2000年12月

キューバの第二の革命

 ここ数年というもの、私はキューバの「もう一つの革命」のことを耳にしてきた。革命といっても、今度のそれは、農業や食料に関するものだ。1990年代になってから、小規模な有機農場が、キューバの食料増産をまかなっているというのだ。1989〜90年にかけ、ソ連圏が崩壊し始め、キューバは、主要な外貨獲得源や1100万人の国民が依存していた輸入食料の半分を失ったが、そのとき、有機農業が経済の非常事態に応じたのである。

 キューバの工業化した農業は、大半は輸出用に砂糖を生産していたが、1990年代初期、生産に必要な農業機械、化学肥料、農薬、その他の農業投入資材の輸入が、突然ストップしてしまった。キューバ農業は改革されなければならなかったし、さもなければ、人民は飢餓に陥ったであろうし、かつ、その変革も速やかに推進する必要性があった。肥料、農薬、施設とその他の農業投入資材は、地域資源から確保する必要があったし、生産物は、東ドイツのデザートに甘味を付けるためのものではなく、キューバ人民に食を供給するものでなければならなかった。例えてみれば、それは、マンハッタンに食料を提供しているカリフォルニア州やアイオワ州の企業的農場が、化学資材に依存するモノカルチャー農業から一転して、フレズノ市(Fresno:サンフランシスコにある都市)やダブケ市(Dubuque:アイオワ州にある都市)の市民向けに堆肥を用いて多様な作物を栽培する農業へと急転換しなければならないようなことだった。

(写真:Food Firstより)

 

 1999年、この目新しい「キューバ革命」にさらに驚くべき革新が加わっているとの記事を、私はニュー・インターナショナリスト誌で読んだ。それは、オルガノポニコと呼ばれる、都市内にある数十アールから数ヘクタールの有機農場や菜園のことだ。空地や駐車場の跡地、放棄された建物、道路の空間、そして屋上やバルコニーでさえ、ありとあらゆる使える場所を、自分たちの食料を確保し、若干の金銭も稼ごうとする何千人もの都市農民たちが新たに耕しはじめたのだった。

 ハバナだけで、30,000人の住民たちが8,000ものコミュニティ菜園を運営しており、小規模農場では、野菜、果物、卵、薬草、蜂蜜が栽培され、そして、ウサギや家禽類といった家畜も飼育されている。こうした街中の農民たちが産み出す野菜や鮮度を要する食料は消費量の30パーセントにも及び、かつ、都市内では農業用に化学合成農薬を使うことが禁じられているため、ぜんぶ有機で生産されているのだ。

 ハバナ郊外では、オルガノポニコも急成長し、感動的なまでの成果をあげている。1999年に都市農業は、キューバの新鮮野菜の46パーセント、非柑橘類果樹類の38パーセント、根菜類の13パーセントを生み出したのだ。政府は運動を支援するため、土地が利用できるようにし、比較的規制が少ない自由市場での食料販売を認め(キューバで市場経済が、生まれているではないか!)、研究所も有機肥料や生物農薬の研究で大きな成果をあげている。小規模な堆肥づくりや有機的な土づくり、潅漑や輪作の研究、牛耕、その他の革新的な実践で、キューバは開発途上国をリードしている。

 私は、このキューバの都市農業革命のことを、もっと直接的に学びたくなり、この12月に数日間ハバナを訪れた。だが、公式の農業視察ツアーには参加したくはなかった。であるならば、何から始めればよいのだろうか。それは、簡単だ。どこにでもタクシーがあるし、嬉しいことに外国人向けに都市探訪ツアーが提供されている。どこに都市農場があるのか詳しいタクシー・ドライバーがいたので、1956年製のCheviesや53年製のフォード、49年製のStudebakersといった魅力的なオールドカーのタクシーもあったのだが、私は「メルセデス」に乗ることにした。運転手は「これまで地元の農場や菜園の見学をお客から頼まれたことはなかった」と言った。

(写真:Food Firstより)

 まず、とっかかりに立ち寄ってみたのは、Avenida 4Calle 4で、ベニト・ロス(Benito Ross)氏と他二人が耕作している1ヘクタールの菜園だった。ベニト氏は、古いスレート製の屋根瓦とタイルで土を囲ったオルガノポニコで、十種類以上の野菜を年間に35トン生産している。菜園の入り口には、育苗用に何千個ものソーダの空き缶や大きな堆肥の山があった。ベニト氏は、野菜栽培の達人だ。ほとんどの野菜は50日間ほどで育ち、地区住民やレストランに販売されている。熱帯の強い日差しの中で、収量を確保するため、ドリップ潅漑や日よけネットも使われていた。

 次に立ち寄ったのは、Avenida5、Calle44にあるもっと広い2〜2.5ヘクタールの市場用菜園だった。オルガノポニコには掲示板があって、農産物の販売日時が周知されている。このオルガノポニコは政府からの支援もあり、きちんと列状にレタス、ケール、コショウ、トマト、キャベツが栽培されていた。

 私が一番気に入ったのは、ミラマル(Miramar)地区にある菜園だった。菜園は、学校の向かい側にある空き地を利用して1993年からスタートし、学校の生徒たちが授業の一部として菜園を手伝っていた。元数学教師のエンリコ・ディアス(Enrico Diaz)氏がリーダーで、氏や数人のお手伝いや生徒たちは、通年働き、33種類の野菜や薬草を栽培していた。この菜園で栽培された農産物は、全部、地区の老人や貧しい人々に寄付されている。おかげで3度ちゃんと食事ができているのだ。土壌中の過剰塩類を吸収するためにビートを植えたり、地力を改善するためにコンパニオンプランツを使ったり、生物的な害虫防除を行っていた。私は、この菜園に数時間滞在して、エンリコ氏のやり方を学んだ。

 キューバの都市農業は、増加し続ける開発途上国の都市人口を養ううえで、力強いオルターナティブとなっている。キューバ人たちから学ぶべきことは多い。例えば、土壌改良や病害虫管理をするうえで、伝統的な農法に科学を基礎とした新たなアプローチを組み合わせているし、地元で生産された高品質の食べ物の価値がよく理解されているから、市街地が農業用に利用できるようになっている。結果として、ありとあらゆる空き地や空間が、生産的な用途に活用されているのだ。そして、農民たちがもっと多く、かつより効率的に生産するよう、金銭的な動機づけとして、消費者への直売も奨励されている。

 キューバのオルガノポニコ運動は、まさにここ米国で暮らす私たちにも教訓となるかもしれない。この15年というもの、ガーデナーズ・サプリー(Gardeners Supply)とインターバル財団(Intervale Foundation)は、バーモント州のバーリントン(Burlington)で、地元の有機農家が生鮮農産物を生産するよう支援してきた。だが、バーモント州の栽培季節がいくぶん短いことは認めるとしても目標はまだその途上にある。その生産量は10パーセントでしかなく、ハバナの30パーセントという都市自給率からすれば、まだまだだと言えよう。

 米国のフード・ファーストは、2001年の2月に5回目になる持続可能な農業の視察団を計画している。そして、幸いなことに、ここバーリントンからも、アンディ・ジョーンズ(Andy Jones)氏が、アイデアや情報をわかちあうため、この訪問視察への参加を予定している。氏は今年で10年目になり、350名の会員からなるCSA、インターバル・コミュニティ農場の生産者で、オルガノポニコ、協同組合農場や個人農場、ミミズ堆肥施設、生物農薬コントロールセンターを10日訪ねる予定だから、キューバの持続可能な農業革命のもっと詳しい見聞を持ち帰ってくれることだろう。

 私たちは、キューバとヴァーモント州の農場や菜園の農民同士の交流や情報交換の場をつくれるだろうか。菜園者同士の民間外交は、私たちの南の隣人にもっと前向きの新たな掛け橋づくりの一助となるのだろうか。そうだ。アンディ氏に、今後ツアー報告をしてもらうように頼んでみよう。たぶん、氏は、年間を通じて野菜を栽培するための革新的な手法を本誌、ガーデナーズ・サプリーに提供してくれるだろう。

(米国の雑誌ガーデン・アクティビストからの記事)
Will Raap,, Founder and Chairman of Gardener's Supply, Cuba,s Second Revojution,2000.

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