■構成:『季刊 水俣支援』編集部


記事・論評から読者の投稿川柳まで幅広く報じられる

≪2006年11月〜12月≫  


『季刊 水俣支援』編集部のまとめによると、宇井純をめぐる訃報や追悼記事は06年11月〜12月相当数にのぼり、年が明けても続いた。し
かも一般記事や論評はもとより、一般読者からの投稿川柳にまで及んだ。それは、あたかも宇井純へのマスコミ的というか社会的評価とも
いってよい。そしてまた、マスコミ各社の日頃の蓄積が記事の広さ、深さに如実に反映した場でもあった。その意味で“人騒がせな宇井純
”であった………。
以下は、『季刊 水俣支援』編集部が有料サイトからダウンロードしたものを同部の好意により紹介する。なお、著作権はそれぞれの筆者
および新聞社にあることをお断りしておく。
写真:死亡記事は全国紙、地方紙を問わず多くのマスコミが取り上げ、改めて宇井純の存在感を社会的に裏付けた


毎日新聞 【11.12 朝刊】
訃報:宇井純さん 74歳 死去=沖縄大名誉教授                  
 ◇水俣病告発、自主講座「公害原論」
水俣病問題などで行動する反公害学者として知られた沖縄大名誉教授の宇井純(うい・じゅん)さんが11日、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため東京都内の病院で死去した。74歳。葬儀は16日午前10時、品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場。自宅は非公表。喪主は妻紀子(のりこ)さん。(社会面に関連記事)
東京生まれ。東大大学院修士課程修了。衛生工学を研究し、60年ごろから水俣病を告発するリポートを書き始めた。65年に東大助手となり、東大紛争後の70年から市民向けの自主講座を主宰。15年間で2万人以上が聴講したといわれる。それをまとめた「公害原論」で73年毎日出版文化賞を受賞した。86年に沖縄大教授に就任し、サンゴ礁を守る新石垣空港反対運動にかかわった。
 ◇作家・石牟礼道子さんの話 水俣病の実態がまだ分かっていなかったころ水俣に調べに来られ、状況を詳しく聞かれたことを覚えています。最近は手紙だけの交流でしたが、頼りにしていました。

宇井純さん死去:反権力の姿勢貫き 水俣病「ネコ実験」を暴く
自らを公害問題の「職人」と称し、水俣病研究などに大きな足跡を残して患者を支えた宇井純さんが11日、亡くなった。 宇井さんは東大卒後、ビニールフィルム製造会社に3年間勤め水銀を扱った。59年に水俣病の水銀原因説を聞き、究明に力を注ぎ始めた。 そうした中で自分の祖母が、足尾鉱毒事件で犠牲を被った旧谷中村の村民だったと知り「公害問題は自らに課せられた使命だ」と悟ったという。 東大に籍を置きながら「富田八郎(とんだやろう)」の筆名で水俣病問題の告発を続けた。その文章をまとめた資料集「水俣病」は患者支援運動のバイブルとなった。
チッソの付属病院長、故細川一氏がひそかに、ネコの実験で水俣病発症に成功したことをつかみ、明らかにしたのも宇井さんだった。水俣病研究で知られる宮沢信雄さん(70)は「宇井さんがいなければネコ実験は闇に葬られていた可能性がある。現場に何度も足を運び丹念に資料をまとめる手法、反権力の姿勢に多くを学んだ」と話す。 宇井さんは70年から15年間続けた市民向け自主講座「公害原論」で、公害に関する調査結果をすべて公表。データが集まるとまた公表することを繰り返した。公害・環境問題に取り組む市民や企業に影響を与えた。一方で昇進の道は閉ざされ、東大の「万年助手」となった。 水俣病第1次訴訟の支援活動以来宇井さんと親交のあった原田正純熊本学園大教授(72)は「『公害問題は学者だけではどうにもならない』と自主講座で大衆に広めたのが宇井さん。水俣病公式確認50年の今年に亡くなるなんて」と声を詰まらせた。

熊本日日新聞 【11.12朝刊】
「公害」に命かける 宇井さん死去惜しむ声                      
「宇井さんは公害問題に命をかけた男だった」。十一日に死去した沖縄大名誉教授の宇井純さんとともに一九六〇年代、水俣病を現地で追いかけた報道写真家の桑原史成さん(70)=東京都=は宇井さんをこう評した。 六〇年に初めて水俣市を訪れた桑原さんは間もなく東京大の大学院生だった宇井さんと出会う。まだ駆け出しの写真家。東京からの汽車賃や水俣駅前の定宿「桐原」の宿泊代を、神戸の町工場のアルバイトで宇井さんが稼いだお金で払ってもらったこともあるという。 六二年八月、桑原さんはその定宿で宇井さんに「明日、接写してほしいものがある」と頼まれた。向かった先は原因企業チッソの付属病院。桑原さんはそこで写したのが工場排水をネコに直接投与して調べた、いわゆる「ネコ四〇〇号実験」のデータだったと記憶している。 細川一院長が原因解明のため秘密裏に実施したが、結果は闇に葬られようとしていた。原因物質が排水中にある事実を物語る実験の存在は衝撃だった。宇井さんは「(企業からすれば)とんだ野郎」と読む「富田八郎」のペンネームを使い労働組合の機関誌で水俣病問題を告発し続けた。 桑原さんは「一緒に水俣に滞在していたころの宇井さんは、もう一人の(足尾鉱毒事件を訴え続けた)田中正造だったと言いたい」と振り返った。(亀井宏二)
 ●水俣病の存在広めた ○熊本学園大教授の原田正純さんの話 科学者として、水俣病の存在を国内外に広めた人。弱者の立場に立つ正義感の強い人で、とにかく現場に足を運んでいた。「公害研究は旅」「公害の原因は差別問題」と名言も残した。一九七五年の国際環境調査団では一緒に北欧や東欧を調査した。昨年、見舞った時も「また調査団のようなことをやりたいね」と話したところだった。残念です。
 ●まじめでやさしい人 ○作家の石牟礼道子さんの話 宇井さんと出会ったのは、まだ水俣病を奇病と言っていた時代。「東京の若い研究者が奇病のことを聞いて回っている」という話を聞いていました。水俣の自宅にやって来て、何も知らない私に水銀や水俣病のメカニズムを手取り足取り教えてくださったのを覚えています。冗談も言わず学問一筋、まじめでやさしい方でした。

朝日新聞 【11.12 朝刊】  
宇井純さん死去 水俣病など公害を追及 74歳                     
水俣病研究や被害者の支援を40年近く続け、公害研究の第一人者として世界的に知られていた、沖縄大学名誉教授の宇井純(うい・じゅん)さんが11日午前3時34分、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため、東京都港区の病院で死去した。74歳だった。通夜は15日午後6時、葬儀は16日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は妻紀子(のりこ)さん。
東京都生まれ。東大応用化学科卒業後、日本ゼオン勤務を経て、東大の都市工学科助手になった。専攻は衛生工学。60年ごろから、水俣病を研究するかたわら、問題提起するリポートを労働組合機関誌に発表。被害者側に立った活動を続けた。 下水処理や水質分析などの研究を続け、68年には世界保健機関(WHO)の研究員として欧米に渡り、公害の構造と深刻さを世界に伝えた。
70年から15年間、東大で公害問題などについて市民に直接伝える「自主講座」を開講した。東大では昇進の道を閉ざされて「万年助手」と言われたが、86年に沖縄大学教授に転出。新石垣空港の建設反対運動などに参加した。反社会的企業や学者を批判する行動派の科学者として、国内で知られる一方、アジア太平洋環境賞を受賞するなど、国際的にも評価された。 自主講座の内容をまとめた「公害原論」や「キミよ歩いて考えろ」などの著書がある。
 ◆市民レベルに運動を広げる 水俣病問題を追及してきた原田正純・熊本学園大教授の話 水俣病に限らず、すべての反公害運動に大きな影響を与えた人だった。公害問題を幅広い視点からとらえ、政治やマスコミを動かして市民レベルに広げた。水俣病問題を、一地方の問題ではなく国家レベルの問題として取り上げさせたのも宇井さんの力があったからこそだ。水俣病公式確認50年の年に亡くなり、本当に残念だ。
 ◆現場を歩いて構造明らかに 宇井さんと同時期に東大助手を務めた環境工学者、中西準子・元東大教授の話
 水俣病の真の解決に向けて役割が必要な時に亡くなり、本人も悔しいだろう。残念でならない。水俣病が注目されていないころ、宇井さんは現場を歩きに歩いて、公害を生み出した構造を明らかにした。いつも問題解決へのカギを最初に開ける人だった。

西日本新聞 【11.12 朝刊/熊本県版】
水俣病国際的に訴え 宇井純氏死去 患者らから惜しむ声        
水俣病など公害研究で知られる沖縄大名誉教授の宇井純氏が死去した十一日、県内からも宇井氏を悼む声が相次いだ。
宇井氏は、水俣病の原因が「不明」とされた時代、原因究明に関する調査結果を次々に発表し、埋もれた水俣病被害を全国に発信。一九七二年には、スウェーデンで開かれた国連人間環境会議に患者らが出席するよう提唱し、水俣病問題を海外にまで訴えかけた立役者だった。
 同会議に出席した患者語り部の浜元二徳さん(70)は「公害問題をしっかり見据えた方。『水俣病を修復するには百年かかるよ』という言葉が忘れられない」と話す。水俣病互助会事務局の谷洋一さん(58)は「国際的な視野で水俣病を考えた功績は大きい」と評価。胎児性患者の坂本しのぶさん(50)と親子で国際会議に参加したフジエさん(81)は「四、五年前に水俣で食事をしたのが最後。驚いている」と寂しそうに話した。 七二年に岩波新書「水俣病」を発表する原田正純・熊本学園大教授を岩波に紹介したのも宇井氏。原田教授は「公害問題に取り組んだ同志だった」と死を惜しんだ。
【デスク日記】
水俣病関係者の間では、「とんだ野郎」として知られていた。「富田八郎」。怒りを込めた宇井純氏のペンネームである。
化学者で、無処理の水銀を捨てた経験があった。海に流れればどんな毒物も希釈される、が当時の常識。しかし、その常識を打ち破って発生した水俣病に衝撃を受け、「自分も加害者の一人」の罪悪感を抱いて水俣病にのめり込む。原因企業チッソが極秘に行っていたネコ実験を暴いたのも「富田」氏だった。
「水俣病を発生させた技術者も、隠した工場幹部や業界のトップも、被害者を救済しない官僚も、全部東大の出身者だ。とんでもない大学だよ」と自らの母校をこきおろし、目線は一貫して被害者、弱者にあった。
本紙の「水俣病」シリーズで、じっくり話を聞きたい−。そう考えていた矢先の十一日、氏の訃報(ふほう)が届いた。 反骨の、貴重な証言者を失ってしまった。 (進藤)

琉球新報 【11.12朝刊】
宇井純さん死去/住民視点で公害、環境研究/74歳                    
水俣病の原因究明など住民の視点で公害問題に取り組み、新石垣空港建設の反対運動に携わるなど沖縄の環境問題に取り組んできた沖縄大学名誉教授の宇井純(うい・じゅん)氏が十一日午前三時三十四分、胸部大動脈りゅう破裂のため東京都の病院で亡くなった。七十四歳。東京都出身。葬儀・告別式は十六日午前十時から東京都品川区西五反田五ノ三二ノ二〇、桐ケ谷斎場で。喪主は妻紀子(のりこ)さん。
東大卒業後、化学会社勤務を経て一九六五年から東大助手。水俣病の原因究明に力を注いだ。七〇年から教室を一般に開放して自主講座「公害原論」を開講。住民側に立った科学を提唱し、研究結果を直接市民に伝えた。
八六年、沖大教授に就任。直後から新石垣空港建設反対運動に参加し、沖縄の自然が米軍基地や公共工事などで破壊されている現実を訴えた。 八八年には同大地域研究所初代所長に就任。九〇年にスモン基金奨励賞を、九一年に国連環境計画グローバル500賞を受賞した。 九七年、沖縄環境ネットワークを結成。市民が環境保護に積極的に参加する仕組みづくりに尽力した。 また環境への負荷が少なく、低コストな畜舎排水処理システム「回分式酸化溝」を考案。県内の河川浄化に努めた。 二〇〇二年に第一回アジア太平洋環境賞を受賞。〇三年に同大教授を退職し、名誉教授の称号を授与された。
宇井氏は十二日に沖大で講演を行う予定だった。訃報に接し、東大助手時代に指導を受けた同大の桜井国俊学長は「講演を励みに、闘病を頑張っていたと聞いている。非常に残念だ」と言葉を詰まらせた。
新石垣空港問題などで宇井氏と活動してきた沖縄環境ネットワーク世話人の真喜志好一さんは「沖縄だけでなく日本、世界の環境問題に必要な人だった。志を継いでいきたい」と話した。

読売新聞 【11.12 朝刊】  
宇井純さん(沖縄大名誉教授)死去 水俣病研究、公開講座「公害原論」         
水俣病研究や東京大学での公開自主講座で反公害運動に大きな影響を与えた沖縄大名誉教授(元東大工学部助手)の宇井純(うい・じゅん)さんが11日、胸部大動脈りゅう出血のため死去した。74歳だった。告別式は16日午前10時、東京都品川区西五反田5の32の20桐ヶ谷斎場。喪主は妻、紀子さん。
東京都生まれ。東大工学部卒業後、民間企業を経て、1965年に同学部助手に就任。独自に水俣病の原因究明に向け研究を行い、その結果を国際会議で発表。70年からは、当時「象牙(ぞうげ)の塔」の象徴だった東大で、一般市民を交えて公害問題について学ぶ「公害原論」を、大学非公認の夜間公開自主講座として15年間にわたり主宰した。
企業や行政の側に立つ学者の姿勢を批判し、公害被害者と共に闘う姿勢は、全国の反公害運動に大きな影響を与えた。しかし、東大では昇進の道を閉ざされ、「万年助手」として全国にその名を知られることになった。86年、大学側の強い招きで沖縄大教授に就任。ここでも新石垣空港建設反対運動などの環境問題に取り組み、2003年に同大を退職した。 国連環境計画グローバル500賞など数々の賞を受賞。著書に「公害原論」などがある。
胎児性水俣病の研究で知られる熊本学園大教授で同大水俣学研究センター長の原田正純さん(72)は「公害問題について、被害者と研究者が一緒になって問題の解決に当たるという考えを提唱した人だった。(1972年に)ストックホルムで開かれた国連人間環境会議で、水俣病患者が水俣病の悲劇について語ったのも宇井さんのアイデアだった。水俣病問題を世界に広げた人。非常に残念」と悼んだ。

産経新聞 【11.12 朝刊】  
自主講座「公害原論」 宇井純氏が死去                       
自主講座「公害原論」で知られ、多くの公害反対運動にかかわった環境科学研究者で沖縄大名誉教授の宇井純(うい・じゅん)氏が11日午前3時34分、胸部大動脈りゅう破裂のため東京都港区の東京慈恵会医大病院で死去した。74歳。栃木県出身。通夜は15日午後6時、葬儀・告別式は16日午前10時、東京都品川区西五反田5の32の20、桐ケ谷斎場で。喪主は妻、紀子(のりこ)さん。
東大卒業後、化学会社に勤めた後に大学に戻り、昭和40年から工学部助手。水俣病の調査研究に携わる一方、世界保健機関(WHO)の研究員として欧州の公害を調査した。その経験を踏まえ、45年から東大の教室を一般に開放して自主講座「公害原論」を開講。行政や企業ではなく、住民の側に立った科学を提唱した。講義録は公害反対運動の指針として読まれ、各地の住民運動に大きな影響を与えた。
61年から沖縄大教授。さんご礁を守る新石垣空港反対運動にもかかわり、平成3年には国連環境計画(UNEP)が環境保護に貢献した個人・団体に贈る「グローバル500」を受賞した。
沖縄で環境保護のネットワークづくりを試みたほか、新潟水俣病の民事訴訟に補佐人として加わるなど「行動する学者」として知られた。著書は自主講座の講義録「公害原論」のほか、「公害の政治学」など多数。

沖縄タイムス 【11月12日 朝刊】 
沖大名誉教授・宇井純氏が死去 公害問題を追究             
自主講座「公害原論」で知られ、沖縄などで多くの公害反対運動にかかわった環境科学研究者で沖縄大名誉教授の宇井純(うい・じゅん)氏が十一日午前三時三十四分、胸部大動脈りゅう破裂のため東京都港区の東京慈恵会医大病院で死去した。七十四歳。栃木県出身。葬儀・告別式は十六日午前十時から東京都品川区西五反田五ノ三二ノ二○、桐ケ谷斎場で。喪主は妻紀子(のりこ)さん。
東大卒業後、化学会社に勤めた後に大学に戻り、一九六五(昭和四十)年から工学部助手。水俣病の調査研究に携わる一方、世界保健機関(WHO)の研究員として欧州の公害を調査した。
その経験を踏まえ、七○年から東大の教室を一般に開放して自主講座「公害原論」を開講。行政や企業ではなく、住民の側に立った科学を提唱、八五年までの十五年間で二万人が聴講したとされる。講義録は公害反対運動の指針として読まれ、各地の住民運動に大きな影響を与えた。
八六年から沖縄大教授。さんご礁を守る新石垣空港反対運動にもかかわり、九一年には国連環境計画(UNEP)が環境保護に貢献した個人・団体に贈る「グローバル500」を受賞した。 沖縄で環境保護のネットワークづくりを試みたほか、新潟水俣病の民事訴訟に補佐人として加わるなど「行動する学者」として知られた。著書は自主講座の講義録「公害原論」のほか「公害の政治学」「日本の水はよみがえるか」など多数。
◇     ◇     ◇
県内の環境保護に奔走/「行動の人」市民支え
住民の側に立った科学を提唱した沖縄大学名誉教授の宇井純さんが亡くなった。東京大学を辞職後、一九八六年から二〇〇三年まで沖縄大に在任。急速な開発で破壊が進む沖縄の自然を憂慮し、県内の環境保護活動を理論的・技術的に支えた「行動の人」だった。新石垣空港反対運動にかかわったほか、深刻化する赤土問題や畜産排水問題などに技術面から向き合い、各地で実践を進めた。
全国一律の基準を沖縄に当てはめる公共事業のあり方に疑問を投げ掛け、時に国や県などとも激しく対峙した。宇井さんの下で学んだ沖縄大職員の後藤哲志さん(37)は「いかにしたら沖縄が自立・持続できるかを常に考えていた」と指摘する。
退官時に沖縄タイムスのインタビューで、「いつの時代も、批判者は少数派だが、科学はそれを乗り越え進化してきた」と批判精神の大切さを訴えた。環境問題に取り組む市民活動を育て、関係者のネットワークづくりや県外のネットワークとの連携にも貢献した。「ちゅらさ石けん工房」主宰の仲西美佐子さん(56)=恩納村=は「環境問題に多くの人の目を向けさせてくれた。奥の深い方だった」としのぶ。
宇井さんは沖大祭最終日の十二日、学生主催の大学のあり方を考えるシンポジウムで基調講演する予定だった。主催者は健在だったころの講演のビデオを上映して、追悼する。シンポジウムは、午後零時半から同大三号館一〇一教室である。
権威に屈さず  東大時代の教え子、桜井国俊・沖縄大学長(62)の話 馬力があって粘り強く、権威に屈しない人だった。水俣病問題では、原因企業にとって“とんだ野郎”になりたいという意味を込め「富田八郎」のペンネームで論文を発表していた。宇井さんがオランダで学んできた雨水や下水の循環再利用方法が、本学の建物にも応用されている。
 沖縄環境ネットワークの福地曠昭さんの話 人生を沖縄にささげた人だ。「沖縄の公害問題は、米軍基地や人権問題にも通じる」と語っていた。
指導を受けた  久茂地川フェスティバル実行委員の崎山正美さん(57)=糸満市=の話 水問題に取り組む中で、刺激を受けたことはたくさんある。赤土問題では、発生源から小まめに対策していく愛知県・矢作川の事例を紹介してもらい、突破口が開けた。
水俣病患者の会会長浜元二徳さん(70)=熊本県水俣市=の話 とても物腰が穏やかで、患者の苦しみをよく聞いてくれる人だった。わたしたちを率いて一九七二年にストックホルムで開催された国連人間環境会議に乗り込み、水俣病問題を強く世界に訴えてくれた。

愛媛新聞 【11.13 朝刊】 [地軸]
宇井純さん死去                                 
水俣病の発見者は西予市三瓶町出身の故細川一医師。チッソ水俣工場の付属病院長だったが、医師の良心として新しい病気を保健所に報告した。それから五十年、水俣病にかかわった「行動する学者」が亡くなった▲宇井純さん。東大の研究室にこもらず、患者と暮らした研究には現場のにおいがあった。水俣病の調査研究から生み出された講義録の「公害原論」は、公害反対運動の指針としてよく知られている▲一九八五年まで東大キャンパスで、自主講座を続けた。十五年間に約二万人の市民らが聴講したという。宇井さんの父方のルーツは足尾銅山鉱毒被害の旧谷中村にある。このつながりが宇井さんを反公害運動に駆り立てたのかもしれない▲宇井さんは常に被害者側にいたから、万年助手。「何度か困難にぶつかったが、悲惨な状況のなかで水俣病などの患者が強く生きようとしているその姿が、仕事を続けていく支えとなった」。最後の自主講座の言葉が印象深い▲沖縄大の教授に迎えられてからも、さんご礁を守る新石垣空港反対運動にかかわった。「沖縄での自然破壊は日本でも最悪の規模」−。人間の自然に対する暴力が許せなかった。環境保護に尽くした功績で、国連環境計画の「グローバル500」を受賞したのも当然だ▲発見から半世紀を経ても、水俣病に苦しむ人たちがいる。関西水俣病訴訟で最高裁は国の責任を断罪したが、救済は不十分だ。宇井さんは心残りだっただろう。いつまでも、患者たちを支えていてほしかった。

中日新聞 【11.14 朝刊】  [中日春秋]                                  
第一回の講義に果たして何人来るのか。やきもきしていたら大変な盛況で、教室に入りきれないほどだったそうだ▼多くの公害反対運動にかかわり、七十四歳で亡くなった環境科学研究者の宇井純さん。東大助手だった一九七〇(昭和四十五)年に東大教室を一般開放した自主講座「公害原論」をそう回想している。よその学生や勤め人や主婦と多彩な聴講で、住民の側に立った科学を説く講座は十五年続いた▼東大を出て富山県の会社へ。製造過程で使う水銀化合物を排水で流していたといい、大学に戻って水俣病が気になったのも「加害者だったから」。水俣で幼児期に発病した少女と会い、その瞳が「何でこんなことが起きたの」と問いかけてきて「科学者として逃げられない」と思ったという
 ▼焼け跡世代で、軍人が戦況の不利を直言できなかったことが疑問だった。「学者も同じ。どうして官僚におかしいと言えないのか。真実を解明して伝えるために大学が必要なのに」。自主講座の盛況は宇井さんの反骨と情熱の反映であったのだろう▼「公害原論」は後に分厚い合本となって出版された。往時に比べれば公害は減ったような昨今でもフェロシルト事件が起きた。公害に限らず、さまざまな分野で技術の過信や組織の隠蔽(いんぺい)が相次ぐ中、「公害原論」はなお多くを教えるようだ。科学や学問は何のため、だれのためにあるのかということも▼東大では昇進の道を閉ざされて「万年助手」と自称した。自主講座で二万人に及ぶ聴講生に語り続けた反骨の研究者の、矜持(きょうじ)が伝わってくる。

下野新聞 【11.14 朝刊】  雷鳴抄/宇井純                                
二十六年前のことだ。足尾に関することなら何でもつかんでみよう−という勉強会が宇都宮市内で始まった。その名を「市民塾・足尾」という。毎月一回の開催、会場は小さなライブハウス、聴衆も数十人という地味なものだった▼ゼミナールは一年半で終わったが、毎回著名な講師陣が熱弁を振るった。この間、二度も講師を引き受けてくれたのが宇井純さんである。一回目の演題は「足尾からの教訓」、二回目は「足尾の山、栃木の水」だった▼六歳になって本県の壬生町に移り住み、旧制栃木中学から東京大工学部に進んだ宇井さんは、常に栃木の風土を見据えていたのかもしれない。講演では歴史、河川、産業などあらゆる角度から栃木を分析していった。「地域を丹念に調べることが日本の問題につながり、やがて世界共通の問題へと広がっていく」。彼の口癖だった▼足元からグローバルな発想へ。先の「市民塾・足尾」も、一九七〇年から東大教室を一般に開放して始めた自主講座「公害原論」も、一市民が学ぶべき方向性を示していたと言っていい▼その宇井さんが十一日亡くなった。以前、飲みながら言われた言葉を思い出した。「環境問題に新聞社は敏感でなきゃいけない」。一学者が公害と闘い始めてから半世紀。今や、市民も企業も行政も「環境」を無視できない時代である。宇井さんの驚くべき先見性だった。

朝日新聞 【11.14 朝刊/宮崎県】   
土呂久公害の被害者支援に力 宇井純氏死去、県内から悼む声         
水俣病をはじめとする公害研究の第一人者、沖縄大名誉教授の宇井純さんが、11日に74歳で亡くなった。ヒ素中毒患者を多数出した高千穂町の土呂久公害にも被害者を支援する立場で深くかかわっており、宇井さんを知る県内の知人や関係者らに驚きと悲しみが広がった。
土呂久の被害者の会会長の佐藤トネさん(84)は「私たち被害者に気兼ねなく話してくれる優しい先生でした。もう一度会いたかった」と語った。宇井さんは公害が発覚した当初から、東京の研究者仲間やNGO関係者を伴い、土呂久を何度も訪れた。佐藤さんは東大助手時代の宇井さんの自主講座「公害原論」に招かれ、教壇に立ったこともある。「数百人入る大教室が立ち見が出るほど満員で、全員が真剣に聞いてくれました」
NPO「アジア砒素(ひそ)ネットワーク」事務局長で記録作家の川原一之さん(59)は「山村の公害を全国的な問題にする後押しをしてくれた。日本の公害を、市民の力でなくそうとする先見の明がある人だった」と話す。
20年余り前、宇井さんに「土呂久の経験をアジアに伝えなさい。電気がなくても伝承できる紙芝居を作りなさい」と言われたという。その言葉に押されるように、土呂久の被害者支援団体を母体にした同ネットワークはアジア各地のヒ素汚染地域で活動を始めた。
宇井さんは沖縄大退職後の03年5月にも、妻紀子さんと土呂久の鉱山跡や被害者の墓地を訪問。土呂久公害の資料を保管する高鍋町の「野の花館」にも立ち寄った。その際、川原さんは活動に使った紙芝居を宇井さんに初めて見せたという。
土呂久に同行した写真家の芥川仁さん(59)は「まさか最後の土呂久訪問になるとは思わなかった。いつも現場に意識を持ち、被害者とつながり続けたいと願う人だった」と故人を悼んだ。

中国新聞 【11.15 朝刊】 [広場]   
宇井純氏の死を悼む    会社員 徳永勇雄 56歳            
長年、国や企業の環境破壊、公害に反対し、人間の生きる環境保全の重要性について力説し、東奔西走の活動を続けてこられた宇井純氏が亡くなられたことを知り、深い悲しみに襲われた。
学生時代、東京大で自主講座が開かれることを知った。当時、公害関連の記事が新聞に載らない日はなかったように思う。私も高い関心を持って、講義後などに所属講座の研究室におじゃまして、迷惑もかえりみず先生相手に議論を吹きかけたものだ。 被害を受け、虐げられている人たちの立場に身を置いて、利潤優先の企業の論理に批判を続けてこられた。宇井氏の「公害原論」や、他の著作を読み多くのことを教えられた。 カドミウム被害を告発した萩野昇医師や、水俣病に打ち込んでこられた原田正純氏とともに、私に大きな影響を与えた人だった。
廃液や廃ガスが公害病の原因であることが証明されない限り、公害の元凶であると認めない企業の論理に非常に腹立たしい怒りを感じてきたが、都市工学、特に衛生工学の専門家としての宇井氏の活動は特筆に値し、世界的に公害撲滅に大きな貢献をされた。宇井氏の逝去を心から悼みます。(福山市)

熊本日日新聞 【11.14 朝刊】   
環境事務次官 “水銀条約”に慎重姿勢 EU提唱 途上国への配慮示す     
欧州連合(EU)が水銀の使用や排出削減に向け各国に国際条約づくりの必要性を訴えていることに対し、環境省の田村義雄事務次官は十三日の定例会見で、条約化に反対している途上国の意見も含め「引き続き検討したい」と慎重姿勢を示した。 田村次官は、二〇〇五年の国連環境計画(UNEP)の各国管理理事会で、途上国が国際条約化に反対したことを強調。「途上国を含む各国の意見を集約し、国際的な合意のもとで実効ある対策を進めることが重要。〇七年二月の次回管理理事会に向け、関係府省と議論し、途上国が今どう考えているかを含めて検討したい」と、途上国への配慮を強くにじませた。 EUのほか、カナダや中南米諸国も国際条約づくりを求めているが、水銀の主要な発生源である火力発電所を抱える米国は強く反対。日本は水俣病の経験から条約づくりに主導的な役割を期待されているが、海外のNGOからは「消極的だ」と批判されている。
 一方、十一日死去した沖縄大名誉教授の宇井純氏について田村次官は、「公害問題に関し企業や行政に鋭い批判を投げ掛け、一貫して現場の立場、被害者側から環境問題にかかわり続けた方だった。ごめい福をお祈りしたい」と述べた。(亀井宏二)

中国新聞 【11.15 朝刊】   
原田正純  型破り 弱者にやさしく 宇井純さんを悼む           
一九六〇年代前半、私は水俣病が多発した漁村地区をうろうろしながら調査していた。そのころ「東大の大学院生が資料を集めているようだが、何をするか分からないので用心するように」と言われたことがあった。この大学院生こそ宇井純さんだったのだが、その時は知るよしもなかった。しかも、一部の熊本大研究者にうさんくさい目で見られていたのである。
年齢も大学も専門も違うが、研究生活をスタートさせたのは同じころだった。しかし同じ水俣病の多発地区を歩き回りながら、お互いに面識はなかった。宇井さんの調査成果は当時の合成化学産業労働組合連合会(合化労連)の機関紙に、富田八郎(とんだやろう)のペンネームで掲載されたが、私たちは全く知らなかった。
六五年六月、新潟に第二の水俣病がおこり、宇井さんは水俣病の発見者の一人であるチッソ付属病院の細川一院長とともに新潟水俣病の現場に駆けつけている。 宇井さんはそれ以前に細川院長から、熊本の水俣病について原因企業のチッソ自身が、工場廃水が原因と秘密実験で把握していた事実を聞いて知っていたらしい。だがそれを公表しないうちに、同じ工場廃水による新潟水俣病が発生したことを自分のこととして悔やみ、「責任のある部分を、確かに私は負わなければならない」と書いている。これが宇井さんの原点と思われる。
それからの宇井さんの公害、とくに水俣病に対する活動には目を見張るものがあった。水俣病裁判がおこると早速、水俣に来てくれた。私が、患者でありながら水俣病と認められない、隠れた悲惨な患者が多いことを話したとき、宇井さんは本当に涙をながした。
宇井さんがこの話を編集者に紹介し、私は未認定患者についての文章を発表することになる。未認定の隠れた患者の存在は、宇井さんの問題の本質をとらえる直感によって、世に明らかになった。それを忘れてはならないのである。
新潟、熊本両水俣病裁判の支援に奔走する宇井さんの行動には目を見張るものがあった。六七年に新潟水俣病患者が裁判を起こすと宇井さんは補佐人となる。続いて六九年には熊本でも裁判が提起される。 七〇年には、患者らが行った運動の過程で、支援に駆けつけて宇井さんは逮捕までされる。文字通り体を張って支援した。こんな学者がいることを知ったのは驚きであった。その年の十月から始まった東大自主講座は当時の学生や若い知識層に大きな影響を与え、講義録をまとめた「公害原論」は、全国に広がった公害反対運動のバイブルとまでいわれた。
次々とアイデアを出してくるところはすごいの一言につきた。七二年には、ストックホルムの国連人間環境会議に水俣病患者をはじめ、日本の公害被害者が乗り込んで直接世界に訴えようということになった。宇井さんがその仕掛け人だった。世界に日本のKOGAI・MINAMATAを知らしめた。行政にとってはさぞ苦々しいことであったろう。私にとっては目から鱗(うろこ)のできごとであった。 さらに七五年には国際環境調査団を組織して、世界の汚染地区を調査したり、私などが全く思いつかないアイデアを次々と繰り出した。
権力には怖くて、弱者にはやさしい型破りの学者であった。いずれ別れねばならない運命ではあるが、私にとってあまりにも大きな存在であった。安らかにお休みください。ご苦労さんでした。(熊本学園大教授)
    ◇
 宇井純さんは11日死去、74歳。 【写真説明】公害問題について東大で最後の講義に臨んだ宇井純さん(86年2月、東京・本郷の東大)

岐阜新聞 【11.16 朝刊】  編集余記                                     
公害研究の第一人者の宇井純さん逝く。七十四歳。一九八六年に沖縄大教授として転出するまで、東京大で万年助手といわれながら自主講座「公害原論」を続けた。
▼七〇年十月、夜間の空き教室で始めた第一回講座の翌日夜、チッソ付属病院長で水俣病発見者の細川一博士の悲報が宇井さんに伝わった。「一番先に聞いてほしかった人…もう後戻りできず、細川博士の分まで働かなければという気を起こさせた」(「公害自主講座15年」)。
▼公害が大きな社会問題になったころで一般に開放した会場はすし詰め状態になり、第四回から講堂に会場を移した。第五回はちょうどその年の今夜。足尾鉱毒事件で明治政府と対決した政治家田中正造を語った。
▼第六回は大正期、岐阜市の荒田川の汚水問題が主題。汚水を出す工場と補償交渉を一切せずに改善を迫った水田地主たちの話。「田中正造が自分の目標だった」と語る運動の元指導者の問題意識を宇井さんは強調した。
▼日本の公害闘争史上に残る「荒田川」は、自主講座を記録した「公害原論合本」などで広く知られた。先年水俣を訪れた際、全国各地から集まった学生らの勉強会で荒田川という言葉が何度も発せられるのを聞き、あらためてその意義深さを思い知った。
▼宇井さんの荒田川調査は大学院生時代。その後も講演で招かれると「適正技術」の持論を熱く説いた。細川さんの遺志を継ぎ、水俣病被害者支援や反公害運動に尽くした宇井さんの遺志を継ぐ人が、岐阜にもきっといることだろう。

信濃毎日新聞 【11.16 夕刊】  [今日の視角]
宇井純の残したもの(井出孫六)                  
先週の土曜日に、宇井純さんが亡くなった。学者の訃報は概して新聞の片隅に数行で報じられるのが一般だが、たとえば本紙は写真入り三段で、「『公害原論』行動派の学者/宇井純さん死去/74歳」と伝えた。見出しに大きく報じられている年齢を見て、まだまだ当分元気でいてほしいという気持ちが強かった。
宇井純とわたしは同じ年に大学に入った。敗戦から五年余、まだ東京のいたるところに焼け跡が残っているというのに、朝鮮半島では第三次大戦に発展しかねない激しい戦争が始まっていた。学生寮には闇買いの藷俵がころがっていたりして、学生生活は貧しかった。
着古したジャンパーのほか着るものはなく、底のすりへった運動靴以外はくものをもたず、ときに合唱団の指揮をとりつつ、時を惜しむかのように図書館に向かう宇井純の後ろ姿に、わたしは、時代に抗いながらいつかとてつもないことをやってのけそうなオーラを感じとっていたように思う。
朝鮮戦争特需で戦後復興のきっかけをつかんだ日本企業は理工系の学生を積極的に採用する時期に入っていた。宇井純も日本ゼオンに入社したものの、数年で大学院にまい戻り、水俣への関心を抱く。富田八郎の筆名で水俣病調査報告を書き始めるのは、たしかレーチェル・カーソンの『沈黙の春』が翻訳紹介される前後のことであり、日本における反公害運動に画期となる仕事だった。
本来ならば、それは学問の領域で正当な評価が下されるべきものなのだが、富田八郎の水俣病調査報告は、宇井純を二十年間、都市工学科助手の位置に閉じこめ、“万年助手”のレッテルを貼る役割しか与えなかったのであった。しかし、東大の教室を用いて十五年間にわたって公開自主講座をつづけた。その記録「公害原論」(全三巻、補巻三巻)は、いつの日か再び読み返されるにちがいない。                           

読売新聞 【11.16 東京夕刊】 [夕景時評]
「公害原論」の覚悟   編集委員・河野博子           
「公害原論」を主宰した宇井純さんの訃報(ふほう)に、熱気あふれる教室を思い出した。
70年から15年間にわたり、東大で行われた夜間公開自主講座。大学非公認というか黙認、だれもが参加できた講座は、公害撲滅へのエネルギーを生み出した。
1972年6月、スウェーデン・ストックホルムで開かれた国連人間環境会議でも、「公害原論」の果たした役割は大きい。 「会議に向けた日本政府による報告は、きれいごとに終始した官僚の作文だった。公害の実態を失敗の教訓として伝える報告を自分たちの手で出そう、と講座参加者を中心に準備が進んだ」。当時、作業の一端に加わった松下和夫京大教授(58)は振り返る。
市民の動きに押される形で、会議では、前年7月に発足した環境庁の大石武一長官が政府を代表し、水俣病について政府の責任を認める演説を行った。胎児性水俣病の坂本しのぶさんら患者も、同時に行われたNGOの会合で被害を訴えた。 私が講座をのぞいたのは、ストックホルム会議の後だが、大勢が詰めかけていた。みな、汚れていく空や川への思いを共有していた。
当時、宇井さんは、籍を置く東大工学部の「万年助手」だった。 71年4月発行の雑誌「自主講座」創刊号で、宇井さんは、高らかに宣言している。「立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する」
現場に足を運び、被害者の声に耳を傾け、そこから科学を積みあげる「公害原論」。その根っこにあった厳しい覚悟に、改めて胸を突かれる思いがする。

朝日新聞 【11.16 東京朝刊】  朝日川柳 西木空人選                            
支持率の期待値分が落ちただけ(横浜市 鈴木弘人)
お隣のおもちゃ欲しがるように見え(東京都 木村義正)
持ちたいと鎧(よろい)の下に書いてある(小平市 三浦正明)
☆そういえば警官立ち寄りますとある(名古屋市 宇都正巳)
怒ろうよおかしな国になっちまう(八王子市 望月恒夫)
すべて世は事も無さそにプレステ3(奈良市 横井正弘)
公害のない世へ一人旅に出る(静岡市 安藤勝志)
            一句、内閣支持率下落。二、三句、核論議。四句、巡査長が強盗。五句、反応鈍くなった?私たち。
            六句、前日から行列。七句、宇井純さん死去。

読売新聞 【11.25 朝刊/千葉】    
今も湿地潤す水車 汚染の川、野鳥の生息地に 市川の行徳鳥獣保護区     
 ◆20年前、故宇井純さん助言で導入
水俣病など公害研究の第一人者として知られ、11日に74歳で他界した沖縄大名誉教授・宇井純さんの助言により導入された水質浄化のための水車が、市川市の行徳鳥獣保護区(56ヘクタール)で今も稼働している。野鳥の生息する湿地をきれいな水で潤しており、保護区で環境保全活動に取り組むNPO「行徳野鳥観察舎友の会」では「このような野鳥の生息地が実現したのも宇井先生のおかげ」と、改めて宇井さんの業績をたたえている。
宇井さんゆかりの水車は、雑排水をくみ上げる排水機場や保護区内の池などに計6台が設置されている。プロペラを勢いよく回転させて空気を送り込み、水中の酸素濃度を高める仕組み。それによって汚れを栄養分とするバクテリアが増えて有機物が分解され、さらにバクテリアを食べる魚、魚を食べる鳥−−という食物連鎖がよみがえって川や湿地帯の自然浄化が進むという。
水車が初めて設置されたのは1986年。湿地の回復に取り組んでいた「友の会」の蓮尾純子さん(58)が前年、東京湾上で開かれたシンポジウムで「保護区を流れる丸浜川は汚染のため水源にならない」と、地域の悩みを報告したのがきっかけだった。これに対して出席者の1人だった宇井さんが「汚れも生物にとっては栄養分」とアドバイス、すぐに現地に駆けつけて水車の設置を指導したという。
「友の会」ではその後、水車の利用計画をまとめてトヨタ財団が主催する研究コンクールに応募、その助成金で、プロペラが毎分103回転する特注の水車(長さ3・4メートル、重さ152キロ)1機を、異臭を放っていた丸浜川に設置した。すると、「1、2か月後に最初の生物としてユスリカ(アカムシ)が確認され、翌年の冬にはカモが餌をとるようになった」と、友の会の東良一理事長(52)は著書「NPOの実践講座2」の中で報告している。
同会ではその後、水車の数を増やすとともに周囲に樹木も植え、さらに池や湿地帯を造成、現在では249種の野鳥の姿が見られるまでになった。
東京都内で16日に行われた告別式に参列した蓮尾さんは「あの水車の設置は湿地回復の第一歩でした」と振り返る。また通夜に出席した東理事長は「宇井先生の指導が活動に自信と安心感を与えてくれた」と、在りし日をしのんでいる。
写真=宇井純さんの助言で導入され、水質の浄化に威力を発揮している市川市・行徳鳥獣保護区の水車

熊本日日新聞【11.29 朝刊】  [追想] メモリアル
東大自主講座「公害原論」主宰の宇井純(ういじゅん)さん 11月11日死去、74歳 被害者側に常に立ち続け 死亡                       
遺影は、今にも話し出しそうな迫力だった。都内であった沖縄大名誉教授、宇井純さんの告別式。一九七〇年秋から十五年間、宇井さんが東京大学で主宰した公開自主講座「公害原論」最終日の姿だ。ともに水俣病を現地で追い掛けた報道写真家の桑原史成氏がフィルムに収めていた。
一九三二年、東京・新宿生まれ。五六年に東大応用化学科を卒業し、化学メーカーに就職したが、六〇年に大学院に入り直し、六五年から同大工学部助手。それから二十一年間、東大では最後まで助手のままだった。
自著「公害の政治学」での告白。メーカー入社後、「製造工程で扱う水銀塩を当然のように水で洗い流した」。後に水俣病の存在を知り、有機水銀説に衝撃を受ける。戦後、家族と栃木県に入植した経験から、食料難の解決には化学肥料が大事と考え専攻した応用化学。それが海を汚し、人々の健康と命を奪った。
原因調査のため水俣の現地へ。六二年八月、チッソの付属病院で、工場廃水をネコに直接与えて水俣病を発症させた極秘実験の存在を知る。しかし、実名で公表しないまま、六五年の新潟水俣病発生に直面する。生まれたばかりの長女を抱く妻紀子さんに向かい「これからは宇井の名前で公表する。出世の道はなくなるが、お前はどうする」と涙を見せたという。
父方の祖母が足尾鉱毒事件で消滅した谷中村出身。村人の救済に奔走した田中正造を尊敬し、長男に「正造」と名付けようとしたほどだ。常に被害者側に立つ姿勢に揺るぎはなかった。
「象牙の塔」の象徴の東大で、教室を一般開放した夜間の自主講座。「谷中村滅亡史」を著した荒畑寒村らも招いた講座は数百回に及び、約二万人が聴講したとされる。その聴講生らが全国の反公害運動に散った。 水俣病事件の混迷する現状を、どう思うだろうか。宇井さんが刻んだ反公害の道標は、今再び輝きを増している。(亀井宏二)

熊本日日新聞 【12.01朝刊】 [読者への手紙]   
心耳を澄ます                          
十二月になりました。慌ただしさも待ったなし、という感じです。季節の実感の流儀はいろいろありますが、私にとってこの時期は、知人からの「喪中につき」というはがきに師走を感じます。年齢のせいもあるのでしょう、年々、このはがきが増えてきます。 この一年、それぞれに大事な方を亡くされたことと思います。熊本にゆかりの深い方も数多く亡くなられました。私も、心に残る人がいます。
環境問題に取り組んだ宇井純さんは東大の応用化学を卒業した後、勤めた会社で水銀を流した経験から、水俣病問題に関心を寄せました。昭和三十年代後半、見舞金契約が結ばれ、「水俣病は終わった」と水面下に沈んだころ、宇井さんは一人で水俣病の研究を続けます。
そのころ、石牟礼道子さんも、一人で患者の聞き書きを続けています。やがて二人は出会うのですが、宇井さんによればそのころ、石牟礼さんは「だれも読まなくても記録だけはしておこう。ゴキブリかネズミがそのうち知能を持つようになったら、人間はこんなバカなことをしたんだと言うだろう」と話していたそうです。 しかし、二人の仕事は水俣病事件の本質を知るうえで、とりわけ貴重なものとなりました。
数年前、環境庁が組織した研究会で宇井さんとご一緒しましたが、「僕は水俣病で『官』から金をもらうのはこれが初めてなんだ」と笑っていました。交通費となにがしかの日当が出たのですが、それほど、「在野の姿勢」は徹底していました。
五木村の佐藤孝さんは、九十五歳でした。最初にお会いしたのは三十年近く前のこと。川辺川ダム建設に反対する五木村のリーダーの一人で、実に温厚な人柄でした。
忘れられない言葉があります。佐藤さんたちはダム反対の旗を降ろし、細川護熙県知事との調印式に臨んだのですが、その理由を聞いた時、「反対を続けて、これ以上村が分裂するのは忍びない」という趣旨のことを話されました。
当時、川辺川ダム問題に今ほど下流や全国の関心は高くなく、五木、相良両村の反対派は孤立無援の闘いをしていました。佐藤さんたちの決断は、村に住む者にしか分からない、共同体の悲鳴のようにも聞こえたのでした。
代替地に移った佐藤さんからはその後、「サルや鹿と暮らしております」というユーモラスな年賀状が毎年届けられましたが、文面の端々にダムをはじめとした現実社会の問題を気に留めておられるのが分かりました。来年はもう年賀状が来ません。ひとしおの寂しさがあります。 しかし一方で、生者のあらん限り死者は生きん、という言葉を思い浮かべます。命を終えた人の思い出や言葉、志は私たちの中で生きています。
昔、中学のクラブ活動で剣道をやったことがあります。その時、心眼という言葉を教わりました。心の眼で相手の動きを見よ、というのです。とてもとてもその域には達しないままに終わってしまいましたが、心眼という言葉だけは心に残りました。
やがて、心眼と同様に、心耳(しんじ)という言葉があるのも知りました。文字通り、心の耳です。亡くなった方、物言わぬもの、あるいは目に見えぬもの等々、心の耳でしか聞けない、心の耳を澄まさないと聞けないものがたくさんあるようです。心耳の確かさが、私たち一人ひとりのありようの豊かさにもつながっています。忙しい時だからこそ、心耳を傾けたいものです。 編集局長 高峰武

西日本新聞 【11.30 朝刊】 
宇井純氏をしのぶ 水俣病など研究、沖縄大名誉教授 来月2日大牟田市 公害跡地の見学会も                                             
水俣病などの公害研究で知られ、十一日に亡くなった沖縄大名誉教授の宇井純氏=写真=をしのぶ会が二日、大牟田市で開かれる。同市の元職員や市民団体など主催。関係者は「宇井さんの教えを振り返り、あらためて環境問題について考えたい」と話している。 同市で水質や土壌、大気汚染が問題になっていた一九七五年ごろ、市公害対策課職員らが公害問題について考える「公害○○(まるまる)会」を発足させた。同会は同市の市民団体「公害に反対する市民学習会」などと共同で、宇井氏を招き学習会を開くなど活動してきた経緯がある。
しのぶ会では、午後二時−同四時半にかけて、当時の環境汚染の現場だった同市宮浦町のコークス炉跡や大牟田川排水路などを巡る見学会も開催。同四時半からは、同市有明町のレストラン「だいふく」で、同市出身で九州大学大学院の坂口光一教授が宇井さんの活動や功績を語る。 問い合わせはしのぶ会事務局の藤木雄二さん=090(7469)0517。

読売新聞 【12.05 朝刊】 
宇井純さんしのぶ 水俣病など公害反対運動に影響 大牟田市元職員ら=熊本       
水俣病などの公害研究で知られ、11月11日に74歳で死去した沖縄大名誉教授の宇井純さんを偲(しの)ぶ会が2日、福岡県大牟田市で開かれた。宇井さんの影響を受け、同市で水質汚染などの公害問題に取り組んだ元市職員ら13人が遺徳を偲んだ。
宇井さんは東大工学部で「万年助手」を務め、大学非公認の夜間公開自主講座「公害原論」を1970年から15年にわたって主宰したことでも知られている。 同市ではその前から、化学工場の排水口から大牟田川に有害物質が流れ出たり、周辺に悪臭が立ちこめ、住民が病院に運ばれたりするなどの問題が表面化。公害担当職員として対応にあたっていた武藤泰勝さん(69)は70年代初め、この講座に足を運び、徹底して被害者の側に立ち、行動する宇井さんの姿に感銘を受けた。「役人とはつき合わない」という宇井さんの自宅に押しかけて語り合い、徐々に親交を深めたという。
73年ごろには、武藤さんら約20人の市職員が「公害○○(まるまる)会」を結成。宇井さんを大牟田に招き、「現地講座」を開いたこともあった。宇井さんはその後も度々大牟田に入り、公害反対運動に大きな影響を与えた。
偲ぶ会は、武藤さんらが発起人となって企画。宇井さんが実際に訪れたコークス炉跡地や大牟田川などを回ったあと黙とうした。 武藤さんは「宇井さんの活動を見つめ直し、自分たちはこれから何をすべきか改めて考えたい」と話した。

毎日新聞 【12.12.朝刊/栃木】 
鉱毒に消えた谷中:識者に聞く/4 国学院大学経済学部・菅井益郎教授       
 ◇政府動かした反対運動
――足尾鉱毒に興味を持たれたきっかけを。
 ◆大学院に進学する直前、実家のある新潟県柏崎市に原子力発電所の建設計画が発表されたのがきっかけだった。公害の原点である足尾鉱毒にも自然と興味が向かった。実際に足尾を訪れ、煙害で草木の枯れた山々を見て強烈な衝撃を受けた。その場でこれを研究テーマにしようと決意した。
――足尾鉱毒事件の特徴は何でしょう?
 ◆反対運動で、住民の抗議対象が加害企業ではなく、政府に向かったことが特徴。田中正造は代議士でもあり、鉱毒を容認する政府の責任を問う姿勢だった。根本から公害を絶つという発想だ。この行政責任を問う手法は、現在の水俣病裁判などの先駆けではあったが、運動自体は挫折した。
 ◇他地域の住民勇気付け
しかし、他の鉱山公害に悩まされていた地域の住民を大きく勇気付けた。各地で「田中正造のように闘う」と明言して、加害企業に立ち向かった。その激しい反対運動を見て、政府は公害防止を命ずるとともに、鉱山から公害が出ることを前提に、1939年改正の鉱業法で(鉱山経営者の過失、無過失を問わずに被害の損害賠償を規定した)無過失責任条項を追加した。戦後のイタイイタイ病や土呂久鉱毒事件なども、この規定を盾に賠償運動を展開した。 その意味では、谷中廃村の犠牲は決して無駄にはならず、政府を動かしたと言える。
――ほかの地域の運動について教えてください。
 ◆住友経営の別子銅山の場合、反対運動の対象は直接、銅山に向かった。煙害元の製錬所に猛烈な反対運動をする。住友は製錬所を20キロ離れた無人島に移転させるなどしたが、煙害は収まらなかった。 政府は、足尾のような一大社会問題に発展することを恐れ、住友に住民への損害賠償を命じ、銅の年間生産制限をかけた。住友も、煙害の除去技術の開発に懸命になる。その結果、煙害対策の肥料部門が後に住友化学となり、煙害で緑が失われた場所を植林する部門が住友林業となって戦後の住友の成長を支えた。曲がりなりにも公害に取り組んだことが、結果的に企業にとって大きなプラスになった。 一方、足尾の場合、反対運動は古河ではなく、政府責任を正面から問うたため弾圧、分断され、挫折した。その結果、古河は住友のような積極的な公害対策を採らずに済んだ。
 《11月、水俣病など公害研究で知られる宇井純・沖縄大名誉教授(享年74歳)が亡くなった。宇井さんは生前、「先祖が谷中村出身と東大助手時代に知り、鉱毒事件は公害原論の柱になった」と話した》
 ◇正造の言葉、世界で反響 ◇大きな業績残した宇井さん
――宇井さんをどう評価しますか。
 ◆宇井さんとは30年来の付き合いで、宇井さんが東大助手から沖縄大教授に転任した際、東大自主講座の資料管理や、国連大学から出版した日本の公害史のテキスト作成などをお手伝いした。昨年と一昨年、私の授業で講義を頼み、学生を前に3時間の授業をしてもらった。学生も真剣に耳を傾けていた。 宇井さんは、徹底した現場主義で公害の本質の究明に大きな役割を果たした。世界の学会での業績を含め、公害研究の業績には右に出るものはいない。また、患者や学生には思いやりをもって優しく語りかける人だった。昨年が、宇井先生の最後の講義になってしまったと思うと、残念でならない。 告別式に、奥さんが書かれた正造の言葉「真の文明は山を荒らさず……」の書が遺影の近くに掲げられていた。宇井さんの発言や行動から、谷中に尽くした田中正造が、宇井さんの行動に大きく影響を与えていたことは確かだ。
 ◇学生も傷跡記憶
――足尾について、学生にはどのような授業をされているのか。
 ◆学生にはまず、城山三郎さんの「辛酸」を薦めている。毎年、谷中から足尾まで見学に行き、被害地を直接目で確認させる。学生は「ひたすら歩いてしんどかった」という思い出と鉱毒事件の傷跡の風景は、記憶に残るみたいだ。 また、私はアメリカやカナダ、キューバの国際学会で報告する際、「真の文明は山を荒らさず……」という言葉を英訳して締めくくる。聴衆からは大きな反響と共感があり、詳しく教えてほしいと頼まれる。正造と鉱毒事件はそれくらい世界に普遍的なものだ。
 ■人物略歴 ◇すがい・ますろう
一橋大大学院修了。東大助手を経て、1990年から国学院大経済学部教授。専攻は日本経済史。60歳。 著書、論文に「通史足尾鉱毒事件 1877−1984」「日本資本主義の公害問題」「足尾銅山の鉱毒問題の展開過程」などがある。鉱毒事件研究の第一人者。

毎日新聞 【12.13 東京朝刊】 [悼]
反公害学者、沖縄大名誉教授・宇井純さん=11月11日死去・74歳       
 ◇他人のために怒り続け−−宇井純(うい・じゅん)さん
結婚直後のこと。妻の紀子(のりこ)さん(66)は「僕は汚水処理を研究しているから、君は川の生物を研究してほしい」といきなり言われ、驚いた。2人の住まいは東京。紀子さんは研究活動など無縁だったのに、その世界では大物の奈良の大学教授に指導を頼み、下宿まで手配していた。「とても無理と必死に断ったんです。あの時引き受けていたら、どんな人生だったか……」 なぜそんなことを思いついたのか。「純さんはキュリー夫人が大好きで。私を夫人にしたかったのかも」と、紀子さんは笑った。
東大の若き研究者だった宇井さんは水俣病患者の悲惨さを知り、1960年代初めから調査に乗り出す。63年、チッソ水俣工場の廃水の水銀が原因であることを証明するネコの実験記録を入手した。でも「自分は駆け出し。学会の大先生方がこんな簡単なことに気付かないはずはない」と公表をちゅうちょした。65年、新潟で第2水俣病が確認され、激しく自分を責めた。
公害の原因究明や裁判での被害者支援に奔走しつつ、「今の学問は誰のためのものなのか。権威たる大学教授たちは決まって公害を発生する側につく。私が研究をすればするほど、その成果は問題の本質をあいまいにする道具として利用された」と悩んだ。70年、宇井さんが市民のための自主講座「公害原論」を始めたのはそのためだ。 出世は閉ざされ、東大では万年助手だったが、人を育てることには並々ならぬ熱意を注いだ。80年代半ば、研究室の事務アルバイトだった私にも「公害には被害者と加害者しかいない。何もしないことも、被害者運動を黙殺する行動なんだ」と話してくれた。05年の心臓バイパス手術以来、入退院を繰り返し、研修に来る看護師の卵たちにも、いつも水俣病を語り続けた。
「人が来ると人に寄っていく」(長女、美香さん)ような、人なつっこい人だった。亡くなる1カ月前、医師に「大動脈瘤(りゅう)が破裂したら命はない。手術もできない」と言われ、紀子さんに「42年間ありがとう」と告げた。優しいからこそ、他人のために怒り続けた生涯だった。【太田阿利佐】

高知新聞 【12.15 夕刊】  [金曜フリースペース]  
「富田八郎(とんだ・やろう)」 宇井純さんをしのぶ 
浦戸湾を昔の姿に戻せばいい  「このまま進めば、自然界は丸裸になる」        
水俣病の問題を告発して「チッソ」と対峙(たいじ)した富田八郎さんがことし11月、74歳でこの世を去った。「富田八郎」さんは「生コン事件」裁判で、特別弁護人を務めた環境科学研究者の宇井純さん=享年(74)=のペンネーム。事件から35年が過ぎた今夏。裁判の話を聞きに東京の自宅に伺うと、まじめな顔でさらりと言った。「浦戸湾は埋め立てたところを掘って、昔の姿に戻せばいい。魚ももっと豊富になるしね」。公害企業を実名で告発し、行政の責任を追及した「とんだ・やろう」。彼もまた、湾に魚が戻ったことを喜んでいた一人だった。(吉良憲彦)
* 魚が戻ったことが、豊かさ
宇井さんは、東京生まれ。東京大学卒業後、化学会社に勤務。富山県内の塩化ビニール工場では、製造工程で使用した水銀を水で洗い流す作業も行った。 思うところがあって、三年ほどで退職。大学院に進んだが、新聞紙上で水俣病の原因として有機水銀が上げられるようになった。本当だろうか。研究の合間を縫い、現地に足を運び、個人的に奇病の原因を探り始めた。ついに、日本チッソ株式会社の工場廃液と水俣病の因果関係を知ることになる。が、当時は「公表する勇気がなかった」。
昭和四十年、東大都市工学科の助手に就く。そんな中、新潟県で「第二水俣病」が発生。死者が出た。 「一半の責任はある」と、調査結果を公表できなかった自分を悔いた。公害との対決を決めた。
企業や行政を告発し続ける宇井さんは、学内で昇進できず「万年助手」と呼ばれた。だが、そんなことはお構いなしに、昭和四十五年から、大学非公認の夜間自主公開講座「公害原論」を開講する。 「私の現場主義から言えば、この東大こそ、科学技術の腐敗を告発する場所の一つとしてふさわしい」と著書に記した。多くのほかの大学の学生や会社員、主婦らが通った。講座は六十年まで続いた。
「被害は被害者のところにある」。その信念がぶれることはなかった。被害者の立場に立った告発を続け、四十七年から始まった「生コン事件」裁判では事件の主犯となった市民に請われ、特別弁護人を務めた。 ことしの夏、その時のことを宇井さんに自宅で聞いた。少し、体調が優れないようだった。開口一番、「朝から足がしびれちゃって」と申し訳なさげに言った。
「事件をニュースで聞いた時、彼らは命がけでやっていると思った」「(最初)学生がやったかと思っていたら、分別のある大人が起こしたものだった」。ベッドに横たわったまま、まぶしそうに目を細めた。 静かな口調なのに、熱を帯びていた。
「このまま経済的な合理性だけで進めば、自然界は丸裸になりますよ。素っ裸になりますよ。それでもいいのか、ってこと」「浦戸湾に魚が戻ってきたことが、豊かさ。種類の多さという点で数字でも表せた。豊かさとは、幸せということだと思う」
「事件は高知市民の実力の現れ。ノンフィクションでは表現できないと思う。誰かフィクションで書いてくれないかなあ」とも言った。
十一月十六日。都内で行われた宇井さんの告別式には、約五百人が参列した。その席で妻の紀子(のりこ)さんは、夫のこんな言葉を紹介したという。
人生には 自然を破壊したり 人びとを苦しめたりしないで済む そういう選択をする機会が必ずある もし人が 生涯にたった一つでいい 本当に良かれと思う選択をしてくれたなら この社会はきっと変わるはずだ。
* 僕が設計して子供たちが作った 養護学校に“遺産”汚水処理場  今も現役
宇井さんの本業は、工業排水処理。名誉教授となった沖縄大の水処理施設も設計している。実は県内にも、設計した施設が残っている。 「『光の村』ってあるでしょ。そこに汚水の浄化槽があります。僕が設計して、子供たちが作ったんですよ。日本で一番安い浄化施設じゃないでしょうか。七十万円ぐらいで、できた」(宇井さん)
土佐市新居。低い山のふもとに光の村の養護学校とその寮があり現在、約百五十人が利用している。そばには、ちょろちょろと小川が流れる。 学園長の西谷英雄さん(80)は「かつて、全国で公害問題に取り組む方々が、宇井先生に聞いたと言って来てくれました」と振り返る。 施設は小川の上流にあり、排水の水質をどうするかが問題だった。施設整備には多額の費用が掛かる。関係者は頭を悩ませていた。そこへ同市の紹介で宇井さんがやって来た。昭和五十二年のことだった。 話を聞き、「『それじゃ、ひとつ。私の方式でつくってみますか』。そう言って、設計図をくださったんです」(西谷さん)
翌年、バクテリアの働きを利用した「活性汚泥方式」の設計図を渡された。約三カ月かけ、生徒らが土を掘り、コンクリートで固めた。 西谷さんの案内で、敷地内にある宇井さん設計の汚水処理場へ足を運んだ。 屋根はない。においもない。周囲をフェンスで囲まれた長円形のコンクリート製の槽がある。中を、ぐるりと茶色の水が右回りに流れている。ちょうど、流れるプールのような格好。 処理場は奥行き約二十メートル、幅約十メートル、深さ一・八メートル。中央部分にコンクリートブロックで築かれた“島”があり、その脇で、電気モーターで動く古びた水車が盛んに水をかき上げている。水中に酸素を送り込むためで、しぶきが跳ねている。 仕組みは単純。水中の微生物が有機物を食べ、水質が回復する。汚れは底にたまって、きれいになった上澄み液だけを流す。いわば、時間が水を再生する装置だ。
当時の資料によると、費用は約七十五万円。同様の処理能力を備えた施設と比べ、約二十分の一の費用で済んだという。ちなみに、宇井さんは設計代も取らなかった。 夏休み、宇井さんは教え子と一緒に、処理場の水質検査に訪れ、朝から晩まで検査を続けた。だがこれも「旅費を差し上げるとか、何もしてないんです」「とにかく大らかな、あったかーい方でした。名を売ったり、金もうけをしたり、そんなことは全くなかった」(西谷さん)。
その後、学校は建て替えられ、新たな浄化槽も備えられた。だが、宇井さんが設計した汚水処理場は今も現役で活躍。近くの寮などから出る生活排水が、ぐるんぐるんと回り続けている。
【写真説明】今も活躍している、宇井さん設計の汚水処理場の水車(土佐市新居)
「生コン事件をフィクションで書いてくれないかなあ」と話していた宇井さん(ことし8月、東京都内の自宅)

熊本日日新聞 【12月16日 朝刊】
故宇井純氏の「公害原論」復刊 東京大での講義録まとめる            
十一月死去した沖縄大名誉教授の宇井純さんが一九七〇年十月から東京大で開いた公開自主講座の講義録を収めた「公害原論」が、十三年ぶりに復刊された。水俣病を出発点に公害事件の本質を鋭く突いた宇井さんの講義は当時、全国の公害反対運動に影響を与えた。今なお環境問題を考える上で、講義録は基本書の一つと言える。
東京大助手だった宇井さんは、水俣病被害者らとの交流を通し、科学技術が利潤追求や立身出世のための手段で、大学と卒業生が公害の激化を助長する側にいたと反省。そこで「立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する」と呼び掛け、一般市民に東京大の教室を開放して講座を始めた。
宇井さんが東京大を退官した八六年まで約十五年間続き、数万人が聴講したとされる。講義録は聴講生の中から募った実行委員会が毎回作成。全国の公害反対運動の指針として読まれたという。
復刊したのは亜紀書房(東京都千代田区)。同社は七一年、第一〜十三回の講義分を三分冊にして発行し、八八年に三分冊を一冊八百六十六ページにまとめて出版した。
九三年の第四刷を最後に品切れになっていたため、今回、書店に配本される新刊扱いの新装版にした。
亜紀書房社長の立川勝得さん(53)は、大学生のころ実行委員会に加わり、宇井さんと長年付き合ってきた。「この講座が当時、水俣病をはじめ公害問題を世の中に広く訴えた。『公害原論』はわが社の財産であり、後世に読み継がれるべき本と思っている」と話している。 復刊本は十日、千五百部を発行。三千九百九十円。(亀井宏二)

北海道新聞 【12.18  朝刊】  [時代の肖像]
藤林泰さん(58) 埼玉大学共生社会研究センター助手
*住民の目の確かさ実感      *市民運動の記録を残す意味は        
◆記事イメージの表示
「公文書、マスコミや商業出版が残していない、時代に抗した人びとの記録です。暮らしの中で、その人たちが何を考えてきたかを具体的に知ることは、血の通った経済・社会政策を考えるのに役立つ」
さいたま市にある埼玉大学共生社会研究センターは消費者問題、公害問題などにかかわった市民の活動を記した約一万四千タイトル、三十万点以上もの在野資料を収蔵、公開している。開館から五年。この分野では国内最大規模の資料センターだ。「米欧の大学や行政機関にはこうした資料館もあるが、日本では遅れていた」という。
柱のひとつは、東京都杉並区で活動していた民間施設「住民図書館」が集めた十万点を超えるミニコミ紙誌や冊子、パンフ類。二○○一年十二月に二十五年の歴史を閉じた同施設からそっくり引き継いだ。
このほか介護・福祉、まちづくり、人権問題、貧困対策など、さまざまな分野で活動するNPOや非政府組織(NGO)、市民グループが発行した資料が約二十万点。さらにアジア研究で知られる故鶴見良行さんの蔵書と取材カード、写真などの「鶴見良行文庫」、今年十一月に死去した元沖縄大教授の宇井純さんがライフワークとして取り組んだ「公害問題資料コレクション」も大きな財産だ。
大学の総合研究機構棟の二フロア、十三室もの棚に納められた膨大な資料のうち、すでに二十万点余りのタイトルについてコンピューター入力を済ませ、データベース化した。これらはインターネットを通しても検索できる。
一九六○年代後半以降、住民運動、市民活動は公害反対や消費者保護などの分野で大きな役割を果たしてきた。今はNPOやNGOといった組織も発展し、新たな視点や手法も取り入れて活動の幅を広げている。センターには「毎日、三十から五十の市民活動団体から、新しい多様な活動の資料が届く」そうだ。
藤林さん自身はもともと、鶴見さんの影響を受けて、市民活動として日本と東南アジアの関係を調査研究していた。宮内泰介北大助教授との共編著「カツオとかつお節の同時代史」(二○○四年、コモンズ刊)では、かつお節を出発点にカツオの漁から加工、流通、消費をアジア・太平洋のスケールで追い、日本の日常生活の向こう側にある世界を追求してみせた。
公害にも大きな関心を寄せる。「行政もマスコミも公害という言葉を使わなくなり、環境問題というあいまいな言葉に言い換えていますが、公害というのは特定の企業の経済活動が不特定多数の人びとの健康や生活に害を与えること。公共の利益を損なった責任がはっきりしているのに」と語る。
過去の多くの資料から、問題が起こる発端で住民が抱く疑問の確かさを知らされる。たとえば七○年代の「横浜新貨物線反対運動」。結局、住民の反対を押し切って住宅地域に貨物線路が敷設されたが、現在の利用は一日わずか一便程度。「住民側が疑問視していたことです。多くの火力発電所などでも、行政や企業側の需要予測は外れている」ことが資料からも検証できる。
「住民運動というと、単に企業や行政に異を唱えるだけとみられがちだが、運動の中で築かれた自由な人びとのつながりが、環境や生活を守る多様な活動を生んできた」と力説。新しい住民運動の可能性について「市民の発信の一つ一つは小さな声でも、たくさんのミニが集まると、そこに豊かで質の高い社会を構想するヒントが見つかるのではないか」と、希望を語る。
文・写真 編集委員 本村龍生
*あとがき
自らは「市民資料」と呼ぶ貴重な草の根の記録。最近では行政やマスコミでも「市民活動の記録」とあいまいな表現にしている。国立大学法人にとって、住民運動などの資料を集めることは時流に合わないことのようだ。呼称はどうでも、活用されてこそであることが、何より重要だ。【写真説明】フィリピンの大学で日本語教師を務めたり、日本のODA(政府開発援助)の実態調査も。センター発足と同時に埼玉大助手になった。在野育ちのユニークな発想と人脈が魅力だ

共同通信 【12.23】
自主講座「公害原論」で市民運動の種をまいた元東大助手の宇井純さん 11月11日、74歳で死去    
水俣病に深入りするきっかけは、東大工学部を卒業して化学会社で働いていた時の体験にあった。実験が終わると水銀塩をそのまま流して処理するのが日常だった。
「水俣病の原因が有機水銀と知り、衝撃を受けた。その後被害側に身を置く姿勢は現代の田中正造と呼ぶにふさわしい」
写真家の桑原史成(しせい)さん(70)は一九六二年に水俣を一緒に歩き、ネコの実験で有機水銀が疑わしいとのデータを入手した当時の思い出を語る。
この時の取材を基に合化労連の機関紙にペンネームで水俣病告発の連載を始めたが、まもなく新潟水俣病が発生。
実名で書かなければインパクトは伝わらない。生後一カ月の長女を抱いた妻紀子さん(66)に「出世の道は閉ざされるが、どうする」と涙を見せながら話したという。
「見合い結婚だったので将来、東大教授になる人と思っていたのに」。夫人は脅迫にもひるまず、持ち前の明るさで三人の子供を育てながら万年助手の夫を支え続けた。
一九七〇年代、東大には総長が二人いると言われた。夜の総長の自主講座「公害原論」には、千人以上が教室に詰め掛けたことも。栃木県で市民講座「田中正造大学」を主宰する坂原辰男さん(54)は「東京にいるより田舎へ帰り地域を良くし、日本を変えていくことが大事だと教わった」。
五十四歳で沖縄大へ教授に迎えられたが、体調を崩した。昨秋に心臓手術を受けてからは入退院の繰り返し。「四十二年間ありがとうね」と紀子夫人と言葉を交わし一カ月後に旅立って行った。
アスベスト(石綿)汚染など公害は今も続く。自主講座に影響を受けた学生らの多くは団塊の世代という。「定年後もあの時代を思い起こし活躍してほしい」と願っているに違いない。(共同通信記者 上野敏彦)

毎日新聞 【12.24  朝刊/栃木】 [とちぎ発信箱:歳末版]
宇井純さんの大喝=塙和也              
11月11日、水俣病問題など反公害学者で知られる宇井純・沖縄大名誉教授が亡くなった。新聞各紙はその業績に敬意を表する記事を掲載した。
「マスコミはいつも被害に対して人ごとなんだ!」。6月半ば、宇井さんの電話越しの大喝に、たじろいだ。宇井さんは続けた。「私は記者には、いつも口をすっぱくして言っている。マスコミは加害者と被害者の主張を両論併記するが、それはおかしい。被害は一方的に被害者の側にあるのだから」 谷中廃村企画の電話取材だった。当時、宇井さんは心臓バイパス手術を受け、退院したばかり。茨城県古河市に住む旧谷中村子孫から、宇井さんも子孫の一人と教わり、電話したのだ。
病状への配慮もあり、「1日5分」の取材を3日間繰り返した。宇井さんは祖母が谷中出身だった事実を、東大助手時代まで知らなかったことを悔いていた。実は、村を最後まで死守しようとした16戸の残留民以外の消息は、あまり知られていない。差別や後ろめたさで、積極的に話そうとしなかったことが一因だったようだ。
病床の宇井さんは「(出身の)壬生町長にでもなるかな」と冗談を言い、常に故郷・栃木を気にかけていたという。残念ながら、県内で宇井さんが話題に上ることは少ない。県出身のもう一人の偉人・田中正造と同様、弱者救済に身を投じた宇井さんが逝ったことを実感する人は、どれだけいるのだろう。 宇井さんの指摘とは逆に、マスコミ報道が、公害被害者の救済や原因究明に果たした役割は大きい、と私は考えている。しかしもう、反論はかなわない。(宇都宮支局)

琉球新報 【12.26 朝刊】
沖縄大名誉教授 故・宇井純さんの軌跡/現場主義貫き通し市民運動支え 自然破壊に警鐘  
環境問題に身をささげ十一月十一日に七十四歳で亡くなった沖縄大学名誉教授の宇井純さん。約五十年もの間水俣病に向き合い、徹底した現場主義を貫き、被害者の立場に立った研究は世界的にも高く評価された。県内では、新石垣空港建設に反対し、赤土流出や畜産排水問題などに実践的に取り組んだ。「公害に中立の第三者はあり得ない。中立を装う学者や行政は、問題を中和させ、結局加害者側に付いている」との信念で体制に流される行政や御用学者を痛烈に批判。宇井さんの生きざまは、多くの環境運動の精神に引き継がれている。(社会部・関戸塩)
万年助手
宇井さんは一九五六年に東大卒業後、三年間の化学会社勤務を経て五九年には東大大学院に戻り、水俣病の研究を始めた。六五年に同大助手に就任するが、政治にくみする「御用学者」の教授たちの姿勢を痛烈に批判。実力はあるが出世の道を閉ざされた二十一年間の「万年助手」となる。 水俣病の問題では現地に足を運び、調査した詳細なデータを労働組合・合化労連の機関誌に「富田八郎」(とんだ野郎)のペンネームで執筆。原因企業にとってまさにとんだ野郎となって批判を続けた。 六九年から発足した水俣病研究会で宇井さんとともにメンバーだった熊本学園大学の富樫貞夫教授(七二)(環境法)は「宇井さんはよく熊本に通い、強い信念で、とにかく現場へ足を運んだ。先達として詳しかったので随分と丁寧に教えてくれた。現場主義の宇井哲学は終生変わらなかったと思う」と語る。 東大紛争後、WHOの研究員から戻った宇井さんは助手の立場では講義が持てないため自主講座「公害原論」を始める。今では広く見られる自主講座の先駆けだった。御用学者が多いと知の退廃が指摘されていた東大の中で正論を主張し続ける宇井さんは「東大の良心」と評された。同講座を通じて多くの環境活動家が育った。
沖縄へ
万年助手を覚悟していた宇井さんだが沖縄国際大学にいた故・玉野井芳郎氏に「早くこないと、沖縄の島は公害で溶けてしまうぞ」と移住を勧められ、八六年に沖縄大学教授になる。「島が溶ける」とは赤土流出のひどいさまを指していた。 沖縄に来る直前から新石垣島空港建設のアセスメント調査で、白保の環境問題にも着目。八重山・白保の海を守る会の生島融(とおる)事務局長=東京都=は宇井さんが沖縄に移住する直前の会で「いったん行ったら最低でも十年は沖縄の問題にしっかりかかわる」と決意を語っていたことを思い出す。全国的にも白保の環境問題が注目されていたころで、生島氏は「白保も島では孤立無援の状況だった。宇井さんは東大時代の自分の状況と重なるものを感じていたのでは」と語る。 やんばるの自然を歩む会の玉城長正さん(六六)=大宜味村=は「最初にやんばるを案内したとき、事情を知らなかったが先生は心臓発作の直後で、ハードなスケジュールを奥さんも同行してこなされた。先生は熱心に見聞し、助言をくださった。辺野喜土地改良区の赤土流出が真っ最中ですごい目つきで見つめ、沖縄の行政に怒りまくっていた」と振り返る。
舌ぽう衰えず
県は九五年に県赤土等流出防止条例を定め、排出基準を再検討する検討委員会に宇井さんも参加したが、「漁業関係者の意見を聞いていない」など議事の在り方に異議を唱え、二〇〇二年に辞任。生島事務局長は「県の周りには御用学者が多い中で、先生は舌ぽう衰えず意見を述べ、結局辞めざるを得なくなった。言うべき事を言う学者としての責任を果たしたのだろう」と語る。 河川問題に取り組む沖縄玉水ネットワーク副代表の寺田麗子さん(五七)=那覇市=は「赤土流出の現状が農水省や日本政府に報告されていないことなど、住民運動に欠けていた問題の背景に深く導いてくれた。畜舎排水など黒い水の問題も、沖縄は全国に例を見ないほどたれ流しを許してしまう制度的な不備があることなどを教え、運動のてこ入れをしてくれた」と感謝する。 ちゅらさの会代表の仲西美佐子さん(五七)=恩納村=は「地域の水を守りたいという考えを、親身になって耳を傾けてくれた。廃油でせっけんを作ることも水をきれいにする一つの方法と教えてくれた」と語った。 自然観察指導員の照屋久子さん=南風原町=は「先生の話は聞くと希望が持て、環境関係者の会議で予算がないことで行き詰まると進んで寄付を申し出た」と振り返る。
3倍の馬力
沖大で宇井さんの指導を受けた沖大職員の後藤哲志さん(三七)は「調査で遠出をしても研究室に戻るとすぐ机に向かっていた。休んでいるところを見たことがない」と話す。 東大時代の教え子で沖縄大学の桜井国俊学長(六二)は「非常に誠実に生きた方で、人の三倍の馬力で働いた」と評し、多方面での活躍の背後に妻紀子さんの存在を指摘する。 宇井さんが主宰し、サミット直前に行われた国際環境NGOフォーラムには十二カ国から四百人が参加。フィリピンや韓国など米軍基地を抱えた環境問題を共有する関係も強まった。 宇井さんにより沖縄大学二号館は雨水や下水を循環再利用する中水システムが使われている。南城市(旧大里村)にも回分式活性汚泥法の酸化溝で畜産排水を適正処理するための実践研究をした。 桜井学長は「酒、たばこ、ウナギ、チョコを好み、ねばり強く五十年も水俣の研究を続けた。後進を育てようという教育者としての側面も強く、実際にフィールドを歩いて育てた。大事なのは現場で強いか、教科書にない問題をどう解決できるか。先生は実践的な現場での格闘にこだわった」と師の思い出を語る。 〇三年の本紙インタビューで宇井さんは「沖縄には挑戦する気持ちを持つ人が若い世代に多い。行政も研究者も現場主義、挑戦する気持ちを持ってもらいたい」とのメッセージを残している。
                                                   


毎日新聞 【1.17 栃木地方版】
故・宇井純さん:川の再生願い続け 母校・栃木高で受け継ぐ「最後の授業」     
 ◇「信念持って実行を」
反骨の公害学者として知られ、06年11月、病死した沖縄大名誉教授の宇井純さん(享年74)は、入院1カ月前の05年7月、母校・栃木高校化学部の生徒を前に「最後の授業」を行っていた。宇井さんが水俣病の調査を個人的に開始した1964年、地元の巴波(うずま)川でも始めた水質調査は、40年以上たった今も同部の生徒たちに引き継がれている。宇井さんの訃報(ふほう)を受け、同校は学校新聞で大先輩の死を悼んだ。「何事も、信念を持って実行してほしい」。宇井さんが伝えたかった思いが、川の再生を願う地域住民や行政を動かしている。                 【関東晋慈】
「現実に責任を持ってほしい」。05年7月16日午後。同高化学教室に集まった生徒約20人を前に、同川での調査を終えた宇井さんは静かに語り始めた。
水俣病との出会い。公害に苦しむ被害者を少しでも減らそうと、自然の力を生かした浄水技術の確立に尽力し続けてきたこと。杖(つえ)を突く宇井さんは、水質調査でも巴波川上流から下流へ生徒と共にバスで移動。糖尿病と高血圧を抱えながら、川を見るまなざしと生徒に向ける声は、力を失っていなかった。
「若い人に言っておきたいことがある」。最後の授業は、宇井さんの強い希望で実現した。妻の紀子さん(66)は「授業は入院の1カ月前だった。信念を持ち、実行に移してほしいということを、宇井は若い人に伝えたかったのでしょう」と、その心情を説明する。
授業では、水質調査を始めた64年当時と同じ、四つの橋で観測した。しかし現在の定期調査は、部員の減少で学校近くの中流1カ所の測定にとどまっている。だが、宇井さんは「40年以上にわたる高校生の水質調査は全国でも例がない。他校が追い越そうと思っても追い越すことは出来ない」と、調査の重要性を指摘。「高校生の調査が公害を減らす」と、継続に向け励ました。
栃木市では調査開始以来、データの提出を受けてきたが、活用や保管も不十分だったのが実情。しかし00年、同市のシンボル、コイの飼育事業を担当する商工観光課職員が「貴重な資料になる」として学校の協力を求め、データ再収集に取り組んだ。さらに、03年6月に発生したコイヘルペスで、コイが大量死したことをきっかけに、青年会議所を中心に川の浄化作業を見直す動きが市民に広がった。現在では、定期的に川を清掃。かつて盛んだった船遊びイベントも復活した。同市は「栃高化学部の活動を将来必ず生かしたい」と話す。
栃木市は巴波川の水運で発展した「蔵の街」。「水商売」と自らの職業を呼ぶこともあった宇井さんに、原体験を与えた街は水の歴史を再び取り戻そうとしている。

朝日新聞【1.16 東京夕刊】 [新科論]
市民が拓く:中 電磁波・食…在野で監視                  
科学技術を担っているのは誰か。私たちは安易に、「専門家でしょう」と思いがちだが、NPO法人「市民科学研究室」代表の上田昌文(あきふみ)さんの答えはちょっと違う。
「研究開発しているのは科学者だが、税金や企業への投資で支えているのは市民。使って出てきたものを享受するのも市民。私たちは科学技術にコミットしている」
科学技術は私たちの生活を豊かにする一方で、地球温暖化や遺伝子組み換え作物、原子力発電所から出るごみといった新たな問題・リスクも生み出してきた。
    ◇   ◇
市民科学研究室は、これらに対する漠たる不安や疑問に対し、自分たちで答えを見つけ道を拓(ひら)くのが狙いなのだ。
全国に学生や主婦ら約250人の会員がいる。ナノテクノロジーのリスク、低線量被曝(ひばく)、電磁波の影響、食の科学という四つのグループに分かれ、本を読むだけではなく、調査・研究に近いこともする。インターネットを活用すると、誰でも情報が手に入るようになったのも追い風だ。
電磁波のグループは、実際に主婦に一日中計測器をつけて家電製品を使ってもらったり、携帯電話の基地局から出ている電磁波の強度をチェックしたりする。ウェブサイト(http://www.csij.org/)で内容も公開中だ。
「素人でも、興味を持って1〜2年やればかなりのことができる。勉強すれば専門家もきちんと教えてくれる」
欧州では70年代から、大学や研究機関を中心にした「サイエンスショップ」といわれる活動がある。
科学に関する市民の不安や疑問に対し、中立的な立場で答える組織で、いわば科学版の「法律相談所」。北海道大の隈本邦彦・特任教授は「市民科学研究室も、直接名乗ってはいないが、サイエンスショップ的なものといえるでしょう」と話す。隈本さんらは今年、北大の「科学技術コミュニケーター」養成講座で同様の活動を目指している。
    ◇   ◇
NPOの名前になった「市民の科学」という考え方は、市民に開かれた自主講座「公害原論」を東京大で開講した衛生工学者・宇井純さん(故人)や、在野で反原発の論陣を張り続けた核化学者・高木仁三郎さん(同)に通じる。
宇井さんが「万年助手」と呼ばれたことでもわかるように、国の政策や産業界の方針と対立する研究や研究者は組織や資金の面で恵まれないことが多いが、昨年、「市民科学者」にうれしいニュースが一つあった。
高木さんが00年に亡くなり、遺産やのべ2千人以上の寄付で設立された「高木仁三郎市民科学基金」が、国税庁から「認定NPO法人」に認められたのだ。
寄付が集まりやすくなる税制上の優遇措置がある制度だが、認定のハードルが高い。助成先に日本の反原発団体や、日本企業も参加するロシアの石油・天然ガス開発計画「サハリン2」の環境破壊を告発した団体もあり「国策と対立する部分もある。認定されるだろうか」との不安の声もあった中での認定だった。
「社会は多極的な視点で支えられるべきだ。市民の冷静な監視で国の科学政策や企業の活動の質も上がり社会にプラスになるはず」と、同基金の菅波完さんは言う。                              (小堀龍之)

熊本日日新聞 【2.19 朝刊 広場】 [取材前線]
後悔先に立たず 東京支社                  
「何で生前、話を聞かなかったの!」。水俣病事件を国内外に告発した元東京大学助手の宇井純さんが亡くなった日の夜、報道写真家の桑原史成さんに詰問された。二人はともに20代のころ、現地・水俣で事件を追い掛けた、いわば同志だ。「宇井さんはもう一人の田中正造だった」と悼む桑原さんのサイド記事を出稿した後、落ち合った焼き鳥屋。返す言葉がなかった。
訃報(ふほう)は当日の午後、宇井さんも代表理事に名を連ねた日本環境会議主催のセミナー会場で、親族に近い知人から耳打ちされた。宇井さんが入退院を繰り返していたことは聞いていた。自分の中でそれを口実に、会いに行くのを先延ばしにしていた。
世界の公害史に名を刻んだ人物との本当の出会いが、皮肉にもご本人が亡くなったこの日になった。宇井さんの著書、関係資料を引っぱり出し、足跡をたどった。ご家族からも話を聞き、夫であり父である素顔にも触れた。
知るほどに、刃物のような宇井さんの鋭い権力批判に圧倒された。特に、東京大で1970年秋から15年間、教室を一般に開放して開いた夜間の自主講座「公害原論」。「開講のことば」には、母校を愛するがゆえの思いがほとばしっていた。「個々の公害において、大学および大学卒業生は、ほとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型が東京大学である」
聴講生たちは全国に散り、各地の反公害運動と連携した。今の大学にこんな講座があるだろうか。しかし、東京大学は21
年間、宇井さんを「万年助手」に留め置くという仕打ちをした。
海外では国連環境計画を舞台に、水銀による地球規模の環境破壊、健康被害の対策検討が加速している。一方、国内では、半世紀以上たった今も水俣病事件は解決しないままだ。海外からは、水銀対策で世界をリードすべき日本に期待の目が向けられている。
宇井さんはどんな言葉を語っただろうか。水俣病の取材にかかわった記者として、宇井さんの息遣いを感じながらその言葉を聞きたかった。後悔ばかりが今も澱(おり)のように残っている。             (亀井宏二、東京支社)

毎日新聞 【2.20 熊本地方版】 [ノーモア水俣病:50年の証言(連載)32 公害原論]              
 ◇15年で2万人聴講−−宇井さんの刺激、市民に
「公害を出す側と受ける側に整理してみれば、これまでの東京大学における科学・技術というものは、大体出す側の科学・技術であった以上、どうしても受ける側の学問がなければなるまい、そういうことで(中略)自主講座を開くことになりました」(亜紀書房「公害原論」)
1970年10月12日夜、東京大学工学部82番教室。工学部助手の故宇井純さんの声が「公害原論」の教室に響いた。当時としては珍しい市民を交えた公開講座の始まりだった。
宇井さんは東大工学部を卒業し3年間、化学会社に勤務。在職中に排水の中に水銀を流した経験から、60年ごろ独自に水俣病の研究を開始。その後65年に東大工学部助手になった。チッソ付属病院長の故細川一院長がネコを使った実験で水俣病発症に成功したことを世に知らしめ、富田八郎(とんだやろう)のペンネームで、合化労連機関誌で水俣病問題を告発していた。
大学非公認の夜間講座は85年まで15年続き、2万人以上が聴講したと言われる。学生や主婦、会社員、教師……。その中に当時東大の学生だった水俣病患者連合事務局長、高倉史朗さん(55)=水俣市袋=もいた。
東大紛争直後に入学した高倉さんは、ゲバ棒を振り回す同世代を「暴力で対抗しても、世の中は変わらない」とどこか冷ややかな目で見ていた。そんなころ、学内の看板かチラシで自主講座開講を知った。
200人以上が詰めかけ、約半分は学生だったと記憶している。「当初、受講者は『宇井純ってどれほどの奴か』と値踏みするように聞いていた。栃木弁の宇井さんの声は、断定的だが決して感情に走ることなく、何回かの講義を経て受講者はすぐに引き込まれていった」と振り返る。関係者を講座に呼んで直接話をさせて討論する手法だった。ヤジを飛ばす受講生には「出てきて正面から議論を」と宇井さんはたしなめた。
高倉さんの胸に最も響いたのが「現場を見ろ」という一言だったという。その声に導かれ、足尾鉱毒事件の現場を歩いたり、川崎市の公害被害者たちを支援するなど、各地の被害地に足繁く通った。75年春、講座で知った福岡県のある地を目指して東京を旅立った。しかし足はいつしか水俣へ。水俣病センター・相思社に宿を求め、水俣病患者との共同作業のエノキ栽培を手伝ううちに、正職員に。その後89年に相思社を退職し、仲間たちと「ガイアみなまた」を設立した。患者家族らが生産する甘夏などを販売する傍ら、約30年患者支援に携わってきた。
「自主講座を聴いてなければ水俣にいなかったかもしれない」と高倉さんは振り返る。「行動する科学者」として全国の公害運動に影響を与えた功績だけではない。宇井さんと親しかったジャーナリスト、広瀬一好さん(66)=東京都=は「市民を巻き込んだ公開講座の先駆けで、当事者をゲストに呼ぶ手法は世に大きな刺激を与えた」と評する。自主講座がきっかけで人生を決めた人は、宇井さん自身を含めて少なくない。
   ◇  ◇
東大で万年「助手」だった宇井さんは86年、沖縄大学教授に。行動する反公害学者は昨年11月11日、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため74歳で亡くなった。来月25日、沖縄で宇井さんをしのぶ会が開かれる。【水俣病問題取材班】

熊本日日新聞 【2.10 朝刊】  
シンポジウム「みなまた曼荼羅話会『未来への提言−創世紀を迎えた水俣−』」詳報
第1部・私が水俣から受け取ったこと 水俣病公式確認50年          
●自然といかに折り合うか  ○熊本学園大水俣学現地研究センター長の宮北隆志さん(54)
水俣病は私の進路を決めた。最初に意識したのは、高校3年のとき。宇井純氏の本を読み、大学で衛生工学を学ぶことにした。その後、熊本大の医学部、学園大で水俣病とかかわり続けている。今、研究の中で一番大きな課題は「いかにして自然と折り合いをつけるか」だ。水俣病は、自然との付き合い方を間違えた結果として起きており、解決のヒントをたくさん与えてくれる。水俣では、アイガモ農法や棚田の修復など、水俣病と向き合いながら自然との付き合い方を実践している人たちと出会い、多くのことを学ぶことができた。
●スローダウンが必要   ○明治学院大教授の辻信一さん(54) 略
●可能性の種たくさんある ○水俣病センター相思社元世話人の柳田耕一さん(56)略
          ▽                   ▽
第1部後半は、辻氏らパネリスト3人のほか、市民代表6人も加わって意見を交わした。
市民代表が「水俣出身の若者が戻って来るにはどうしたらいいか」などと活気ある地域づくりへアドバイスを求めたのに対し、柳田氏は「水俣は、既に世界的に有名。それを上手に利用することが大切。ビジネスチャンスはたくさんある」、辻氏は「都会の若者は、田舎に熱い視線を向けている。特にひかれているのが食と農。あきらめないでほしい」、宮北氏は「田舎が嫌だと出ていく人を止めることが無理ならば、求める物が田舎にあるという人たちをどんどん招き入れよう」と答えた。

*「東京・水俣病を告発する会」
 〒113−0024 東京都文京区西片1−17−4 ハイツ西片202
 TEL & FAX 03−3814−5639  E-mail : t-kokuhatsu@nifty.com


≪2007年1月〜2月≫ 

毎日新聞 【1.17 栃木地方版】
故・宇井純さん:川の再生願い続け 母校・栃木高で受け継ぐ「最後の授業」     
 ◇「信念持って実行を」
反骨の公害学者として知られ、06年11月、病死した沖縄大名誉教授の宇井純さん(享年74)は、入院1カ月前の05年7月、母校・栃木高校化学部の生徒を前に「最後の授業」を行っていた。宇井さんが水俣病の調査を個人的に開始した1964年、地元の巴波(うずま)川でも始めた水質調査は、40年以上たった今も同部の生徒たちに引き継がれている。宇井さんの訃報(ふほう)を受け、同校は学校新聞で大先輩の死を悼んだ。「何事も、信念を持って実行してほしい」。宇井さんが伝えたかった思いが、川の再生を願う地域住民や行政を動かしている。                 【関東晋慈】
「現実に責任を持ってほしい」。05年7月16日午後。同高化学教室に集まった生徒約20人を前に、同川での調査を終えた宇井さんは静かに語り始めた。
水俣病との出会い。公害に苦しむ被害者を少しでも減らそうと、自然の力を生かした浄水技術の確立に尽力し続けてきたこと。杖(つえ)を突く宇井さんは、水質調査でも巴波川上流から下流へ生徒と共にバスで移動。糖尿病と高血圧を抱えながら、川を見るまなざしと生徒に向ける声は、力を失っていなかった。
「若い人に言っておきたいことがある」。最後の授業は、宇井さんの強い希望で実現した。妻の紀子さん(66)は「授業は入院の1カ月前だった。信念を持ち、実行に移してほしいということを、宇井は若い人に伝えたかったのでしょう」と、その心情を説明する。
授業では、水質調査を始めた64年当時と同じ、四つの橋で観測した。しかし現在の定期調査は、部員の減少で学校近くの中流1カ所の測定にとどまっている。だが、宇井さんは「40年以上にわたる高校生の水質調査は全国でも例がない。他校が追い越そうと思っても追い越すことは出来ない」と、調査の重要性を指摘。「高校生の調査が公害を減らす」と、継続に向け励ました。
栃木市では調査開始以来、データの提出を受けてきたが、活用や保管も不十分だったのが実情。しかし00年、同市のシンボル、コイの飼育事業を担当する商工観光課職員が「貴重な資料になる」として学校の協力を求め、データ再収集に取り組んだ。さらに、03年6月に発生したコイヘルペスで、コイが大量死したことをきっかけに、青年会議所を中心に川の浄化作業を見直す動きが市民に広がった。現在では、定期的に川を清掃。かつて盛んだった船遊びイベントも復活した。同市は「栃高化学部の活動を将来必ず生かしたい」と話す。
栃木市は巴波川の水運で発展した「蔵の街」。「水商売」と自らの職業を呼ぶこともあった宇井さんに、原体験を与えた街は水の歴史を再び取り戻そうとしている。

朝日新聞【1.16 東京夕刊】 [新科論]
市民が拓く:中 電磁波・食…在野で監視                  
科学技術を担っているのは誰か。私たちは安易に、「専門家でしょう」と思いがちだが、NPO法人「市民科学研究室」代表の上田昌文(あきふみ)さんの答えはちょっと違う。
「研究開発しているのは科学者だが、税金や企業への投資で支えているのは市民。使って出てきたものを享受するのも市民。私たちは科学技術にコミットしている」
科学技術は私たちの生活を豊かにする一方で、地球温暖化や遺伝子組み換え作物、原子力発電所から出るごみといった新たな問題・リスクも生み出してきた。
    ◇   ◇
市民科学研究室は、これらに対する漠たる不安や疑問に対し、自分たちで答えを見つけ道を拓(ひら)くのが狙いなのだ。
全国に学生や主婦ら約250人の会員がいる。ナノテクノロジーのリスク、低線量被曝(ひばく)、電磁波の影響、食の科学という四つのグループに分かれ、本を読むだけではなく、調査・研究に近いこともする。インターネットを活用すると、誰でも情報が手に入るようになったのも追い風だ。
電磁波のグループは、実際に主婦に一日中計測器をつけて家電製品を使ってもらったり、携帯電話の基地局から出ている電磁波の強度をチェックしたりする。ウェブサイト(http://www.csij.org/)で内容も公開中だ。
「素人でも、興味を持って1〜2年やればかなりのことができる。勉強すれば専門家もきちんと教えてくれる」
欧州では70年代から、大学や研究機関を中心にした「サイエンスショップ」といわれる活動がある。
科学に関する市民の不安や疑問に対し、中立的な立場で答える組織で、いわば科学版の「法律相談所」。北海道大の隈本邦彦・特任教授は「市民科学研究室も、直接名乗ってはいないが、サイエンスショップ的なものといえるでしょう」と話す。隈本さんらは今年、北大の「科学技術コミュニケーター」養成講座で同様の活動を目指している。
    ◇   ◇
NPOの名前になった「市民の科学」という考え方は、市民に開かれた自主講座「公害原論」を東京大で開講した衛生工学者・宇井純さん(故人)や、在野で反原発の論陣を張り続けた核化学者・高木仁三郎さん(同)に通じる。
宇井さんが「万年助手」と呼ばれたことでもわかるように、国の政策や産業界の方針と対立する研究や研究者は組織や資金の面で恵まれないことが多いが、昨年、「市民科学者」にうれしいニュースが一つあった。
高木さんが00年に亡くなり、遺産やのべ2千人以上の寄付で設立された「高木仁三郎市民科学基金」が、国税庁から「認定NPO法人」に認められたのだ。
寄付が集まりやすくなる税制上の優遇措置がある制度だが、認定のハードルが高い。助成先に日本の反原発団体や、日本企業も参加するロシアの石油・天然ガス開発計画「サハリン2」の環境破壊を告発した団体もあり「国策と対立する部分もある。認定されるだろうか」との不安の声もあった中での認定だった。
「社会は多極的な視点で支えられるべきだ。市民の冷静な監視で国の科学政策や企業の活動の質も上がり社会にプラスになるはず」と、同基金の菅波完さんは言う。                              (小堀龍之)

熊本日日新聞 【2.19 朝刊 広場】 [取材前線]
後悔先に立たず 東京支社                  
「何で生前、話を聞かなかったの!」。水俣病事件を国内外に告発した元東京大学助手の宇井純さんが亡くなった日の夜、報道写真家の桑原史成さんに詰問された。二人はともに20代のころ、現地・水俣で事件を追い掛けた、いわば同志だ。「宇井さんはもう一人の田中正造だった」と悼む桑原さんのサイド記事を出稿した後、落ち合った焼き鳥屋。返す言葉がなかった。
訃報(ふほう)は当日の午後、宇井さんも代表理事に名を連ねた日本環境会議主催のセミナー会場で、親族に近い知人から耳打ちされた。宇井さんが入退院を繰り返していたことは聞いていた。自分の中でそれを口実に、会いに行くのを先延ばしにしていた。
世界の公害史に名を刻んだ人物との本当の出会いが、皮肉にもご本人が亡くなったこの日になった。宇井さんの著書、関係資料を引っぱり出し、足跡をたどった。ご家族からも話を聞き、夫であり父である素顔にも触れた。
知るほどに、刃物のような宇井さんの鋭い権力批判に圧倒された。特に、東京大で1970年秋から15年間、教室を一般に開放して開いた夜間の自主講座「公害原論」。「開講のことば」には、母校を愛するがゆえの思いがほとばしっていた。「個々の公害において、大学および大学卒業生は、ほとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型が東京大学である」
聴講生たちは全国に散り、各地の反公害運動と連携した。今の大学にこんな講座があるだろうか。しかし、東京大学は21
年間、宇井さんを「万年助手」に留め置くという仕打ちをした。
海外では国連環境計画を舞台に、水銀による地球規模の環境破壊、健康被害の対策検討が加速している。一方、国内では、半世紀以上たった今も水俣病事件は解決しないままだ。海外からは、水銀対策で世界をリードすべき日本に期待の目が向けられている。
宇井さんはどんな言葉を語っただろうか。水俣病の取材にかかわった記者として、宇井さんの息遣いを感じながらその言葉を聞きたかった。後悔ばかりが今も澱(おり)のように残っている。             (亀井宏二、東京支社)

毎日新聞 【2.20 熊本地方版】 [ノーモア水俣病:50年の証言(連載)32 公害原論]              
 ◇15年で2万人聴講−−宇井さんの刺激、市民に
「公害を出す側と受ける側に整理してみれば、これまでの東京大学における科学・技術というものは、大体出す側の科学・技術であった以上、どうしても受ける側の学問がなければなるまい、そういうことで(中略)自主講座を開くことになりました」(亜紀書房「公害原論」)
1970年10月12日夜、東京大学工学部82番教室。工学部助手の故宇井純さんの声が「公害原論」の教室に響いた。当時としては珍しい市民を交えた公開講座の始まりだった。
宇井さんは東大工学部を卒業し3年間、化学会社に勤務。在職中に排水の中に水銀を流した経験から、60年ごろ独自に水俣病の研究を開始。その後65年に東大工学部助手になった。チッソ付属病院長の故細川一院長がネコを使った実験で水俣病発症に成功したことを世に知らしめ、富田八郎(とんだやろう)のペンネームで、合化労連機関誌で水俣病問題を告発していた。
大学非公認の夜間講座は85年まで15年続き、2万人以上が聴講したと言われる。学生や主婦、会社員、教師……。その中に当時東大の学生だった水俣病患者連合事務局長、高倉史朗さん(55)=水俣市袋=もいた。
東大紛争直後に入学した高倉さんは、ゲバ棒を振り回す同世代を「暴力で対抗しても、世の中は変わらない」とどこか冷ややかな目で見ていた。そんなころ、学内の看板かチラシで自主講座開講を知った。
200人以上が詰めかけ、約半分は学生だったと記憶している。「当初、受講者は『宇井純ってどれほどの奴か』と値踏みするように聞いていた。栃木弁の宇井さんの声は、断定的だが決して感情に走ることなく、何回かの講義を経て受講者はすぐに引き込まれていった」と振り返る。関係者を講座に呼んで直接話をさせて討論する手法だった。ヤジを飛ばす受講生には「出てきて正面から議論を」と宇井さんはたしなめた。
高倉さんの胸に最も響いたのが「現場を見ろ」という一言だったという。その声に導かれ、足尾鉱毒事件の現場を歩いたり、川崎市の公害被害者たちを支援するなど、各地の被害地に足繁く通った。75年春、講座で知った福岡県のある地を目指して東京を旅立った。しかし足はいつしか水俣へ。水俣病センター・相思社に宿を求め、水俣病患者との共同作業のエノキ栽培を手伝ううちに、正職員に。その後89年に相思社を退職し、仲間たちと「ガイアみなまた」を設立した。患者家族らが生産する甘夏などを販売する傍ら、約30年患者支援に携わってきた。
「自主講座を聴いてなければ水俣にいなかったかもしれない」と高倉さんは振り返る。「行動する科学者」として全国の公害運動に影響を与えた功績だけではない。宇井さんと親しかったジャーナリスト、広瀬一好さん(66)=東京都=は「市民を巻き込んだ公開講座の先駆けで、当事者をゲストに呼ぶ手法は世に大きな刺激を与えた」と評する。自主講座がきっかけで人生を決めた人は、宇井さん自身を含めて少なくない。
   ◇  ◇
東大で万年「助手」だった宇井さんは86年、沖縄大学教授に。行動する反公害学者は昨年11月11日、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため74歳で亡くなった。来月25日、沖縄で宇井さんをしのぶ会が開かれる。【水俣病問題取材班】

熊本日日新聞 【2.10 朝刊】  
シンポジウム「みなまた曼荼羅話会『未来への提言−創世紀を迎えた水俣−』」詳報
第1部・私が水俣から受け取ったこと 水俣病公式確認50年          
●自然といかに折り合うか  ○熊本学園大水俣学現地研究センター長の宮北隆志さん(54)
水俣病は私の進路を決めた。最初に意識したのは、高校3年のとき。宇井純氏の本を読み、大学で衛生工学を学ぶことにした。その後、熊本大の医学部、学園大で水俣病とかかわり続けている。今、研究の中で一番大きな課題は「いかにして自然と折り合いをつけるか」だ。水俣病は、自然との付き合い方を間違えた結果として起きており、解決のヒントをたくさん与えてくれる。水俣では、アイガモ農法や棚田の修復など、水俣病と向き合いながら自然との付き合い方を実践している人たちと出会い、多くのことを学ぶことができた。
●スローダウンが必要   ○明治学院大教授の辻信一さん(54) 略
●可能性の種たくさんある ○水俣病センター相思社元世話人の柳田耕一さん(56)略
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第1部後半は、辻氏らパネリスト3人のほか、市民代表6人も加わって意見を交わした。
市民代表が「水俣出身の若者が戻って来るにはどうしたらいいか」などと活気ある地域づくりへアドバイスを求めたのに対し、柳田氏は「水俣は、既に世界的に有名。それを上手に利用することが大切。ビジネスチャンスはたくさんある」、辻氏は「都会の若者は、田舎に熱い視線を向けている。特にひかれているのが食と農。あきらめないでほしい」、宮北氏は「田舎が嫌だと出ていく人を止めることが無理ならば、求める物が田舎にあるという人たちをどんどん招き入れよう」と答えた。

「東京・水俣病を告発する会」
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