年に一度
九月下旬のとある駅前、一人の少年が街路樹に凭れて天を仰いでいた。
たった一ヶ月過ぎただけなのに、既に秋一色に染まった空にはこの季節
俳諧にも詠われる月が煌々と照っている。
「たくっ……アイツ何してやがんだ?」
駅ビルに設置されているデジタル時計は、もうすぐ六時になろうとしている。
待ち合わせしている相手は、この時間にこの場所でと伝えてられていた。
今日は、過ぎ去った季節を惜しむかのような盛大な夏祭りがある。
それにこのジーンズ地のキャップを被った彼も、もう少しで来るであろう
待ち人と出かける約束をしていた。
『亮ちゃんっ!』
そう呼んでくれた日々が懐かしい。
長い髪を揺らしながら自分に笑いかける一人の少女が脳裏に浮かんで、
胸が軋んだ。
(っ……)
両の掌をぎゅっと握り拳を作ると、彼女の名を心の中で呼んだ。
「何やってんだ?こんな所で」
通学路からちょっと離れたゴミ捨て場に座り込んでいる幼馴染の少女の隣に
自分もしゃがみ込む。
腰まで伸ばした髪を一つに束ねた少年の名は、宍戸亮。
この街では有名な氷帝学園中学校の誇るテニス部に所属している。
その部には、ちょっとした掟というものがあり、正レギュラーと準レギュラー
と言ったものがある。
一番下の部員から抜きん出て監督に認められた存在は大体、順に昇格すること
ができるのだ。
稀に、いきなり正レギュラーに抜擢される者もいるが、それはごく稀だった。
この少年も中学二年にしてようやく準レギュラーから格上げされたのだ。
そのため、馬鹿にならない練習量を積んでいるためか体中には、いつもすり傷
や痣などが耐えなかった。
だが、彼の両親は共働きで、今日みたく部活が休みで早く自宅に帰ったと
しても愛犬くらいしかいない。
そんな少年をいつも癒しているのが、この幼馴染のだった。
「あっ、亮ちゃん」
ワンテンポ遅れてその存在に気づいた彼女は、一瞬、曇らせていた顔を微笑み
の中に隠した。
二人の目の前にあるものは、まだ生まれたばかりだと思われる一匹の
子犬だった。
「捨てられたのか…」
「……うん」
どこかのスーパーから調達してきたらしいよれよれのダンボールを組み立て
だけの中にいるからだろうか、余計に哀愁が漂う。
だが、その本人は呑気なもので、スースーと可愛らしい寝息を立てていた。
アイボリーの毛並みが何とも触り心地良さそうである。
時折、箒のような尻尾が何かを払うように動いて、それがまた哀愁を誘った。
「で、どうするんだよ?」
「うん。家で飼ってみたいけど、ママ……許してくれるかな?」
そう心配する彼女の家は38階建ての高級マンションである。
しかも、最上階を住居に構えていた。
どう考えても簡単にOKを貰えるとは思えない。
だが、安らかな寝顔をしている子犬を見つめる少女にはそんなことを
言えなかった。
黙っていると、いきなり立ち上がりスカートの裾を叩き、ダンボールを
そっと持ち上げる。
中にはその動きにさえ気づかない住人が今も体を丸めていた。
「お…おいっ、!そいつ、どうする気なんだよ」
「このまま放っておくことなんか私にはできないよ。やるだけやってみる」
そう言ってスタスタと前を歩く彼女の背中を小走り気味に追う。
中二にして150cm代で止まってしまった少女は昔から歩くのが速かった。
対して172cmの長身を誇る宍戸さえ、気を抜いてしまえばそれに追いつく
術はこの小走りしかない。
の父親が日頃の運動不足のために始めたのが、ウォーキングだった。
それに毎度付き合っていたのは、一人娘である彼女だけで昔、自宅から散歩を
して山を登ってそのまま帰ってきたという恐ろしい話を
耳にしたことを思い出す。
その時の少女は疲れたから良く眠れた、と笑って話していた。
少年は心の中で人間じゃねぇ、と心の中で密かにセルフ突っ込みを入れた。
そんな昔のことを思い出していると、彼女の家の前に辿り着く。
豪華な装飾が施されている自動ドアを通り過ぎ、エレベーターを待つ刹那。
二人の間には緊張感が走っていた。
別に、学生鞄も脇に抱えているのだから放っておいても良かったのだが、
彼には意中の少女を見捨てるようなマネができるわけはない。
だが、正直言ってダンボールで隔たれているが、に抱かれている子犬を
可愛いと思う反面、嫉妬を覚えてしまう自分がいた。
エレベーターの中に入ると、それは治まり、今度は逆に意識してしまう
もう一人の宍戸亮と戦っていた。
何度かとこうして二人きりになる機会はあった。
しかし、その時は嫉妬する対象がいない所為か、全く何も感じない。
人間というものは、どうして障害があるほどのめり込んでしまうのだろうか。
チィー……ン!
この歳にして哲学のようなことを真剣に考えようとする前に、最上階に辿り
着いたエレベーターが軽快な音を鳴らした後、重たい扉を開いた。
降りた二人の前に広がったのは、地平線が見えるのではないかと思って
しまうくらいの広い廊下だった。
しかも、透明な光を放つ大理石で作られているため、氷帝の指定革靴で歩く
たび甲高い音がスタッカートを刻む。
だが、それは長く奏でられずに一つの扉の前まで止んでしまった。
エレベーターを出て右から三番目が家である。
ジィィィ…!
両手に抱えていたダンボールを足元にそっと置くと、決心をしたかのように
低い鳴き声がする呼び鈴に手を伸ばした。
『はぁ〜い、どなた?あら、ちゃんじゃないの。ちょっと待ってね』
すると、何分も経たない内に小型液晶画面に一人の中年女性が映った。
応対すると、瞬時にドアロックが解除され、次に中からけたたましい
足音が響く。
再度、ダンボールを抱きかかえる彼女に視線を移すと、一見、重々しく思われ
た
家の扉は呆気なく開かれた。
それも、一人の女性によって…。
「ちゃん、お帰りぃ〜♪って、亮ちゃんも一緒だったの?」
「こっ、こんにちは」
少年は冷や汗を掻きながら顔を出した彼女に深々と会釈をする。
(こいつのおばさんって昔っから苦手なんだよなぁ)
本人に気づかれないように小さくため息を吐く。
にこやかに顔中にしわを寄せて笑う少女の母親は、今では想像も出来ないが、
この辺りの暴走族を引き連れていた元女番長だったらしい。
昔、この家に遊びに来た時、が自慢しながら見せてくれた母親の若かりし時の
写真を今も覚えていた。
時折、それを事実だと言わんばかりの形相で怒られたこともあり、それ以来、
トラウマ的にこの女性と顔を合わすのを避けていたのだ。
だが、それは、大体宍戸が大事な一人娘を困らせた時だけに限られていた。
「ママっ!お願いがあるの」
「あらっ、その子犬はどうしたの?」
「捨てられてたの……ねぇ、家で飼って良いよね?この子まだこんなに
小さいんだよ。なのに、ゴミ捨て場に捨てられていたの」
そこまで言うと、彼女の瞳に涙が浮かんでくる。
それが重たすぎたのか、規則正しいリズムを刻んでいる子犬の背中に
一つ落ちた。
「くぅ〜?」
すると、今まで閉じられた瞼から黒い瞳を現し、それが、を捉える。
鳴き声に気がついた三人は一斉にそちらに振り向くと、愛らしい表情を
こしらえては、自分を拾ってくれと言わんばかりの愛嬌を振りまいた。
「おばさん、俺からもお願いしますっ!」
「亮ちゃん!?」
「なら面倒見が良いってことは俺が良く知っています。だから、こいつを
飼ってやって下さいっ!」
「お願い、ママ!」
二人に一斉に頭を下げられた母親は一瞬目を丸くしたが、まだ生まれたばかり
の命と目が合うと、お湯がいきなり沸騰したかのように笑い出した。
それに二人が驚いたのは、言うまでもない。
顔を見合わせた子供達を見比べてから口元を手で押さえた。
「ふふっ、良いわ。パパには、ママから話しておくわ」
「やった!」
「やったな!」
二人とも思い思いのポーズを取り、今の気持ちを体中で表す。
だが、母親はそれを何故か悲しげな目で見ていた。
それが、最後に交わした時間だったとは、当の本人達は知らされていない。
翌朝、彼女がHRの時間にもやって来ないので、遅刻でもしたのかと
呑気なことを思っていた。
だが、宍戸を待っていたのはそんな生温いものではなかった。
「本当に急な話だが、落ち着いて聞いてほしい。実は、このクラスにいた
さんは、お家の都合で引っ越された」
まさに、寝耳に水だった。
瞳は見開き、鼓動は口から飛び出しそうな勢いで血の巡りを逆流させた。
「おっ、おい!宍戸、待ちなさいっ!!」
気づいた頃には、鞄も持たずに教室を飛び出した。
「っくしょ!…何でだよっ……っ!!」
胸が痛い。
壊れそうなガラスが飛び散らぬように歯を血が滲むくらい強く噛んだ。
昨日の思い出の一つ一つが脳裏に浮かび上がる。
難しそうな顔、意志の強さ、涙を宿した瞳、頬を染めて笑い合った昨日…。
あれは出来すぎた幻だったのか、ひょっとすれば、という少女さえも
幻だったのではないか。
そんな疑問が心を過ぎるたび、頭を強く振った。
交差点に差し掛かり、赤のランプが点灯している。
それは、まるで、少年への最後通告のようだ。
ここで、学校に戻れば、何も知らずに済む。
だが、彼の心は既に青信号だった。
交差点を勢い良く渡ってしまった少年が知った事実は、あまりにも
酷な物だった。
来年の花火大会、一緒に行こうね!
それだけを宍戸に残して消えた去年の夏の終わりだった。
「亮ちゃん!」
「っ!?……うわっ!」
背後からいきなりそんな声が掛けられ、振り返った途端何かが勢い良く
彼に抱きつく。
突然の出来事で目を丸くしたが、懐かしい温もりに腕を回したくなる衝動を
抑えるのに精一杯だった。
「くっ……ごめんね、ごめんねっ」
「あぁ、俺もごめんな」
当時は短かった髪も腰まで伸びている。
時折、鼻を掠める女性特有の匂いにドキドキした。
もう、去年までの二人ではない。
そう……、あの日から。
ようやく顔を上げた彼女の目にはまだ涙が揺らめいていた。
「ほら。もう、泣くなよ、な?」
「…うん」
宍戸が指の腹で雫を拭うと、は何事もなかったかのように笑った。
だが、やはり、どこか陰りのあるものである。
もう、二度とあの頃の彼女には戻れないのだろうか。
少女が住んでいた高級マンションの管理人から渡された紙切れには、
走り書きと涙の跡が残っていた。
紫地の浴衣の袖に目尻をそっと拭く。
十年以上の幼馴染だからだろうか、どんなに離れていても彼の好みを
知り尽くしているのであろう。
そんな些細なことが嬉しくてつい、頭を触ろうとした少年の手が
宙で止まった。
目の前には一人の見知った長身の男が立ちはだかっていたからだ。
しかも、その視線は自分に向けられている。
眼光ならばこちらだって負けてはいられなかった。
それが、男の意地というものである。
しかも、理由も言われず睨まれたままなど宍戸が黙っているはずもなかった。
いくら12cmの身長差があっても、そんなことは気にしない。
何故浴衣を着ているのかが気になったが、今はそれどころではなかった。
「「……」」
彼女を守ろうと肩を優しく押すと、向こうも同じ名前を口にした。
「何で、お前がコイツのこと知ってんだよ!」
その人物は、胸の辺りで腕を組んでいる六角中三年の黒羽春風である。
「それはこっちも聞きてぇ話だっ!」
相手の方も一歩も引かないと言う感じで声を荒げる。
そのお陰で、すっかり民衆の視線を独占できてしまった。
「二人ともやめてよ!みんな見ているよ」
それにおろおろするのは、見物していた買い物帰りのマダムだけではない。
先程まで彼の腕の中で泣いていた彼女である。
まさか、自分が事の発端だとは予想もしないだろう。
少年には、彼の胸の内が理解できた。
それもそうだろう。
自分と同じくこの少女のことを想っているのだから……。
「もう、二人ともあんな所でケンカなんかしちゃって恥ずかしいんだから」
「へへっ、わりぃな」
「……」
駅前を後にした三人は目的地の河川敷を目指した。
二人が胸座を掴みそうになると、が割って入ってやめさせたのだ。
去年のあの日、千葉に引っ越した彼女は近所の六角中に転入した。
だが、初日から無口な少女にはクラスメートもお手上げで、誰も話しかけよう
とはしなかった。
「よろしくなっ!。つぅか、って呼んで良いか?苗字なんて性に合わねぇし」
それを無視したのが彼だった。
そんな二人が親しくなるのは時間の問題だった。
今では、帰宅部の少女は毎日、テニス部の練習を覗きに行ったり磯に
遊びに行ったりすることが日課になってしまっている。
そのたびに最初は全然見せなかった笑顔の回数もずっと増えてきた。
少年の中で一つの想いが咲き乱れ始めたのもちょうどその頃だった。
もっと、彼女を笑わせたいと思うほどにこの止められない気持ちは強くなる。
今日はいつもなら部活が終わるまでベンチに座って見守っている彼女が
オジイに何か言ったかと思うと、小走りぎみに去っていった。
「オジイ、なんだって?」
額から零れる汗を腕で拭いながら高齢の男性に話しかける。
すると、まるでスローモーション映像でも見るかのように小首を傾げて
か細い声で言った。
「大事な……お友達と……花火大会に………行くんだって…」
途切れ途切れの声を耳にしながら何かが自分の中で燃え上がった気がした。
彼に託けてから急いで追いかけ、無理を言って着いてきたらこの様である。
(幼馴染だかしんねぇーが、ぜってぇ二人きりなんてさせねぇ!!)
清々しい表情とは裏腹に心の中では闘志が灼熱のように燃えている。
対して、しかめ面をしている宍戸も同じ言を考えていた。
初めて出来た友達だか知らないが、自分以外の男と親しくなって欲しくない。
だが、彼はもっと別な意味で彼女のことを案じていた。
二人の少年達はその間でゆっくりと歩みを進めている一人の少女を同時に
見つめる。
その横顔はどこか儚げで胸が苦しくなかった。
呼吸をするのも惜しくて、歯を食いしばることで耐え、そっと視線を
正面へ戻した。
もし、彼女を救える事が出来るのならどちらがその対象に選ばれるのだろう。
目的の河川敷まで来ると、既に何発かの鮮やかな大輪の花が一夜限りの光を
放っていた。
赤や青と言った目にも美しい花火が今年の夏の終わりに咲かす贈り物。
それは別れのためだろうか。
それとも新しい始まりを告げるものだろうか。
「キレイだね」
「あぁ…」
景気の良い花火の所為か、上手く言葉にすることができない。
混雑する会場で二人の大男に守られたはじっと空を眺めた。
こうして短い生涯の彼らがあぁして自分達の前で命を散らしていると思うと、
グッと来るものがあり、しまいに両目から涙が滲んでくる。
どうしてあんなにも頑張れるのかが解らなかった。
昔ならその定義が簡単に理解出来たのに、今では目を塞ごうとしている。
そんな自分がイヤで見向きもしない素振りばかりをいつも選んでいた。
本当のことを言えば、こうして宍戸に会いに行くのも悩んでいた。
彼の知っていたという少女はもう、いない。
今、目にしているのは空蝉だから。
言葉にしたらきっと目の前が見えなくなってしまう。
そうすれば、二人の大切な少年達を困らせてしまうだろう。
このまま何事もなかったかのように過ごしていれば誰も傷つけなくて済む。
悲しみというガラスの破片を握り締めているのは自分だけで良かった。
彼らに気づかれないようにそっと指の腹で雫を拭う。
ほとんどの打ち上げ花火が終わると、中年女性のアナウンスが入った。
『これで、ほとんどの打ち上げ花火を終了します。尚、この後に催します
「恋句」は今日いらっしゃいましたカップルの皆様に送ります私達からの
メッセージです。準備の方が終わりますまでしばらくお待ち下さい』
それが入る前からぞろぞろと帰り出していた人々は、歓声に酔いしれていた。
「良いなぁ……やっぱカップルで見るのと一人で見るのでは全然違って
見えるんだろうな」
そう言って笑う彼女を黙って二人の男達は見下ろしていた。
恒例の花火大会のメインである「恋句」は、全国の花火師が恋人達に
送る応援である。
恋する気持ち、大事にしたい気持ち、今だからこそ伝えられる愛の形など
様々な想いをイメージして作ったものだ。
それを毎年心待ちにしてやってくるファンもいるが、ほとんどはぞろぞろと
どこかへ姿を消してしまうのが大半だった。
この仕掛け花火は他のものと比べ大きく、視力さえ良ければちょっと離れた
場所から観ても大丈夫なようになっているのだ。
これも恋人達への粋な計らいである。
「さっ、私達も帰ろう?」
そう言って、先を歩く少女に近寄る足音はない。
すでに大半の観客はどこかに消え失せ、遠くの方から残り香がするぐらいだ。
だから、そのことに気がつかないはずはないのに、はスタスタと前に
歩みを進める。
振り返ることができなかった。
いや、振り返ることを恐れていた。
こうして、もし、あの時のように足を止めて振り返ってしまったら……。
「っ!」
「えっ…」
そう短く叫んだ本人は今にも涙を零しそうになった彼女の体を背後から
抱きしめた。
その温もりには覚えがある。
これまでも何度かそれに救われた。
だが、もう、その存在にすら何の躊躇いもなく甘えることは許されない。
その正体は…。
「宍戸の温もり」 ≒ 「黒羽の温もり」