ハバナでは、そこは「緑のコーナー(la esquina verde)と呼ばれている。ハバナの住宅街にある半ブロックほどの広さの土地のことだ。そこでは、イデリオ・イズキエルド(Ydelio Yzquierdo)他2人の男が、レタス、パセリ、バジル、その他の様々な野菜を栽培している。それは、オルガノポニコとして知られる数千もある有機菜園のひとつである。
オルガノポニコは、ソ連の崩壊後のキューバの深刻な食料生産の落ち込みにより、ここ10年で誕生したものだ。結果として、キューバは有機農業運動によって、低投入型の持続農業で世界のリーダーになったのだ。
オルガノポニコの広さは0.5ヘクタール以下から1.2ヘクタールまで及ぶ。キューバには3万2000ヘクタール以上のオルガノポニコがあると評価されている。
「菜園は、1100万人のキューバ人一人ひとりに年間に約113㎏の食料を産み出し、30万人分の雇用を創出しています。私が1993年に初めてキューバを訪れたときには、ここには何もありませんでした。これは何もないところから作られたのです」。
オークランドにあるフード・ファーストの共同代表、ピーター・ロゼット(Peter Rosset)氏はハバナでそう語る。ロゼット氏は、キューバの農業について学ぶため、最近、キューバを訪れている90人もの米国の農家、教育者等の中にいる。
有機農家でツアーに参加したデニーズ・オブライエン(Denise O"Brien)さんは、キューバの有機農業を世界のトップランクだと評価する。
「農産物は一貫して高品質で、彼らが適切なインフラを手にしていることがわかります。それはまったく顕著です」。
1959年、革命で独裁者のフルヘンシオ・バチスタ( Fulgencio Batista)が打倒されてからというもの、ソ連は大規模な補助金を共産主義同盟国に送ってきた。だが、それが停止すると、キューバ経済とその食料生産は急激に落ち込む。そして、経済危機は米国による経済封鎖の強化で悪化した。数年前には食料と医薬品は免除されていたが、2国間の一切の貿易と旅行までもが禁じられたのだ。キューバ人たちは、ソ連がなくなった後の経済崩壊について、婉曲に「スペシャル・ピリオド」と表現している。
以前のキューバの国営農業公社は、カリフォルニアにある大規模な企業的農場と同様のものだった。国営農場は、大型農業機械で大面積を耕作し、農機具や灌漑ポンプを動かすためにソ連から供給された石油を燃やし、病害虫を防除し作物に施肥するため、石油由来の化学物質を使っていた。だから、ソ連が石油輸出を停止したとき、食料生産は破綻し、1990年代にキューバ人たちのカロリー摂取量とタンパク質摂取量は、10年以前と比べ、30%も低下してしまう。必要に迫られ、物事は変わった。ロゼット氏はこう語る。
「初めて、大規模モノカルチャーの輸出指向の農業が低投入で持続可能な農法を使うことで、オルターナティブの食料生産システムに転換されたのです。そして、それは、ボトムアップからのものでした。オルガノポニコがまさにどれほどの食料を生産できるのかがわかるまで、政府は何をしたらよいのか、本当はわからなかったのです。今は、科学者たちは農業者たちと共に有機農業を支えています」
キューバの農学者たちは、スペシャル・ピリオド以前から有機農業の研究を続けていたが、オルガノポニコが自発的に芽生え始めると、政府はそのガードをはずした。
「都市の農業専門家は1月に最大200ドルを稼いでいます。キューバで医師が得る所得の10倍です。キューバの基準からすれば大金持ちの農家がいるのです。そして、高投入型の工業化された農業から、低投入型の有機農業への転換を反映して、キューバの大学や職業高校での農業カリキュラムも完全に改変されています」
農業職業高校は、自分たちでバイオ農薬を生産販売しているが、販売収益は、いくつかの学校では学校予算の50%にも及んでいる。
「オルガノポニコの開発が、まさにキューバ人が彼らの農業を再構築した方法のひとつだったのです」
1993年、農民市場が認可され、1994年には、政府は国営農場の75%を解体し、生産協同組合を結成した農民たちに農地を提供する。
「キューバは、統計数値を公開することをためらってはいますが、いくつかの作物では少なくとも100%、また別の作物では200%も生産が増加しているのです。キューバ政府は、最終的には、畜産と作物遺伝学以外の全国営公社を捨てることを望んでいます」
ハバナの緑のコーナーは、今から8年前に公社が設立した菜園だが、そこで栽培された食料は労働者の公社のものになる。公社は近くにあるコンサルティング・ショップ、ティエンダ・コンスルトリオ(tienda consultorio) から、種子、有機的な作物防除資材、天然肥料を買い、技術支援も受けている。
「私たちは労働者のセンターに生産物を持って行きます。そして、残りは販売できるのです」と、イズキエルド氏は言う。氏は有機農家になる前は職業訓練校で農業を教えていた。
ある日曜日、ほ場外でレタス、ブロッコリー、その他の野菜を買うために緑のコーナーに消費者が次々と立ち寄っていく。イズキエルドと他の2人の農家は、給料だけでなく、生産に基づくインセンティブ所得も得ている。イズキエルド氏は自分の仕事を愛しており「私はいつも農業で働いています。私たちはどんな化学物質も使わず、使うのは有機肥料だけです。ですから、労働者は一年中新鮮で、健康な食物を食べられるのです。そして、彼らは気分が良くなります。私たちは良いことをして良い賃金を得ているのです。このことについて、とても良く感じています」
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