1999年秋

フィデルの農業

 ハバナは、時が止まったような印象を与える。1950年代の錆びついたChevyがなんとか路上を走っている。キューバ人たちは巧妙で、廃棄された金属片をガスケットやシリンダに変えられることで、それは維持されているのだ。建築は文字通り、ぼろぼろに崩れており、自転車が電気がないハバナの暗い夜道を通っていく。キューバではモノ不足が暮らし方になっている。

化学農薬と除草剤不足によって、キューバには有機農業が定着している。たぶん、米国の経済封鎖はすべて悪いわけではないのだ

 1962年から経済封鎖ははじまり、キューバ人たちは多くの基礎的な必需品なしにやりくりしなければならなかった。だが、米国がさらに経済封鎖を強化し、事実上、キューバのライフラインを断ち切ったとき、石鹸、歯磨、衣服、食物さえ家宝になったのだった。そうした結びつきから切られれば、成り上がりの革命家たちは、退場することを強いられると考えるのが普通だろう。だが、経済封鎖はキューバ人たちを落ち込ませるのではなく、そのユニークな創意工夫力を奮い立たせたのだ。

 この戦いは遠大なイノベーションを産み出したのだ。キューバはある種のタイムワープかもしれないが、その孤立が将来的に国を助けることになる解決策を産み出したのだ。ハバナのストリートを散策してみれば、そうしたイニシアチブの1つが明らかになる。新たな形式の農業がキューバに定着したのだ。

「これは農業に対してずっとホーリスティックなアプローチなのです。それはキューバにとって良いことでしょうか。もちろんです。そして、それは良くなっています。ここ数年で、多くの進展がありました」

 ハバナにある有機農業グループ(Grupa de Agricultura Organica)のフェルナンド・フネス(Fernando Funes-Aguilar)博士は言う。

 エネルギッシュな農民たちが、高まる運動の一部であり、それがキューバをもっとも遅れた生産国からオルターナティブ農業のアプローチのリーダーに変えた。まさに10年で、キューバ中の都市や町では、空き地、野球場、屋根、そしてどんなやせた空間も菜園でいっぱいとなり、その多くは殺虫剤も除草剤もなしで栽培されている。

 フネス博士は言う。

「都市農業、有機農場が基本的なニーズから発展していることは、まさに必要が発明の母である国では、さして驚くべきことではありません」

 カリブ海の国で幅広い研究をしているトルロのノバ・スコティア農科大学のラルフ・マーチン(Ralph Martin)教授は言う。

「キューバでは、多くの農業がモノ不足から有機になっています。彼らには除草剤や殺虫剤を買う資金がないため、それなしで農業をするやり方を見出さなければならなかったのです」

キューバ人たちは、米国の経済封鎖のために、自分たちが手にするものでやりくりすることを学できた。いったい、どうしてなんとかやりくりしていくのかを聞いてみるがよい。「inventamos、我々は発明をする」、そう人々は口にすることだろう

 この変化は、ソ連自身が経済不況を切り抜けられなくなり、30年間以上キューバにたれ流してきた資金援助をやめた1989年に始まった。キューバは最暗な経済恐慌に落ち込み、もはやロシアから補助金を上乗せした輸入にも、ソ連に砂糖を売ることで多額の利益を上げてきたことにも依存できなくなった。そして、その影響は、ヘルムズ-バートン法によって激化した。キューバと貿易をはじめとする会社に圧力をかけたり、既にキューバで運営している会社を罰する米国の法律である。

 フィデル・カストロ国家評議会議長は「スペシャル・ピリオド」として婉曲的に知られる厳格な抑制と削減を1989年に導入することで、これに応じた。電気、燃料、衣服、医薬品と食料の供給は格段に減った。1989年から1993年の間に、キューバの総輸入額は70%も縮小したのである。

 ソ連の退出によって最も打撃を受けた産業のひとつが農業だった。輸出用ではなく、国内用の食料を生産するうえで殺虫剤や肥料が必要となった。だが、生産物を大型市場に流通させるトラック用のガソリンは不足し、ロシアから輸入されてきた大型農業機械の流れも止まった。農民たちに交換部品を提供するものはまったくいなくなり、壊れたトラクターがほ場で遊ぶことになった。キューバ農業は、それらがなければ停止してしまうソ連から供給された化学物質や機械に依存するようになっていたのだ。

 統計数値は、コストを示唆できるだけだが、食料生産の落ち込みで、90年代前半ではカロリー摂取量は約30%低下することになった。一日一人当たりの平均タンパク質の消費量は27%も低下した。キューバ人たちは飢えた。そして、約250万人の都市ハバナが最も打撃を受けた。キューバの北海岸に位置し、農業地帯から比較的孤立している首都が、最も食料不足の最中に置かれたのだった。

 農村部から食料を輸送、冷蔵するうえで必要な燃料の供給が不足し、国の配給は、1カ月のうちたった1週間分をまかなえるだけになった。深まるモノ不足により、多くのキューバ人たちは自分たち自身で物事をやることになった。文字通り、彼らは、都会であるハバナの中ででさえ、自分たち自身の食べ物を栽培しはじめたのだ。

 カリフォルニア・オークランドにあるフード・ファーストの「キューバ有機農業交流プログラム」の責任者、マルチン・ボルクエ (Martin Bourque)氏は、「人々は、種子をまくために、自分たちの裏庭、屋根、近隣空き地に向かった」と語る。

 初めは、ごくわずかの土地がかかわるだけで、一握りの根菜類が含まれるだけだった。だが、住民たちが乏しくなった政府からの配給に対して菜園が対応できると理解すると、それは急速に普及していった。

「それは本当の発展です。本来は人民たちが土地を手にしたとき、それは始まり、栽培する何かを見出したのです。今、通りを行けば、住宅、ビルを目にし、そして菜園を目にすることになります。キューバに行くたびに、私はそれがいかにうまくいっているか、そして、どれほど大きいのかに驚かされます」

 ボルクエ氏らのグループは、キューバの農民たちと情報や専門技術をわかちあっている。最もメリットのある菜園は、キューバ全域の都市に生まれた自給菜園である。これらは個人が維持する小区画の土地で、中央政府からの統制はさほどない。

 ハバナの15区には、約3万と評価される個人菜園、ウエルトス・ポプラレス(huertos populares)があり、その多くは、キャッサバ、タロイモ、コリアンダー、たまねぎのような伝統的な作物を生産し、人々の食料の30%を提供できている。そして、企業、学校、病院もその食堂やカフェテリアに食料を供給するため、菜園を開拓した。

 セントロ・アバナのハバナのプラサ・デ・ラ・レボルシオンからたった数分の小さな土地で、ホルヘ・アンツニス(Jorge Antunis)氏は、土から根を引っこ抜いている。

「何年も前には、ここには何も植わっていなかったんですよ。土地は石ころだらけで、最初は痩せていました。私らがやらなければならなかった最初のことは、新しい有機質土壌と厩肥で土を再建することだったんです」

 そう、ホルヘ氏は開発誌New Internationalistとのインタビューで語る。菜園は、約1,000平方メートルの広さで、いま、ホルヘ氏やその近隣で暮らす他の6世帯に、バナナ、トマト、サトウキビ、キャッサバと食用バナナと豆を提供している。

■キューバ人たちは、駐車場、野球場、前芝生、そして屋上を都市菜園でいっぱいにした

 長い間、私的利益に対しては不快感を示してきたことで知られているキューバ政府は、いつになくこの動きを支持した。農業省はそこに直ちにポテンシャルを見出した。小規模農場で働く個人やグループは、飢餓を軽減できるほど十分な食料をとても廉価に生産できていたのだ。

 1991年、農業省は、農場を公式に認める手を打ち、「人民と大地との結びつけ」と呼ばれるプログラムを導入する。それが、国営農場で労働者が直接的に土地や生産した農産物に責任があるようにした。

 おそらく、モノ不足から免疫不足を示すため、農業省は20階建てのガラスとコンクリートのオフィスの正面の芝生を菜園に転換した。省職員にキャッサバ、バナナ、豆を提供するためである。

 「それは、建物の内外を歩く誰にとっても、大きな影響力があります。『我々は、ただそれを口にしているだけではなく、それをやっているのだ』と示しているからです」

 そう、ボルクェ氏は語る。

 農業省は、住民たちが、物資を買い、病害虫が作物を痛めることを防ぎ、殺虫剤を使わずに何をうえ、どう育てるのかのアドバイスを入手できるリソースセンターを何百も設置した。ハバナでは、どの地区であれ、菜園を注視し、人民が土地を手に入れ、コミュニティ・クラブを形成することを支援し、園芸に関する技術的な質問に答える職員がいる。

「人民たちは、自分たちの農業史を失っており、どこに行くか、そして、何を育てるか、そして、またはどのように種をまくかについてほとんど知りませんでした」

 ボルクェ氏は毎年、少なくとも1カ月をキューバで過ごすのだが、こう語る。

 だが、有害な化学物質や石油で動く機械に依存した以前のやり方に戻るかわりに、農民たちはモノ不足によって、やむを得ず、環境に優しいアプローチを用いている。殺虫剤が稀となり、ある場合には使うことが違法でもあることから、農民たちはほぼ完全に有機で作物を生産している。そして、農学者たちは、病害虫に対処するための印象的な生物兵器も開発した。高価で不十分となった燃料に依存するソ連時代のトラクターをおき替えるため牛も飼育されている。

 南海岸に面したシエンフエゴス州はこうした新たな農業アプローチの最高のモデルのひとつとなっている。5万800以上の大小規模の個人菜園が州内にはあり、シエンフエゴス市内には120以上の菜園がある。市はその15万6000人の住民を養い、オルターナティブな農法を開発する必要性に突き動かされ、本気で呼びかけを始めた。

 シエンフエゴス大学のアグロエコロジーの教授、アレハンドロ・ソコロ(Alejandro Socorro)はこう述べる。

「キューバでは、これが社会主義圏の崩壊と米国の経済封鎖による食料危機に直面する中で、唯一の方策として政府により支持されている人民の運動なのです。彼らは、都市内の駐車場や開いた土地といった未利用地の都市空間にいます。今の問題は、新しい栽培する場所を見つけることにあります。その理由から、ポテンシャルは都市の境界の郊外まで行くことでしょう」

 ハバナ郊外にある以前の野球場では、国営有機農場オルガノポニコで、労働者たちが、完全に自然なやり方で作物を扱う方法を工夫している。作物は、高くしたセメントのベットで種を蒔かれ、近くのココナッツの木の葉から作った堆肥で肥よくにされている。厩肥は、地区のほ場を耕す馬に取り付けられたキャンバスバッグから集められる。インド原産のニームの葉をつぶした天然の殺虫剤も開発されている。そして、廃棄物を豊かな土に分解するミミズが満載されたタンクから堆肥が取り出されている。

「キューバは既に他の国のモデルとして見られています。彼らはとても洗練されているのです。キューバはバイオ的な病害虫管理の開発でそれ以外の国よりもはるかに前進しています。それは、既に他の中米諸国にも輸出されており、世界の多くの貧しい地域、あるいはより豊かな地域でも使えるのです」

 ボルクェ氏はこう語る。

 必要性はそれ以外の部門でもオルターナティブを生み出している。キューバ人たちは電力不足のため、ソーラー・エネルギーで実験を行っている。そして、医療の世界もそれ自身の革命を受けている。不十分となった医薬品なしで人々を治療する他の方法を医師たちが探しているのだ。ソ連が撤退するまでは、近代的な抗生物質が安定供給されていたが、それは、キューバが、ホメオパシー療法や針療法、天然の医薬品のようなオルターナティブ医療に投資し、都市菜園での薬草栽培の奨励を引き起こした。

 物不足はキューバで哲学的な変化も引き起こしている。

「スペシャル・ピリオドはキューバの偉大な教師です。なぜならば、私たちがこの困難な状況下で抵抗する方策を見出さなければならなかったからです」

 ハバナの健康省のマルタ・ペレス(Marta Perez)自然・伝統医療局長は言う。

■発明が必要の母であるなら、キューバは、それ自体がそのモデルであることを実証している

 ボルクェ氏も同意する。

「人民たちはそれを苦労のよい面と呼んでいます。キューバ人たちは、不足で落ち込んだ農業や医療が、転換し、より健康で、より強い産業へと花開いているのかを目にし、経済封鎖や物不足を違った角度で見始めたのです」

 キューバ人たちの食習慣も改善されている。1980年代には伝統的な健康食が輸入缶詰で押しのけられていたが、より伝統的な食に戻ってきている。いま、キューバ人たちは15年前よりも多くの野菜を食べており、新たに民営化された市場で生産物を買える事実を喜んでいる。

 さらに、キューバ人は、活力を失い1993年に政府によって解体された国営農場の残りであるUBPC(Unidades Basicas de Produccion Co-operativa) で所得も稼げている。労働者たちは、農場の機具、機械や余剰生産物を販売する権利を引き継いだ。月あたり約40米ドルを稼げる農民たちの給料は、約15米ドルを稼ぐほとんどのキューバ人にとっては、魅惑的なニンジンである。この魅力がとても大きいことから、新たな農業はちょっとした帰農ブームと「頭脳流出」とを生み出している。農民たちが金を持っているのを目にして、専門家の中には、新たに鋳造された「農民の百万長者」(campesino millionaires)に向かうため、工学や医学のキャリアから逃れ、土地に戻るものがいるのだ。

「多くの農民たちが、かなり順調で、何人かの人々が『それは私たちの土地だ。そして、それでいい金を作っている』と考えているので、それが主張のポイントになっています」と、ボルクェ氏は説明する。

 だが、都市農場と大規模国営農場に問題がないわけではない。

「キューバの都市農業が挑戦すべき課題をリストアップすればとても多くあります。主な課題は、水、土地、種子をどう手に入れるか、そして土壌の質なのです」

 ソコロ教授は言う。水も供給不足である。ハバナでの給水は、一日おきにはほんの2時間になるからだ。都市農民たちは、ディーゼルの蒸気やゴミに何年もさらされ汚染された土を改善するのにも苦労している。だが、キューバでの習慣のように、人民たちは障害の周りで解決策を見出している。土地が痩せていれば高くした床を建設したり、それを回復するために有機肥料を運び込んでいる。

 だが、逆説的ではあるが、菜園を生み出す一助となったその要素は、まさにその終焉にもつながるかもしれない。経済封鎖が必然的に終われば、人々が慣行的な農法へと戻る奨めになるのではないか、と恐れるものもいる。米国人たちがやってくれば、化学肥料、トラクターと食料は確実に再び使えるようになるだろう。第二次世界大戦中に米国ではビクトリー・ガーデンが栄えたが、戦争が終わった後には消え去った。それと同じく、観察者たちは、キューバが必要に迫られたこの新たな農業へのコミットメントを維持するかどうかと疑問に思っている。

 ラルフ・マーチン教授は言う。

「明らかに、その原動力は自然食品を生産するためではなく、十分な食料を生産することにありました。何人かの人々は、昔のやり方に戻れるようにモノ不足が終わることを待ち望んでいます。ですが、幸いなことに、多くはそうではありません。私は、こうした農業は前方への道を指し示していると思います」

 現在、キューバは有機農業技術でそれ以外の国々よりもはるかに前進している。

「私たちは、いつの日か、キューバに行って、アドバイスを求めることになるかもしれません」

(An Caorthannのホームページからの記事)
  Alison Auld, Farming with Fidel,1999.

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