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新メニュー【沖縄から愛を込めて】の第1号原稿は1本の映画の鑑賞後、期せずして起こった拍手に端を発した筆者の感性、とりわけ「沖縄」ゆえに、より高まった思いが綴られている。この寄稿をきっかけに沖縄のみなさんからの幅広い寄稿が寄せられることを期待したい。
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沖縄から見た《華氏911》 |
荻窪の宮 |
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鳴り止まなかった“受け取り手のいない拍手”
映画の本編映像が消え、制作者などの名前を連ねた字幕のエンドロールが流れ始めると、劇場は突如割れんばかりの拍手に包まれた。それは、エンドロールの後、劇場内が明々としたライトに照らされるまでの数分間続いた。
不思議な光景だった。
拍手の起こり得るような目新しい事実―――舞台挨拶や有名人や映画関係者のゲスト出演、あるいは試写会や映画の封切初日、千秋楽など―――が無いにもかかわらず、観客たちは、エンドロールの流れるスクリーンに向かって盛大な拍手を送り続けていたのだ。その拍手の賛美を受け取る相手はどこにもいないというのに。
受け取り手のいない大きな拍手を送り続ける観客たちの熱気に圧倒され、つられて私も思わず両手を合わせ叩いた。
拍手が止むと、観客たちは口々に感想を述べながら席を立つ。
「とっても良かったさー」
「この映画、沢山の人が見るといいねー」
「本当だねー」
私はしばらく観客たちの声に耳を傾けていたが、ふと、上映後に起きた、受け取り手の無い拍手を思い出し、そのことを劇場の係員に尋ねてみた。すると。
「この映画だけは、上映後に決まって拍手が起こりますね。公開後、毎回の上映の度にですよ。ちょっと驚きますよね。他の映画ではそんなことはありません。この《華氏911》だけですね」
私はふと思い当たった。
この映画―――《華氏911》は、9.11同時多発テロ事件の背景と、それに続くブッシュ大統領の“対テロ戦争”の真実を暴く、マイケル・ムーア監督制作のドキュメンタリー映画。映画公開前から様々な物議を呼び、2004年カンヌ国際映画祭では最高賞パルムドールを受賞した、実に話題性のある政治的な映画なのであるが―――
沖縄戦とイラク戦争は酷似していることを認識させる爆撃の轟音
沖縄にとって、この映画《華氏911》の世界は、単なるスクリーンの中で繰り広げられる別世界のお話ではない。それは、「鉄の暴風」と呼ばれ、一般市民を巻き添いにして、30万人近い犠牲者を出した沖縄での地上戦と、米英軍によるイラク攻撃は、多くの犠牲者を出した「戦争」という点で共通しているからだ。
《華氏911》で描かれているイラクで起きている出来事と、沖縄戦の悲しい記憶は、とても酷似している。それは、イラク戦争の報道映像を見た、戦争の記憶を持つ沖縄の多くのお年寄りたちが、「イラクのニュースは、沖縄戦を思い出すから直視できない」と訴えていたということからも分かり得る。
確かに、沖縄戦は、今では既に遠い昔の出来事である。凄惨な戦の記憶を持つ人たちは次第にその生命を全うしこの世を去り、次第に戦争が記録へと変わりつつあるものの、米軍基地から飛び立った戦闘機の爆音を耳にする度に、記憶が記録に変わるのを阻止しているかのように思えてならない。
お年寄りたちは戦争の惨劇を思い出しては嘆き、大人たちは基地被害に怒り、子どもたちは街で出会う軍用車の姿や飛行する戦闘機の爆音に怯える。
沖縄の悪夢は今なお消えることは無い。
相次ぐ基地被害に反対の意思を表わすために立ち上がった人たちがいた。しかし、意思決定の「お上」は、遥か遠い存在であり、いくら反対の悲痛な声を上げても一向に届くことがない。その気配さえもない。
変わらない悲しい現実。
全身が凍りついたヘリコプターの墜落事件
思い起こせば、アテネオリンピックで日本中が沸いた2004年8月中旬、沖縄駐留米軍海兵隊の大型輸送ヘリコプターが沖縄国際大学の構内に墜落するという重大事件が起きた。
自宅で遅い昼食を取っている最中、何気なく見ていたテレビのニュース速報を見て息が止まり、全身が凍り付いたあの戦慄を、私は今でも忘れることができない。
その大学で学び仕事をしている多くの友人たちの顔が1秒単位のコマ送りで脳裏にフラッシュして瞬き、恐怖に打ち震えた瞬間。友人全員の安否が知りたくて、何度も掛けた携帯電話のプッシュボタンの冷たい手触りと、永遠のように思えた電話の呼び出し音のもどかしさ。
「外のベンチでコンビニご飯を食べていたら、空から凄い音がして、何かが降ってきた。あとはよく覚えてない。夢中で逃げたから」
友だちの途切れ途切れで聞こえる震える声。
沖縄はいつも爆弾を抱えている。空では戦闘機や軍事ヘリコプターが旋回し、地上では迷彩色のジープやトラックが行き交う。
「何かが起きてからでは遅いのに」
過去の多くの出来事とその悲しい痛みの記憶を知っている沖縄の人たちは、その傷口の広がるのを止めさせたくて、小さくもか細い声を精一杯上げるけれど、その声は「お上」の元へは届かない。
そして、頃は、アネテオリンピック。メダルラッシュに沸く日本に、更なる基地被害を受けた沖縄の悲痛な叫びは届いたのか。果たして。
「乗務員は飛行コントロールが不能になった機体を、精いっぱい人のいないところに(操縦して)行き被害を最小限に食い止めた。素晴らしい功績があった」と称賛したのは、在日米軍の司令官(トーマス・ワスコー中将)。/2004年8月27日沖縄タイムスより
「(米軍の)操縦士の操縦がうまかったこともあって、ヘリ事故で重大な被害が出なかった」「事故を機に学生が勉強をサボったりしないように」と発言したのは、日本の閣僚(町村外相)。/2004年10月16日琉球新報より
「ヘリコプターが降って来たよ! 図書館が燃えてる! 怖いよ!」と涙ながらに絶叫したのは、墜落事故を目撃した私の沖縄の友人たち。
分りますか? 「なんくるなるさ」と笑う沖縄の人たちの心を
あれは遠い国での出来事なのか。
きっと変わらない。いつまで経っても、何も変わらない。
沖縄の人たちは、「なんくるなるさ(何とかなるさ)」と哀しげに空を見つめて小さく笑う。その哀しい笑顔を。胸に去来するものを。誰が知り得よう?
沖縄の人たちは悲しく辛い想いを胸に秘め、表には出さない。
沖縄の蒼い空と海は、沖縄の人たちの諦念を癒してくれる。それが永遠に続く諦念であっても、母なる海(ニライカナイ)がある限り、と沖縄の人たちは、哀しいほどに楽天的である。
「内容はあんまり分からんかったけど、良かったさぁ。日本でもこんな映画作って欲しいね」
映画上映後に前の席で隣の人に話しかけた女性のお年寄り(オバア)の声が私の耳に入った。
日本でもこんな映画を作って欲しい―――。
そのオバアの言葉は軽く弾んで私の耳に届いたが、それは私の心の中で深く重く残った。
米軍基地を全国の75%をも有する沖縄は、その重すぎる基地負担を「お上」に訴えても、その声は一向に届くことはなかった。
「あと何人の人が泣けば、『お上』は話を聞いてくれるのか」
「あとどれだけ基地被害を出せば、『お上』は動くのか」
必死に手を伸ばしても、お上の背中は遠く、届かない。沖縄の人たちの想いは、やがて諦念へと化してゆく。
しかし、1995年の米軍兵による少女暴行事件を契機にして、沖縄の人たちの諦念は、少しずつ変化を見せ始める。自らの内に消えさせずにくすぶらせていた怒りの小さな火種を、ようやく大きな炎として燃え上がらせ、強い口調で反対の声を上げたのである。しかし、それも敢え無く外からの消火と内からの燃料不足により、鎮火してしまった。
怒りの火種は、次第に驚くほど小さくなっていった。
基地問題で反対を口にすれば、「基地雇用はどうなるわけ?」と、判で押したように反論され、反対の声はみるみるうちに萎んでしまう。
沖縄の基地問題は、腫れ物に触れるかのごとく扱われ、遠ざけられてきた。 “日米地位協定” “安保条約”を切り札にされ、沖縄の人たちの声は、封じ込められてきた。司法の場でさえも、「高度の政治的な問題を含むもの」としてその判断を避けられてきた。常に沖縄の基地など政治的なものは、意見の自粛の対象となってきた。
気が付けば、美しい景観をいくつも壊してきた米軍基地があるがために、美しい海を持つ沖縄は、その経済的基盤を観光ではなく、基地を選択することを余儀なくされてしまった。「お上」のご機嫌と県民の興味を慎重に吟味し模索しながら、県政は動いてきた。
映画《華氏911》で、沖縄の人は「何か」を知った
沖縄は立ち上がることを恐れている。「基地雇用」をタブーの言葉として、辛く悲しい記憶と厳しい現状を訴える声は、消えかかっている。その小さな怒りの火種は、もはや風前の灯火。火種を大きくする力は、今は無い。
沖縄の声は届かない。これまではそうだった。
しかし、たぶん、きっと。映画《華氏911》で、沖縄の人は知ったのではないか。
ブッシュ批判を内容にしていた映画が、映画祭で最高の賞を取り、ドキュメンタリー映画としては空前の観客動員数を叩き出し、さらにそれがアメリカ大統領選挙での闘うコマとして利用され、たとえそれが効を奏さなかったとしても、映画の与えた影響は計り知れないくらいに大きいことを。
アメリカ人が、イラク人が、世界中の人たちが、平和を愛する燃え盛る火となり、その意思を伝えるプラカートを捧げ、町を練り歩いたことを。
この映画は、諦念を捨て去り、勇気を持って立ち上がることを沖縄の人たちに教えてくれたのだと、私は思う。
そう―――上映後のあの拍手喝采。
あの拍手は、沖縄戦を経験し、さらに膨大な米軍基地を抱える沖縄の人たちによる、切実なメッセージなのではあるまいか。
映画で描かれた、攻撃されたイラクの現状と、沖縄戦との悲しい重なり。
そして、米英軍とその同盟国による占領統治されているイラクと、基地の島・沖縄との痛みの重なり。
多くの人に知ってほしい。イラクで起きていることは、過去に沖縄が経験し、沖縄ではその傷跡が沢山残っているということを。再び過ちを繰り返さないで欲しいことを―――。
「この映画、沢山の人が見るといいねー」
「内容はあんまり分からんかったけど、良かったさぁ。日本でもこんな映画作って欲しいね」
上映後に起きた受け取り手のない拍手喝采は、これらのメッセージを内包していたのではないか。
拍手という一個人の小さな意思表示は、やがて大きなうねりとなり、大勢の賛同を得た力強い拍手喝采へとなる。そして、願いは強い希望となり、実現の光の礎となる。
その期待を込めたのが、あの拍手だったのかもしれない。
そうきっと、あれは、諦念の中に射した一条の光。
くすぶった火種は、どうすれば燃え盛るのか、映画はそのヒントを教えてくれた。そんな気がする。
今度はこの火を燃え盛らせる。決して、消えさせやしない。
この映画を見て、「何か出来るかもしれない」そう思えて仕方ないのは、目の前に高々とした障壁があり、常々それを乗り越えたがっている内なる思いがあるからなのだろうか。きっと障壁の無い人たちにとって、この映画はきっと単なる毒舌の効いた政治的な暴露映画に過ぎないのかもしれないが―――。
海上ヘリポートの建設は急ピッチで進むが沖縄は立ち上がるだろう
映画は立ち上がることを教えてくれた。たぶん、そう。
今、沖縄の名護市の辺野古のジュゴンの泳ぐ美しい海では、海上ヘリポートの建設が急ピッチで進められている。そして今なお、常時耳を覆いたくなるような戦闘機の爆音が聞こえてくる。空を見上げれば、米軍ヘリのプロペラ音。
今はまだ何も変わらない。諦念に満ちた哀しみの沖縄の美しく蒼い空。
でも、これからは―――?
沖縄人の私の心の中の小さな火種は、映画を見た後で大きく変容していた。
何かが出来そうな気がする。今すぐではなくても、きっといつか。自分が出来なくても、自分のこの思いを託した自分の子どもが。その子どもが出来なければ、その子どもの想いを託したその孫が。
想いはいつか伝わるために伝えられる。
映画を見終えて劇場を後にする人たちの表情は、どこかしら誇らしげで、安堵に満ちていたような気がした。
そして、私が映画館を出た後、沖縄の蒼い空を見上げると、今日もまた一機の戦闘機が爆音を轟かせ横切っていった。
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