「懇親の部」
司会団 それでは、これより「懇親の部」を始めたいと思いますので、よろしくお願いします。最初に、みなさんご存知の作家の石牟礼道子さんからメッセージが届いています。献杯の前に石牟礼さんからのメッセージをお読みいたしますので、どうぞお聞きください。
□メッセージ 2□ 作家 石牟礼道子さん
小さな声の宇井純さん
亡羊とした顔つきで宇井さんは私の家に現れた。「宇井と申します」。今は亡き赤塚覚さんが我が家に来てお相手をした。私の関心は何よりも水銀とは何だろう、ということだった。体温計の水銀しかみたことがなかった。体温計の水銀を取り出して海に流すとします。どのくらい流せば膨大な患者が出るのか。あんな高価そうなものをそんなに海に流せるでしょうか。小学生が考えそうなことを宇井さんに根掘り葉掘り尋ねた。宇井さんはそこが僕も不思議なところです、とおっしゃった。実は有機水銀を食べるバクテリアを飼っています。
東大の先生でもなく、学生でもなく、助手だという。私といえば、高校にも行ったことがなく、大学ももちろん知らない。そのころ宇井さんは東大で現代技術史研究会を作ったと話された。日本の技術史の盲点に今までのようなことがおきるのであろう。私は考え、その会にゆくことにした。宇井さんは会話のなかで、なにげなさそうにおっしゃった。「実は有機水銀を食べるバクテリアを飼っているんですけれどもね」。宇井さんに飼われているバクテリアのことが知りたくて私は東京まで行ったような気がする。その後、東大の都市工学部で始められた自主講座。一体どのくらいの人たちが出入りしたのであろうか。あの自主講座で育てられた人たちはおびただしいのではあるまいか。第一回の東京における水俣の集会が都市工学部を半ば占領して行なわれ、「東京水俣病を告発する会」が発足した。小声で話される宇井さんが実に頼もしかった。ニトロをポケットにいつもしのばせて、奥さんのことをいつも気にかけておられた。
以上です(拍手)。
□土本典昭さん□ 田中正造の言葉は宇井さんの想いに重なる
★土本典昭さん、かねて入院加療中でしたが、2008年6月24日、
お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。 【編集部】 |
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司会団 石牟礼さんからのメッセージはプログラムの一番後ろのページにありますので、またゆっくりとお読みいただきたいと思います。それではお待たせいたしました。さっそく献杯を行ないたいと思います。献杯の音頭は記録映像作家の土本典昭さんにお願いいたします。
土本 みなさんお疲れだと思いますが、献杯の前に一言お話しさせて下さい。
宇井さんとは、昭和40年から私が最初のテレビ映画を作りましたときに、彼がまだ結婚前のでございましたけれども、すぐそばに住んでおられましたもので、ゲタ履きのまま来られて、「あのシーンに出ている不思議な文章があったけれども、あれはどっから出たもので、全文何が書いてあるのか」と聞かれました。もちろんそれにお答えしましたけれども、そのときの宇井さんの印象は、本当に若々しくて、この人だったら水俣に行っていろいろな人たちと親しくしゃべるだろうなと実感できました。ゲタ履きで来ておられて、本当に素直なはにかみの多いしゃべり方でした。僕は良い人が東京から水俣に行ったな、とその時思いました。
2人で外国に行ってすごくおもしろかったことを一つ申し上げます。つまり、自分の名前を「ジュン・ウイだ」と言うんですね。それをフランス人なんか驚いちゃうんですね。あのウイとはハイですし、「ジュンです」と言っているのと同じですから。かつてフランス人が僕に、「ウイジュンてのは本名か?」って聞くから僕はゲラゲラ笑って「本名だ」と言うと、そのフランス人は「ウイっていうから非常におかしい」と笑いながら言いました。しかも覚えやすくて、まあ、宇井さんの人柄を表してると思うんです。
写真:「ウイ」は外国人に覚えられやすかったと外国でのエピソードを紹介する土本典昭さん
ところで、私は、宇井さんは奥さんの非常に強いバックアップを受けたと思います。70年代はよかったんですが、80年代になったら、宇井さんは本当に辛かった。公害問題への熱も冷めるとともに、東大での宇井さんの名声に対するやっかみが多かったと思います。そのことに苦しんだ宇井さんを知っています。奥さんが書かれた書が出されておりますけれども、田中正造の言葉で、「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、人を壊さざるべし」っていうんですね。この署名が宇井純でもなく、奥さんでもなく、田中正造ってしっかり判を押してあるんですが、それが宇井さんのメッセージになるんですね。これを書かれた奥さんも僕は立派だと思いました。宇井さんが落ち着いて晩年をお過ごしになったろうと思いたいんですが、やはりきついこともあったということで、いろいろあったろうと思っています。でも奥さん、あの宇井さんの言葉を田中正造の言葉に変えていかれたお二人の関係をわたくしは見事だと思います。どうぞこれおからも毎年こういう会がありましたら、奥さんはあの宇井さんの話をして下さい。では、忘れないために、今後も宇井さんを忘れないために、献杯させていただきます。
献杯! ありがとうございました(拍手)。
□フロアから 1 河野正義さん□ 30年前、陸前高田まで足を運んでくれた成果今も生きる
河野 本来、30年前に直接お世話になった父・道義や兄・和義に代わって、宇井先生に改めて感謝申し上げます。父が2日がかりで上京し東大での自主講座を傍聴、勇気を与えられ、白砂青松の陸前高田の海岸を埋め立て、石油コンビナートを建設するという環境破壊の計画に、多くの住民とともに反対運動を展開。あわせて宇井先生にお出でいただき、直接ご指導いただいた結果、計画は撤回され、いまなお景観・美観を留めるとともに、品質のよいカキを養殖しています。宇井先生には当時も、私どもの日本酒「酔仙」を飲んでいただきました。きょうも、心行くまでお飲みくだされば幸甚です。
父は高齢のため、兄は所用のため参加できませんが、当時、先生のご指導を受けた地元住民の多くがいまなお先生の面影をしっかり心に刻んでいることをご参会の皆様にもお伝えしたいと思います。ありがとうございました。
写真:父・兄・地元住民の伝言を代表して伝える河野正義さん
□フロアから 2 新井達夫さん□ 業界紙の記事に時として厳しい評価下した
司会団 これからは時間の許す限り、フロアーからご登壇いただきお話をいただきたいと思います。最初に、宇井さんとは旧制中学から新制栃木高校時代同窓だった新井達夫さんからお願いします。新井さんは、現役時代は業界紙の記者をされ、退職後は画家として日々制作に励んでおられます。
新井 ご紹介いただいたように、『石油化学新聞』という業界紙に席を置きました。あるとき、宇井から電話が入りました。それを聞きとがめた上司が「宇井って、あの公害学者の宇井だろう? 何を言ってきたんだ?」というんですね。たまたまわたしの上司が書いた新聞が私の机の上にあったんです。それがどういう紙面かといいますと、なんか社内告発みたいな話なんですけれども、チッソの特集だったんです。上司がチッソの本社行って取材をして、特集を組んで、業界紙ですのでお金をもらって帰ってきて、自慢話が終わったところに宇井君が僕のところへ電話してきた。彼は自主講座のときにいつも、わたしのところの新聞を読んでいたんです。「今読み終わったけれども、まるで今にも潰れる泥舟の上で酒盛りをしている、そんな会社だ。それを支援する新聞はどうにもならん!」というふうに僕を叱ったわけです。で、僕はそれは非常に厳しかったんですけれども、後ろの上司が今どんな電話だったっていうんで、包み隠さず言いましたら、「お前はどこの旗を持って生きてるんだ。旗幟鮮明にしろ」と、さんざん叱られました。そういうときに、いつも宇井はですね、忌憚なく僕に「おい、君んとこの記事は今回はいいぞ」とか「今度はなんだ、また泥舟の上の酒盛りの記事じゃないか」とか、そんなことを言われた記憶があります。中学、高校が一緒の友達だったものですから、いつも許しあっておりました。またいろいろありますけれども、一つのエピソードをお伝えしておきます。昼間の「学ぶ会」、そしてこの「偲ぶ集い」、同窓としてとても嬉しく思います。どうもありがとうございました。
写真:高校の同期生ならではのエピソードを披露した新井達夫さん
司会団 壇上に上がってお話しいただくとどうしても長くなりますので(笑い)、司会者特権で以後はご紹介だけにしたいと思いますが。ただ、どうしてもこれだけはしゃべりたいという人は密かにこの辺においで下さい。それではこちらからご紹介いたしますので、呼ばれた方はその場で手を挙げてください。
まずは沖縄大学から助手時代に宇井さんによく怒られたという後藤君いますかあー? 沖縄大学からは何人かのOBが来ていただいています。沖縄から北上して、九州は天草の天草市議会議員で、本業は漁師さんですが、北垣潮さーん、手を挙げて下さい。もっとはっきり手を挙げてください、市会議員なんだから(笑い)。天草で宇井さんからいろいろ励ましをいただいた方です。それから、今手元にチラシが寄せられました。ご紹介する必要ないと思いますが、川田龍平さんがお見えです。川田さん、どうぞ壇上に。
□フロアから 3 川田龍平さん□ 薬害エイズ―水俣病……国の姿勢まったく変わっていない
川田 こんばんは、川田です。宇井さんとのつきあいは僕が松本大学で非常勤講師をしていたとき、信州沖縄塾という私的な塾をやっていたのですが、講師に来ていただきました。宇井さんのことは以前から知っていましたが、私が関わった薬害エイズの問題と宇井さんが取り組まれた水俣病の問題に対する国の姿勢はまったく責任を曖昧にしてきたという点で今も変わっていません。タミフルの問題、薬による被害を繰り返していく社会の仕組みを変えていきたいと思っています。
いまの世の中、企業の利益やお金儲けばかりが優先されていますが、命の大切さ、人として生きる事が大事にされる社会。本当に命が守られる社会を作って行きたいと思っています。今年6月1日にこの『命を語る』という本を出しました。自分が今活動していることや思いをこの本の中に込めて書きました。是非、お読みいただきたいと思います。そして本当にこの社会が子供たちにどんな社会を伝えていくのか、子供達や次の世代に自分たちが命の大切さ、当たり前に人として生きる事、平和や、環境、そうした守りたいものを伝え続けていきたいと思っています。是非よろしくお願いします。ありがとうございました。
写真:平和や環境、命の大切さを守り続けたいと強調する川田龍平さん
司会団 ありがとうございました。がんばって下さい。みなさん、川田さんはお求めになれば、サインをして下さるそうですから、お越し下さい。それではこの辺で平仲チャンピオンがさっきのご挨拶では少し言い足りなかったようですので、もう一言だけ。もうしばらく我慢をしてご清聴下さい(笑い)。
平仲 先ほどはどうも住みませんでした。宇井先生と僕との関係についてもう一つだけ付け加えさせてください。宇井先生のすごいところはですね、現場に出て、一人ひとりを大切にするところです。あのおじいちゃんが現場に出て本当に一生懸命やってました。僕はノーベル賞に環境のノーベル賞があれば、第1号は宇井純だと思います(拍手)。宇井先生は僕にとってはおじいちゃんですけれども、本当に尊敬し、心底認めています。それとさっき少し触れましたが、「東大であろうがなかろうが、「環境」に対して信念と志をもって、本当にバカになれる学生がオレは欲しい」と宇井先生、言っていました。是非みなさん、宇井先生の志を継いで、本当に世の中を動かせるような、バカになれる研究員として宇井先生に続く人になって欲しいとくどいようですがお願いしておきます。そして、時間があれば、是非ボクシングの試合も見に来て下さい(笑い)。きょうは本当にありがとうございました(拍手)。
司会団 ここで、一息入れていただきたいと思います。いずれも「ぜひ演奏し、宇井さんの冥福を祈りたい」とお申し出のありました自主講座メンバーの一人だった舘野公一さんとご友人、それに宇井さんも所属した「東大音感研究会」のOB・OGの方々がそれぞれ演奏してくださいます。会場のみなさんもご一緒にどうぞ。
□演奏 1 ギター&バンフルート 舘野公一とその友人□
写真:左 自主講座メンバーだった舘野公一さん
右 飛び入り演奏してくれた舘野さんの友人
□演奏 2 合唱 「東大音感研究会」OB・OG□
写真:左 9人のOB・OGによる合唱
右 「千の風」では会場全員の大合唱になった
「音感」代表 歌にありました青い川、深い山。地球環境をこれ以上悪化させないために、それぞれの分野で出来る限りがんばっていきたいことを宇井さんにお誓いして、わたくしたちの歌、終わらせていただきます。一緒に歌ってくださったみなさん、ありがとうございました(拍手)。
司会団 「音感」のみなさまありがとうございました。みなさん拍手でお礼を言いたいと思います。ありがとうございました(拍手)。
本日の偲ぶ集いも残り少なくなってまいりましたが、ここでノンフィクション作家の柳田邦男さんにお話いただきたいと思います。柳田さんはNHK社会部を退職後ノンフィクション作家としてのご活躍、みなさんご存知のとおりだと思います。昨年は「水俣病問題懇談会」の委員として報告書を作成されました。柳田さん、よろしくお願いお願いたします。
□フロアから 4 柳田邦夫さん□ きょうのこの人の輪、“すごい存在”の証左
柳田 最近、何度か水俣を訪れましたが、そのつど湯の児温泉の宿に泊まります。その時、色紙を書いてくれと言われまして、思わず手が動いたのが「山は青きふるさと 水は清き水俣」と書いてしまいましたら、宿屋のおかみさんがとっても喜んで下さいました。振り返ってみれば、宇井さんにお会いしたのは1970年でした。当時私はまだ若くて、30そこそこくらいで、NHKで報道やっておりました。で、環境問題を取上げるために宇井さんの『公害の政治学』という本を読みました。それからお会いしましたけれども、やはり私自身の時代認識というのが本当に鈍感でありまして、その問題の深刻さを理解してもそこに自ら飛び込んで、生涯のライフワークにするようなあり方をもってわけではなくて、その後はつかず離れずという形で宇井さんがなさっている自主講座や執筆されたものについて、絶えずウオッチしながら学んで参りました。
最近では水俣フォーラムがありますと、沖縄からやってきてご挨拶するという形でございましたけれども、やはり30数年を経て振り返ってみますと、1人の人間がやることというのはそうたいしたことはできないんですけれども、1人の人の労力というのはそう大したことはできないんですが、やはり宇井さんというのはすごい存在だったんだなと、思わずにはいられません。きょうも1000人を超える人が床が踏み抜けんばかりに集って、人の話も聞けないくらいですから(笑い)。みなさん、懐旧談にふけっておられますけれども、まあそれもまた一つの宇井さんが残したものかなと。無責任な言い方しますと、つかず離れず絶えず意識のどこかにその人の存在を持っていると、その人が亡くなっても、相変わらず活き活きと自分の中でまだ生き続けている。なんか通俗的なライフサイクルで言いますと、男は定年を過ぎると、だんだん下り坂、粗大ごみ扱いされて、奥様たちから、「粗大ごみ、朝に出しても夜戻る」なんていわれている方もいらっしゃる。まあそういうことで終わって、死をもって命は終わると言われるわけですけれども、私は最近それには疑問を持っております。人間というのは精神性をもって生きるからこそ人間であるのであって、定年で下り坂なんていうことはない。あるいは年老いて下り坂なんていうことはない。むしろ年老いてこそゆっくりと成熟の上り坂を登っていくんだし、死をもって終わらない。きっと死後残された人々あるいは関わった人々の心の中で本当の精神性をもった命、人がこの世で残した証を受け継いで生きるという意味でですね。死後もなお命は続くんだろうと、そんなことをつくづく思うようになりました。
写真:「宇井さんは一番星だった」と存在感をたたえた柳田邦夫さん
宇井さんのように若くして化学の道から気付いたことを本当に偽りなく生きようとすれば、すばらしい人生が開かれるんだなあということを学ばしていただきました。で、私自身は人間がいろいろとこの世に残すものについて関心があって、種をまく人、あるいは種をまく人々、ということでこの10年来いろいろな人との出会いを書きたいなと思いながら、なかなか成就できないんですが、またそういう意識を持ちますと次から次へと人の輪が広がって、すばらしい人、隠れたこの世を支えている人、そういう人に会えば会うほど、人の輪が広がって広がってこれは全100巻になってしまうというぐらい、心の中での充実感があります。
私、今年71歳になり、果たしてこの作品は出来るのかどうか分かりませんが、私自身のことだけを考えれば本道に恵まれた、出会いのある人生を歩むことが出来たな、そんな中で大きく一等星のようにシリウスのように輝く人々が何人もおられるんですけれども、宇井さんもその1人でございます。おそらく今日集った方々、年齢差で言えば、50歳くらいの幅のある方々がお集まりになったと思うんですが、これから若い人へいろんな形で我々伝えていかないといけないと思うんですね。で、今私が「水俣」にできることはなんであろうか? 大して何もありませんけれど、言うならば遅れてやってきた青年みたいなもので、大したことはできませんけれど、一つ気付いた点は今、“もやい直し”がとても大事になってきた。被害者患者を差別した市民と患者被害者がお互いに人間として手を結び、絆を結びなおす。あるいはチッソとチッソ以外の人とそういう人たちがもやいなおしをする。みんな大事です。けれど、もやい直したその次になにがあるのか? 手をつないで仲良くなれば、町はよくなるのか? よく考えてみるとその先を考えなきゃいけない。その先とは何かと言えばこれからの時代を生きる若者であり、子供である。そういう人たちが本当に、水俣の地をふるさとと思い、良い所で生まれ育ったと思えるようなそういう町づくりにつながていくもやい直し、これを考えなきゃいけない。その具体的な方法として私は、大人も子供も絵本を親しみ、絵本を媒体にして本当に子供たちが健やかに心育ちをするようなそういう環境づくりならお役に立てるかな、と考えています。時々水俣を訪れてその関係の話を行政の人や教育界の人、あるいは「ほっとはうす」の加藤さんやいろいろと活動なさっている方々と交流を深めております。そこまで展望を広げたもやいなおし、ということにほんの一助でもできれば、少しは宇井さんから刺激を受けたものも私なりに生かすことになるのであろうかと、そんなふうに思っているわけでございます。みなさま本当によくぞ今日はお集まりになりました。ご清聴ありがとうございました(拍手)。
□遺族あいさつ 宇井紀子さん□ 公害なくなる日、若い人の活躍に期待
司会団 柳田さん、本当にありがとうございました。それでは、最後に、宇井さんの奥様でいらっしゃる紀子夫人にご挨拶いただきたいと思います。どうぞお願いいたします。
宇井紀子 宇井紀子でございます。本日は故宇井純のために昼間は<学ぶ集い>、そしていま、このような<偲ぶ集い>を盛大に催していただきまして心からお礼申し上げます。宇井も先ほどの「千の風」になってどこかで見ていることと思います。早いもので宇井が昨年11月11日に旅たってきょうで224日が経ちました。あっけない旅立ちでしたが、みなさまの温かい励ましを頂いて、私も家族一同も元気で日常生活を送っております。まだ私には宇井がそばで守ってくれているような気がしております。
きょうは宇井が30年近く過した東大本郷キャンパスで宇井と親しくしていただいた諸先生方のお話や研究者を中心にしたパネルディスカッションを伺い、思わず、37年前の自主講座開講直前のことを思い出しました。来る人が5人以下だったら止めようかとか、面白くない人がいらしたら入場料をお返ししようなどと、当日は心配でせめて私一人だけでもと思い、手伝いに行きました。そして安田講堂と言えば、荒畑寒村先生がお見えになったとき、予定していた教室では間に合わず、安田講堂前の広場に会場を移し、多くの人たちの熱気の中で、「私は90歳を過ぎて、棺おけに片足を突っ込んでいますが、みなさんに渡良瀬川鉱毒事件を伝えておきたい。」と、30歳台の宇井と90過ぎの荒畑寒村先生の話に私も感激いたしました。今、こうして多くの懐かしいお顔を拝見し、またきょう来られなかった方々、すでに故人になられた方、さらに多く方々のお力により宇井の活動は支えられてきました。宇井に代わりまして篤くお礼申し上げます(拍手)。
写真:数々のことを思い出しつつ、宇井夫人の感謝の言葉には心がこもっていた
そして、改めてお忙しい中、沖縄や九州、そして北海道・東北などから駆けつけてくださったり、またお漬物やお酒を振舞ってくださったり、陸前高田の河野さま、栃木の滝沢ハムのみなさま、そして水俣の有機農栽培のじゃがいもなどを届けていただいた水俣のみなさま、宇井のふるさとのなつかしい栃木の方々、そして今日の裏方を支えて下さった世話人、実行委員、若いゼミのみなさん、お手伝いいただいた関係者のみなさまに篤く篤くお礼申し上げます。宇井は公害がなくなる日、自分が必要なくなる日が一番だと言っておりました。どうか皆様の知恵と技術で公害の犠牲者となる方がいなくなる日がきますように、次の世代のみなさまにお願いして今日のお礼の言葉させていただきます(拍手)。
きょうは、奇しくも住民が集団自決させられ、20万人の犠牲者を出した「沖縄終戦の日」です。平和を願う沖縄慰霊の日、6月23日です。最後に宇井が私に教えてくれた田中正造の言葉を改めて噛み締めたいと思います。
「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
本日は誠にありがとうございました(拍手)。
司会団 紀子夫人、ありがとうございました。お疲れ様でした。それでは、最後に、<宇井純さんを偲ぶ集い>実行委員会を代表して、立川勝得から一言お礼を申し上げて閉会といたします。
□実行委代表あいさつ 立川勝得さん□
立川 本日は長い時間ありがとうございました。私個人としては月並みですけれども、「宇井さん、もうちょっとちゃんと勉強しとけばよかった、すみません」という感想です(笑い)。宇井さんと本当にご一緒にしたあの時代のことを思い出にしないで、ちゃんとまた自分の人生の明日からに生かしたいと思います。少し年をとっていろんなことを妥協することを覚えすぎてしまったということがありますが、それをもう一回自分の問題として受け止めたいと思います。本当に一同ご参加いただいてありがとうございました。たいへん素人の手作りでございましたので、いろいろとご不満があるかと思いますけれども、是非そのことも一つの記憶としてお持ち帰り下さい。本当にありがとうございました。また、いろいろと時間をとってここまで作ってくださった世話人の方もありがとうございました。最後になりましたが、一生懸命手伝ったもらった学生ボランティアの皆さん、本当にありがとうございました(拍手)。この経験をそれぞれの勉学に生かしてください。学校だけじゃありません。学ぶ場所は世の中にいっぱいあります。常に勉強して下さい。
そして、宇井純さんにも改めて最大のありがとうを申し上げます。こうして僕らが出会えたのも宇井さんの存在があればこそでした。
宇井さん、ありがとう! (拍手)
写真:「宇井さん、ありがとう!」は全員の気持ちを代表していた
司会団 これをもって<宇井純さんを偲ぶ集い>を閉会します。みなさまの絶大なるご協力に感謝申し上げます。ありがとうございました(拍手)。
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お開きの後も数十人が出口付近で名残りを惜しんでいたため、カメラマンの機転で集合写真を撮って、ようやくお開きとなった……。
写真:それぞれが宇井さんを思って、盛り上がった
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