■緑の革命
キューバにサトウキビが導入されたのは、コロンブスの第二回目の航海によってだった。そして、19世紀初頭には、砂糖生産がキューバ経済を左右する位置を占めるに至る。肥沃な土地の大半がサトウキビ生産に割当られ、大規模な地所へと分割され、その生産は奴隷経済によって活況を呈した。ヨーロッパ人たちがやって来る前からいた在来民族は、その伝統農業とともに、失われてしまった。
奴隷制度は1880年代に廃止はされるが、大規模な土地所有形態は残存し、革命以前の1950年代には、たった1%の土地所有者がすべての可耕地や牧場の47%以上を所有していた。革命後には農地改革がなされ、大規模な地所を国営農場へと国有化し、それは農地の75%を占めるに至り、残りの土地が、小作農民やその他の小規模農家に私有されることとなった。
砂糖は1959年の革命後も、経済で決定的な役割を果たし続け、その農業システムは規格化された工業農業の路線によって運営された。ソ連からの技術者たちが、工業的な食料生産モデルや機械化の推進と、安定して管理できる規格化された収量を維持するため化学投入資材に依存するというモデルを提示したことで、キューバはそれに固執することとなった。
ソ連はまことに気前がよい貿易条件を提示し、キューバは、その砂糖を世界市場の5倍もの値段で売り、その見返りとして廉価な石油や農薬を買うことができた。1000万トンの砂糖生産が、1960年代と1970年代の間にはずっと夢だった。この砂糖生産への特化によって、果樹園やその他の多様な土地利用は失われ、キューバは、小麦の100%、米の50%と豆では最高90%、全消費カロリーでは57%と、その主食のほとんどを輸入に依存するようになった。である。そして、工業的な農業も、例えば、農薬では年間に5300万ポンドと輸入に大きく依存していた。
1980年代の半ばには『修正の時代』が始まり、モノカルチャー栽培への熱意がさめたこともあって、経営の多角化が見られるようになった。国営農場の中には労働者たちの協同組合農場へと転換したものがあり、その広大な農場は、地元需要むけの作物を生産するよう奨励された。だが、残念なことに、これとはまったく別の場所でおきた出来事が、この時代を終わらせることとなったのだ。
ソ連圏の崩壊が、キューバの全経済システムを危機に陥れたのだ。1990~91年のソ連圏の崩壊によって、広範な経済危機を突然に引き起こされ、1年も経たないうちに、キューバはその国際貿易量の80%以上を失ってしまう。原料や資材不足で工場は閉鎖するか生産を減らしたし、同じ理由から、砂糖やその他の農業生産も落ち込んだ。飢餓が、再びキューバに戻ってきてしまった。
政府にとり、食料増産が最優先課題となった。そして、彼らが直面していた大きな課題は、半分以下の化学投入資材で、二倍も多い食料を生産することだった。
以前のキューバ農業は、農業機械や人工化学肥料、殺虫剤に依存していた。だが、化学資材の投入によって土壌の微生物は殺され、潅漑のやりすぎで塩害が進行し、土壌は劣化していた。輸入農薬が失われたことが後押しとなり、集約的な農業技術が引き起こす環境破壊への意識が高まりが牽引し、キューバ政府は、国内での食料生産を復活・発展させ、国内資源をより効率利用するため、持続可能な有機農法に目を向けた。
ずっと前から、持続可能な農業について主張してきた農学者たちも少しはいた。政府がアドバイスを求めたのはこうした人々だった。多くの土地が、輸出指向の換金作物から、主食へと転換された。また、政府は政策を通じて、大都市の人々が、再び土地の上で働くことを奨励した。土を耕したり、作物を輸送するため、トラクターにかわって膨大な数の牛が飼育され、有害病害虫統合防除、輪作、堆肥づくり、土壌保全といった有機農業の手法が実施された。ミミズ堆肥や土壌への菌の接種、バイオ殺虫剤といった高度な技術を開発するため、研究センターも建てられる。200以上のバイオ農薬生産センターが建てられ、それは大学の卒業生や地元の農家の子弟によって運営されている。
■キューバの都市菜園
革命以来、ほとんどのキューバの都市住民にとっては、食料は食料雑貨店やスーパーマーケットからやってくるものだった。農業は、都市へ移住することから取り残された小作農の暮らしの一部と一般的に考えられた。都市地域での小規模な食料生産を奨励するため、政府は耕作を希望する誰に対してでも、未利用地を提供した。キューバの人口の5分の1を占めるハバナが、都市内での食料生産のための最優先地域だった。農業省の地方局は、新たに菜園をはじめた人々を支援するため都市農業局を設立する。そして、市内の各地区に設置された農業省の出先機関の普及員たちの活動や、コミュニティの努力に対して直接支援をすることで、支援がなされることになる。栽培者たちに種子、農具、雑貨を提供するショップもあるが、都市農業局は、その運営責任もおっている。
都市農業局が支援している菜園には、三タイプ、ウエルトス、オルガノポニコス、アウトコンスモスとして知られているものがあるが、ほとんど一夜のうちに、このすべてが作られ、新たな都市の菜園文化が誕生したのだった。1990年代の半ばではハバナ市内には28,000以上のウエルトスがあり、5万~10万人の個人が運営している。菜園者たちの中には、ハバナへと移り住む35年前に両親とともに農業をしていたことを憶えていた人もいたが、多くの人にとってはそれは完く新たな仕事だった。
ウエルトスとは『家庭菜園』を意味するスペイン語で、これらは英国のアロットメント(allotment)や小規模所有地(smallholding)に相当するものだ。家庭菜園は、個人、家族、集団によって営まれ、あるものはデイケア・センターや学校といった施設に所属している。その規模は、郵便切手ほどの大きさから2ヘクタール以上までとばらつく。園芸クラブはアロットメント協会に相当するものだが、特定の場所の菜園者たちの集団であるかもしれないし、数多くのウエルトスに分割される広い土地(parcela)を全体を見るのかもしれない。ハバナ全体では19,000人以上が、800以上のクラブに組織化されている。
アウトコンスモスは、大学、病院、工場に付帯する菜園である。労働者たちは、パートか専従で、それぞれの選択や職場の規律によって、働いている。その目的は、住民や労働者たちの昼食用の食料を生産することである。
オルガノポニコは、もともとは水耕栽培のユニットだったが、今はサトウキビの廃棄物の堆肥が満たされ、野菜やハーブを有機栽培することに活用されている。駐車場跡地や建物がある場所を含め、どんな荒地や不耕作地でもオルガノポニコは作れる。この転換は成功した。いくつかが国有で、その他は協同組合農場である。生産された野菜は、地域コミュニティにその場で売られたり、農民市場を通じて販売されている。割当量を上回った利益は、国や労働者たちの間で分配される。『オルガノポニコ』は、土を入れ、高くしたベッド式菜園で、都市の市場向け菜園の通称となっている。
1992年、キューバはリオの地球サミットで可決された決議を、その憲法に記載する。1996年には、ハバナでは規則によって、食料生産では有機農業だけが認められることになる。1990年には、都市農業の生産量は取るに足らないものだったが、いまでは、国民需要のかなりの割合を生産している。ひとたび都市農業に十分に有機農業的な手法が組み込まれれば、それを別の部局としてわけておく必要性は終わる。1998年、都市農業局は再編成され、その特別な各責務に応じて、地方の農業省の部局となることになった。また、ショップの数も1996年の3から、1998年8、2000年初頭の23と増え、ショップは、必要な農具を手に入れる場所として、そして、菜園者たちが、専門家や研究者と連絡をとるためのアドバイス・センターとしての役割を果たしている。
■民間組織とコミュニティ・プロジェクト
首都総合開発グループ(Grupo para el Desarrollo Integral de la Capital)は、都市計画家や建築家、コミュニティ開発者たちからなるグループで、ハバナ市の小規模に模型を作ったことで知られている。この都市模型は、新たな開発の影響をアセスメントすることで活用されている。1993年、グループはパーマカルチャーについての書物を知り、オーストラリアのキューバと連帯する活動家たちと接触を持った。そして、この活動家たちが、メルボルンにあるパーマカルチャー・グループに連絡をとったのだった。そして、パーマカルチャーのデモンストレーション教育を行い、その導入を支援するため、オーストラリア人たちがハバナにやってくる。こうして「グリーン・チーム」が誕生した。1995年には、オーストラリアの保護(Conservation)財団の支援を受け、メルボルンにあるパーマカルチャー・グローバル・ネットワーク(PGAN=Permaculture
Global Assistance Network)が、キューバのNGO、自然と人間の財団(Fundación de la Naturaleza
y el Hombre )と協働し、キューバのグループやオーストラリア人たちのグリーン・チームの仕事を支援していく。
都市内での食料生産を増やす目的で、彼らは、持続可能な農法やキューバでは珍しい果樹や野菜の利用、種子保存、その他の関係するテーマについてのコースを運営している。パーマカルチャー・グローバル・ネットワークは、菜園用の雑誌「Se
Puede(それはやれるの意味)」の出版も支援しており、1万部が印刷され全国に配布されている。自然と人間の財団も、現在、都市内での数多くの様々な環境プロジェクトを支援しているが、うちいくつかは食料生産とも関係している。中庭菜園や屋上菜園、学校菜園、コミュニティ・コンポスト、アグロフォレストリーの推進といったものだ。教育プロジェクトには、パーマカルチャーのコースの定期的な開催や学校での活動、Se
Puedeの継続出版が含まれている。
■コミュニティ食料保存プロジェクト
ビルダ・フィゲロア(Vilda Figueroa)さんとJos Pep Lama氏が、食料保全プロジェクト(Proyecto Comunitario:
Conservación de Alimentos)の原動力となっている。夫妻は自分たちが住む地区から出発し、周囲に情報を提供し、食物、調味料、薬用植物を自然で、簡単で金のかからない保存方法のトレーニングを行っている。
冬の時期しか育たない果物や野菜を、夏の時期にも家庭での手作り食品として健康的に使うには、食料を保存することが最善である。現在、夫妻は家庭で保存できる160以上の製品を常設展示しているコミュニティ・センターを持ち、そこで、食料保存の研修コースを開催し、学校の子どもたちに食べ物の育て方や利用方法も教えている。夫妻は、定期的なラジオやTV番組にも出演し、ハバナ市内のどこへでも、そして、近隣の州まででかけていって、ワークショップや議論を行っている。そして、夫妻は、学校、ディケアセンターや保育園に菜園を設置するのを支援している。
今ある最も大きなエコロジー的なプロジェクトは、今後5年かけて200万本の樹木を市内に植樹するという計画である。これには、20万本の果物やナッツ木を含まれている。ビルダさんとペペ氏は、市内で食べものがなる樹木をPR、配付しているハバナ植物園のグループとも協働している。
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