものではありません。判決後、小池百合子環境大臣は私的懇談会を作った。色んなメンバーを寄せ集めてこれまで3回ほど開かれている。議事内容はインターネットで公開されているが、この私的懇談会は、この結果を政策に反映させるなど毛頭考えていない、何の実行性も無い単なる時間稼ぎだと考えている。その証拠に水俣の元市長の吉井正澄さんが「小泉首相に謝罪して欲しい」と提案したが、その事を小池環境大臣は「まだ伝えていません」と記者に対して答えていた。水俣病について何らかの結論を出すものではない。水俣病についてああでもないこうでもないと話している間に、小池百合子さんは環境大臣ではなくなるかもしれない。50周年のあれやこれやで有耶無耶になる恐れが十分にある。

 懇談会のメンバーの1人に元最高裁判事の亀山継夫さんがいる。彼は水俣病の裁判に関っていたこともある人だ。彼はこの懇談会で「この懇談会でしなければならないことは、なぜ水俣病はこのようなことになってしまったのか、その実相を明らかにしなければならない」と発言している。先ほど高岡先生が言われたように、水俣病の実相は未だ明らかになっていない。亀山さんは本当に良いことを言っているが、私は「あなた、その言葉を自分に向かって言わなければなりませんよ」と言いたい。彼は最高裁の判事になる前には検察の最高責任者であった。その彼が、最高裁の判事になり、現在私的懇談会のメンバーになっている。水俣病事件の節々で検察が乗り出すべき時に、大勢の人が苦しんでいる時に、動かなかった。

 1963年の初めに、水俣病の原因物質は塩化メチル水銀だということも明らかになって大きく報道された。熊大研究班の世良完介医学部長が『熊本日日新聞』の記者に「原因物質が明らかになったのだから検察に行きなさい。責任を追及するように検察のお尻をつつきなさい」と言った。しかし検察や警察は逃げてしまった。「原因が分かったら何かする」と言っていたのに原因が分かったのに何もしなかった。亀山さん、水俣病がこんな風になったのはあなた達の責任ですよ。その事をあなたは自分ではっきりさせることができますか。

 昭和51年、川本輝夫さんがチッソとの交渉の際に「チッソの工場内でチッソの社員に怪我を負わせた」として傷害で起訴されました。罰金5万円、執行猶予が1年ついた。事実上の有罪。それに対し、水俣病の患者さんたちは「チッソは何だ。あんなに大勢の人を殺しておいて何もないのか」と告訴した。それでようやく検察側は重い腰を上げた。ほとんどの被害者については時効になっていた。結果的にはたった2人だけが時効を免れ、胎児性患者として認められた。これが日本の現実だ。

 被害が拡大した理由

 なぜ被害が広がってしまったのか。それは、チッソ水俣工場で作っていたアセトアルデヒドをずっと作り続けたかったという、それだけの理由。水俣病が起きた頃、日本では塩化ビニルの需要がものすごく増えていた。塩化ビニルを柔らかくする可塑剤であるオクタノールが欲しかった。そのオクタノールを作ることができるのはチッソ水俣工場であり、日本は国策として輸入はするな(1ドル360円台の時代)としており、通産省は水俣工場にオクタノールの大量生産を求めていた。だから、水俣病の原因は塩化メチル水銀だと分かっていても、1968年5月まで、チッソ水俣工場でアセトアルデヒドをずっと作り続けていた。なぜ1968年でストップしたのかというと、石油化学方式で作ることができるようになったから。逆に言うとその時まで、作りたい放題作って不知火海に廃液を流し続けていたという事。だから、不知火海沿岸一円に被害者が存在している。

 1956(昭和31)年5月に水俣病の公式確認があり、半年後の11月には「原因物質はマンガンか何か、ある種の重金属中毒で、それは水俣湾の魚介類を食べたことにより発生し、その原因物質は工場排水の中に含まれている」ことがこの時期に分かっていた。その気になれば、この段階で水俣病を防ぐことはできた。先程の富樫先生の話にもあったが、人がバタバタ死んでいる時に、それを防ぐためにはどこまで原因物質が分かればいいのか。工場廃水が怪しいということだけで十分なのではないのか。魚を食べたら怪しいということ、その原因が工場ということで十分なんだ。

 検察は「この段階で水俣病の原因は何か、チッソの排水であることはチッソ工場は認識しえた」と言っている。

 1956年11月下旬に、厚生省の厚生科学研究班も水俣へ来て現地調査をした。熊大と同じ結論になった。どうも工場廃水が原因だと。熊本県の衛生部長の蟻田重雄さんも厚生科学研究班と一緒に現地に行って調べまわり実感した。現地に行って見た結果「工場排水が奇病の原因だ」と思った。その結果を県庁に戻り知事に報告した。すると、水上長吉という副知事が「あ〜た、八代から南には行かんでよござんす」と蟻田さんに向かってそう言った。つまり、「工場廃水が原因なんていうあなたは、もう水俣へは行かないでくれ」、そういうことです。この水上という人は、翌年の春以降の水俣病対策の責任者になるんです。何をしてきたのかを知っておく必要があります。

 昭和32年1月17日。水俣漁協の漁民たちは「工場排水を止めてくれ、止めないんだったらきれいになったことを証明して流してくれ」とチッソに要求する。ところが工場は「昔から、流しているものは変わっていない」と嘯く。漁民たちは知事に嘆願しに行くが、熊本県も知らない顔。この時に何らかの形で対応していれば、こんなに長引くこともなかったはずだ。

 昭和32年3月4日。水上副知事が座長となり、熊本県水俣奇病対策連絡会がスタートする。そこで決めたことは「漁業法による漁獲禁止はできません」「食品衛生法も原因不明なので適用できません」。そこで「漁民に漁を自粛させて、社会不安を取り除きましょう」という事を決めてしまった。

 食品衛生法の解釈を間違っている

 食品衛生法は、「原因が分からなければ適用されない」というわけではない。「原因が分からないからこそ、一刻も早く中毒を防ぐために適用する」わけです。原因物質がついているかもしれないものは売らないというのが食品衛生法であるのに、熊本県は終始一貫して原因物質が分からなければ適用しないと言い続けた。熊大の研究班が、2月26日に「水俣湾の魚が原因なんだ。だから水俣湾の魚を獲らない、売らないようにしよう」とはっきりと会議で打ち出した。しかしその日のうちに熊本県の役人が「原因物質が分からないから法律は適用できない」と。県の年報にも書いてある。その事を問わなかった大阪高裁も最高裁も、法律の責任者としては欠陥があるのではないかと思う。

 さらに、第一回の熊本県水俣奇病対策連絡会で、水上長吉さんは「工場と奇病との関係については現在は分からないということで臨みましょう」「県として統一する」と上から言った。これが、水俣病に対する熊本県の基本姿勢なんです。関係はないことにして今日まで熊本県はその姿勢を貫いている。

 これは漁民に対する棄民策です。何の手立てもせずに漁を自粛させるのだから。「お前ら、死んでしまってもいいよ、海を工場に明け渡しなさい、どんどん汚水をチッソに流させなさい」、そう言っているのと同じこと。

 厚生省も水俣に調査に来て「水俣湾は、チッソの工場排水により非常に汚染されている。その影響で湾内の魚も汚染されている。汚染物質は化学物質か金属類である。今後も汚染状態を調べて原因を明らかにしたい」と報告書を提出している。

 厚生省は、4月5日付けで各省庁に呼びかけている。通産省・農水省・建設省・文部省・労働省へと。通産省へ呼びかけたことの重要性。これは「伝染性疾患とは考えられず、地域的事情による化学的物質の中毒」であることが分かっていたからである。現地調査に参加した厚生省食品衛生課・岡崎正太郎が「この適切な処理には厚生省だけでは不十分だと考えたから、通産省その他に呼びかけた」と記録している。

 ここでも「対策を講じる前に原因物質の究明を」「原因が分からないから対策は立てられない、立てなくてもいい」というキーワードが貫かれた。これは、水俣病事件史50年間、今日に至るまで通じるものがある。これは何をしたら良いのかを分かっていて、対策を立てないための口実に過ぎない。

 工場内では、どの排水が原因なのか最初から分かっていた。昭和31年11月3日に熊大研究班が「マンガンではないか」といった時に、西田工場長は「マンガンはもう2〜3年前から使っていないし、もしマンガンが原因なら工場の従業員がとっくに中毒になっているはずだ。だからマンガンではないと思った。その代わり、水銀だと思った」と。アセトアルデヒド製造で水銀を大量に使用しており、奇病が出る前からずっと流しているのはこの排水だけだということは分かっていた。そこで、昭和32年4月に工場の中に「アセトアルデヒド廃液処理工事計画」を立てる。これは廃液中の水銀をなるべく取り除いて水俣湾の反対側の八幡プールに流すという計画で、そうすることにより、不知火海の海水に薄められて水俣病の被害は出ないだろう、そういう思惑であった。

 ところが9月14日にこの計画を中止する。どうやら熊大研究班は水銀に気がついていないということが分かったから、この廃液処理計画を止めたんだろうと思います。それ以外の理由は解釈できない。それと、急に廃液ルートうを変更すると、どの廃液が原因かが分かってしまうということも考えたのであろう。

 1958(昭和33)年7月7日。厚生省は「いわゆる水俣病の研究成果、その対策について」で、今まで患者は46人、死んだ人は21人、入院治療中の人が7人、その他の障害を残している人が33人います。これを何とか防がなければならない。厚生省は「原因物質は分からないが水俣工場廃棄物に含まれている化学物質だ。何なのかはこれから調べます。今、分かっている段階での対策を講じてください」と、熊本県、通産省、水俣工場関係各部署にこの通達を出す。すると、通産省とチッソは「原因物質が何かも分かっていないのに人を名指しするとはけしからん」と抗議の申し込みに行く。一方では密かに排出先を変えている。1958(昭和33)年の9月から1年間にかけて。メチル水銀は排出先を変更しても濃縮されて汚染が減るわけではない。水銀の垂れ流しが10年間も続いた。

 1959(昭和34)年7月22日、熊大は有機水銀説を発表する。8月6日、水俣市漁協は「排水を止めてくれ」と、漁民補償要求闘争を続ける。これに対して通産省、チッソ、日本化学工業協会は躍起になって反論した。同年10月6日、工場内で細川一医師が密かに行っていた猫実験で「猫400号」が発症する。工場の中でも立証されたわけだ。

行政は元より法学者へも注文をつける宮澤さん

 漁民たちは東京へ行き、各省庁に要求を行う。秋山武夫は「アセトアルデヒド排水を、もう一度水俣湾に戻せよ」という、つまり彼らもそれが原因であると分かっていた。10月30日、水俣工場は八幡プールから工場内へ排水の逆送を開始し「八幡海域への排水は皆無」を装う。これに水俣漁民も国会議員も騙される。

 水俣病騒ぎの沈静策は3つある

 原因不明の状態をそのままに保ち続けること。食品衛生調査会が「ある種の有機水銀が原因だ」と答申したのに池田隼人通産大臣は「水銀と奇病との関係を今言うのは早過ぎる」と一言で終わってしまった。

 水俣病総合調査研究連絡協議会を経済企画庁の中につくり、水俣病の原因を曖昧にするための研究を続けた。

 2つめは、被害補償を早く済ませること。不知火海全体の漁民、1人当り1万円。患者の場合は成人の年金10万円、未成人の場合は年金3万円。今後、原因がチッソであったとしても新たな要求はしませんと約束させた。

 3つめは、「排水はきれいになりました」と見せかけること。それがサイクレーターの設置。私が初めて昭和34年の8月の末にチッソ水俣工場へ行った時に最初に連れて行かれたのもサイクレーターの場所で、「きちんと処理しています」と案内された。しかし、このサイクレーターが何の効果もないことは分かっていた。設計段階でも分かっていた。水銀を含んだ水をサイクレーターに入れていたわけではなく、それを八幡プールに溜め込んでいた。

 1960年9月29日。水俣病総合調査研究連絡協議会の3回目の会合で、ひょんな事から「チッソが出している図面は嘘だよ、サイクレーターに排水を入れてあるように書いてあるけど嘘だ」と東京工業大学の教授清浦雷作がばらしてしまう。厚生省は「排水はサイクレーターを通りきれいになっている」と思っていたので驚いてしまう。すると通産省の藤岡工業用水課長が「以前は百間港に流していました。昭和33年9月に百間港に流すのをやめて八幡プールに出すようにしています」とはっきり言っている。チッソも同じ事を言っていた。通産省はチッソの行っていることを把握していた。こうして直接不知火海一円に被害を広げた。

 1965年11月に新しいプールに入れ始める。海に近い場所だったので海に染み込み被害が広がっていった。今、北八幡プールはゴルフ場になっている。今、水銀値を測ってみてもおそらく高い値が出るだろう。

 松島義一さんは熊本県の衛生研究所に所属し、不知火海周辺の住民の毛髪水銀量を調べた人。熊本県は長いことそのデータを隠していた。公表された。1960年の秋から3年間かけて約3000人について調べた。天草の竜ヶ岳、水俣、津奈木、湯浦、芦北、田ノ浦、御所浦のおよそ1000人分を測った。すると全体の80〜90%の人が10ppm以上であった。日本人の平均は3ppmだ。報告書に書いてある。

 汚染源は水俣で、汚染は続いている。

 1963年5月。水俣では平均が17.3ppm、最高62ppm。津奈木では31ppm、最高が108ppm。御所浦では平均13.6ppm、最高が121ppm。「汚染がまったく終息したものとは思えない」

 結局、汚染は続いていた。

 新潟でも水俣病は発生し、不知火海にも水銀は流出し続けていた。

 1968年9月26日に政府見解が出る。この時から私は水俣病とかかわり始める。政府見解には「患者の発生は昭和35年を最後として終わった」と書いてある。政府の公式見解であるのに、きちんと調べていなかった。「昭和32年、魚介類の摂食が禁止された」とあるが、禁止なんか1回もされなかった。この事実はない。「昭和35年1月以降、廃水処理サイクレーターが整備できたので水俣病は終わっている」と言っているが、廃水は不知火海に流され続けていた。

 政府見解で事実を述べていたのは、「アセトアルデヒド酢酸設備は操業廃止した」のみ。操業廃止を待って、政府見解が出たといってよい。翌年1959年2月、水質二法がようやく水俣湾周辺に適用されることとなった。

 不作為とか何とか言うが、明らかに知っていながら行っている。後は終わったことにして知らない顔をしている。

 その責任を今度の最高裁判決でようやく認めてくれた。水俣病事件を見た時に、行政の責任を問わざるを得ない、あの最高裁判決でもさすがにそう思った。それで、大阪高裁での判決をそのまま認めることとしようとなった。

 食品衛生法に関して適用されなかったのは、認めてしまうとあまりにも国の責任が重くなってしまうからであろう。行政指導に効果があったとは思えないし、仮にあったとしてこんなに患者が増えたのに説明がつくのか。あの判断はインチであるといえる。

 国がすべき事は分かっていた。何らかの法律を適用して被害を防ごう、あるいは責任を問う時に、一番最初は食品衛生法だと思います。変な条理は通用して、まともな条理は通用しないのがこの国なんです。漁業調整規則であっても食品衛生法であっても、存在する法律を使って規制しないでどうやって被害を防ぐことができるのか。法律の先生方はその点をよく考えていただきたいと私は思います。大変失礼いたしました。

▼高倉史朗(溝口訴訟を支援する会):「溝口訴訟の現況」

不作為による被害者の泣き寝入り許さない

 現在進行中である溝口裁判について

 甘夏の製造・販売をして生計を立てつつ患者団体の事務局もしています。今日は応援している溝口さんの訴訟について説明します。溝口さんは川本輝夫さんとは同級生です。

 水俣市の袋で農業をしている。すぐ近くに袋湾があり、魚介類を獲ったり買ったりしながら生活していた。溝口さんの母親についての裁判をしています。1973年に申請した人が、12年後の1985年の時点で205人が未処分であるという事態になっている。水俣病の認定申請者が、身動きの取れない状況にあった事を示す数字である。未処分の合計を見ていきますと1969年から1985年に至るまでの間に認定申請した109,073人中、5,181人の方が未処分の状態であった。未検診死亡者は356人の方が存在した。未検診死亡者というのは、まず認定申請します。その後、認定審査会の指示によって、審査会が指定する場所で検診を受けなくてはならない。そしてその検診を受けて初めて認定審査にかかって、水俣病であるかどうかが決められる。しかし、認定申請をして検診が始まるまでに何年もかかる。ですから、間に検診を受けないまま亡くなる方もいる。更に、検診が始まり終了するまでにも、ひどい人だと10年以上かかる。その間に亡くなってしまう人がいることは、認定申請する方に高齢の方が多いことを考えれば当然のこと。水俣病被害者に対する熊本県の放置状態がこういった結果を引き起こしている1つの例がこの未検診死亡者であり、溝口さんの母親チエさんの例であることを理解して下さい。

 未検診死亡者の扱い

理解して欲しいなぜ「溝口裁判」をしてるか、と訴え
る高倉さん

 熊本県が出してきた書類に1988年11月10日「環境庁熊本県打ち合わせ会議合意事項」がある。ここに、未処分死亡者については現行の審査会に乗せることは不可能。病院調査についても積極的に行わないことをしないとされている。これが結論なんです。これはとんでもない話でして、認定申請します、そして検診が終わる前に亡くなります。そうするとこの人たちは検診を受け終わっていませんから水俣病であるかどうかの判断がつかなくなるんですよ。じゃあどうするか。策としては生前に通っていた病院の調査をするより他ありません。しかしその病院調査をしないといっているんです。しかもこれには裏も表もあって、この1988年に結論付けた約10年前の1980年には病院調査をしているんです。100人近くについて認定か棄却かを分けたんです。これにより、認定審査会よりクレームがついた。この方法だと認定患者が増えすぎると。というのは、病院調査をした時に例えば協立病院など、きちんと検診していますからカルテがきちんと残っており、運動失調も感覚障害もあるという結果になる。民間の病院のカルテだとみんな認定されてしまうのです。何と、その時県の役人で見積もった人がいて、その人によると「8割の人が認定されるだろう」と。そうなったら大変なことになると。それからは、民間の病院カルテ調査は棚上げになるんです。

 川本輝夫さんが生きているときにも、この事実は一切知りません。当時、県はこういった資料は一切出しませんでしたから。一切こういったものは無いということでなされていた。今になって知る事実である。

 チエさんについて

 1974年8月1日に認定申請します。1975年と1977年に検診を受けまして、1977年7月に、検診が全て終わらないままに亡くなってしまいました。認定申請から3年経っています。これも不思議な話です。いくつかの検診を受けるのに3年もかかっています。そして行われた検診は眼科と耳鼻科だけです。肝心カナメの神経科や精神科の検診、臨床の検診は行われていません。しかも何と、疫学調査もなされていない。本人の生きているうちには疫学調査はなされず、まるで本人の死亡を待っていたかのように、亡くなってから12日後の7月13日に県の係官が訪れます。本人は亡くなっていますから、本人からは聞き取り調査はできない、記憶の薄れかかっている家族から聞いて、終わりです。その家族の記憶と、かつてのチエさんの隠されていた資料が違うということで裁判では逆に原告を責め立てています。

 チエさんに関して病院調査が行われたのが1994年6月13日。20年後です。20年も経っていると、例えば水俣の市立病院に文書紹介をしましたら保存期間5年を過ぎていますから、「カルテはありません」で終わりです。さらに、佐藤医院・市川医院という病院がありましてチエさんが生前通っていたのですが、そこはもう廃院になっていました。資料が残っているわけがないです。しかし、佐藤医院に関しては、1993、4年までは資料を保管していたんです。「認定申請者に関するカルテは特別だと思い、残していました」と。「しかし、問い合わせもないし、自分のところも廃院してしまったので処分しました」ということでした。

 早くに県が調査していればカルテを手に入れることができた。更に犯罪的なことは、チエさんが亡くなられてから毎年、命日の前後に県に電話をして「認定申請の件で、母は亡くなっているがどうしてれるんだ」と問い合わせているんです。この裁判になって、1987年からの記録は残っていますとしているが、「ただ聞いておくだけにする」といったメモが残されていた。そして1994年になり、形だけの病院調査を行い「カルテがなくなっていた」「病院がなくなっていて何も調査できない」ということで棄却しました。

 そういうひどいことをしておいて棄却にしたわけです。その後、溝口さんから相談があり、行政不服を始めます。結局負けました。そして2001年12月になって熊本地裁に対して「棄却処分の取消訴訟」といった形で訴訟を始めました。現在12回の法廷が開かれまして明後日が13回目の法廷で、本人と岡山大学の津田先生の証言があります。1時半から熊本地裁で行われますので時間のある方は是非。

 溝口訴訟の目的

 棄却を取り消すだけではなく、水俣病であったと認めさせること。

 未検診死亡者は360人くらい存在する。この人たちは1995年の政府解決策のときも資料がないという理由で切り捨てられた。こういった人の代表のつもりで溝口さんは裁判をするんだと言っている。

 熊本県の言い分は、「生存している人を救済することが先決であったので、その人たちのことが大変で、死亡者に関しては構っていられなかった、だから後回しにした」と、言い訳にもならない理屈を言っている。

 こういう怠慢・放置を認めない。

 1976年に確定した「不作為訴訟」のこと。認定申請して2年経って処分ができないのであれば、それは不作為だよと、行政の怠慢なんだという判決が出たが何の罰則もなかった。強制力がない。だから不作為の違法状態であるのに、その違法がまかり通ってきた。認定申請者はずっとこれに泣かされました。これに制裁金をつけようと、僕らは「待たせ賃訴訟」と名付け、国賠1次訴訟を起こしましたが、これも最高裁で負けました。10年近く待たされた人がいたにもかかわらず、国と県には賠償責任はないとされてしまった。この厳しい条件の中で、関西の人たちはよく勝ってくれたなと、2004年10月15日のことを思い出します。

 不作為に被害者が泣き寝入りさせられてしまう状態を断ち切りたいと思っております。正直、厳しい訴訟です。正しさはこちらにあるのですが、それを認定に持っていくのは非常に厳しい。行政は、自分たちが持っている資料を後出し後出しにして、原告を苦しめる。そんなやり方を許さないと思っております。これからもよろしくお願いいたします。

▼アン・マクドナルド(立命館アジア太平洋大学客員教授):「カナダ水俣病」

日本の水俣病問題は世界の水俣病問題だ

 カナダでも水俣病が発生し、日本の認定基準を参考にして認定審査会ができた。日本で水俣病像を歪めれば歪めるほど、国際的にも影響が出てしまう。今起こっている問題は日本だけの問題ではない。

 カナダの水俣病を知らなかった

 普段はフィールドワーカーとして、日本の農村・漁村に出入りしている。

 私は、カナダの有機水銀汚染地帯から約90km離れた森の中で、家族と別荘で過ごしたり青春を過ごしたりしていたのですが、カナダ水俣病事件の存在を知らなかった。1999年、水俣フォーラムに環境保全型農業推進会議のメンバーとして参加し、水俣のテーマで話をする機会があった。両親に相談したところ、「アンが小さい時に、カナダでも有機水銀汚染が起きた」ことを知った。水俣病のことを知っているのに自分の国で起きたことを知らないことに気がつき、カナダ大使館に足を運んだ。1977年、CBCの記者ワーナ・トーヤが1冊の本を出していたが、それ以外の資料は一切なかった。そこで、私は現場に足を運びカナダで学んできた。

 水俣学は、私のような素人や非専門家にも有意義な学問だと思っている。専門家だけではなく、素人にも世界の環境や自分の国のことに関心を持つように働きかける。

 カナダの水俣病

 カナダのオンタリオ州の北西で起きた出来事。ドライデン市の工場が汚染物質を垂れ流し、約130km離れたグラシイ・ナロウズとホワイトドッグに住む先住民に被害を与えた。1999年、宮城大学の学生をゼミのフィールドワークの一環として連れて行ったのだが、そのうち、私の所属している清水弘文堂書房のプロジェクトとして映像野鳥の制作を行うこととなっていった。我々の興味の1つは、コミュニティの人々が汚染や被害についてどのくらい認識しているのかということ。例えば年配の方はよく知っているが、若い人はあまり知らないなど。

感情的でないデータに基いた議論した
い、というマグドナルドさん

 健康被害を受けた人は、主流社会に住んでいる人ではなくて、居留地に住んで魚を主に食べている人たちである。1967〜1968年。カナダの有機水銀汚染事件の告発者はノルウェー人であった。ノルバルー・フルブライトという人がカナダに来て、魚・野鳥の汚染がどのくらいあるかについて3ヶ所の調査をして博士論文を書いた。調査の結果、汚染が確認され危険という報告を1968年にアルバータ州政府・オンタリオ州政府・カナダ連邦政府に警告を出す。アルバータ州政府は報告を慎重に受け止めて漁を禁止することにする。水系汚染であるオンタリオ州は耳を貸さなかった。ドライデン市には、イギリスに本社のあるリード製紙会社がある。1962年〜1975年にかけて約18,000kgの水銀が自然界に排出された。1969年、カナダのカリフォルニア研究室での魚の分析結果。ワビグーン川の魚の有機水銀値は16ppm。最後は27.8ppm検出された。この結果を考慮して1970年3月26日、オンタリオ州政府より「水銀流出禁止指令」が出される。カナダでは、州政府・中央政府と権限の度合いが領域によって違う。法律では資源管理は州で行うため、環境汚染は州の管轄になる。商業漁業は禁止されたがスポーツフィッシングは行われていた。

健康被害について無関心な政府

 国は、環境汚染は認めたが、健康被害に関してはなかなか認めなかった。原田正純先生をはじめ、日本の医師団が来なかったら国の動きはもっと遅かっただろう。アイリーン・スミスが原田先生に声をかけて、「よし、みんなで行こう」ということにならなかったらと思うと、日本の医師団はカナダ連邦政府に対してある意味では圧力をかけたことになる。1970年代のカナダの新聞記事を見てみると、帝国主義時代の雰囲気が色濃く残っている。「日本とカナダの医療は違う」、「日本のわけ分からない人たちが現地に来て、わけ分からない騒ぎをしている」といったニュアンスの記事であった。国会議事堂(中央)では一部の良心的な人は、少し興味・関心を持っており、声を上げていた。1970年代後半になると、ようやく真面目に取り組むこととなった。「インディアンの問題は中央政府のみの話だ」という認識があり、州政府・中央政府のどちらも責任を取りたがらない現状があり、時間がかかった。1978年、訴訟を選ばず和解協定を結ぶこととなる。当時の州長に話を聞いてみると「当時、自分は20歳であった。訴訟を起こすことも考えたが、もし敗訴した場合、長老達に面目が立たないし、自分も責任を持てないということで安全な和解の道を選んだ」と語ってくれた。賠償金は当時のカナダドルで16億ドルであった。

居留地の状況

 水銀汚染によって生活のすべてが破壊された。文化的にも社会的にも経済的にも。1950年代に、看護婦としてグラシイ・ナロウズとホワイトドッグに入っていた看護師さんが写真を撮って残していた。

 1867年、イギリスからの独立。

 1871年、カナダ政府はインディアンとの協定を結んだ。先住民を定着させることのできるような居留地を作り住まわせる条約を結んだ。医者は年に1回、看護師は月に1回その居留地を訪問した。

 ドライデン化学工場の水銀排水による汚染の前にもいくつかの問題があった。コミュニティを破壊する出来事が起きている。水力発電所を作るために、リザーブ(居留地)は水没させられ、移転させられ同じ居留地に住まわされた。そのためホワイトドッグのコミュニティは混乱している。

 看護師によると、1950年代のグラシイ・ナロウズは貧しかった。ホワイトドッグは商業漁業による現金収入があり比較的豊かであった。

 リザーブ(居留地)は、カナダの中では発展途上国。道は舗装されていないので雨の日は道がぬかるむ。

 申請のためにはウィニペグという車で約300km離れた町まで行かなくてはならない。リザーブでは年に4回、申請の機会があり、バンドがバスで連れて行ったりしている。最近では申請者が少ない場合には個人で行き、旅費は後でペイバックする方式になっている。カナダでは診断を受けて4週間以内に通知が来る。もし4週間以内に通知が来なかったら自分は認定されていないことが分かる。僻地には医療サービスが殆ど無い。どうせお金を使うのならば、郵便で通知を出すだけではなく医者との顔つなぎをするなどした方がいいのではないかと思う。通知の封筒の中には、自分の病気がどんな病気なのか、リハビリをしたほうが良いのか否かも書いていない。次第に手が動かなくなるので自分流に体操をしたりはしている。しかし、居留地の人々から声を上げていかなければ要求は聞き入れられないであろう。

 賠償金が下りたところで疲れが出た。失業・アルコール・シンナー問題に力を入れなければならなくなり、リーダー達は継続的な教育プログラムを設けることができなかった。水俣病と言っても8割は「知らない」。魚は危険ですか?「危険です」。魚を食べていますか?「はい、食べています」という答えが返ってくる。知らない。肝心な教育が行われていない。

 日本の原田先生、協立病院の藤野先生のような医者はいない。水銀というとアメリカのロジェスター大学であり、そこではカナダ側の医者への教育はなされていない。カナダ独自の医者を育成しなくてはならないと思う。

 2000年、追跡調査を原田先生が行った時。ヘルスカナダから「水銀問題は終っているはずなのにどうして原田先生が訪ねてきたの?」といった反応があった。カナダ中央政府もオンタリオ州政府も、「70年代にカナダの水銀問題はもう終りました、幕引きしました」といった認識であった。今後どうなるのか。しかし、グラシイ・ナロウズとホワイトドッグが協定書を結んだときに、訴訟は起こさないといった約束をしているため、訴訟できないことになっている。イングリッシュ・ワグビーン水系500kmの他の地域でも微量汚染が起っている。そことネットワークを持ち、何らかの形でオープンに話をして、次の展開に移ることができたならと考えている。先住民同士で、感情的ではなくデータに基づいた議論をしていけたらと考えている。

▼尾上利夫(水俣病出水の会代表):「人権救済申し立て」

「公式確認50年」は我々に関係ない。全力で闘う

出水の現状について

 鹿児島出水市の「出水の会」の代表をしています尾上です。現在、私の会では鹿児島県から約600人、熊本県から約500人の認定申請者がいます。毎日毎日、殺到しています。出水市と熊本県津奈木に事務所があり、事務員が3〜4人います。

 来年は昭和31年の公式確認から50年ですが、国と水俣市(芦北・御所浦)はその行事を盛大に行うことによって水俣病を薄めようとしている現状がある。私の団体には「50年」なんて関係ない。何日か前に、水俣市から来年の行事の方向付けをするための実行メンバーにならないかと言われた。私のところには70人認定者がいる。平成7年の解決策の際、260万円をもらい医療対象者となった人は260人いる。

 水俣病は決して終らせてはならない。平成11年に全身痺れで保健手帳であった。平成12年には、昭和36年生まれの子を原田先生が診断してくれて胎児性と認められた。

 大阪高裁から関西訴訟最高裁判決へと。小野田弁護士、22年間ご苦労様でした。昨年の10月15日以後、これまで声を上げることのできなかった2000人以上の人が、申請をするようになった。この人達は、解決策の時も置き去りで、中傷等それぞれの理由で手を挙げることができなかった。日本は、宮澤先生の言う通り法治国家ではない。国は、のらりくらりと対応している。最高裁の判決を踏みにじっていて、差別であるし、人権侵害も甚だしい。

 2005年4月7日、小池環境大臣が成案を発表した。2005年5月1日の慰霊祭の時、小池大臣との対談が我々の団体と30分間あったが、心のぬくもりの無い大臣であると感じた。手を挙げている人々に対して何の対策も立てる気配が無い。霞ヶ関の一室にいて、現地の患者の生の声も聞かずに水俣病の何が分かるのか。最近になって水俣病特殊疾病室の室長、この人は医者なんですが、保健課の滝沢部長も医者。6月28日、29日に長島で市町村会があった。彼らは「対策の中身を変えます」と私に言ったが「中身を変えると言っても、我々にとって納得のいくものではなかったら我々は闘う」と返答した。

水俣病は終わっていない 

 水俣病を私は絶対に終らせない。昭和33年に、チッソは見舞金契約を結ばせた。出水の組合員は2000円ずつもらい、私ももらった。私の親父は、水俣病で昭和47年に倒れて、その年に亡くなった。私は昭和47年から水俣病に取り組んで現在に至る。私の家族は、私も含めて7人とも水俣病なんです。そんな中で、私は昭和48年、49年にかけて申請者の会を立ち上げた。昭和63年に出水市漁協の組合長になり、約9年間務めた。

国から温もりを感じない。闘い続けるとアピールする
尾上さん

 水俣病とは、様々な中傷を受けてここまできている。中には、手を挙げたくても家庭の事情で挙げることのできないところもある。あるいは、病弱になって夜中の2時、3時に手足が痺れて眠れないから相手を起こす。そうすると、「お前とはおられん」と言って出て行く家庭もある。そういう家族は私の会の中に沢山いる。学者や医者は、我々から学び、学問的に知っていった。しかし、水俣病のことは我々がよく知っている。私は、これからも水俣病に取り組んで、みんなが救済されるようにとことん取り組んでいきたいと思っている。環境省への座り込みを考えるくらい、心積もりはできている。水俣病は終っていないし、本当に50年は関係ない。苦しんで苦しんで現在に至っている人に対して、温かいぬくもりの気持ちで支援をお願いしておきます。

 九州の弁護士会に「人権救済申し立ての陳述書」を100〜200人でお願いしようとしている。来月までには文書をまとめるつもりだ。そのこともよろしくお願いします。

※注=水俣病出水の会は2005年9月8日、人権擁護委員会に「人権救済」を申し立てた

▼アピール:「苓北火力発電が抱える問題」(松本繁喜)

産廃処理場、石炭灰の捨て場………子供たちのために逃げない

 天草環境会議発足のきっかけとなった火力発電所問題の現状について

 反火力発電ということで運動を始めることとなった。第1回目は、日本環境会議との共催であった。天草の火力発電所の1号機ができてから10年、2号機ができて2年が経ちますが、140万KWの電気を供給している。今、町は固定資産税を25億円ほどもらいますので、県内では裕福な町だと言われているが、住んでいる私達にとっては税金が安くなったわけではないですし、今の町長になってからは借金も、町民1人当り、倍近くなってしまった。建物だけは都会並みに立派になったが、その内容は例えば漁業関係を見てみると、漁獲も以前は15億あったのが現在では3分の1と、そういった現状である。

火力発電は町民になにも利益をもたらせなかった、
と怒る松本さん

 平成16年度より、苓北町は県の産業廃棄物最終処分場の候補になっている。これを検討するために平成16年3月に、区長、各種団体代表者を集めて「県の産業廃棄物最終処分場候補地検討委員会」を立ち上げた。「表は火電、内海は産廃場ではたまらない」と、殆どが反対意見であった。最終的には、4地区の代表が「絶対に作らせない」といった申し入れをして凍結といった状況である。その後の動きはなく、町長は「処分場を作ることをやめた」とは言わない。

 もう1点は、火力発電所から排出される石炭灰の問題。町内のあちこちに石炭灰を埋め立てている。石炭灰そのものが重金属を多く含んでいるのに、それを固めたら害が出ないというのはおかしいのではないかと議員さんが気付いた。地質調査で1,000万円予算がついた。埋め立て予定地は、火力発電所の上流。下流域には水田や畑がある。説明会の際に、「もしも有害物質が流れ出て被害が出たらどうするのか」と質問したら、「被害が出たら取りやめる」といった答えであった。「我々をモルモット代わりにするのか」と、地区の人からの声があった。しかし、町長と九電とある株式会社との密約があったとされている。平成16年の6月には、議会にかけないで協定書を結んであった。契約の内容は、「通常は九電が1トン当り5,000円で引き取ってもらうところを、苓北町は逆に1トン500円で買って埋め立てる」というめちゃくちゃなことをしていた。しかも、この協定書には「もしも問題があった場合は、苓北町とこの株式会社で責任を負う」といった内容のことが書かれており、九電は我関せずであった。現在、このように「強いものに巻かれろ」といった状況が続いている。

 安全報告委員会を作り、物を言わない人々(各種団体代表、町長)を集めて安全を宣言させている。この安全報告委員会にこられる学者の方は「2〜3年後は大丈夫だろう。何十年後にどうなるかは分からない。しかし、分からないのを良いと思ってしなければつまらん」と、こういった説明をする。私達としては、こういったことを許すわけにはいきません。私達はここから逃げるわけにはいきませんので。やっぱり農業や漁業を子ども達にもしてもらうには、自分達でできる範囲で守っていかなくてはいけないと思っています。

▼須藤久仁恵:川辺川からのアピール

作らせない、きれいなままで………をモットウに闘う

川辺川ダム反対運動の現在

 諫早湾干拓事業と並んで無駄な公共事業だと言われている川辺川ダムなのですが、球磨川の主流の川辺川に巨大なダム建設が計画されて40年になります。1998年に、「日本で一番美しい川」だと環境庁から認定されたほどの、とっても美しい川です。建設に反対してもダムができるだろうという中で多くの人が考えてきました。球磨川や川辺川で鮎を釣る川漁師、「ダムの水はいらん」というお百姓の人の思い、日本国中で川辺川を守ろうという人たちの動きで、ダムの反対が続いています。

ダム反対運動には大きな柱が2つあります。

 1つは、川漁師の人達にも漁業権があるのですが、その漁業権を強制的に終了しようとする審議が、熊本県の収用委員会で行われています。2005年5月末、開催された収用委員会では「次回8月29日の収用委員会までに国土交通省に対して、ダム事業計画を新しく立て直すこと、もしくはダム事業計画に著しい変更があった時に強制終了の申請を却下する」という申し伝えがありました。

きれいな自然をきれいなまま未来に手渡したいが
運動の原点と説明する須藤さん

 もう1つ、農民の動きは、利水計画の策定に対して様々な動きがあります。「ダムの水はいらん」というお百姓さんたちの訴えによる裁判が熊本地裁、福岡高裁で行われたのですが、2003年5月16日、利水訴訟の判決が福岡高裁で勝訴判決が確定しました。それ以来、新利水計画策定に向かって国・県・ダム推進派・ダム反対派の農民・利水訴訟弁護団が参加しての協議が2年間行われてきました。その大詰めの座談会が現地で6月から行われています。

 さらに、各農家、対象農家4,000戸に対するアンケート調査が行われています。新しい利水事業に参加するかしないか? あなたの家は水がいりますか? いりませんか? もし水がいると答えた農家に対しては、その水はダムを水源としますか? あるいはダム以外の案。このアンケート調査で、ダムの水はいらないというアンケート結果が出れば、川辺川ダム計画については変更が余儀なくされます。川辺川ダム計画は、治水・利水・水量調節・発電の4つを目的とした多目的ダムであるからです。利水が必要でないなら、ダム計画変更を余儀なくされます。川辺川ダムの総事業費は3,300億円です。借金も1,000兆です。これ以上、無駄な公共事業はして欲しくないと皆考えております。山を蘇らせ、山の手入れをして河川改修を行えば、コンクリートのダムはいらないと考えています。きれいな自然をきれいなまま未来に手渡したいとも考えています。様々なところで既にできている発電所、無作為の行政の対応とありますが、作らせない・きれいな自然をきれいなままにということで反対運動を行っています。

 ※注=その後(2005年8月29日)、熊本県収用委員会は国の新利用計画の概要がまとまらないことを理由に、国に対して申請を取り下げるよう勧告。9月22日までの回答を要求し、9月26日の次回の収用委で国が取下げない場合、申請を即日却下する。

【第2日】苓北めぐりと発電所見学

 2日目は、苓北の火力発電所内を見学し、職員の方の説明を受けた。

 苓北発電所は、海外炭(オーストラリアが主)を燃料とする石炭専焼の火力発電所で1・2号機を合わせると、出力140kwになるそうだ。1号機は1995年から、2号機は2003年から運転を開始している。

 発電所周辺をバスに乗って見て回った。貯炭場といって、海外から輸入してきた石炭を一時貯蔵する場所やボイラー、電気式集じん器(排煙の中にあるばいじんを取り除く装置)など、とにかく大きな建物がひしめき合っており、少々不気味な印象であった。

 説明の中で気になった点が2つあった。

 1つは、「安全対策を行っているので大丈夫です」といった内容。排煙対策や温排水対策を行っているので自然との調和に配慮していると言われていたが、全くの無害ではないだろうと思った。

 2つめは、温排水対策の内容について。温排水を周囲の海水の水温と同じ温度にするため、深層取水、水中放流を行っているそうだが、それによって水温が1℃上昇するとのこと。説明が終わり、みんながバスに戻っている時、どうしても気になったため、「水温が1℃上昇することによって海の生き物への影響は無いのですか」と質問してみた。すると、職員の中の1人が「1℃くらいでは魚には何の影響もありません。むしろ喜んでいますよ。魚が温水に群がってきていますから」と答えてくれた。それに対して「高い水温を好む魚には影響ないかもしれませんが、それより小さな生き物、例えば微生物なんかは水温が1℃上がったら生きていけないかもしれないですよね」と問うと苦笑いしていた。

 私は、この認識が怖いと思った。人間は目に見えるもので判断しがちである。魚が寄ってくるから大丈夫―なわけがない。生物にはあまり詳しくないが、水温が1℃上昇して生きていけない種類はあるはずだ。その影響により海の生態系が変わってしまう可能性は十分にありうるだろう。海の生き物は、沿岸部・干潟に多く生息していると聞いたことがある。その部分に火力発電所を作っていること自体が、海の生き物にとっては大きな自然破壊であり、その場所で長期的に水温を上げていくことは、よい結果を生まないだろう。

 せめて、「絶対的な安全はありえない」「一番小さな生き物のことを考える」といった意識を持ってもらいたいと思った。

「安全対策は万全」との説明はあったが………

 また、前日の会議で話された、松本繁喜さんの「私達はここから逃げるわけにはいきませんので。やっぱり農業や漁業を子ども達にもしてもらうには、自分達でできる範囲で守っていかなくてはいけないと思っています」という言葉を思い出した。この気持ちが原点だと思う。きれいなままの環境を子どもたちや孫に残していきたいといった意味では、川辺川ダム反対運動にも共通している課題だろう。素朴だが、そのことこそが非常に大切なことだと感じた。

8人の講師の話を聞いて―

改めて思った「一体誰のための国であり、政府なのか?」

水俣病の被害を受けた人が無条件で救済を受けられないのだろうか?

 水俣病事件に関わっている8人の方からの話と、苓北火力発電所・川辺川の抱えるそれぞれの問題を約5時間にわたって聞いた。いくつか感想を書いてみる。

 高倉史朗さんの報告「溝口訴訟の現況」を聞き、明らかに被害者の立場を無視し被害者の不利となるような対応を続けている行政の対応にあきれてしまった。熊本県は1988年11月10日「環境庁、熊本県打ち合わせ会議合意事項」の中で、今後は未検診死亡者の生前の病院調査を行わないという申し合わせをしている。しかも理由は「認定患者が増えすぎるから」といったもの。本来であれば被害者を見つけ出し救済することが仕事であるはずなのに「認定患者が増えすぎる」から積極的に調査は行いませんといったことが真面目に話し合われていた現実に、行政の役割は何なのかと問わざるを得ない。

 私は1981年、水俣に生まれ水俣で育った。現在行われている溝口裁判の原告である溝口秋生さんから小学校・中学校と習字を習い、近い存在であったにもかかわらず母親のチエさんが長期保留の結果棄却されていることは知らなかった。

 「棄却取消行政訴訟」の裁判傍聴に参加し、チエさんが1974年に水俣病の申請をしたが検診を完了しないまま3年後に死亡し、21年後に棄却されていたことを知ることとなる。検診に関して、チエさんの死亡までに3年間もあったにもかかわらず耳鼻科と眼科のみの検診で重要な神経科・精神科の受診はなかったようなのだが、ここからして水俣病認定に持ち込ませたくない行政の意図がうかがえるように思える。その後もなんだかんだと引き延ばし、きちんとした調査も行われないまま結局棄却。こんな無茶苦茶な話は無いと心底思う。すべての検診を受け終わるのに何年もかかり、そして申請の結果が出されるのに21年も待たなくてはならない。待った結果は「病院調査ができない」といった一方的な言い訳により棄却。素人の私からは異常な出来事に思えるのだが、実際にはそれがまかり通っている。これはどう考えてもおかしい。 

 溝口さんの話によると、母親の体調は最低でも1969年頃からよい状態ではなくなってきている。1956年頃は、魚を食べるのを控えていたが、熊本県からの漁獲禁止令は出されなかったため、その後も次第に食べ続けるようになっていったそうだ。農業中心の生活ではあったが、チエさんはカキが好きでよく食べていた。最初はよだれに自分で気がつき拭いていたのだが、最後は気がつかない状況となっていく。

 この話だけを聞いても、メチル水銀の影響があったに違いないと素直に思う。「カルテがない」のは申請者の責任ではなく、「全ての検診をスムーズに行わなかった」「民間病院で診察をしていなかったかといった調査を早期に行わなかった」熊本県の責任だとするのが当然だろうと考える。

 国や県のお役人の判断は正当な理由によって行われているものだろうと、つい信じてしまうのだが、それは間違いかもしれない。正しいのだろうと鵜呑みにするのではなく疑ってみる必要がありそうだ。天草環境会議で聞いた水俣病事件における国・県の被害者への対応の一つ一つから「最大多数の最大幸福」のためには少数者を抑圧し犠牲にしたって構わない、仕方ないといった方針が見え隠れする。一体誰のための国であり、政府であるのか。しかし、こういった多くの人の犠牲の上に現在の便利で豊かな生活が存在し、私はそれを享受している。複雑な気持ちだが「仕方がなかった」出来事だとは思わない。水俣病の発生・拡大を防ぐ機会が全く無かったとは思えないからだ。

 原田正純先生が水俣病には「水俣病を発生させてしまった責任」「被害を拡大した責任」「被害者に償いをする責任」の三つの責任があり、その三つの責任をサボってきた50年であると冒頭話されていた。

 「水俣病を発生させた」「被害を拡大した」二つの責任は、チッソからの排水が原因であると分かっていてのもので、明らかに日本の高度経済成長の邪魔をしたくなかった国策であり意図がある。一方「被害者に償いをする責任」は不知火海沿岸に住む、あるいは住んでいた人全員に対しては行われていない。償いとは、あくまでも認定申請に名乗りを挙げ、認定された人が中心であり、そこから漏れた人や申請をしなかった人に対しては行われない。つまり、自ら行動しない限りメチル水銀の影響を受けていたとしても何の救済も無い状態となる。

 国・熊本県・チッソの三者の責任が認められた今も、その姿勢は根本的に変わっていない。被害を受けた人が無条件で最低限の救済を受けることはできないのだろうか? 責任が認められたのだから、水俣病と真剣に向き合って、今度こそ嘘・偽りのない姿勢で取り組んでいただきたいと思う。

▼恒例の星空野外パーティは室内で………▼

「これが楽しみ」という常連さんの願いも空しく、雨にはかなわず、やむなく室内に移しての懇親会に切り換えられた。漁師さんたちから寄せられた盛り沢山の天草の海の幸に一堂舌づつみを打った。そして、若い人たちは早暁まで談笑した。
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