1998年


 世界最大規模にして、有機農業を基礎となす小規模農業への転換が、第三世界で起きている。鉄のカーテン崩壊が影響した予想外のことのひとつは、キューバで有機農業が増えたことだった。

フェルナンド・フネス博士

 フェルナンド・フネス(Fernando Funes)博士は、キューバ有機農業協会の創設者の一人なのだが、サンフランシスコのMission地区で、の主題について講演をした。ホールは満席で、その後には、キューバの農民や農学者とのインタビューを撮影した写したジャイム・キベン(Jaime Kibben氏)のフィルム「Greening of Cuba」が放映された。インタビューの合間には素敵なサルサの音楽がたくさん流されたことは言うまでもない。

 講演の冒頭で、フネス博士は「もしキューバに行ったことがあれば、手をあげて欲しい」と頼んだ。講演会場にいた5人ほどが手をあげた。米国では、キューバに行くことは、2年の投獄と1万ドルの罰金対象となるのだが、幸いなことに、会場には、そんなことを特に気にかける人は誰もいないように思えた。

■産業的な農業から市場向けの菜園まで

 鉄のカーテンが倒壊するまで、キューバ農業は、石油、農薬、化学肥料に大きく依存しており、かつ、その大半が東側諸国から提供されていた。キューバの貿易量の75%は、東側諸国とのもので、ソ連はサトウキビの販売に対し、約300%もの助成金を支給していた。キューバ農業を可能な限り「近代化」することが重視され、政府は「緑の革命」をとても誇りにしていた。だが、ソビエト圏崩壊後は、このすべてが劇的に変わった。石油供給量が突然80%も減り、化学肥料や農薬の値段はあがり手に入れることが難しくなった。これに加え、キューバは30年の長きにわたる米国の経済貿易封鎖による不自由にも対処しなければならなかった。こうして、1990年代はじめに、有機をベースとした小規模農業への最大規模の転換が起こり始めたのだった。キューバでは、広大な国営機械化農場が卓越していたが、その多くは、今では、小規模で化学薬品をほとんど使わず機械化もされない農場へと変ったのだ。

 特定の作物を一定量を栽培することと引きかえに、農民たちは政府から農地を得られるし、自分たちで菜園を広げることも奨励されている。政府から求められた以上の量を生産すれば、何であれ、農民市場で売ることができる。市場での競争は激しく、食品の質は常にとても高い。キューバでは、一般に認められているように、大きな所得格差がないが、フネス博士は「農民市場の人気が高いため、キューバでは新たに農民となった小規模農家が国内で最も金持ちであろう」と語った。それに加え、より大規模な「オルガノポニコ」で野菜を集約栽培することで、キューバの都市ができる限り自給できるようにする運動もある。ハバナではいま、26,000人が都市菜園に参加している。

■牛への回帰

 1990年代のはじめには、近代化への転換が「成功」し、キューバには75,000台以上のトラクターがあり、年間50万トンもの肥料が使われていた。だが、いまキューバ人は、伝統的な農法を再び学び始めている。トラクターにはどうしてもいくらか限界がある。どんな状況下でも牛が働くのと比べ、トラクターは土が乾いていないと使えない。キューバでは牛が完全に失われたわけではなく、個人農場ではまだ使われていた。だが、その数は1950年代の40万対から1980年代には1,000頭と相当減っていた。だが、その数は、いま再び30万対以上まで増えている。これが成し遂げられたのは、農民たちが食用に牛を殺すことを止めさせるキャンペーンの結果だった。

 とはいえ、牛には餌が必要なことから、ここしばらくは、まだいくらかの機械化は必要だし、住民の80%が都市に居住している中、機械化は稲作用にも必要とされている。だが、フネス博士は、たとえ米国が経済封鎖をやめたとしても、キューバは、全体としては有機農業に専念し続けるだろうとの希望を抱いている。有機農法への転換度合いの正確な統計数値はないが、フネス博士は、完全な有機ではないとはいえ、農業の90%が準有機であると評価している(約5%が完全に有機である)。

■変革の探求

 キューバは1970年代から生物的病害虫防除の研究に資金提供をしてきたが、いま政府はバイオ肥料の研究に資金を投じている。農民たちは、土壌に「窒素固定」するため、マメ科植物を使うことや、それぞれの作物が他の作物の害虫を防除するように作物を混作すること(例えば、トウモロコシをマメとを一緒に栽培)、そして、土壌にミミズを「移植」することを奨励されている。そして、農民たちはそれ以外の方法でも、現場に応じてやりくりすることを奨められている。ビデオ・フィルムは、電気柵を作った農民が、古い自動車のフロント・ワイパーのモーターで、小さい風力発電を使うことで、作物を牛から保護していた。また、キューバへの医薬品販売が米国により禁じられていることをできる限り埋め合せるため、政府はホメオパティク薬品の研究にも資金を準備している。

 変化の劇的な性格は、こうしたことのある部分を極めて困難にしていた。以前の体制下では、キューバ農業は、サトウキビを主な収入源とし、生産物の50%が輸出されていた。だが、この変化によって、サトウキビ市場は暴落し、化学肥料の供給も80%減った。作物のいくつか、とりわけ、コメ、ジャガイモ、サトウキビは、有機生産に転換することが困難だった。そのうえ、農民も研究者も「緑の革命」のやり方で教育を受けていため、多くの理論を再び学ばなければならなかった。

 転換を支援するべく、有機農法教育を人民に行う目的で、1990年代のはじめにキューバ有機農業協会が作られた。協会はキューバでは稀なことだが、NGOであり、政府にアドバイスを行うとともに、米国市民やラテンアメリカの人々を含め、数多くの外国人の会員も増やしている。

 協会の調査結果には、キューバでは牛は1ヘクタールの土地に放牧されるが年間の乳生産量は2,000リットルだが、同じ1ヘクタールでも、それを有機農業での作物栽培を行えば7トンの食料を生産できる、というものがある。現在は、有機栽培での砂糖生産と牛用の新たな機械開発の調査が行われている。牛は効率的で、かつ、土壌にダメージも与えないのだ。

 この変革はキューバをある程度、西側社会にさらすことにはなった。だが、キューバの所得水準は、いまだに比較的に公平だ。フネス博士の月収は28ドルだが、博士は広い住宅の家賃が1.3ドルで、大学生の息子の学費は無料だと語った。

 鉄のカーテンの崩壊によってもたらされた経済不況の後、キューバ経済は、再び健全化しつつある。その一部は小規模農業、有機農業へのシフトの結果だ。キューバの平均寿命は78歳である。

(An Caorthannのホームページからの記事)
  Caroline Whyte, The greening of Cuba,1998.

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