Dear Valentine

         「はい、関係者以外は入らないで下さい」

         事件現場。

         一軒の家の前には何度もTVで見たことのある黄色と黒のツートンカラーの

         テープが引かれている。

         その前にはこれもありきたりな巡査といった階級の制服を着た警察が何人も

         立っていた。

         事件は今日、バレンタインデーの夜に起きた。

         商店街もセールをしてさっさと定時に閉めた時刻にとある一軒の住宅に火の

         手が上がったそうだ。

         嘘のようで本当の話。

         現実なんて見えない糸で覆されるものだとその時つくづく思い知らされた。


         (18…)

         自分の身近でこんなドラマや小説のような事件が起こるとは想像もしていなかった。

         「ねぇ、さっき警察の人が話していたのを聞いたんだけど、どうやら一家心中

          だったらしいわよ」

         そんな声がすぐ隣で耳に入った。

         自分にはどうだって良かった。

         (19…)

         ただ、先ほどから目障りにも目の前をちらつく警察の数を数えている。

         「そう言えば、最近ここの家の奥さん顔色が悪かったわね」

         「奥さんだけじゃないわよ。お子さんたちは学校を休みがちだったそうよ」

         (24…)

         自分の記憶力も大したものだと思った。

         コンビニでアルバイトをしている所為か、先に覚えた警察の身体的特徴を

         頭の中で軽く整理するだけで数字が脳裏に浮かび上がる。

         朱のランプがうるさく近所の民家をも照らすのを一人見つめる少年がいた。

         彼は自分が置かれている立場を分かっていた。

         もう、少年は17歳である。

         いい加減、強くならなくてはならない。

         先程まで燃え上がっていた火の手は駆けつけてきた消防車にかき消され、今は

         白い煙だけを天上に立ち上らせていた。

         (……「白き灰がちになりてわろし」)

         この周辺にいる野次馬や警察に聞かれたら、袋叩きにされることを素で思う。

         どうせならば何もかも残らぬように業火の炎で焼き尽くされれば良かったんだ。

         そうすれば、後々生き続ける者達の苦労は報われるから。

         「さようなら……」

         真っ直ぐに少年が見つめた先にはその家族たちが毎朝出入りしていただろう

         焼け焦げた玄関があった。

         火事は例えドア一つが残ったとしてもそれは半焼扱いになってしまう。

         この事件もその一例にしか過ぎなかった。

         それはその言葉を呟くと、今まで立っていたのが不思議なくらいな勢いで

         前のめりに倒れた。

         もしかすると、最期にたった一人きりになった主から別れの言葉が聞き

         たかったのかもしれない。


         季節は二月。

         今日は恐らく世界中の女の子たちが素直になる日だろう。

         バレンタインデー。

         それは女の子が好きな男の子にチョコレートなどの贈り物をする日だ。

         だが、この日は単なるお祭り好きなイベントでは留まらないのが現実という

         ものである。

         ある者は人生の絶頂期で婚礼を挙げ、またある者は最期を迎えたりする。

         「はい、です。…あぁ、何だお前か。久しぶりだなぁ」

         建設された日付を思わず聞きたくなってしまうボロアパートの一室から

         にぎやかな声が漏れる。

         ここは楓瀝学舎大学の男子寮。

         この寒い季節に二階の真ん中の個室の窓を開け放っては一人の青年が枠に

         背凭れて黒の 携帯電話を相手に話し込んでいた。

         だが、彼は何やら汗を掻いており、白のTシャツの胸元を真夏のようにパタ

         パタと動かしている。

         「ん?同窓会?パス。お前も懲りない奴だなぁ。俺は出ないっつっている

          だろ。いいか、もう、これっきりにしてくれ。じゃな」

         受話器を手にして二、三分も経たない内に電源ボタンを押し、深いため息を

         吐いてはベッドの上に放り投げた。

         彼の名は

         楓瀝学舎大学の四年で、今年の四月から中学校の教師を勤めることが内定している。

         教員には親の遺言でもあるから絶対ならなくてはと必死に岩に噛り付いた成果でもあった。

         「これで良いんだ」

         独りにはもう、慣れた。

         だから、誰にも踏み込んで欲しくない。

         「これも替えなきゃなんねぇな。面倒臭いんだよなぁ…一々中身を全部削除するのって」

         漆黒の闇を貼り付けたような携帯電話ズボンのポケットにねじり込んで部屋を後にする。

         守りたいものなんてちっともないんだと思っていた。

         だけど、そう思っている者こそプライドが変に高かったりする。

         自分は自分。

         他人は他人。

         という領域をかき乱されたくなかった。

         そして、誰とも関わりたくなかった。

         こんな自分が良く教職、それも一番大切な時期の生徒を抱える中学校の教師と言う大役を

         任されたものだと我ながら感心してしまう。

         だが、ここ何十年間ですっかり演技には慣れたつもりだ。

         まだ見ぬ生徒達がに気づくことはないだろう。

         同じ欠片を持つものなどほとんどいないのだから。

         彼の担当は古文。

         なぜか昔から記憶力があり、当時の暗唱も楽々とクリアできた頭脳の持ち主である。

         きっと、新しい職場でもうまくやっていけるだろう。

         あの日の……16歳の自分を放って置いたままで。


         「ありがとうございました〜」

         真冬の夕方は場所にもよるが、が住むこの場所では15時から落ちだし、17時頃にはすでに

         辺りは薄暗くなった。

         (…まだまだだな)

         駅前のコンビニの自動ドアから出てきた彼は背後から掛けられた声とは対照的にため息を吐いて

         首を左右に振った。

         寮から歩いて15分する場所に駅はある。

         四年間も利用していると大体は誰でも主になる。

         今月に入ってからこの店でバイトすることになった新人の少女がいる。

         彼女は彼と同じく楓瀝学舎大学の学生で、無事進級が出来れば今年で二年生になるのだが、

         これがまたドン臭く、商品には躓くは品名と値段は覚えられないは仕舞いには客に向かって

         間違ってつり銭を渡そうとするのだ。

         良くあれでいて面接に受かったなと思えばこうしてため息が出る。

         元気があって可愛いのは認めるが、なかなか素直になれない感情がある。

         それでも経験者としては口を出さずにはいられずこうして暇を見つけては買い物と同時に

         伝授しているのだが、あの少女自身才能がないことが一編で良く解った。

         しかし、それでも最初に口を出したのはこっちからなのだからこちらから身を引くわけには

         行かず、こうしてずるずると来ているという訳だった。

         それと同時にどうしても彼女に会わなくてはいけない理由がにはある。

         「……」

         信号待ちをする間、一軒の店を見つめる彼の瞳は遠い日の誰かを見ていた。

         その店は女性服専用の店で清楚で可愛らしいものを販売している。

         男である彼には縁もゆかりもないのに、自然とそのウィンドーに目が行ってしまう。

         (あいつ…この服、好きそうだな)

         目の前にいるはずのない少女にあのガラスの中にある洋服を照らし合わせてみる。

         からしてみればずいぶんとお子様なファッションなのだが、彼女にとってはベストドレッサーに

         ノミネートされるくらいなのだろう。

         思わず吹き出して横断歩道の白い部分だけを踏んで歩いた。

         子供の頃良く二人でこうして渡ったから体が自然と覚えているのだろう。

         あれから六年。

         もう、独りには慣れた。

         彼は今から六年前の今日の深夜、突如起こった大火事のたった一人の生存者だった。

         当時、彼はコンビニのバイト帰りだった。

         自宅の方に近づくたび人間のざわめきと消防車やパトカーやらのサイレンの音がうるさかった

         のを覚えている。

     が高校受験を始めた中学三年の頃、父親が二十年近く尽くしてきた会社から突然リストラを

     命じられた。

     そのことがきっかけでというわけではないが、元々家族崩壊をしていた家では明日をどう迎える

     のかが大きな課題となっていた。

     だが、彼は息子を教師にするという夢があったため、何としてでも進学をさせようと親戚中を

     回っては資金を集めたのである。

     (あっ)

     しかし、それは父の唯一の遺言となった。

     真っ赤に炎上するのは、十六年間彼が住んでいた自宅だった。

     「ねぇ、さっき警察の人が話していたのを聞いたんだけど、どうやら一家心中だった

      らしいわよ」

     たくさんの野次馬の中、少年の隣でそんな話し声が聞こえてきた。

     「そう言えば、最近ここの家の奥さん顔色が悪かったわね」

     「奥さんだけじゃないわよ。お子さんたちは学校を休みがちだったそうよ」

     確かにそうだった。

     彼には悪いが、あの事実が元々家庭崩壊状態だった家族に大きなストレスを与えた上の結果

     だった。

     その末路が今、数十名の消防士によって消し止められて、白い煙を放つ我が家なのだ。

     (さようなら……、みんな)

     少年には当時、中学に上がったばかりの二歳離れた妹がいた。

     彼女は家に帰ってくるたび、生傷が耐えたことがない。

     気づいてはいたが、家族内では唯一自分だけに見せる微笑が壊れるのを恐れ、何も言うことが

     できなかったのだ。

     「お兄ちゃん」

     いつも明るく笑う傍に生々しい傷があった。

     だが、は何もしてやれることができなかった。

     (……木風)

     その後、彼の考えは見事に的中した。

     彼女は大人しい性格故にイジメられていたのだ。

     きっと、木風は分かっていたのだろう。

     両親が死にたがっていることを。

     自分もそれには同意できるが、兄だけは守りたかった。

     だから、三人で最期の家族の絆を深めた。

     「さようなら…」

     バイト帰りのはすべてを熟知した上で、微笑んだ。

     あれから既に六年の歳月が経った。

     あの事件があってから訴訟は起こしたりはしなかった。

     ただ、相手やその保護者を集めて一言だけ言ってやったのを今でも心の中でせせら笑って

     やるほど面白かったので覚えている。

     「別に私は謝罪も慰謝料も求めません。逝った妹もそれを望んでいないと思いますし、

      この子達の家庭をこれ以上崩壊はしたくはないでしょうから。それに私自身も誠意のない

      言葉や大層なお金があなた達から巻き上げられるとは想像もしてませんから、こちらから

      その権利は辞退させて頂きます」

     我ながら随分と黒いことを言ったなぁと惚れ惚れした。

     目の前に広がる愚民達はとても現役高校生がこんなことを言えるものかと驚いた顔を

     していた。

     しかし、被害者はこちらなので、文句を言う権利はない。

     彼らの呆然とする顔や何も言えないことに唇を強く噛んでいる顔に余裕の笑みを浮かべて

     その場を後にした。

     他人から黒いことをどうとか批評される筋合いはないが、こうして相手が呆気に取られている

     瞬間が彼にとっては至高の喜びなのである。

     あの件以来、は益々自分を隠すようになった。

     だが、時々ふと脳裏を過ぎる言葉がある。

     本当は誰かに気づいて欲しいのではないか?

     物心が付いた頃は、甘えたい盛りだった。

     しかし、木風が生まれてから何日かしてそれは真冬の中に消えていった。

     それがどうしてなのかは解らない。

     ただ、幼い日の彼は生まれたばかりの妹を守ることで精一杯だった。

     「さんっ!」

     「っ!?」

     背後からいきなり誰かに名前を呼ばれ、背筋がピシッと整列をするかのように伸ばして

     しまった。

     これは、中学時代からの消したくても消せない彼の癖なのだ。

     振り返ると、ベージュのダッフルコートを身にまとった少年が青になった歩道を渡って

     こちらに駆け寄ってくる姿が目に飛び込んでくる。

     「周助っ!」

     その独特の笑みには覚えがあった。

     彼はこちらまで駆け寄ると、思い切りを抱きしめた。

     「うわっ!」

     「会いたかった…」

     少年がほとんど身長の変わらない自分を抱きしめると、ほのかに服と一緒に独自の匂いが

     彼の鼻を掠め思わずドキリとしてしまう。

     (おっ…抑えろ、俺!たかが中坊にときめいてどうすんだよ!!)

     カッと熱くなった頬に気づいて、思わず強く瞼を瞑る。

     彼の名は、不二周助。

     関東では有名な青春学園中等部に在籍しており、確か、今年めでたく卒業する。

     その少年とはどう言った関係かと言うと、従兄弟同士なのである。

     しかし、単なる従兄弟同士ではない。

     「家を出て行ってから連絡はしてくれないんだから心配したよ」

     「えっ…と、とりあえず世間一般の人々が聞いたら誤解されそうな言い方はやめてくれる

      かな」

     不二はぎゅっと抱きしめる腕を解こうとはせず、逆に至近距離でイヤと、否定をされた。

     六年前のあの事件後、父の姉に当たる伯母の嫁ぎ先である不二家に二年間お世話になっていた

     のだ。

     とは言え、今の大学の学費だって家族の保険があるというのに、それは社会に出るまで

     とっておきなさいと言って振り込んでくれている。

     当時小学四年生だった少年は140pくらいでとても可愛らしかったが、やはり成長期という

     のは恐ろしいものでたった二年の間で後頭一個分の差で同じくらいになる所だった。

     まぁ、自身中学高校とは言ってもあの事件があった数ヶ月までだが、運動部に所属していた

     のに対して身長も伸びなかった。

     これも死んだ母親譲りな所為なのかと思うと、変な意味で泣きたくなる。

     ほとんど身長は変わらないとは言ったが、改めて考えてみると違っていたことに今更

     気づいた。

     彼の現在の高さは、あの頃の…別れ際の自分と少年の身長差を交換したかのようなのだ。

     「約束だよっ!」

     別れ際に不二が言った言葉を今でも覚えている。

     それが今こうして自分より大きくなってしまったなんてまさか、夢にも思いはしなかった。

     「くすっ……すっかり男らしくなったでしょ、僕?」

     その言葉ではっと我に返れば、彼が目の前で得意気に笑っていた。

     ドキドキドキ……

     何でこんなことで頬が熱くなったりするのだろうか。

     相手は同性であって二歳足せば一回りもある歳の差がある。

     (ヤバ!俺ってその気があるのかよ。あー……、就任早々生徒に手を出してクビってのだけは

      勘弁してくれよ、俺)

     そんな弱気なことを思いながらため息を吐いた。

     近くのファーストフードで食事をしながら久しぶりに面と向かって話をすると、座高も自分

     よりあってかなりショックだった。

     学費を援助してもらっている分、週に何度かの家庭教師のバイトで小遣いは稼いでいる。

     あれから四年間不二家に連絡を取らなかったのは…もう、自分のことを放って置いて

     欲しかったからだ。

     これ以上、誰かと関わることで知る失う気持ちを味わいたくなかった。

     とくに…

     「あっ、まだダブル系は食べれないんだ?」

     「うるさいっ!こっちは食べたくても口が小さくて食べれないんだよ」

     彼を妹と同じ二の舞を踏んで欲しくはなかった。

     大切な気持ち……でも、障害がある気持ち。

     そんな想いなんてゴミ箱に捨ててしまえれば良いのに、現実はそんなにうまくはいかない。

     「それで、どうしてこっちまで来たんだ?まだ学校は休みじゃないだろうが」

     ファーストフード店を後に二人は駅のあちらこちらに設置された花壇を背景にした。

     冬だというのに色とりどりの花が健気にも咲いていて、見ているこっちが可哀想に

     なってくる。

     不二の住んでいる青春台からここは二時間以上は掛かる。

     今、ここにいるということは部活終了時にこちらを向かってきたということになる。

     そう言えば、先程ファーストフード店で彼がホットコーヒーを飲む際にダッフルの袖から

     チラッと見えたのは学ランだった。

     「どうしてって……忘れちゃったの?今日は叔父さん達の命日じゃないか」


     (あぁ、そうだったな…)

     暗い影が落ちる。

     今日は六度目の彼らの命日。

     忘れるわけなんてない。

     本当に独りになった日をそんな簡単に焼却炉の中に放り投げられるはずなんてあるわけが

     なかった。

     あれから葬式を挙げただけで何回忌と言ったことはやらない。

     やりたくなんてなかったから。

     悲しみと言った鳥篭に閉じ込められるのはイヤだった。

     それを提案した当初、親戚中は許さなかったが、最後に残った少年の気持ちを汲んでくれた

     のか渋々承諾してくれた。

     あれからは一度も泣いたことはない。

     喜怒哀楽があの時から抜け落ちてしまっているのかもしれない。

     あの事件がある前からそう言った関係とは無縁だと生きてきた。

     だが、あの日、本当はパンドラの箱だったんだなと思って泣きたくなった。

     「ねぇ、行っていないんだった今から行こうよ。僕、花買ってくるから」

     「もう、ほっといてくれ!」

     「えっ」

     あれから六年の歳月が流れた。

     しかし、彼の心の中では一番触れて欲しくない現実だ。

     「お前に何が解る。解りはしないだろ!俺の気持ちなんて!!」

     「さんっ!」

     その場を走り出す。

     悔しかった。

     言わないで欲しかった。

     だから、あの日々まで関わってきた人間からすべて手を切ったのに。

     「はぁ、はぁ、はぁ…」

     あれからどのくらい走っただろうか。

     が四年間もお世話になっている寮は小高い丘の上にあるため、ちょっとした運動に最適である。

     だが、六年間もの間それから無縁になっていた者にとっては単なる苦痛でしかない。

     「はぁ、はぁ……」

     足が重い。

     前へ進める度に、誰かに遮られているようだ。

     それは、不二?

     それとも、あの場所に立ち止まったままの自分?

     結局は、寮から10分ほど離れた公園のベンチに凭れて少し休むことにした。

     あれから運動はしてはいないが、寮を出る前にテニス部の後輩に頼まれて少し練習相手に

     なってやった。

     練習料は、大学の近くにある喫茶店でお化けイチゴパフェを奢ること。

     男22歳にして大の甘党なのである。

     六年前のあの日までテニス部にいた。

     今では、面影はないがあの頃は「魔王」と言われたほどの腕前だったのだ。

     しかし、彼はテニスを捨てた。

     コートに立つ度にずっと応援してくれていた彼女のことを思い出して辛いから。

     だが、たった四年間だったにも関わらず、体はあの記憶を覚えていて結局は後輩達に無敗

     のまま約束を取り付けてきた。

     「先生?」

     「はい?」

     夜空を仰いでいたついでに回想へと入っていた目の前にひょっこりと美形の少年が現れた。

     「梶本君っ!何で君がここに!?」

     「こんばんは。ここは俺の家の近くなんです」

     思わず驚いてベンチから跳び離れてしまった。

     自身に落ち着けと言い聞かせて瞬きを繰り返す。

     この少年の名は、梶本貴久。

     昨年の関東大会に出場した城成湘南中学の三年生である。

     実はこの学校は、の母校でもある。

     何故この二人が知り合いかと言うと、もう半年も前の話になるが、彼の学校に二週間ほど

     研修に行っていたことがあり、それで面識があるというわけだ。

     教師になるに当たって研修に行く場所は必ず母校でなければならないと言う決まりがある。

     だから、彼とは歳の離れた後輩ということにもなるのだ。

     「約束ですよ」

     脳裏にあの言葉が思い起こされて意識せずにはいられない。

     しかし、当の本人はまったくそれに気づいてないらしく先程の疑問を返してきた。

     「先生こそこんな時間にどうなさったのですか?」

     「あっ、ちょっと駅前のコンビニに買い物にな」

     まだ鳴り止まぬ早鐘に胸を押さえたまま手に提げていた袋を持ち上げた。

     中に入っているのは新発売のチョコのスナック菓子とカフェラテ。

     我ながら女の子染みた買い物しか経験したことがないが、卒業したら自炊をしなければ

     ならない。

     内定が決まってから安い物件を何度も吟味してちょうど良いアパートを見つけた。

     卒業してからは本当の意味で一人暮らしが待っているんだと思えばちょっと名残惜しい気分

     がする。

     だが、これは既に自分が決めたことであって他の誰かが決めたものではない。

     前を向いて強くあらねばというのがあの時決めた信念だった。

     真っ赤に炎上した16年間過ごした家。

     白く残った灰は既に居ないことを少年に諭した。

     誰もいない空気。

     耳元を掠める死者の声。

     心のかけらが散った夜、彼は涙を零さなかった。

     ただ、今までにないくらい優しく微笑んで…

     「さようなら」

     と言って……。

     「相変わらず好きですね」

     口元を手で押さえると、声を殺して笑う。

     不二もそうだが、梶本もとても十五歳に思えないほど大人っぽい。

     こういうことを一回りほど離れている自分が思ってはいけないのだろうがと、また落ち込み

     そうになり頭を強く左右に振った。

     城成湘南では古文は二年生だけということになっており、直接指導したわけではない。

     それでは何故、二人が知り合ったかと言えば、切っても切れないテニスに馴れ初めがあった。

     「人間糖分を摂らないと、落ち着かないんだよ」

     「知っていますよ。でも、先生のはちょっと過度が過ぎてはいませんか」

     「うっ」

     まだ笑っている顔に思わず顔を赤らめながら言葉に詰まった。

     自分でも気にしていることを他人に指摘されるとどう返したものかと悩んでしまう。

     「よく見つからなかったですよね。スーツの上着のポケットに入っていたチョコレート」

     「はぅ!」

     研修に行ったのがちょうど初夏を通り過ぎた七月だったため最新の注意を払ってチョコの

     包み紙を二、三個詰め込んでは短時間で口に運び、無くなったら就職活動用に買ったバック

     から黒ゴマクッキーを取り出して食べていた。

     「あ…あのぅ、梶本君。それを僕が研修が終わってから先生に話しちゃいましたか?」

     想像するのも恐ろしくて声が裏返ってしまう。

     これでも当時は貢献した生徒だから見逃して下さいと何度も心の中で繰り返した。

     いつになるかは分からないが、もしかしたら、お世話になるかもしれない。

     それは教師故に避けては通れないだろう。

     本当はずっと迷っていた。

     教職になってしまえばいずれは六年前までいたあの高校にも手が届いてしまうのではない

     かと…。

     しかし、これは彼の唯一の遺言なのだ。

     真相はきっと、自分とは違った視野で世界を見て欲しいといった所なのだろう。

     だが、最初で最後の息子へ託した願いを実行できないほどは馬鹿ではない。

     少し間を開けて彼はキレイな笑みを浮かべて首を左右に振った。

     「いいえ。俺がそんなことをするとお思いですか?」

     「違うけどさ……ただ、あまりのことで動揺しちゃってさ。悪かったな」

     そう言って自分よりも遥かに高い少年の背中を叩いた。

     六年前までは自分だって彼らのように大きな大会を目指したというのに、ほぼ中学生で成長

     が止まった彼は160pちょっとしかない。

     どうしてあんなにも運動量の激しい場所にいたのに、こんなにチビなのか今も当時も

     悩んでいる。

     それにしても現代の中学生とはなんて大きいのだろうと愕然とさせられた。

     まぁ、これは遺伝なのだからいくら嘆いても仕方のないことなのだが。

     「それと梶本君。一つ言って言いか?」

     「?はい、俺で良かったら何なりと」

     「その「先生」ってのは止めてくれないか。俺はもう君の教師でも何でもないんだからさ」

     しかし、その答えは先程のようにはかえっては来なかった。

     柔らかい笑みを急に真剣な表情に変えた少年がいつかの想いを呼び起こす。

     「約束ですよ」

     「俺があなたのことを「先生」とお呼びするわけはお解かりですよね」

     「……」

     その訳はどうして良いのか戸惑ってしまうくらい解っている。

     あまりにもキレイな微笑みだったからあの事を忘れてしまったのではないかと、つい、

     あの時と同じ二の舞を踏んでしまった。

     彼は誰もいない夜の公園でを抱きしめた。

     「あなたが忘れたと言うのなら俺は何度も言いますよ。俺はあなたのことが好きです」

     忘れたりすることはできなかった。

     あんな告白は不意打ち過ぎる。

     こっちは笑顔の似合う従弟を忘れずにいるのに…。

     「俺があなたを「先生」以外で呼んでしまったら、この想いが溢れ出してしまい

      そうだから……だから、俺は「先生」とお呼びするしかないんです」

     それもあの時言ってくれたから良く覚えている。


     ドキドキドキ……。

     彼が言葉を発する度、呼吸をする度と角度が変わるのに合わせて体が密着する。

     これ以上…いや、既に自分の鼓動が少年に伝わってしまっただろう。

     だが、このままではいられない。

     「梶本君……ごめんっ!」

     「うわぁ…」

     震える手で思いっきり彼を突き飛ばすと寮ではない方向へと走った。

     「先生っ!」

     その後ろからは追いかけるように聞こえる梶本の呼ぶ声が聞こえるが、は振り向きも

     しなかった。

     今、振り返ってしまうのが怖かった。

     自分が今まで逃れ続けていたものが事実になってしまうような気がしたから。


     「はぁ…はぁ…はぁ…」

     足を止めると上半身が自然と両膝を求め、呼吸を幾度も繰り返す。

     あれからどれぐらい経ったであろうか。

     辺りはすっかり肌に刺すような寒さで覆われていた。

     ズボンのポケットからねじ込んだ携帯電話を取り出すと、21時9分と表示されている。

     もう、そんな時間になったのかと思うと深いため息がもっと青年を暗くしたことは言うまで

     もなかった。

     寮の門限は18時である。

     今までこの時間は守ってきたのに、卒業を目前に控えて躓くとは思ってもみなかった。

     「ははっ……今日って……走るばっかし、だな」

     笑いと一緒に泣いてしまいたい衝動に駆られるが涙なんて一滴も出てこない。

     すべての喜怒哀楽はあの場所で凍り付けられたままだから…。

     呼吸を少し整えると、目の前に広がったのは墓地だった。

     暗闇の中ぽつんぽつんと存在する墓一つ一つにお辞儀をしながらまっすぐに進む。

     ここは今から六年前、家が埋葬された場所。

     普通の人間ならばこの時間に訪れることなど避けるだろうが、だけは違った。

     大学三年間は無理に忘れようとして来なかったが、高校三年間は新しいコンビニのバイト帰りと

     偽って必ずこの場所を訪れていた。

     「…やっぱり、誰かが来ていたようだな」

     「家之墓」と表されたまだ新しい墓石は良くは解らないがキレイに掃除され花や果物が

     供えられていた。

     四年前も必ず誰かが掃除をして行ってくれる。

     それは親戚の誰かは解らないが、感謝はしている。

     こうして訪れるだけで済むのは、その誰かのおかげだから。

     夜の暗闇に紛れて何処が汚れているか解らないよりか明るい日中に掃除をした方が良い。

     が、こんな時刻に墓参りに訪れるのは、せめてもの償いであって強がりだった。

     自分だけが無傷でしかも家族が心中を考えていることにも気づかなかったのに生きている。

     そして、こうして心が抜け落ちてしまっている。

     決して、心中してしまった家族のことを恨んでいると言うわけではない

     ただ、自分はどうあるべきなのか解らなかった。

     「なぁ、木風。お兄ちゃん、どうすればいいのかな?お兄ちゃん、好きな人の前だと

      ドキドキしちゃうんだけど、その人が誰だか判らないんだ」

     「なぁ、お前なら判るか?」

     「木風ならその人を見つけられるか?」

     墓石に話しかける姿は何も変わってはいない。

     三年前もこうして時間も忘れて独りで喋っていたから。

     見えないだけで本当はいるのだろうか。

     この世にはあの頃家族を亡くしたは自分しかいない。

     もし、兄弟だけで助かったらこんなに深く考えてたりはしなかったろう。

     しかし、それは無理なことで、もし兄弟二人だけで助かったにしろあの優しい彼女のことだ。

     イジメの現実を理由に後追い自殺をするに決まっている。

     「ははっ……結局、お兄ちゃんは誰も助けることができないんだな」

     本当は救いたかった。

     自分が生まれて何年かしてぼとぼとと落ち、気がついたら誰もいなくなっていた。

         「……何で…お兄ちゃん駄目なんだろーな」

         泣かないのはせめてもの自殺。

         黒いのは単なる弱さ。

         「お兄ちゃんが木風の代わりに死んじゃえば良かったな」

         三人分の遺骨が埋葬されている墓石をそっと抱きしめると、ふと誰かが背後に立っているのに

         気づいた。



      
「どうしてそう思うの?」          ≒          っ!!」