独りよがりの〈宇井純〉でなく、いろいろな分野の人たちから〈宇井純〉との交わりや関わったこと、〈宇井純〉の想い出、さらには事件の裏話や解説などなどテーマに制限をもう受けず寄稿していただくことを目的に、今回から【すぺしゃる こーなー】を新設した。
その1回目は、昨年8月、紀子夫人、長女・美香さんも加わっての<足尾ツアー>のもようを気鋭のライター、奥田みのりさんが寄せてくれた。【写真も】

宇井先生の足跡を追う旅

足尾・旧谷中村訪問記
【奥田みのり】

私はこれまでに、足尾に3回、水俣に2回行ったことがあるが、この二つの地域に実際に行ったことがある人は、珍しいのだろうか?

街を歩いている人にランダムに聞いたら、おそらく、両方に行ったことがある人というのは、ほとんどいないと思う。しかし、水俣病に関心がある人のなかには、足尾にも行ったことがあるという人が少なくない。公害に関心があれば、当然のごとく、現地に足が向くのだろう。それでも、宇井先生が、水俣だけでなく、足尾も訪れていたと知ったとき、「私も水俣と足尾に行っている!私と同じだ!」と無邪気に喜んだ。よく考えれば特別なことではないのだが、私との「共通点」に深く感動したのだった。

私はこれまでに、宇井先生に2度お会いし、お話をさせていただく機会に恵まれた。初めてお会いすることができたのは、2003年の高木仁三郎市民科学基金のイベントだった。その時、宇井先生の「付け人」であり「追っかけ」と称する人に会った。その人が、この≪新・宇井純物語≫を執筆された広瀬さんだった。以来、私と広瀬さんの付き合いが始まり、2007年6月に行われた、東大安田講堂での「宇井純さんを偲ぶ集い」や、今回ご紹介する、宇井先生の一周忌足尾・旧谷中村ツアーに参加するご縁をいただいた。

私がこうしてエッセイを書いているのは、このようなご縁によるものだ。

前置きが長くなったが、ツアーの内容に入る。

2007年8月17日、古河(こが)駅にツアー参加者11名が集合。茨城県古河市にある鮭延寺に、宇井先生の墓参りをした。ひしめき合うように、多くの墓石が並ぶなか、宇井家の墓が見えた。持ち寄った花を飾ると、それまでは周りの墓石と変わらなかった宇井家の墓が、ぱ〜っと明るくなった。セミが鳴くなか、写真家の桑原史成さんが墓石に水をかけながら、「宇井さん、会いにきたよ」と話しかけているのが印象的だった。二人は20代のころに水俣で出会い、ともに、水俣病事件と闘ってきた。先に逝ってしまった戦友にかける桑原さんの言葉にはなんとも言えない重みがあった。私たちは順に、墓石の前で手を合わせた。これからの二日間、かつて宇井先生が訪問された足尾や谷中村跡地を訪れ、宇井先生が見たであろう風景を追うというわけだ。


墓参りのあと向ったのは栃木県の足尾だった。明治時代中ごろ、足尾銅山からの鉱毒が引き起こした「足尾鉱毒事件」の現場である。鉱害に苦しめられた渡良瀬川流域平野部の救済に立ち上がったのが、栃木県選出の国会議員・田中正造である。今回、ツアーの案内役を務めていただいたのは、田中正造大学・事務局長の坂原辰男さん。坂原さんは、宇井先生を何度も足尾や谷中村跡地に案内したことがある人物である。

足尾に到着後、足尾に緑を育てる会会長の神山英昭さんと合流し、足尾ダムの先にある松木村跡を案内してもらった。松木村は、足尾ダムに流れ込む3つの沢の一つ、松木沢の途中にある。かつて、農業や養蚕で現金収入のあった豊かな村は、製錬所が排出する亜硫酸ガスによる煙害で、農作物などの収入はゼロに。生活することができなくなった村人は、泣く泣く村を離れていくしかなかった。600年近くにおよぶ村の歴史は、たった数十年の煙害で廃村に追い込まれたというわけだ。


訪れた松木村跡は、そこに墓石がなければ、かつて人が住んでいたとは分からないほど殺伐としていた。亜硫酸ガスで真っ黒な墓石に刻まれた文字は、村人の名前だろうか。

煙害は、山から緑を奪った。「足尾のはげ山」の原因は、この亜硫酸ガスである。ところどころ、緑化事業の効果で、緑が回復しつつある部分も見受けられるが、土の色がそのまま剥き出しになっている部分も未だに多く、特に、渡良瀬川に沿って足尾入りすると、青々とした山脈風景が、足尾に近づくにつれて少なくなっていくことに気付く。足尾銅山が、「日本のグランドキャニオン」と喩えられるのも分からないでない。


その後、町民がボランティアで運営している足尾歴史館を訪問。副理事長の小野崎敏さんが案内してくれた。歴史館には、小野崎さんの祖父・一徳さん(古河の御用写真師)が撮影した在り日の銅山の写真が展示されている。戦時中、銀が含まれていた写真の原板は貴重な資源。軍に拠出してしまい、一つも残っていなかったが、後に敏さんが残っている写真を収集し、大きく引き伸ばしたそうだ。


小野崎さんによると、明治10年頃に足尾銅山を買った古河市兵衛は、写真で記録を残したいと考え、写真家の江崎礼二さんに声をかけたそうだ。江崎さんの弟子であった小野崎さんの祖父・一徳さんは、足尾の写真を撮るよう任命され、古河の御用写真師として働いた。写真を売ることが商売だったこともあり、小野崎さんの家には、撮影した写真は残っていなかったそうだ。敏さんによると、一徳さんの写真を集めるのに約40年かかったという。桑原さんは、こうした写真を食い入るようにして見ていた。


写真の「伝える」力に圧倒された。銅山で働く坑夫の集合写真からは、当時の人々の衣類や背丈、職場の様子が伝わってくる。
「働いていた人は、ほとんど北陸出身でした。とても我慢強く、厳しい土木作業に耐えたと言われています。多くは「のろけ」という病気で、40代で亡くなったそうです」(小野崎さん)

松木川を隔てて、精錬所の反対側にある天台宗の龍蔵寺には、こうした坑夫の供養塔のほか、足尾ダム建設で水没した村の墓石が集められ、ピラミッド状に積み上げられている無縁塔があった。


宿泊先のかじか荘へ向う前に、足尾環境資料室へ立ち寄った。ここには、「東大自主講座コーナー」という本棚があり、当時の講座の講義録が保管されている。なぜここに、自主講座の資料があるのか分からないまま、目の前にある原稿用紙を束ねた冊子を手に取ってみた。手書きで、「宇井純氏講演 テープ速記」と書かれていた。冒頭部分は、こんな感じだ。
 
 こんにちわ。きょうは番外の講座で、特に宣伝いたしませんでした。あまり積極的に広告もしませんでしたし、多少事情がございまして、うちわでやることにしようということで、少し座席が涼しいかと思いますが、あまり気になさらないで後の討論のほうでゆっくり元を取ろうと思います。(原文をそのまま転載)

自主講座に参加していた方なら、当時の情景が重なるだろう。



ツアー二日目。早起きをして、一人で中国人殉難烈士慰霊塔まで行ってみた。かじか荘から徒歩3分。道路より一段高くなったところに、高さ約13メートルの塔が建っている。第二次世界大戦の後半期に、257名の中国人が強制連行され、109名が殉難したそうだ。塔の台座には、109個の石が埋め込まれている。


他のメンバーと合流し、かじか荘を出発。途中、朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑に立ち寄った。坂原さんから前日、そのような場所があると聞いて、「ぜひ立ち寄りたい」とお願いしていたからだ。これまでに私が見たガイドブックには、朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑について書いてあるものはなかった。したがって、坂原さんからお聞きするまで、その存在すら知らなかったのだ。

朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑は、中国人殉難烈士慰霊塔と違い、非常に質素で、これといった塔もなく、道路から少し脇へ入った広場にあった。文字が書かれた何本かの細長い柱と、説明が書かれた木の看板があった。朝鮮人労働者150人が、銅山での労働を強いられていたそうだ。碑を建てる計画もあったそうだが、実現されないまま今日に至るという。


群馬県太田市の毛里田(もりた)地区へ向かった。毛里田は、戦後1958年、足尾にある堆積場の決潰で、鉱毒水が苗代田に流入した鉱毒被害地だ。同年に結成された渡良瀬川鉱毒根絶毛里田期成同盟会(現太田期成同盟会)会長・板橋明治さんから、カドミウム被害の話を聞いた。板橋さんにお会いするのはこれが二度目。3年前と変わらず元気で、精力的に鉱毒被害の現状を説明していただいたが、個人的には、鉱毒問題のあとを継ぐ人がいるのか心配だ。いまでも毎年、足尾ダム下流にある草木ダムの、鉱毒調査を行っているといるそうだ。


田中正造展示室のある佐野市郷土資料館では、正造最期の所持品である信玄袋と、中に入っていた日記帳、聖書、小石の展示を見た。鉱毒の流れ込む渡良瀬川周辺を「遊水池」とすることで、鉱毒事件を治水問題とすりかえ、事件の幕引きを図ろうとする政府に対し、断固として反対しつづけた正造は、ほとんどの財産を反対運動に使ってしまったと言われている。


正造の生家、正造が息を引き取った庭田清四郎家を見て、雲竜寺へ。雲竜寺は、正造が足尾銅山鉱毒停止請願事務所を設けた場所。東京へ向かう押し出しの出発点でもあった。正造とともに鉱害撲滅のため、押し出しに参加した人々のなかには、正造が反対した谷中村の遊水池化には賛成する者も多く、寺内にある足尾鉱毒事件被告の碑に刻まれている人々の立場は一枚岩ではなかったそうだ。



ツアーの最後は、渡良瀬遊水地にある谷中村遺跡へ。道の両側には、2メートルもの高さの葦が茂っているため、遊水地内のどこにいるのか分からなくなる。そんなときは、遊水地駐車場付近の、背の高い一本のポプラの木を目印にするといいと、坂原さんが教えてくれた。葦は4メートル近くになることもあったそうで、ポプラの木は目印として昔から重宝されているそうだ。

遊水地は、東京ドームが約700個入るほどの広さで、円周が約30キロ。栃木県、茨城県、埼玉県、群馬県の4県にまたがる。生態系豊かで、タチスミレなど、絶滅危惧種が約50種類も確認されている。

葦の茂る細道を歩いていくと、谷中村遺跡が見えてきた。雷電神社跡や共同墓地の跡地が、「谷中村史跡保存ゾーン」になっている。「この神社跡地こそ、日本公害の原点地、谷中村の存在を永久に証する無くてはならぬ貴重なる遺跡であると云い得る」という説明が書かれた看板があった。


共同墓地が移動されることなく、現在の場所にあるのは、墓石を撤去しようとするブルドーザーを前に、村民が座り込んで抵抗。その後署名運動などで世論を味方につけた成果だという。こうして残された谷中村史跡保存ゾーンは現在、訪れる人々に、公害によって、先祖代々受け継いできた土地を離れなければならなかった人々の無念さを伝えている。また、本来なら貯水池にするはずだった部分が、史跡保存ゾーンになったことで、「谷中湖」と呼ばれるこの貯水池は、ハート型をしている。くぼみ部分は、墓石が移動されずに残った部分にあたるそうだ。


近くには、「遺跡を守る会」によって設置された連絡ノートがあり、宇井先生が8年前の2000年8月に、この場を訪問していたことを知った。

《遺跡を守る会のお骨折りに感謝します。折にふれて参ってはおります。記帳するのは初めてです。遺民の子孫の一人。宇井純》00年8月19日

「遺民の子孫」と記されたように、宇井先生は、谷中村住民の末裔にあたる。父方の祖母が、谷中村に住んでいたそうだ。となれば、遊水地内に散在した墓を集めた合同慰霊碑には、宇井先生の先祖の名前があるかもしれないと、そちらへ向かった。

合同慰霊碑は、集められた墓や石仏262基が埋め込まれたコンクリートの壁で四方を囲まれた中央に位置していた。紀子さんと美香さんが、慰霊碑に刻まれた谷中村村民の名前を、一つずつ指で追っていくと、「針谷民蔵」という名前があった。針谷民蔵さんは、宇井先生の父方の祖母の父にあたる人物だという。


 
先祖の名前の発見に驚くとともに、田中正造とともに、谷中村存続を願った一人であろう針谷民蔵さん。そのひ孫が、宇井先生であるという系譜に、しばし呆然とした。

二日間の旅は、田中正造と宇井先生がつながる発見という予想外の収穫を得て終わった。



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私が「宇井純」という名前を初めて聞いたのは、2004年だったと思う。大学院で公害について研究したいと思っていた私は、知り合いのジャーナリストに相談した。同じく公害問題を追いかけてきたその人は、東大にはかつて自主講座というものがあり、宇井純という人物がこれを開講していたということに触れ、その人自身も、自主講座に通っていたと話してくれた。耳慣れない苗字「宇井」と、男性女性どちらの名前にもなりそうな「純」。いったい宇井純という人物がどんな人なのか、このときの私は何も分かっていなかった。その後、ご本人とお会いする機会が巡ってくること、ご家族の方と一緒に、一周忌にお墓参りをすることになるとは、全く予想していなかった。

その後私は大学院で、米国の公害について研究した。環境汚染が、有色人種や低所得層の居住地区に集中している「環境レイシズム」(人種差別)がテーマだった。高木仁三郎市民科学基金から研究奨励金をいただき、「社会の貢献できる研究がしたい」「学位のための論文にしない」と一層強く心に誓いながら研究した。そして数カ月後、高木基金のイベントの基調講演のため、会場にいらしていた宇井先生とお会いすることができた。

私の研究先が海外であったため、国内でも公害問題に触れたいと思い、大学院一年目に足尾を訪問。水俣は、大学院を修了した翌年の2006年に訪問した。

私が水俣や足尾を訪問したからといって、世の中に何か貢献できるわけではないが、それでも、現地に行きたいと思う欲求は否定できない。現場に立つということは、かつてその場で起きた出来事の延長線上に、自分の身を物理的に置くことである。そうすることで、同じ時代に生きることはなかった人々との、精神的な距離間が縮められるような気がするのだ。

日々仕事に追われていると、様々な問題において、傍観者になりがちだ。宇井先生から「公害に第三者はいない」と指摘されてしまいそうだ。そうなると、ますます現地を歩くことの重要さが増す。

私は宇井先生と二回しかお話する機会がなかったが、もっと話す機会があれば、「それでも君、公害を研究していたの」と、私の知識不足を厳しく指摘されていたかもしれない。きっとそうだったと思う。故人となられてしまった今、私にできることは、宇井先生の書かれた本を読み、宇井先生が歩かれた場所を歩いてみること。そうすることで、精神的な距離が縮まり、「公害に第三者はいない」という言葉に、少しは近づけるような気がしている。


≫筆者プロフィール≫≫
奥田みのり (おくだ みのり)

東京でOLを経験後、自立した将来を手に入れるため、米国・シリコンバレーにあるコミュニティ・カレッジへ留学。その後、サンフランシスコ州立大学へ編入。卒業後、現地のNPOであるJapanese Cultural and Community Center of Northern California に勤務。日系アメリカ人らと、コミュニティ・オーガナイザーとして、イベント企画・運営に携わる。帰国後、東大大学院新領域創成科学研究科修了(環境学)、専門紙の記者を経てフリーに。環境・公害・CSR(企業の社会的責任)・雇用問題などを中心に執筆。

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  http://www.ashio-midori.com/profill/shiryou.htm
*渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟
  〒373−0011 太田市只上町1859  Tel 0276-37-1202
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  http://www.city.sano.lg.jp/city-museum/index.htm
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