雲煙過眼


      「山南さん、起きているか?」

      元治元年文月のとある深夜、新選組の総長である山南敬助の部屋をある長身の

      影が訪ねてきた。

      この部屋以外はすっかりと闇の中で静まり返っているものもあれば、虫の音

      と同様に高鼾が聞こえて来る。

      かと、言って電気がない時代だ。

      部屋の中を唯一照らすのは行灯の明かりだけで、何とも頼もしく視界を

      助けてくれる。

      傍から見ても況して遠くから山南の部屋を見ても、怪しげに捕らえてしまうのが

      当たり前だろう。

      「土方君かい?あぁ、入ってくれ」

      ちょうど、塾の授業のことを考えていた彼は二つ返事で了解した。

      調べものしていたため、夜着には着替えてはいない。

      それに、新選組と言う組織に身を置いているためか、なかなか普段着から

      丸腰同然の薄布を身にまとう気にはなれなかった。

      障子に映った影を見つめたまま、人差し指と中指で眼鏡のズレをそっと直す。

      この部屋もそうだが、ただでさえ仄かな灯で映し出された彼も十分怪しげ

      である。

      「失礼する」

      木目の擦れる音と共に障子が割れて表れた土方はいつになく無表情だ。

      まぁ、この男性が副長助勤八番隊組長である藤堂平助のようにころころと

      表情が変わったら、この新選組の重々しい掟などは常に守られていないだろう。

      「どうしたんだい?こんな夜更けに」

      「ああ、山南さんに言いたいことがあってな」

      「僕に?はは、君からそんなことを言い出すなんて何だか怖いような気も

       するな」

      障子を閉めてから衣の擦れる音だけがこちらに彼が近づいてくることを伝える。

      仄かな灯火が揺らめいているからとは言え、廊下から顔を出した者の表情が

      そうも容易く掴めるような照明器具ではなかった。

      先程、薄暗がりの土方の表情が解ったのは、長年の付き合いと感と言う当たり前

      のことであって、眼鏡所持者であるこの男性が特別視力に恵まれている

      わけではない。

      敷き詰められているい草の上を歩く足を自然と音を立てぬよう運んでいる

      のが、今日までの経緯を物語っているようだ。

      新選組のやっていることは決してキレイ事だけではない。

      町民を守るの天子様を守るのだと言っても、何人もの人間を手にかけて来た。

      その中には何ら自分達と変わりのない志を持った者もいる。

      本当に何の根拠もない輩もいたが、それだって一握りの明日を胸に秘めて

      いたに違いない。

      彼は、悩んでいた。

      自分は、この新選組に必要なのだろうか、と…。

      このまま自分より十以上も歳の離れた彼女が提案してくれた塾を切り盛りし

      ながら剣とは無縁の世界に身を置いた方が合っている。

      「もう、俺が何を言いたいか解っているよな?」

      「……あぁ」

      霞んだ灯に姿を現した男性の表情はやはり無表情で、何処か常とは違う気

      を放っている。

      それは自分にもあるだろうかと思い、片手で眼鏡を外した。

      視界がぼやける。

      その中に在る色に土方が目の前にいることが判る。

      外した眼鏡の双方のレンズには一人の存在がこちらに向かって笑いかけていた。

      彼は、愛していた。

      この新選組よりも…発明よりも…。

      目を細めてからもう一度掛け直し、再び目の前にいる彼を瞳に宿す。

      「他でもない。のことだ」

      彼らは、今、一人の女性を愛している。

      「俺は自分がしてきたことは間違っちゃいねぇと考えている。だが、強いて

       挙げるとしたら山南さん。あんたにあいつといる時間をやっちまったことだ」

      それは気まぐれな神の悪戯かそれともこれは運命なのか、互いに同じ存在

      に惹かれ強く欲している。

      だから、彼には土方が何を次に切り出すかも解っていた。

      今、彼が切り出さなければこの男性が逆の立場にいたかもしれない。

      「次回の剣術の講義で久しぶりに俺と勝負しょうじゃねぇか、山南さん。

       この勝負に勝ったら……解っているよな?」

      「……雲煙過眼だね」

 

 

      「それでは…始め!」

      「はあっ!」

      元治元年葉月。

      新選組の屯所では子供達の声援よりも低く、最も大きな声が二つ存在していた。

      「…むんっ!」

      「でやぁぁぁっ!!」

      一方は、新選組の総長である山南敬助。

      彼は、文武両道であるが故に、隊内で奇天烈な発明をしてはある意味恐れられ

      ている人物だった。

      木刀を手に相手を押している姿がものを言っている。

      「くっ…!」

      そのもう一方の人物はどうやってこの場を覆してやるかと考えているのか、

      眉間にシワを寄せたまま山南の瞳をじっと見続けている。

      それには違ったものが互いに過ぎっているのが、暗黙の了解で伝わっていた。

      木刀とはいえ、見事な剣捌きにその場に居合わせた誰もが息を呑んだのは

      言うまでもないだろう。

      「うわぁ…山南先生、すごく強い!」

      子供達の中の一人である小六が感嘆のような独り言を呟いた。

      この少年は彼が開いた塾の生徒で、取立て成績優秀である。

      大人の勝負と言うものを間近にしても凛としたもので、目を輝かせてその先の

      二人の姿を追っていた。

      「うん…そうね」

      しかし、その隣に立つ少女は何処か不安そうな面持ちをしており、頻りに

      彼らの事を心配していた。

      彼女の名は

      女性の身でありながら新選組の中で隊士として暮らす紅一点である。

      だからであろうか、仲間内にはのことを好ましく思わない者が多かった。

      彼女は剣で身を立てると言う夢からしても他の女性よりも気が強いのだが、

      こうも毛嫌いされるとなかなか感慨深いものがある。

      だが、今、目の前にて木刀を交じえている二人を含め、隊長格とも呼べる

      人材はいつものことを案じ、まだ小さすぎる掌を握ってくれていた。

      (山南さん…土方さん…)

      周囲にいる子供達に気づかれないように唇を噛み締める。

      胸の内では何故彼らが試合をしているのかが分からなかった。

      二人にとっては単なる肩慣らしであるなんて解りきっているのに、それでも

      何処かいつも見慣れている姿とは違う。

      「ふん…相変わらず教本のような攻めをしやがる」

      「きみの方こそ…」

      互いに睨み合いながら次はどうするべきかまたは、相手がどう動くかを観察し

      あっている。

      これが木刀などではなく真剣勝負だと思うと、ぐっと来るものがあった。

      「相変わらず定石無視の攻めじゃないか…」

      「言ってくれるぜ…」

      土方の木刀が交わりから離れる瞬間、山南は後方に下がって茶の刃を構え直す。

      その瞳にはいつもの優しい彼からは想像も出来ないほど熱く、そして悲しいもの

      が感じられた。

      最近の山南敬助と言う男性はそうだ。

      何かをいつも以上に抱え込んでいるようでこちらが話しかけても時々、ボーっ

      としていることがある。

      自分はただの平隊士だからどうだって構わないが、ただこれが子供達や他の隊長

      の前でやって欲しくなかった。

      ある意味、彼を独り占めにしたいのかもしれない、と思えば恥じらいと戸惑いが

      甘いものを食べた後に飲む抹茶のように感じる。

      彼女は確かに誰かを愛している。

      しかし、それが誰なのかを決めるのを怖がっていた。

      それは、少女から大人の女性になるのを恐れているのか、それとも……。

      「ぐむっ…!」

      山南が一瞬怯んだ隙を土方が見逃すはずがない。

      「うおぉぉぉっ!」

      木刀が二、三度ぶつかった衝撃音の後、一つの信念が宙を高く舞い上がる。

      それは試合の終わりを意味するもので、何かの始まりを告げていた。

      「そ、そこまでっ!」

      思わずそれを見送ってしまい、鋭い切っ先が地面に突き刺さった音でようやく

      声を出した。

      どちらが勝ったのか、と言うことよりも二人のことが気になる。

      いつもとは違った気を放っていた双方、平隊士のが敵わないほど強いのは

      十分に理解しているつもりだ。

      だが、そんなことよりも案じているのは、彼らの身だった。

      「勝負あり!勝者土方さん!」

      視界に映ったのは彼が木刀の切っ先を塾長の喉仏を突き刺すような体制だった。

      勿論、これは勝負であって真剣勝負でないことくらい百も承知だ。

      しかし、声色が常を保てず、審判を二人から頼まれていなければ今頃
飛び

      出していただろう。

      この答えの分からない気持ちが彼女をそう奮い立たせているのかもしれない。

      「思ったより腕は錆びちゃいなかったな…」

      後半で追い上げた土方は、額に浮かんだ汗を袖で拭いながら珍しく清々しい

      笑顔を見せる。

      彼がそんな表情をこんな公の場で披露するのは稀な事で、子供達は例外だが、

      常に一つ屋根の下で暮らしている少女としては我が目を疑うほど信じ難い

      ものだった。

      「口だけで教えるわけにはいかないからね」

      前半有利だった彼の方は懐から紙を取り出して汗と一緒に疲労を拭い取っている

      ようにも見える。

      だが、眼鏡のズレを押し上げて直した瞳には隠しきれない想いが泳いでいる。

      速すぎる鼓動を抑えながら足を勝敗が決まった彼らに向けた。

      そうしてなければ、今にも走り出してしまいそうだから…。

      口調はいつものように優しいのに、何かを諦めてしまった山南を支えて

      あげたい。

      しかし、自分の傍に歩み寄ったを笑顔で制し、離れた場所に突き刺さって

      ある木刀を取りにいって欲しいと無言で命じた。

      「この後は道場で講義だ。良かったら見学していくかい?」

 

 

      「そこは、竹刀をこう持って…そう。それで振ってごらん」

      「はいっ」

      それはいつもの剣術の授業中に起こった。

      彼は当初庶民に教えるのは、と躊躇っていたが、これも彼女が薦めた成果だ。

      大切な人を守りたい気持ちは新選組も庶民も関係がない。

      逃げると言う選択肢だけではあまりにも惨め過ぎる。

      もし、戦うと言う術を少しでも知っていればそれは歴然としたものになる。

      「別に我流であることが悪いとは言わないが、今指摘した点は早いうちに

       修正しておいた方がいい」

      生徒の頭を撫でて褒めている顔をそっと盗み見る。

      やはり、山南は優しい。

      彼は剣を振っているよりかこうして学ぼうとする者達を優しく見つめている方が

      似合うのではないだろうか。

      だが、これはあくまでも一平隊士である少女が思ったことである。

      それを口にするほど愚かではない。

      「しばらくは以前のやり方が癖となって出てくるはずだから、常に気を付けて

       振るといいだろう」

      「解りました」

      山南に教えられた子供もそれにつられて笑い出す。

      そんな光景をいつも見ている度、幸せな気持ちで一杯になる。

      この感情の名は知らないが、きっと今、感じているものに繋がっているはず。

      それは雨足が遠のいた日差しに浮かんだ虹のように儚いけれど、追いかけ

      ればいつも誰かがその袂で待っていてくれる気がする。

      「あれ?」

      視線をそれから外すと、土方がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

      こんな時間に彼が外に顔を出すのはおかしい。

      いつもは屯所内で何かを考え込んでいる姿が良く目に映ったのを記憶していた

      からだ。

      「今日は剣の講義か…」

      「ええ、そうなんです」

      「で、どんな調子だい?」

      「結構いい感じですよ。筋のいい子もそうでない子もいますけど、みんな

       グングン伸びてます」

      初め、この塾を開くに当たって無関心だった土方が興味を持ってくれて嬉しい。

      そうではなく単なる気まぐれだとしても、その貴重な時間に楽しく学んで

      いる子供達をその目に映してくれるだけでも大きな収穫だ。

      「ほう…剣の英才教育しているようには到底見えねぇがな…」

      そう言って、子供達の輪にいる彼を見つめたままポツリと謀を口にして

      もは気にしなかった。

      「…ひとつ試してみるか」

      それはあまりにも常の土方歳三を保ったままの声色だった。

      すたすたと彼の方に歩み寄る姿からも何も感じられない。

      ただ、予感したのは、何かの始まりだった。

      「山南さん」

      「おや、土方君。珍しいね。子供たちの授業に興味があるのかい」

      彼の声で振り向いた顔はやはり、笑っている。

      しかし、目が合うと、何かが光ったのを彼女は感じた。

      「そんなたいそうなコトじゃない。たんなるヒマつぶしさ」

      「面白い冗談だな。きみにヒマな時間などないだろう」

      も心の中で相槌を打つ。

      「そうでもないさ」

      二人の視線を受けた土方は彼から外した刹那、彼女を瞳に宿す。

      (えっ?)

      だが、それはあまりにも時間がなさすぎて向けられた視線はもう、山南を

      映していた。

      切れ長の瞳に宿った自分はどう思われていたのだろうか。

      「ちょうど剣の授業中だ。せっかくだから久しぶりに俺と勝負してみないか?」

      「えっ…?土方さんと山南さんが?」

      正直言って、どちらが強いのかと素で考えてしまった。

      しかし、それ以上に何故二人がこの場で勝負するのか意図が分からない。

      先程の彼の瞳を思い出す。

      一瞬だったが、射すくめられたような気持ちに陥ってしまって呼吸が苦し

      かった。

      土方歳三と言う人物には、眼力と言うものがあるのではないだろうか。

      現に、視線が外された今も、何故、刹那に自分が宿されたのかと考えていた。

      それをが理解するのは夕刻だった。

      「そうだな…。子供たちにも参考になるかもしれないね」

      眼鏡の位置を直した彼は普段、こんな話に簡単に乗る人物ではなかった。

      「よし、久々にやってみようか」

      「あんたの腕がなまってなけりゃいいがな…」

      だが、今日だけは違った。

      彼はシメた、とでも思ったのか、顔が緩んで笑っているようにも見える。

      「ははは、まぁ、やってみようじゃないか」

      一方、山南は笑顔のまま木刀を構えていた。

      それが更なる決定事項になり、もはや止める術はない。

      (止める?……何故、私が止めたいの?)

      自分が思ったことに不意に悩んでいると、二人から審判の依頼を受けた。

      それは今から思えば、最終警告だったのかもしれない。

 

 

      「先生、さよーならー!」

      「ああ、気をつけて帰るんだよ!」

      時刻は真夏の夕刻。

      蜩が油蝉に代わって鳴き始めた。

      まだまだこの季節は始まったばかり、と言わんばかりに鳴く他の蝉とは違って、

      何かの終わりを告げている。

      それはいつか終わる夏への悲観かそれとも、もう気づいているだろうと

      に知らせているのかもしれない。

      「山南さん…少し言わせてもらってもいいか」

      それまで道場の後ろで明らかに眉を潜めていた土方が彼の後方より現れた。

      やはり、顔を険しくさせているままだ。

      「ああ、おおよその見当はついているよ。きみが何を言いたいのかね…」

      しかし、彼は涼しいもので、真っ直ぐその怒りの瞳を見つめ返した。

      まるで、短い夏を歌う蜩のように……。

      「あんた、自分が何を言ったか分かってるのか?」

      返された方は返された方で、まるで、他の蝉たち同様にまだ夏を恋しがっている

      ようにも思えた。

      いずれ迎える終焉の時、彼らは何を思って何を心の底から良かったと思う

      のだろうか。

      「あんたは新選組の総長なんだ。そのあんたが自分から新選組を否定して

       どうする?」

      「確かに、綺麗事だけでやっていくことは無理だろうさ。俺たちが清廉潔白だ

       とも言わねぇ!」

      「だがな…」

      彼の言いたいことは一平隊士である彼女にも解る。

      新選組を一番に考えている土方だからこそ、こんなに言葉が怒りと共に溢れ

      返ってしまうのだろう。

      感情を普段表すことが少ない彼としては珍しいのではないだろうか。

      それほどのことを山南はやってしまったのだ。

      だが、隣に立つ彼は黙ってその言葉に耳を傾けるだけで、後悔はしていない

      ように見えた。

      これはずっと考えていたのだろう。

      逆に、すっきりとしたようにも感じられた。

      「あんたは自分の中の理想を語るだけで、現実の自分にはちっとも目を向けちゃ

       いない」

      一方、噴き上がった気持ちを抑えきらない土方は言葉を続けていた。

      まるで、夏にしがみついていたいとでも言うように…。

      「そんなあんたが子供たちに教える資格なんざないんじゃねぇのか?」

      その一言に彼の視線は沈んでしまった。

      本人も予想していたのだろうか、唇の端をそっと噛んでいる姿が何とも

      痛々しい。

      しかし、それを口にしてしまった彼だって何かを堪えているように見える。

      こんな時、何も出来ない自分が悔しくても黙って胸元を押さえた。

      動悸が速くなっている。

      今まで二人の間で生活してきたと言っても過言ではない。

      その彼らがこうして別れようとしている姿がイヤだった。

      本当にそれだけ?

      何処からかそんな声が不意に、舞い降りる。

      彼女が手を当てている場所には二つの異物があった。

      一つは更紗眼鏡…そして、もう一つは細長い札だった。

      どれもがまるで、を守ろうとしているかのようにも感じられる。

      「俺は、自分の道を後悔したことなど一度たりともない」

      「どれだけ自分の手が血まみれになろうとも、俺はその手でメシを食い、

       女を抱く!」

      「なぁ、山南さん…あんたはそうじゃなかったのか…?」

      「血にまみれた自分の手をながめて、つまらねぇことをしたとでも思い続けて

       きたのかよ?」

      やはり、彼は黙っていた。

      それは、少しでものの良心の表れなのか、それとも。

      「刀に頼むことのみが、正しい道とは限らない。彼らの貴重な選択肢を握り

       つぶすことはしたくないんだ」

      そして、山南は重くなった唇を開いた。

      「私は間違っているとは思わない。より正しい方法を選ぶことのできる

       理性は大切だ」

      それは、間違いなく対等の意思を表明するものだった。

      「そういう意味じゃないんだ…俺が言いたいのは…」

      それは、当の本人にだって解っていることだろう。

      文武両道でしかも、これまで新選組の総長を勤めてきた男性だ。

      頭脳は人一倍回転をさせて悩んできたことだろう。

      だが、こうして仲間の一人である彼に言いたくはなかったのか、黙っても

      尚も、何かを言いたげな顔をしていた。

      「腕は錆びちゃいなかったが…心が錆びちまっていたとはな」

      しばらく黙っていた土方は山南を睨みつけ、静かに吐き捨てた言葉がせめてもの

      優しさだったのだろう。

      そのまま彼は背を向けて屯所内に入って行ってしまった。

       「山南のことが気になる」      ≒      「土方を追いかける」