2001年1月

キューバ紀行

 一月末の火曜のある早朝、それまでお互いにまだ会ったこともなかった21人が、とても変った旅を始めるために、ヒースロー空港に集まりました。これから二週間、私たちは、キューバの菜園者たちが、政府から支援された有機菜園を通じて持続可能な食糧生産システムを創出することを助けた、アロットメント、菜園、農場、そして市場を訪れるのです。この旅は、キューバ有機支援グループ(Cuba Organic Support Group)により組織されたもので、メンバーの何人かは、ヘンリー・ダブルデー(Henry Doubleday)研究協会にも関係していました。

 滞在中に私たちは、キューバの首都ハバナ下町にある最も小さなコミュニティ農園から、45人を雇用する大規模な都市農場、そして、ユニークな食料保存プロジェクトまで、様々なタイプの菜園や農場を訪ねる機会を持つことでしょう。キューバの有機菜園で用いられている技術や手法について学ぶこととあわせ、彼らが最も必要とする技術や設備を支援し、プロジェクトを一緒にやることができるでしょう。この訪問は、キューバの様々なNGОと共に組織化されています。NGOはコミュニティ菜園プロジェクト支援に関係していて、キューバのシステムがどう働いているのかのよい入門となるはずです。

 私たちの旅について詳しくお話しする前に、キューバの状況を頭に入れておく必要があります。1990年、キューバ、とりわけハバナは、その国民を養えないと思えるほどまで食料生産は、無視できる量しかありませんでした。政府は資金を失い、「スペシャル・ピリオド」が開始されます。多くの理由から、状況は危機的でした。まず第一に、ソ連が崩壊したことで、化学肥料、殺虫剤、トラクターといった重設備と同様に、ソ連からの補助金ももはやキューバへ送られなくなりました。キューバは、その農業薬剤と同様に、主要食料である小麦100%と豆の90%も他国から輸入していました。キューバは、主な収入源としてサトウキビ輸出にだけ依存するようになり、農村ではサトウキビ生産だけに専念していました。ですが、1990年に市場が崩壊すると、一年以内にキューバはその海外貿易の80%が蒸発するのを目にします。食料生産は落ち込み、同時に、米国はキューバ政府を屈服させようと企て、その経済封鎖を強化しました。

 私たちが、この一月に目にしたものは、再教育と困難な仕事と再編成の十年間の成果でした。改革の一部はキューバ政府がリードし、国が管理する土地は、農民協同組合や菜園者たちのものへと速やかに転換されました。彼らには、国の食料を増産する仕事が与えられました。ですが、この十年間の業績は大部分が、資源が限られているというとても困難な状況下で、有機で持続可能な農業に専念した、こうした農家や菜園者たち、そして、小規模な自作農たち、ハードな仕事とコミットメントによるものなのです。

 まず、キューバ農業への入門として、私たちは二日目に自然と人間財団本部を訪問しました。財団は、キューバの人類学者、アントニオ・ヌネス・ヒメネスの頭脳の産物である、キューバの環境や遺産と野生生物を保存し、そのことを教育することに専心しているNGОですが、財団の重要な仕事として、持続可能な有機菜園の可能性を人々に教えています。そのためハバナ本部の裏庭では訪問者や学校用に、パーマカルチャーでデザインした「有機農場の展示菜園」があります。菜園は、まだ初期段階にありましたが、有望に見えました。

 菜園者たちは、暑い季節にその枝と葉で日陰ができるように木や潅木を植えていました。彼らは、地表を植物で被覆してもいますが、それは雑草や土壌侵食から他の植物を保護する一助となるのです。レモンやライムを含め、果樹や顕花植物とレタスとトマトを含めたサラダが高くしたベッドで育てら混植されていました。バジルを含むハーブやアロエのような薬用植物もありました。菜園には自家用の有機堆肥が山となっていて、それは菜園を肥沃にするために使われていました。

 私たちのガイドであるロベルト氏は「いま、キューバでは、米、豆、鶏と豚肉といったものに主に基づく食事を改善し、広める努力がされている」と説明しました。新鮮な果物や野菜からのビタミンとミネラルが深刻に欠乏したことは、後々に問題を残しました。果物や野菜が利用可能となり、簡単に栽培できるようになっても、人々は、以前の世代から引き継いだ限りある食事に依存する傾向があったのです。

 例えば、キューバで生産することが十分可能でも、限られた数のナスしか栽培されていないのは、人々が、ナスの料理法を知らないからだけなのです。ロベルト氏は「新鮮な食料を利用可能とし、食事や栄養を改善するうえで有機菜園が重要な役割を果たした」と語りました。例えば、集約菜園は、生産物の25%を廉価で学校に提供しており、そうすることで子どもたちの将来の人生に健全な食習慣をもたらすことが望まれているのです。有機農産物の値段はいまだに高額ですが、それはスーパーマーケットの缶詰や加工食品の値段に近いのです。多くの人々が果物と野菜を買うために、価格が下がることが望まれています。

 プラヤは、ハバナ市内でもそれほど成功していないエリアのひとつですが、私たちが財団で学んだことは、ハバナ郊外のプラヤにあるオルガノポニコで実施されていました。

 オルガノポニコは、打ち捨てられた水耕栽培菜園、ハイドロポニコに由来するものです。有機栽培がされる前は、高くしたベッドが構築されて、ハバナ周辺にたくさんあります。そのアイデアがとてもうまくいったので、高くしたベッドを備えた大規模な集合菜園は、今、オルガノポニコと呼ばれているのです。オルガノポニコ・プラヤは農場長と五人のスタッフにより耕作されていました。農場長は「ベットを高くするのは、下にある土壌が浅く岩があることを補償するためだ」と説明しました。ここでは野菜生産が優先されていて、主な作物は、キャッサバのような在来作物と、キャベツ、レタス、トマト、ジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、キュウリとクルジェット(courgettes)でした。

 オルガノポニコは耕作にあたって様々な有機的な方法を用いていました。コンパニオン・プランツが幅広く用いられ、トマトはバジルと一緒に、そして、レタスはキャベツと一緒に植えられていました。お互いに補足しあう作物が輪作されているのです。ある養分を使う作物は、それ以外の養分を使う作物に続くことになります。地表を被覆するため、イチゴ科の植物が使われ、キューバのマメやホウレンソウのよい相手として使われていました。マリーゴルドのような有名な害虫忌避剤も高くしたベッドの端でたくさん栽培されていました。菜園者たちは、タバコの葉を茹でて成分を抽出することで害虫忌避剤スプレーも作っいました。

 オルガノポニコの生産は良好で、10メータ四方の土地で四人に年間に十分な食料を供給することができていました。コミュニティで活発な役割を果たしたという点でもオルガノポニコには興味深いものがありました。キューバではどの子どもたちもエコロジーと栄養の授業を学ぶのですが、オルガノポニコが小学校と中学校との中間に位置していたので、両校からの生徒たちが、授業の一部として定期的に訪れていました。生徒たちは、それぞれの植物のメリットやそれぞれがどう育つのかを教えられていました。近くのデイケアセンターからは学習障害を持った子どもたちも、園芸療法のために訪れていました。

 オルガノポニコは、かなり安い値段で地元の学校に農産物を販売することで、子どもたちの食事の野菜の量を増やすというプロジェクトにも貢献していましたし、廉価な農産物は、野菜を得られない低所得のコミュニティの高齢者にも利用可能です。あまった生産物は、露地で消費者に販売されていました。これはまだ高価格でしたが、それは一般的であるようにも思えました。

 もっと狭い土地はウエルト(huerto)と称されています。基本的にはアロットメントに相当するものですが、イルダ(Hilda Betancourt)さんが耕作していました。彼女は17歳で、ハバナでも最も貧しく、最も人口密度が高い中心街に居住しています。土地は狭く、高層の共同住宅街の間にある狭い長方形の空間を使っていました。しかし、その狭いスペースでも、イルダや他の数人の菜園者たちは、ハバナでは稀な緑の空間を作り出していました。

 バナナの木が、日陰を作り出し、タイルやトラック・タイヤで囲んだ小さな高くしたベッドがありました。イルダさんは、アロエ、バジル、セント・ジョーンズ・ウォート、カモミールといった薬用植物やハーブが専門でした。イルダさんの菜園は農産物を売るよりも、自分たちが好きなハーブ切芽や自分で植物を育てるのに土や堆肥を得たい人々に開放されていました。

 ほとんどの人には、菜園用の土地がなく、バルコニーの上で園芸をやっています。イルダさんは自家用の有機堆肥の山を持ち、それを土を肥沃にするために使っていました。さらに鳥を寄せつけないよう畑には猫がいました。ですが、キューバではフォーク、コテ、種子といった農具の値段が高く不足していることから、菜園の発展は滞っていました。

 イルダさんと別にアマチュアの努力で印象的だったのは、フェルナンディーニ(Fernandini)の取り組みです。氏は60歳代後半の男性で、フィデル・カストロやチェ・ゲバラのキューバ革命中に戦ったこともあります。氏は、ハバナ郊外の傾斜地に適切な広さの土地を所有していました。ですが、バナナやその他の果樹の多くは、2000年のハリケーン・ミッシェルによって破壊されたり、ダメージを受けていました。

 フェルナンディーニ氏は、メリットのある薬用植物と同様に、果樹、野菜、ハーブを育てていました。アルニカチンキは、彼のお気に入りのひとつで、彼は、それを切傷、打撲傷、捻挫のよい治療法として推奨していました。ほとんどのキューバの菜園者たちと同じく、フェルナンディーニも、手に入るものすべてを使っていました。コンテナが供給不足で、また水が蚊の繁殖地になることを防ぐために、政府は反蚊キャンペーンをやっており、水を集められるものには何でもためるように人々を激励していました。そこで、氏の菜園にはタイヤ、バケツと石油缶が増えているのです。

 フェルナンディーニ氏は鋭い実験者で、そのイノベーションのひとつが、大きく深い金属製の容器を使うことでした。それがどう機能するかを確かめるためです。

 海外からは、多くの種子を送られいましたが、氏はトレーの中でまずはじめ、実生苗づくりに成功したら、それらを移植していました。フェルナンディーニ氏は、キューバではまだ栽培されていないロケットにとりわけ熱心でした。種子贈られた後、氏は今それを広く育て、地区の隣人にその断片を与えました。私たちの訪問の最後に、フェルナンディーニ氏は、「自分の庭について何か改善点として思ったことがありますか」と尋ねました。ですが、誰も提案を思いつきませんでした。

 アラマル(Alamar)の都市農場は、健全な利益をあげている大規模ベンチャーの良事例でした。45人とキューバでは多い人数を雇用しましたが、理論的には農場は利益を蓄積することを許されていません。国は、組織や個人が、個人的な富を蓄積することを許していません。ですが、このことをめぐってはやり方があります。ミゲル・サルシネス・ロペス(Miguel Salcines Lopez)農場長は「定額給与を受け取るのではなく、利益の50%が定期的に労働者に配分されています」と説明しました。残りの50%は、将来の開発用の資金源として農場に戻されています。そして、農地は国ではなく、農場が所有する一方で、利益の5%は税として政府に払われています。

 この農場は、都市でも最も成功した農場のひとつで、ハーブや果物と同様に、キャベツ、レタス、ジャガイモ、トマトとエンドウマメの畝がたくさんあり、確かにこれを確証するように見えました。コンパニオン・プランツやミミズ堆肥手法を用い、同様に、様々な雑草を管理するために、農場では輪作も行っていました。例えば、サツマイモは、エンドウマメやじゃがいもと輪作されているのです。農場の土地は鉄分に富み、とても肥沃でしたが、その肥沃さは輪作によって奨励されていました。

 農場の生産物を売る二軒の店が通りにはあり、そこでは活発な売り買いがなされ、果物や野菜だけでなく、米、豆と様々な生物も売っていました。ウサギ、鶏肉、実生苗、装飾植物も育てる等、農場は多様化もされていました。鶏は、肥料用の糞を生産していましたが、作物を食べてしまいがちなので、作物からは離されていました。ミゲル氏が私たちに伝えたこれとはまた別の問題は、とりわけ、乾燥した冬期に、水を集め貯水することでした。蚊を発生させてしまうことから、水おけやその他のコンテナを使うことは政府が奨励しておらず、その代わりに農場はホースやスプリンクラーを使わなければならなかったんです。

 読者の皆さんは、食料生産がこれほど重視されることで、キューバ人たちには装飾植物や花を育てたり、楽しむ時間がなかったと思われるかもしれません。ですが、これは本当でしょうか。最終日に、私たちは、キューバ中部のサンクティ・チピリトゥス州にある花農場を訪れました。農場の菜園者たちの平均年齢は82歳でした。キューバでは、引退した人々も多くがボランティアやコミュニティの仕事を続けているのです。農場は、その小さな店で一般の人々に直接の花を売ったり、希望する人に種子や苗を提供していました。平均的なキューバ人の賃金はとても低いし、新鮮な花はそれに比べ高額です。そのことを考えて、私たちは、「なぜ人々は、自分や愛する人のためにバラの花束にとても多くのお金を出す覚悟があるのですか」とスタッフに尋ねてみました。

「それは、簡単なことです」

 そうある花屋さんは言いました。

「キューバでは、花をあげることは愛の表現です。オルガンポニコは胃のための食べ物を育てまが、私たちは、ハートのための食べ物を育てているんです」。

 そして、尋ねたことで、私たち全員が赤いバラを贈られたのでした。

Peter RossetとMedea Benjaminの「The Greening of the Revolution」がOcean booksから出版されているが、それは、キューバの有機農業への転換のよい入門書である。

(イギリスのキューバ有機農業サポート・グループのHPからの記事)
 Joanna Nurse,Cuba,s other Revolution,2001.サイト消滅

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