夏が終わる前に...

          雨が地を濡らす。

          今日は一体、この空の下で誰が泣いているんだろうなんて口走っている

          今にも泣き出しそうな心を抱えている。

          どうして?なんて考えることは用意されていない。

          ただ、この雫に濡れている時だけ本当の自分になれる気がする。

          冷たい雨が頬だけではなく体までも濡らし、その気持ち悪さと砂利で敷き詰めてある

          神社内の石の道を履き慣れない下駄で走れば木の擦れる音だけが解る。

          「……」

          脳裏に過ぎるのは今までしてきた浅はかな自分の振る舞いばかりで、唇を

          何度結んでも足りない。

          どうしよう、今の自分は呟きのような後悔のような言葉がため息の代わりとなって

          吐き出されている。

          遥か頭上に葉を茂らせている御神木のそれが慌しく頭を垂れさせているのを

          見ると、何だか幼い頃友達とちょっとした段差から飛び降りることを誘ってその子が

          着地を誤ってケガしてしまった時、相手の母親に何度も頭を下げていたの母親の

          横顔を思い出して余計に辛い気持ちになる。

          視線をそれから外しても当初から囚われている心は雨音に癒される事はなく、

          逆にその永続的に続く静けさに身を委ねていると容赦なく闇に浚われてしまう。

          こんな時、大学でカウンセリングも専攻しておけばよかったなんて今更後悔

          してもそれはパソコンのスクリンセーバーのように虚無の中を泳ぎまわる。

          彼女はこの春から母校である立海大附属中学校の養護教諭を任せられている。

          その責任は他の教師よりも軽いものかもしれないが、直接人に触れて身体に

          関わっていくのでそれなりに責任のある仕事に就いている。

          保健室に来るのは生徒ばかりではない。

          仕事中にケガをした者、体調を崩している者など人それぞれな理由で足を運ぶ

          教職員が少なからずいる。

          況して、保健室というのは何だか世界と遮断された雰囲気がある。

          それをどう思うかなんても人それぞれなのだが、気軽に戸を空ける存在を考える

          と案外その影響力は大きいのかもしれない。

          夜の闇にその存在を押さえられているが、神社の鮮やかな朱色の鳥居を小走り

          気味に下駄をカラカラと鳴らしながら駆け出す。

          慣れない下駄と序々に湿っぽさを帯びる浴衣に気をつけ、規則正しいものから

          荒いものへと変わる呼吸を疎ましく思いながらその足をより遠くへと運ぶ。

          舗装された道路を乗用車がヘッドライトを点けて走るのとすれ違う度、彼女の

          黒い浴衣に咲いた白い桜がまるで、泣いているように映し出される。

          もし、今の彼女を行き違う通行人かカーラジオから流れるBGMを耳にしながら

          運転しているドライバーが目にした
らきっと誰もがぎょっとするに違いない。

          
その姿はまるで、葬式から逃げ出したように儚げで今にも夜の闇に溶けてしまい

          そうだった。

          「なぁ、。今夜、神社でやる祭に行かねぇ」

          それは、今日の午後一時を回った頃だった。

          
彼女の同僚で幼馴染である丸井ブン太は紙で左中指の腹を切った、と言って保健

          室にやってくると消毒を痛いのもっと優しくしろよと文句を言い、バンソウコウ

          を巻かれると何の脈絡もない話題を吹っ掛けてきた。

          
彼は大学を出てすぐ母校のこの学び舎の現国の教師として迎えられ、保健室の

          先生に憧れていた は養護教諭として迎えられた。

          
丸井は持ち前の明るさで、就任一日にしてもう何人かと連れ添って歩いていたの

          を見たことがある。

          
まぁ、そこが彼のすごい所であり正直言って彼女も憧れている。

          「なっ…何よ、急に。それに学校でその呼び方やめて下さいませんか、丸井先生」

          「いいじゃんかよ、学校っつってもまだ夏休み中だぜ。授業ねぇから学校に来る

           奴なんて部活か何かの集まりで来る物好きしかいねぇんだし、それにここでは

           二人きりなんだし「先生」なんて固いこと言うなよ」

          の正論に本能で対抗する物心付く前から幼馴染である彼には未だ勝利した事がない。

          
これもおっとりとした彼女の性格なのかもしれないが、彼がこうと言ったことに

          反発したからと言っても自分の考えを押し通す……と言おうか要するに頑固なのだ。

          
それはあれから二十年以上も時を経ている今でも変わらず、こうなってしまうと

          は大抵黙っている事に決めている。

          
それが唯一、この場の攻略できる対策だということを十分学習しているからだ。

          「それにお祭りって言ったって、いくら幼馴染とは言え、私達男と女だし」

          視線を丸井から外し口を濁らせるが、何処までも楽天家な彼はその言葉を待って

          いましたとでも言いたいのか時折見せるいたずらっ子の笑顔になる。

          
この憎たらしいような可愛らしいようなバカなような頼もしいようなこの表情は

          昔から何を変わっていない。

          
強いて言うなら、それを見る度、胸を過ぎるオキシドールと似た刺激があること

          だろう。

          
異性も好意も知らなかった幼い頃はこの気持ちを「嬉しい」という囲いに押し

          込めていたが、それが初恋に落ちた瞬間だと気がついたのは中学三年のバレンタイン

          の日、教室で丸井が後輩にチョコを貰ったと照れ笑いしているのを見た時だった。

          
もう、彼が自分だけにその表情を浮かべることはないんだな、と少し感傷に

          浸ったが幼馴染として成長を祝してやる気持ちで冷やかしの言葉を掛けるつもり

          だったのに胸の中に異物があることに気づいてそのまま帰った。

          
翌朝、いつものように自室で支度を調えていると母から丸井が迎えに来たことを

          聞き、あまりの憂鬱さにため息を一つ吐いてから玄関を開けるとやはり、いつも

          と何ら変わらない無邪気な幼馴染が立っていた

          のを今でもはっきり覚えている。

          
あの時は...確か...この鈍感って、心の中で嫉妬に似た感情が深鍋の中でグツグツ

          と煮え灰汁がもうすぐ地獄の業火の如く炎を燃やし続けるコンロに落ちる具合

          が言い表すには相応しいだろう、しばらくの間、口を利かなかったっけ。

          「何、お前。もしかして俺に感じちゃってんのか?」

          前言撤回。

          
さらに、笑みで弛んだ表情がとてもいやらしくて頬が蒸気すれば次第に

          腹の底からわなわなと怒りがこみ上げてきた。

          「そ、そう言う意味じゃなくて…二十年以上も経てばお互い…異性なんだから

           イヤでも解るでしょうが!」

          23歳にして久しぶりの反撃である。

          
目の前にいる彼は当然瞳を丸めてまるで珍獣でも見るような姿をしたが、数分して

          それはあのお得意な笑顔の中に消えた。

          「そんなに怒るなよ。俺は昔みてぇにと祭に行きてぇだけだ」

          「ブン太君...」

          そんな顔をしてそんなことを言われてしまったら、何も言えなくなる。

          
いつからだろう、昔は何処に遊びに行くのだって彼と一緒で、世界の中心は

          同い年の幼馴染だと信じていたのに異性だと意識しだしてから存在が恥ずかしくて

          幼稚園では遠足する時は必ずする手を繋ぐ事さえ今ではできなくなった。

          
胸の中にまだ残っているストレスを吐き出すようなため息を一つ照れ隠しに、

          仕方ないわね、で返す。

          
これが精一杯の強がりだと丸井は気づいていないだろう。

          
もし、気づいたとしても強情な女だと言うことだろう。

          
彼が昔から好きなのは、今も変わらず『物くれる人』だから…。

          「ほれ、小指出せよ」

          丸井にしては珍しく頬を染めて顔を背けているが、それとは違って右の小指だけ

          はこちらに向けられている。

          
それは幼い頃、誰もが交わしただろう、古より続く契りの交換。

          
彼女は、心の中では嬉しさを感じながら指を絡め呪文を唱える二重奏がまるで

          十一年後にやっと仲直りをしたような気がした。


          「で?説明してもらいましょうか」


          は苛立っていた。

          
正確に言えば、久しぶりに二人きりで夏祭りに行く事が決まって早速、駅前の

          ショッピングモールで買った真っ黒な生地を邪魔しない程度に至る箇所に

          白い桜が咲いた浴衣に一目惚れをして購入を決意したというのに、待ち合わせ場所

          である神社の鳥居に先に来て待っていたのが丸井だけではないことを知った所で

          振り返った後ろ姿の正体が同じく立海大中学校を卒業した真田だと判ったからだ。

          
彼は大学を卒業してから実家の道場を継ぎ、今年の春からは学生時代の功績を

          買われてテニス部の監督に就任した。

          
彼女とは同期になる真田とは中学時代一度もクラスが一緒になったことがないが、

          幼馴染の活躍しているテニス部の副部長という事は把握していた。

          
すれ違ったことは何度かあったが、部員でもクラスメートでもない自分が

          挨拶をするのはかなり筋違いな気がして三年間は声を掛けずに終わった。

          
まともに声を掛けたのは本当に最近の事で今でもまだ、話そうかな、と

          ちょっと勇気がいる。

          
それは彼のあの険しい表情……というのは学生時代に何度も見慣れていたため

          気にしてはいないが、問題はその存在感だった。

          
真田が何処にいるのかなんて探さなくてもその威圧感を辿れば必ず本人に当たる。

          
それはコート上でも同じで、部活終了時を見計らって幼馴染を迎えに行った時、

          長身の彼と何度か視線があったことがある。

          
それから数日が経ったある日、もう部活がある日にはさっさと帰れ、ってウチの

          副部長から伝言頼まれた、と幼馴染みの彼は両手を組んで頭を抑え仏頂面を

          拵えたままそう言われた。

          
怒りよりも悲しい気持ちの方が勝り、その日は大して丸井とは口を利かずに帰った。

          
そう言えば当時、理由が解らないままテニスコートのいる真田に目を向けている

          と何人かの友達にからかわれた事があった。

          
今、思い出しても色褪せない気持ちが胸を締めつけるのは単に翻弄されている

          だけなのだろうか。

          「あれ?言ってなかったっけ。この祭にはこいつも一緒に来ること」

          彼御用達の青リンゴ味チューインガムを一つ膨らませてから頬をぽりぽりと

          人差し指で掻きながら首を傾げる。

          「聞いていません!もう、ブン太君は肝心なことを言わないんだから」

          そんな惚けた姿勢の幼馴染を放っておいてすぐ傍に立つ存在感に圧倒されながら

          向き直る。

          
中学時代もそうだがあの頃よりも何cmか伸びた気がする。

          
その事実は当時成長が止まったにとっては恵まれた体と思う反面、そんなに

          大きくなってどうするんだろうなんてお世話的疑問が浮上してきた。

          
見上げた先の真田はやはりいつも職員室の窓から見る表情で彼女を見下ろしていた。

          
その途端、何かが自分の中に流れ込む感情がして頬には今夜の熱気とは確実に

          違った熱がこみ上げてくる。

          「迷惑だったか?」

          「そ、そんなことはないですよっ!ただ驚いただけです、はい」

          決してお喋りではない彼から何度目かに聞く声色はすっかり大人っぽく、丸井

          とは全く異なった鼓動に呼吸するのが苦しくてそれしか言えない。

          
ただ、自分が精一杯真田のことを拒絶しているわけではない事を知ってもらえば、

          なんてどうかしている。

          を挟んで歩くいつもと雰囲気が違う二人の浴衣姿の男性に、だらしなく高鳴る

          鼓動に戸惑いながら境内を目指した。

          
途中、屋台でリンゴ飴を買ったり射的やヨーヨー釣りをしたりと寄り道はしたも

          の同じように浴衣姿の者や近所から来たのか普段着の者に交じり、一歩ずつ

          動く列に並んだ。

          
がやがやと煩い雑踏に紛れた所為でそれまで手を握る距離が三人の間で均等に

          守られていたのに、薄い布がなかったら肌と肌が接触するくらい密着している。

          
どうしよう、なんて言葉がバカみたいに頭の中を駆けずり回り、体中を血流が

          速く循環する。

          
今は二人に声を掛けたとしてもこの群れの中だ、普段から小さい彼女の声は

          耳に届く前にもみ消されてしまう。

          
神社に祀られている神様が与えてくれたのかもしれないこの間に挟まった状態だ

          からこそ考えることは決まっていた。

          
幼馴染の丸井には異性として本当に認識するのに十年以上費やしたが、彼は

          たった一目で意識してしまった。

          
真田の方に心は傾いているかもしれないし、そうではない気もする。

          
今まで見て見ないフリをし続けた感情に自らメスを入れて内視鏡カメラで奥まで

          確かめてみたが、やはり自身では制限されている部分があって、本当は一番

          誰に心惹かれているのかというもっとも重要視する箇所が見えそうで雲隠れして

          存在は不確かのまま何も解らない。

          
そうこうしているうちに列がまた一歩と動き、思考回路の世界から慌てて還って

          きた はワンテンポ遅れて下駄が軽い音を立てて長年少しずつ削れていく石畳を

          踏みしめれば、あまりの砂利道の所為かそれともまだ還ってきたばかりの所為か

          一瞬、体が大きく揺れた。

          「あっ」

          このままでは前列の誰かにぶつかってしまう、そう目を瞑った時大きな掌が

          彼女の手を掴んだ。

          それは……

             「真田の掌」          ≒          「丸井の掌」