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表 現
土本基子の〈北京メモ〉

街並みは5年の間に新旧のコントラクトをより明確に
さらに熱くなった中国の「記録映画」への眼差し

土本典昭・基子夫妻近影=2004年10月20日、韓国の「グリーン・フェスティバル・イン・ソウル」会場で
土本基子さん。言うまでもなく記録映画監督・土本典昭夫人である。その基子さんがこの9月、北京国際映画祭に出席した土本監督に同行、24年前・5年前についで3回目の訪中をした。「仕事の合間に、なるべく足で歩いて、見て、感じたままをまとめた」のがこの〈北京メモ〉。親しい仲間に23回にわたって発信したものに、加筆してもらい、新たな写真も追加してもらってまとめた、いわば主婦の目で見た最近の北京と映画祭のスケッチである。
           【写真はクレジットを入れた以外は土本基子さん撮影】


物価編
2004年9月15日〜21日 

両替はたった1万円!
山形国際ドキュメンタリー映画祭の藤岡朝子さんから食事も、宿泊も映画祭もちだから、2人で1万円も両替しておいたら充分といわれたので、まずビックリしました。1元は13円です。

まずタクシーが安くて便利です
かなりボロのタクシーが0.6元。あと1.2元、1.6元、2元と料金が上がるほど車体も車内もきれいになります。安いからといってサービスが悪いというわけではありません。1.6元のタクシーで、30分乗っても500円くらいです。
タクシーが安いといっても、市民はぎゅうぎゅう詰めのバスか、自転車を利用していました。

食べ物が安いです
散歩して、早朝の食堂をのぞくと、お粥や饅頭やあげ饅頭を食べている人がいました。1杯4元(52円)から5元(65円)のようです。
店の前で小麦粉をこねたものをちぎって伸ばしては、油で揚げていました。油の中で膨らんで、揚げパンのようになります。これはとてもおいしいものです。生を家庭用に買っていく人もいます。
となりではお碗におつゆを注ぎ分けています。ラーメンかお粥でしょうか、湯気がたってなんだかおいしそうです。お昼ご飯は20元(260円)あれば充分だそうです。

ホテルの食堂も、とても安いです
宿泊したホテルは豪華なので、高いのではと心配でしたが、これが安くて旨い。5人で、200元(2600円)で、とても食べきれませんでした。
内訳をお教えしましょう。
  マーボー豆腐、小松菜の豆鼓炒め、酢豚、セロリとまめの冷菜、鳥の辛味炒め、
  焼きそば、冬瓜の牛肉のスープ
  これにビール2本とブドウジュース1本をつけました。
しかし、すべてが安くて美味しいわけではありません。北京は内陸なので、魚介類は新鮮でない上に高価で味もいまいちでした。

コーヒーはメッチャ高いです
中国はお茶のメッカです。いまでも北京ではコーヒーを飲む人が少ないようです。ホテルのまわりで、喫茶店をみつけることができませんでした。
そのせいか、コーヒーが異常に高いです。ホテルのレストランで28元(364円)サービス料別です。空港では40元(520円)もしました。
これは他の物価と比べると異常な高さです。中国旅行にはコーヒーをもっていかれるといいでしょう。

ジャケットだけを見たら、中国の店とは分らないほど多彩なDVDが……
DVDがメチャ安です
実は中国はDVDが安いのです。噂には聞いていたんですが、本当のことでした。なんとDVDが1枚8元(104円)です。
ためしにチャップリンの「キッド」、「街の灯」、「モダンタイムズ」、黒沢明の「生きる」、小津安二郎「東京物語」、「オズの魔法使い」を買いました。6本で624円でした!
日本で、おっかなびっくり再生したところ、すごくきれいでした。後でわかったことですが、コンピューターで傷などを修正済みのものだそうです。興味のある方はお店の場所を教えますよ。

スーパーもあります

駅が見たくなって行ってきました。
北京の西駅は巨大な駅です。まるで城砦のようです。古くからある北京の南駅が玩具のようにみえます。
駅前の広場には たくさんの人たちがそれぞれ車座になって電車を待っています。中国将棋をする人、トランプをする人、寝そべっている人……。そこにはゆったりとした時が流れています。
そばで新聞売りが声をからします。路傍の雑誌売りもいます。10店ほどある売店の売り子たちが客をひきます。地図からパン、お菓子、玩具、アクセサリー、ドリンク、北京土産品、煙草などなんでもあります。 のんびりゴミ箱を覗いている人も2人ほどいました。
駅前にスーパーの看板が見えます。「華普超市」と書いてあります。「超市」なんて書いてあると、主婦はつい覗いてみたくなります。値段をみると駅の売店の半額です。北京土産、煙草、酒、食品加工品、お菓子、安くて種類も豊富です。私は北京土産の豆菓子とミネラルウオーター、豆腐の加工品を買って帰りました。

月餅はおいしいです
街中のスーパーに行った時のことも書いておきます。
この時期、中国は仲秋で、月餅をもって先祖のお参りに行きます。TVのコマーシャルは月餅の花盛りです。
みなさんは月餅というと中村屋のカチンカチンのものとお思いでしょうが、本場の月餅は厚みがあり、豆の餡がとてもクリーミーでやわらかく、中味もナツメやくだもの、卵、ヨーグルトなど豊富でとてもおいしいです。
卵の月餅(7.5元)が特にお奨めといわれ食べてみました。柔らかい餡の真中に、コチンコチンの塩味の黄身が入っていておもしろい味でしだ。一度、本場の月餅をおためしあれ。4元(52円)から7元(91円)までありました。

スーパーは食材が豊富です
スーパーの催事場は手荷物をもって入れません。制服を着た人が立っていて、荷物を預けてこないと入れてくれません。そこで食糧品売り場に入ってみました。
食材はものすごく豊富です。
黒い肌の鳥はアヒルかなにかでしょうか。ちょっとグロテスクですが、きれいにパック詰めされています。
豚にしても鳥にしても内臓やいろんな部位が売っていました。肉しか調理できない私などの出る幕ではありません。北京の主婦の調理の腕前はすごいと思いました
ハムなどの加工肉もすごく種類が多いです。シシカバブーみたいな串刺し肉などもパックされていました。
餃子や饅頭は種類が豊富です。冷凍食品として売っていました。
漬物というと「ザアサイ」しか知りませんが、ザアサイ以外の蕪の壷漬けが何種類もありました。

日本の100円ショップそっくりだった
1元ショップがありました
散歩の途中で1元ショップをみつけました。日本の100円ショップという感じですね。
1元は13円です。10元ショップというのもあるそうです。

携帯の番号を売る店がありました
散歩していて、奇妙な店を発見しました。
体育館のような広い建物ですが、中は薄暗くて、小さい店がたくさん入っているようです。あやしい雰囲気ですが、勇気を出して入ってみました。電話を盛んにかけている人、テレホンカードを売っている人、携帯電話を売る人…。
そばに番号を書いた紙束も並べてあります。宝くじの売場かなと思って外にでました。
通訳の江さんの話では携帯の番号やコインを売る店だそうです。
中国は風水の国ですからね。数字も縁起のいいのを欲しがるらしいのです。よい番号は高値のようです。携帯電話にもお国柄があるのだとおかしくなりました。

路地の商店と行商
団地のそばに八百屋、饅頭や麺の量り売りをする小さな店があります。南京豆などを揚げて売っている惣菜屋もありました。
夕方、自転車の荷台で、蟹だけを売る人、えびだけを並べている人もいました。
こういう店はスーパーより安いですし、大衆的だなと思いました。

おもちゃ屋に行ってきました
実は、私はおもちゃが大好きです。
『人民中国』の「中国のおもちゃ特集」の中に「盛唐軒」という古典的なおもちゃを売る店が紹介されていました。
土本は部屋に残して、通訳の江さんとタクシーをとばしました。
その店は胡同(フートン)のなかにありました。狭い店内ですが、いろいろなおもちゃが並んでいて、江さんと私は、目がキラキラしてしまいました。
真中で若い職人さんが粘土で人形を作っていました。女主人がスクラップブックをみせてくれます。ヨーロッパやアメリカでもこの店は紹介されていました。もちろん日本の記事もあります。
女主人は「日本人客が店のレイアウトをアドバイスしてくれたので、とても役に立った。」と言っていました。それはよかったと思いました。

さて、どんなおもちゃかというと―
欧米にも有名なおもちゃ屋さんのカタログ
(1) 昔の生活を描いたドロ人形
  床屋、猿回し、占い師、野菜売り、美女をのせた人力車など。
  私は猿回しを買いました(30元)。

(2)セミをつかった猿の人形
  ちょっとグロテスクですが、ガラス入りのミニュチュアです。セミの
  手足をつかって可愛い猿をつくり、それがブランコしたり、楽器を
  演奏したりしている様子を描いています。私はダメですが、西洋
  人は「オウ」とか言って喜んでいました。

(3) 京劇の人形の紙相撲
  おなじみの京劇の人形です。これをお盆の上にのせて叩いて遊
  びます。ちょうど日本の紙相撲に似ています。

(4)万華鏡

(5) 振るとニャアニャア泣く猿の人形(10元)。買いました。

(6) 糸巻きをつかった紙細工のねずみ
  紐をひっばると、ネズミがはねたり、走ったりします。女主人は糸あやつりが上手なので、
  紙のネズミがまるで本物のようにみえました。これも買いました(5元)。

(7) 糸で操る、花帽子をつけた二つの木の人形
  これが楽しいです。2人で遊ぶのですが、糸を引っ張ると二つの人形が手をつないで踊ったり、
  喧嘩したりします。その様子はきれいですし、とても楽しいです。
  江さんも私もこれを買いました(10元)。

店の前で日向ぼっこしていた老人は、おもちゃ作りの先生でした。
巨大ビルの林立する北京のメインストリートからすると、ここ胡同は、緑もあり、ほっとするような空間です。


映画祭編
9月15日 

実は映画祭のことを書くのがむずかしいので、こんなに道草をくっているところもあるんです。しかし、北京の道草は楽しい!

さて、映画について知識がない私が、映画祭のことを書くのは力不足ですが、そこは道草好きのおばさん感覚で乗り切りましょう。それではぼちぼち本命の映画祭のことを書きましょうか。

中国の映画祭前は台湾の映画祭でした
中国の映画祭のことを最初に聞いたのは、今年の4月、台湾の国際映画祭(Yilan Green International Film Festival in Taiwan 2004) からの帰路、同行の山形国際映画祭の矢野和之さんからでした。
中国の招待はうれしいことですが、土本の体調を考えると、1年に2ヵ国は無理かなという感じだったんですが、矢野和之さんの誠実なお人柄にほだされて、また元気を出して行くことになりました。
しかし、土本にとって中国は特別な国ですから、現地での自作の上映は感慨無量だと思います。20代の頃、日中友好協会で働き、中国映画の名作「白毛女」等を上映した経験がありますからね。

北京でのドキュメンタリーの映画祭は2 回目に
中国の最初のドキュメンタリー映画祭は「The first International Conference on Documentary Films」、1997年7月18日〜23日に行われています。
そのときのゲストの中にフレデリック・ワイズマンがいます。
上映作品は「Law and Order」 と「Hospital」です。

今回の映画祭には中国人の作品は入っていませんが、第1回目は9本も入っています。初めてのドキュメンタリー映画祭にかける中国側の熱気が伝わってきますね。
日本からは小川紳介監督の「ニッポン国古屋敷村」と佐藤真監督の「阿賀に生きる」が出品されています。

北京では黒木和雄さんと会う予定です
飛行機は成田を30分おくれて出発しました。北京は悪天候のようです。
今回、北京にむかったのは、山形国際映画祭の矢野和之さんと藤岡朝子さん、映画評論家の村山匡一郎さんと土本と私です。
北京では黒木和雄さんと会う予定になっています。

出迎えは林旭東さん
30分遅れで北京空港に到着。
主催者の林旭東さんと陳真さん(映像作家・中国中央テレビ)と生活通訳の江雲琴さんが出迎えてくださいました。

ここでまず林旭東さんについてふれておきましょう。
彼は第1回の北京ドキュメンタリー映画祭(1997年)から活躍していて、現在は北京映画テレビ学院(School of Cinema Television) の先生をしています。
彼はたくさんの後輩を育てていて、最近 話題になった「鉄西区」の王兵監督もその一人です。中央テレビで活躍している人たちも、彼の生徒だと通訳の江雲琴さんから教えられました。
つまり中国のドキュメンタリーの、日本流に言えば「縁の下の力持ち」だし、中国流に言えば「井戸を掘った人」という存在なのです。
中国のドキュメンタリー映画の開放は94年からだといいますから、91年の山形国際映画祭への出品は大変だったろうと思います。(91年には呉文光、田荘荘、陳真(今回お会いした)が出品)。
私達は、林旭東さんたちの気配りで、中国を楽しむことが出来ました。

江雲琴さん(右)に腕を組まれて嬉しそうな土本さん
生活通訳は江雲琴さん
車はスコールの中をホテルに向っています。

生活通訳を務めてくれた江雲琴さんについてお話しましょう。
写真を添付しましたので、まず、彼女の美しい顔と、うれしそうな土本の顔をご覧下さい。

彼女は北京外国語大学大学院2年生、日本文学の専攻です。日本語を学ぶことになった動機は、日本語は美しいと思ったからだそうです。
「夏目漱石」や「芥川龍之介」を専攻する学生は多いのですが、彼女は「坂口安吾」を専攻しています。土本も坂口安吾が好きなので、うれしそうです。
来年は日本に留学するので、いまその準備中とのことでした。なにかお手伝いができるかなと思いました。
彼女の大活躍はこれからの報告の中でお話しすることにしましょう。

ホテルは超巨大!
ホテルに到着。
中華ムードいっぱいのデパートみたいな、このホテルは「華北大酒店」といいます。
部屋数 472。大中小会議室29室、(大は300人収容)。プール、サウナ、カラオケ、豪華レストラン 5、映画祭会場(パフォーマンスとブロードキャステングルーム) 2、etc……。「なんだこれは!でっかいなあ!」という以外、言葉はありません。

お部屋は二つ?
海外でも初めての体験ですが、二部屋分のカードキーを渡されました。
どういうことかと不安になって、カードをよくみると、私のカードには「土本小姓」と書いてあります。「小姓」とは「クーニャン」で、つまり娘という意味ですね。
土本の妻ではなく、娘と間違われたらしいのです。(^―^)
後でわかったのですが、中国では夫婦は別姓だそうです。娘は父親の姓になりますので、「土本基子」は「土本典昭」の娘ということになります。
今となっては笑い話ですが、結構 焦りました。(^―^)(^―^)(^―^)

レセプションであいさつする林旭東さん(左から2人目)とフランスからの映画人たち
ランズマンは相変わらず元気だった
映画祭のレセプションが始まりました。
会場はとても沢山の人が集まっていて、すごい熱気です。
その中で、ひときわ目立つのが、クロード・ランズマンです。彼はワイズマンと並んで世界的に有名なドキュメンタリー映画の作家です。
「ショア」というユダヤ人の強制収容所を扱った9時間の作品で有名です。強制収容所で生き残った人たちの証言は、世界に大きな衝撃を与えました。
今回 フランス大使館の協力により、「ショア」には中国語の字幕がつけられました。日本語の字幕を中国側に頼らざるを得ない日本人としては、恥ずかしいことだと思いました。
さて、土本とランズマンは旧交を温めます。新作の「ソビブル」について話しているみたいです。
ランズマンは1925生まれ。来日された時より、少しおじいさんになりましたが、相変わらずお元気でとてもチャーミングです。(^―^)(^―^)(^―^)
ランズマンは北京の映画祭開催中にも、他の大学や南京へも講演にいきました。


お粥のテイクアウトは旨かった

焼き物が多い屋台のメニュー(王府井の一角で)
レセプションが終って、人気のフランス映画「ぼくの好きな先生」の上映がありましたが、中国語字幕なので、パスして江雲琴さんと夜食を買いにいきました。
「宏状元元粥店」のネオンは、こちらの腹ぐわいに比例して 夜目にも鮮やかです。チェーン店で、北京のあちこちに出店しているようです。営業時間は朝の7時30分から夜の11時までと、すごいです。
お粥のほかにも鍋料理や餃子などもありました。
当たり前のことですが、粥の専門店なので粥の種類は豊富です。
味の基本は甘いものと辛いものに分けられます。それに冷たい粥と、暖かい粥というバリエーションが加わります。各種野菜の粥、果物の粥、豆の粥、肉の粥などがありました。粥の中味も、「細切り人参には牛肉」というように定番があるようでした。
お粥だけではお腹がすくと、江雲琴さんが心配してくれるので、土本に牛肉粥(6元)、私は野菜粥(5元)、その他に状元餅(16元)を頼みました。(1元13円)
状元餅は直径15センチの丸くて平たい豚肉のお焼きのようなもので、うす味のお粥とたべるとグッドでした。
「今日は大学の寮に帰る」という江雲琴さんを見送って、お部屋でくたばっている土本と2人で粥をたべました。
初日から 人の暖かさに触れて、北京の第一日目はよく眠れそうでした。



9月16日 

時ならぬ声にホテルの窓からのぞくと、そこは軍の管理区だった

朝食バイキングを撮影用に盛り合わせてみた
ホテルの隣は軍事管理施設だった
早朝、「ヤッツ、ヤッツ」、という声で目が醒めました。
なんの声だろうと10階の窓をからのぞくと、隊列を組んだ人たちがビルの谷間をマラソンしていました。
ひときわ大きなビルには中国旗が翻っています。中庭ではバトミントンをしている男女もいます。健康器具をつかって体を鍛えている人も見えます。老人が散歩しています。窓下は軍の宿舎のようでした。
その向うに大きなビルがみえます。巨大クレーンで建設中のビルもたくさんあります。
ビルの多さでは日本を抜いてしまったという、中国の発展ぶりが、目の前にありました。

ホテルの食事は中洋折衷のバイキングだった
私は西式健康法で朝食抜きですが、食の国にきてまで守る必要はありません(^―^) わくわくして朝食のバイキングにいきます。
果物はスイカ、パイン、パパイヤなどうれしいです。キュウリ、レタス、トマト、キャベツ、スプラウトなど生野菜も豊富です。豆の種類も豊富です。主食はパン、ご飯、饅頭、お粥、うどん、わんたん(コントン)もあります。
朝から魚や肉の料理が並んでいます。おなじみの餃子、春巻などもあります。
五香粉や豆鼓、花胡椒などの香りや甜面醤のような味付けがおいしいです。
料理は全部中国名で書いてあります。
当たり前のことですが、中国では「酢豚」といっても出てきません。食いしん坊としては、せめて料理の名前だけでも覚えていけばよかったと思ったことでした。
江雲琴さんは「故郷の浙江省は米の産地だけれども、北京に来たら饅頭や餃子など小麦粉の主食ばかりで、お米が恋しかった」といっていました。
さすが中国は広くて、同じ国民でも主食が違うのかとびっくりしましたが、私は饅頭や餃子が大好きなので、北京が粉食のメッカだといわれ喜んでしまいました。

 『人民中国』編集長に招待され、隠れ家的北京料理店でおいしい昼食
王衆一さん(『人民中国』編集長)に招待され、おいしい昼食をいただく。
『人民中国』というと懐かしいね、と思われる方もいらっしゃるのではないかと思いますが、1970年代、「はだしの医者」「人民公社」など毛沢東の中国を伝えて、学生運動の若者の胸を躍らせた あの雑誌が存続していました。 カラー写真も多く、都会的に生まれ変わっていました。おもしろいので目次を紹介しましょう。

◎特集「新旧が交わる北京の什刹海ー胡同めぐり」
◎13億の生活革命「我遊ぶゆえに我あり」おもちゃ特集
◎隣の家常菜 「クコとくるみと豚肉の炒め」
◎名作の台詞で学ぶ中国語 コンリーの「たまゆらの女」。
◎北京放送でまなぶ中国最新ヒット曲
◎特集「動き出した中国の「農協」組織」
◎上海スクランブル
◎歌舞伎の中国公演に寄せる期待
京劇の名優、 梅葆玖に聞く。王編集長がインタビューしています。

“日本一の変人”小泉さんも最近 読者になったそうです。

巨漢の王さん(右)と土本さんの会話はまるで親子のようだった
王編集長のもう一つの顔
王衆一さんのもうひとつの顔をご紹介しましょう。
彼は、第1回のドキュメンタリー映画祭の時から翻訳者や通訳として活躍しています。
第1回の文献に、小川紳介監督の「ニッポン国古屋敷村」や佐藤真監督の「阿賀に生きる」などの中国語の採録シナリオがありますが、翻訳者として王さんの名前があります。
彼の日本語は自然で、その上 歌舞伎の台詞まで翻訳してしまいます。
2004年5月に行われた、歌舞伎の中国公演で、二つの演目を翻訳したそうです。
王さんはドキュメンタリー映画の中国語訳に意欲を燃やしておられるので、中国の人たちに映画をみてもらうことを「熱烈歓迎」している私としては、頼もしい限りでした。

お料理は日本人好みだった
レストランは「北京宮正味大酒楼」といいます。(住所を詳しく知りたい方は、基子までご連絡を)
王さんが隠れ家的な魅力があるといわれました。ある高名な出版社の人をつれていったらよろこばれたと聞きました。アンテック風の調度品、照明もすこし落としてあるのでしょうか、落ち着いた雰囲気です。ウエイトレスはきびきびしていて、その上美人揃いです。
中国では尊敬している人をごちそうするという慣わしがあるそうですが、王さんはテープで録音しながら、土本との会話を楽しんでいました。巨漢の王さんが、土本にあわせて背を丸めて話す様子は、親子のようで微笑ましかったです。

食卓には物凄い量の料理が並んだ(左から矢野和之さん、村上匡一郎さん、藤岡朝子さん) 大好物のジャージャー麺に満足する
さてお料理ですが―
もちろん、飛び切りおいしいエビチリはありましたが、北京料理は海鮮ではなく、肉と野菜、粉食(米以外の穀類と豆)が得意です。どれもおいしくて、うっかりメモをとるのを忘れてしまうほどでしたが、ピータンなど各種前菜、甜面醤風味の肉料理、芥子白菜、ソラマメのマー豆腐、キノコのスープ、日本では味わうことの出来ない家庭的な北京料理がうれしかったです。
土本の大好きなジャージャー麺が最後に出て、2人とも満足満足でした。

精力的に講演をこなしたランズマン(右)
クロ―ド・ランズマンのサービス精神はすごい!
9時間の超大作にも関わらず、午後7時からのランズマンの講演には聴衆が会場一杯となり、おまけにすごい熱気です。彼の人気の程がうかがわれます。
さて、なにを話したかと期待に胸膨らませている方に大変申しわけないのですが、彼はフランス語だし、通訳は中国語なので、私は不覚にも眠ってしまいました……。
それにしても目が醒めるたびに、ランズマンが話しているので驚きました。
土本が1928年生まれで、ランズマンが1925年生まれですから3歳お兄さんなわけです。
講演は質問攻めのおかげで、30分も延長しました。土本はランズマンの体調を気遣ってハラハラしていますが、ランズマンはいやな顔一つ見せないでそれに応えていました。
質問の中には「宗教はなんですか」というのもあったそうです。それには即座に「ない!」と答えたということでした。ランズマンらしいな思うと同時に、日本では絶対出ない質問だとおもしろくなりました。
ランズマンはこの後、北京はもちろんのこと南京でも講演をこなしたそうです。



9月17日 

今日は1日中、日本のドキュメンタリー映画だった
今日の上映作品は日本映画です。
・亀井文夫監督「戦ふ兵隊」(1939年/66分)
・小川紳介監督「日本解放戦線・三里塚の夏」(1968年/108分)
・土本典昭「水俣−患者さんとその世界」(1970年/167分)
・土本典昭「ドキュメント路上」(1964年/54分)


この作品は北京の映画祭側がリクエストしたものだそうです。
しかし、映画祭が始まっても、フィルムが通関できず心配していましたが、林旭東さんはじめ映画祭スタッフの努力で無事にこの日をむかえることができました。

胡同の古い街並みには独特の雰囲気が=絵ハガキから
胡同とは……
北京はいま、オリンピックに向けてすごい勢いでビルが建っていますが、それでも北京の市民は胡同といわれる古い街を愛していて、他県からの若い人たちも、選んでここに住む人が多いようです。通訳の江雲琴さんも大好きだといっていました。山形国際映画祭の藤岡朝子さんが3ヵ月滞在したものここです。
『人民中国』(2004年9月号)から胡同の記事を引いてみましょう。
「中国の北方に位置し、乾燥した気候で水不足。北京に対して、多くの人たちはそんな印象を抱いているに違いない。ところが、意外なことに北京城は水に沿って建てられていた。明・清時代、北京城内には北海、中海、南海、前海、後海、西海という6つの池があり、人びとは前海、後海、西海の3つをあわせて「什刹海」と呼びならわした。
北海と中海、南海は皇帝の専有、宮廷ならではの威風を備えている。什刹海はこれと異なり、池に沿って四合院(中国北方の伝統的住居)が設けられ胡同(横町)が網の目のように張り巡らされている。親しみやすい庶民的な雰囲気がここにもたらされている。

古い町並みはひとびとの生活の匂いがする
女性だちの井戸端会議は万国共通のようだ 古い商店街には親しみを感じた
什刹海に向います。同乗は映画評論家の村山匡一郎さんです。
北京のタクシーはよく渋滞に巻き込まれます。だから行きと帰りとでは値段が10元も違うことがあります。胡同に行きたいという私たちの気持を察してか、運転手さんは、古い町を選んで走ってくれました。
北京は3回目の私には、この風景の方が懐かしかったです。八百屋、楽器店、金物店などの商店、スーパー、美容院おいしそうな湯気をたてている食堂など生活のにおいのする町並みが続きます。
道端で井戸端会議中のおばあさんたちをみかけました。
この道では、自転車、リヤカーを牽引した自転車など表通りではあまりみかけない、乗り物をみることが出来ます。
時々 店と店の間に、細い路地がみえます。これも胡同です。
什刹海の胡同(横町)めぐりは人力車がいいといいます。運転手さんが人力車の値段は交渉しだいだというので、か弱い江雲琴さんが交渉してくれることになりました。

什刹海の池の端で通訳の江さん(右)と筆者=村山匡一郎さん撮影

木陰でのんびりと麻雀を楽しむ様子にはゆとりすら感じられる
什刹海はすてきなレイクサイドパークだった
什刹海のもっともすてきな時間は夕暮れ時だといいます。まだ午前中ですのでたくさんの赤い幌の人力車は客まちの状態でした。だから、80元から始まった人力車の値段は30元まで下がりました。車夫も江雲琴さんとの交渉を楽しんでいるようです。

やっぱり人力車はやめて、村山匡一郎さんと3人でぶらぶら歩くことにしました。スターバックスコーヒーの看板は興ざめですが、アンテックな装飾のステキなレストランがならび、池のほとりは食事もできる巨大なカフェテラスになっていました。池面は緑の蓮が覆っていて、ボートで楽しむことが出来ます。夕暮れに池面を渡る風に吹かれながら、飲むビールは旨かろうと思いました。
天安門やショッピングの王府井にも近く、ここが若い人たちの憩いの場所となっているという理由がよくわかりました。

オリンピック計画で壊される古い町
胡同の老人達は、観光客の多さに戸惑っていると聞きました。池の端は、太極拳をやるのには相応しい舞台です。
木陰で麻雀を楽しんでいる老人たちがいました。
北京では道端で中国将棋を楽しんでいる若い人を多く見かけましたが、東京にくらべて、時がゆっくり流れているように感じました。
帰り道、道路の拡張のために、古い家がこわされていく現場に出会いました。新旧の北京がうまく共存出来るような町つくりをしてほしいものだと思いました。

「ドキュメント路上」の上映と講演
「水俣」の後「ドキュメント路上」が上映され、これが同じ作家の作品なのかとびっくりされたようです。若い観客に大受けでした。

土本は直前まで講演でなにを話そうか迷って苦しんでいましたが、やはりいま自分が直面しているテーマを話そうと思ったようです。
記録映画作家として大切なことを中国の若い作家たちに伝えたかったようです。通訳は王衆一さんです
以下は 私の感想です。

「記録映画はコミュニケーションである」
まず、土本は若いころ日中友好協会にいたことを話しました。
会場の若い映像作家たちの知らない時代ですが、なにか古くからのつながりを感じ取ってくれたことでしょう。

土本は「記録映画はコミニュケーションだ」とよく言いますが、「ドキュメント路上」を例に引いて話しました。     

土本「企業のPR映画には、労働者は協力してくれないというのが常でした。それは企業側が労働者の声を聞かない。事故があった場合でも、いつも労働者に責任をおしつけるという体質があったからです。だから労働組合で運営しているタクシー会社を探し当てまして「あなた方の一番言いたいことを言ってほしい」と頼みました

この話は、土本の映画作りの秘訣といえるものだと思いました。
「ある機関助士」は国鉄のPR映画ですが、労働組合にあたってシナリオを書いています。労働者の協力を得ることなしには、リアルな映像は撮れないと思います。 

次に「患者さんとその世界」についても話しました。
        
水俣病患者であることを最初は隠したがった患者さんとどうコミュニケーションをしたか。どうやって映画に撮っていったか。
撮影が一番難しかったのは胎児性水俣病患者の上村智子さんですが、痙攣による引きつった顔でなく、美しく柔和な表情の智子さんが撮影できるまでの話は興味深いものでした。


   
※参照>>「ドキュメント路上」 | 「ある機関助士」 | 「患者さんとその世界」 <<クリック!土本さんのサイトへ

林さん(左)の通訳で「記録映画作家の原罪」について講演した土本さん 質疑の後、サインを求められる土本さん(左)
記録映画作家の原罪
土本は「記録なければ事実なし」とよくいいます。
「事実をなきものにする勢力が存在するかぎり、記録は残しておかなければならない。しかし、その反面、個人にはプライバシーという壁がある。記録を撮る者としては、撮った責任をとりつづけていかなければならない。しかし、責任はとりきれるものではない。それは記録映画作家の原罪というべきものある」。
その話は、私も記録映画をこころざす者の端くれとして、肝に命ずべき言葉だと思いました。




9月17日〜18日   

テレビのチャンネルは60局もあった
江雲琴さんの話では北京では70局ほどで、地方でも50局くらい見えるそうです。このホテルのテレビでは次の局を見ることが出来ました。
  中央テレビ 12局  北京テレビ 8局  中央教育テレビ 2局
  山西、上海、天津、湖南、吉林、内蒙古、福建など地方局31局
  あとBSも入ります
ニュースを担当しているのは都会的な女性アナウンサーでした。そこに地方局の現場レポートが入ります。地方局の放送はローカル色豊かでなかなか面白そうです。
国際ニュースはイラクの子どもたちを取材したものでした。「セービング チュウドレン」という英語があります。これはBSの映像のようでした。
ドラマも恋愛ものから人民解放軍までいろいろありました。

柳萌公園近くの散歩道 柳萌公園を散歩した時の藤岡朝子さん(右)と通訳の江さん
藤岡朝子さん推薦のマッサージの達人に揉んでもらう
実は講演の日まで、土本は、ホテルの部屋で、ほとんど缶詰状態でした。私はじっとしていると太るたちなので(^―^)、どんどん見て歩きましたが、土本は体調の悪さと講演のことで頭がいっぱいで、とても観光どころではありません。足が弱ってしまって、ホテルの食堂に行くにも、私と江雲琴さんと両手に花?でした。
中国で出来た「凝り」は中国で取ってしまおうと、藤岡朝子さん推薦のマッサージの達人にホテルに来てもらいました。童顔ですが、筋肉隆々の達人に1時間もやさしく揉んでもらいました。1時間で100元ですから、これも安いです。

18日はフランスの記録映画の日
今日の上映作品と講演は―
  ・「ルート」(1989年/ロバート・クレーマー/225分)
  ・「すべて些細な事柄」(1996年/ニコラ・フィリベール/105分)
  ・ニコラ・フィリベール講演「私と記録映画」
  ・「ニースについて」(1930年/ジャン・ヴィゴ/22分)
  ・「世界のすべての記憶」(1956年/アラン・レネ/22分)
  ・ジャン・ミッシェル・フロドン講演


黒木和雄さん(左)と北京の華北大酒店前で

自転車に荷車をつないだ果物の引き売り
美容整形外科の看板を多数見かけた
黒木和雄さんと北京で会う
黒木和雄さんは北京で行われる日本映画祭2004で19日に講演する予定です。
映画はもちろん「父と暮らせば」です。
ホテルに到着した黒木さんは少しお疲れの様子に見えました。「父と暮らせば」が大当たりですから、その忙しさは想像にあまりあるものだと思いました。彼は土本の親友であり、映画の戦友でもあります。
日本でもしょっちゅう会っているのに、北京でもお会いするとは、本当に仲がいいと思いました。(^―^) 時間もないのでホテルのレストランで軽食をとりながらお話することにしました。
なにを話したかと胸躍らせる方もいらっしゃると思いますが、私は日本語の上手な中国の映画人と話をしていたので聞けませんでした。(スイマセン)

女性の記録映画作家の話を聞く
彼女から三峡ダムの工事で難民になった家族の映画を製作中だと聞きました。何時、完成ですか?と聞くと、まだまだですという返事でした。
日本でも報道されていますが、役人が横取りして充分に補償金が出ないことが多いそうです。だから転居しても前の生活の質が守れなくなる。それで、露店で靴磨きをしたり、露店商で食いつないでいる。子どもも学校へやることが出来ないというのです。
私は、散歩の途中でみかけた、露店の焼きいも屋、果物の引き売り、自転車修理屋などについて聞いてみました。

あの人たちは北京市民ではないことが多く、近郊の農村からきているとのことでした。
町を歩くと、巨大なマンションを見かけます。また、美容整形の看板も多くみかけます。シミ、ソバカスなど取ってきれいにする人が多いそうです
そういう富豪層と、子どもさえ学校にやれない開発難民と、北京では見えないけれど、中国全土で見た場合、貧富の差の広がりはかなりなものだと思いました。しかし、そういうところから優れたドキュメンタリーが生まれるわけですから、彼女の映画に期待したいと思いました。
彼女は土本の「映画は生きるものの仕事である」、「逆境の記録」の中国語訳をやりたいと話していました。本当にありがたいお申し出でうれしくなりました。









9月19日 

19日は日本の記録映画の日
この日の上映作品と講演は―
  ・「にっぽん戦後史」(1970年/今村昌平/103分)
  ・「ゆきゆきて、神軍」(1987年/原 一男/122分)
  ・「Self and Others」(2000年/佐藤真/53分)
  ・「A」(1998年/森達也/136分)
  ・村山匡一郎講演 「日本のドキュメンタリー映画」
  ・矢野和之、藤岡朝子 「山形国際ドキュメンタリー映画祭」報告





9月20日
 

いまも壁新聞が……
私にとって、中国といえば壁新聞ですが、いまも道のあちこちに新聞のパネルがあり、老人も若者も熱心に読んでいました。 路傍の新聞売りや、雑誌の売店でのんびり立ち読みする人もいて、さすが、漢字の国の人たちは、読むことが好きだなと思いました。
郵便局兼雑誌売りのスタンド 買い物帰りに壁新聞を熱心に読む人 様々な雑誌が売られていた=土本典昭さん撮影


交通整理のおじさんは大忙し

交通整理に奮闘するおじさん 車の往来が激しい中、マイペースで自転車で通る夫婦
これも北京の発展の速さを物語るものだと思いますが、広い交差点の四隅には交通整理の人たちが立っていて、マイクロホンで誘導していました。
信号のある交差点でも、混雑時には歩行者を地下道に誘導します。
しかし、地下道が少なく不便なのでしょう、守らない人がいるので、大変なようでした。
きっと、人の意識が自動車の増え方に追いつけないのでしょう。
奮闘する、交通整理のおじさんの様子が楽しかったのでしばらくみていました。

上映会場を移動する
映画祭の会場が変わるので、凱瑞大酒店に引越しすることになりました。
第二会場は新影放映庁で、上映作品は次の通りです。
・9月20日 「さすらう者たちの地」(カンボジア、2000年/リティー・パニュ/100分)
       「アイス」(米、1969年/ロバート・クレイマー/134分)
・9月21日 「私は黒人」(仏、1958年/ジャン・ルーシュ/80分)
       「ある夏の記録」(仏、1961年/ジャン・ルーシュ/90分)
・9月22日 「上海」(日、1937年/亀井文夫/77分)
       「三里塚・第二砦の人々」(日、1971年/小川紳介/143分)
・9月23日 「博物館の動物」(仏、ニコラ・フィリベール/59分)
       「S21 クメールルージュの虐殺者たち」(仏、2003年/リティー・パニュ/101分)
・9月24日 「牧野村物語−1000年刻みの日時計」(日、1986年/小川紳介/220分)
・9月25日 「閉ざされた時間」(ドイツ、1990年/シビル・シェーネマン/90分)
       「選択と運命」(イスラエル、1993年/ツィピ・ライベンバッハ/120分)
・9月26日 「181公路」(仏、イスラエル/2003年/270分)




9月20日〜22日 


上海の雑誌記者(中央)のインタビューを受ける。通訳(右)は日本人留学生にお願いした
ついに出ましたフカヒレ料理!
発行部数 100万部の『南方週末』から取材を受ける
映画「水俣」について、当時の観客の受け止め方と、当時の中国政府の映画「水俣」への対応を聞かれました。
周恩来の指示で中国の環境問題の専門家が「水俣」を見ていたので、中国の松花江の有機水銀汚染には、映画「水俣」が役立ったと話しました。
周恩来は偉い!(^―^)(^―^)(^―^)

国家権力と映画についてという質問には、政府の対応の遅れによってカナダ水俣病を招いたと話しました。

中国中央テレビの人たちの前で、講演する
実はこの映画祭は多くのテレビの人たちに支えられていました。
参加者から頂いた名刺にも、 雲南、寧波、北京、楊州、昆明の放送局とありました。中国中央テレビの陳真さんは空港で出迎えてくださったし、劉女史は今日の講演の企画者でした。また、お二人から、たいへんご馳走になりました。
通訳は江雲琴さんの先生でもある北京外国語大学の秦 剛さんが担当してくださいました。その優雅なしぐさと、やさしいまなざしから「北京のヨン様」とお呼びすることにしました。(^ー^)(^ー^)(^ー^)(^ー^)(^ー^)(^ー^)(^ー^)

講演は質問形式で行われました。
「水俣」の編集についての質問に答えて、撮った順番につないでいくこと、それは自分自身の生きた旅の記録でもあると話しました。
公害を啓示しつつ、毒のある魚を食べつづける人々を撮ることは矛盾のあることでした。私は患者さんたちに「あなた方の言いたいことを言ってください」と言って撮影してきました。

なぜ水俣を撮りつづけたのかという質問には―
子どもの患者をみてから、水俣病のテーマから離れられなくなったと話し、水俣病に対する偏見から、「テレビに撮られてもよいことはなかった」という患者さんたちが、チッソを裁判に訴えてから、本格的に撮ることが出来るようになりましたと話しました。その後も、水俣病を忘れさせないために、撮り続けなければならないと思ったし、そのためには「映画」でなければならなかったと話しました

再会を約して世話になった江雲琴さん(右)と空港で別れを惜しんだ
最後に、機材の発達により、安価で映画ができるようになり、1人でも映画が作れるようなった。しかし、映画の歴史の中で、映画人たちが獲得してきた映画の基礎は忘れないで下さい。
カメラに三脚が、なぜ必要か。カットし構成するという編集の技術が、なぜ必要か。
そのことを謙虚に先人から学び取ってくださいと結びました。

というわけで、映画祭の記録もここで、めでたし めでたしで、打ち止めとさせて頂きす。
謝謝!

そして再見!
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