2003年4月2日

我らの未来への手がかり、キューバ

 2003年4月2日。快適な家が少ししかないことはわかっていた。だから、エアコンの効いたバスが、快適な避難所となった。快適なクッション席にもたれかかると、道すがらうたた寝しそうだった。だが、私は、クッションを傾けず、いつも前に傾いて座って、注意を窓の外に向けていた。 

ハバナのファーマーズマーケットの消費者:ほとんどのブースは、農産物を市場出荷するため農民と直接契約される仲介人によって管理される。このトマトは5ペソ/ポンド(約20セント/米ポンド)でかなり高い。

 首都ハバナのコントラストは写真、そう、まさに多くの写真なくては描くことが難しい。ホテル、博物館、歴史的建造物等の建物が、観光客を呼び寄せるうえで重要で、どこでも完全な改修が進行しているとしても、ほとんどの住宅建築はみすぼらしいままにとどまっている。確かにキューバでは多くが欠乏している。だが、バスの外側の景観には私の目をくぎづけとした希望の兆候があったのだ。すさまじい逆境に直面した社会的廃墟の中に農業がある。どこにでも農業がだ。そして、農業協同組合の農場長が我々に伝えた農業は、我が国においてはまだ可能となっていない。

「計画された今まで最大のキューバへの現地事情調査団」。そう称された調査団には、米国、ラテンアメリカ、そしてカリブ海の各地から約90人の食料や農業専門家が参加したが、その中には、ペンシルバニア州のIPMの専門家やPASAのボード・メンバー、リン・ガーリング(Lyn Garling)とフード・ローテス(Food Routes)ネットワークのエクゼクティブ・ディレクター、ティム・ボウザー(Tim Bowser)が参加していた。2週間以上のキューバ農業スタディ・ツアーは、カリフォルニアを本拠とするフード・ファーストによって組織され、2003年の2月から3月にかけ行われたのだ。

■なぜ、キューバでは持続可能な農業が指針となったのか

 遠慮なく述べれば、我々の旅によって、いかにして持続可能な農業の概念がキューバ社会の中で中心を占めるようになったのかを知れば、ほぼ全員が茫然としなかったとしても、この国での我々の状況の現実を直視すれば、後で同じく茫然としたことだと思う。だが、この点に関していえば、キューバの成功のすべてが計画されたものでないことは、注意する価値がある。歴史的な結果が重要な役割を果たしたのだ。 

ハバナの都市農場「アメリカ」

 1959年の初めに達成された革命に引き続き、これまで40年以上に及ぶ米国からの経済封鎖によって、キューバはソ連やその他の社会主義諸国とのほぼ閉鎖的な貿易関係の中に押し込まれてきた。通商停止、あるいはキューバでは「経済封鎖」と呼ばれているのだが、この位置づけも、1989年はじめにソ連が崩壊するまでは、約30年間、キューバ経済が成長するためにかなりうまくいっていた。この時期のキューバの輸出品は、ほとんど砂糖、タバコ、ニッケルで、キューバはそれを燃料、食料、医薬品や大規模な慣行型農業を支えるのに必要な設備や供給物と交換していた。

 だが、農業変革のための種子は、革命に引き続く30年を通じて存在していた。我々は、旅行の間に農地改革が常にキューバ社会主義政権の優先事項であったことを想起させられた。そして、1963年にフィデル・カストロがハバナ農科大学(Universidad Agraria de la Habana)の卒業式に出席し、個人的にひとりひとりの卒業生にレイチェル・カーソンの新刊書「沈黙の春」のコピーを渡したとの話を聞いて、我々の多数は、あんぐりと口をあけた。

 革命はその始めから、生得権として、キューバのすべての男性、女性と子どもたちのために適切な食料を保証するよう努力してきた。そして、この食料の多くを可能な限り、より小規模な農場か、人々が実際に暮らしているその場所に接した農場協同組合農場で、これまでよりもはるかに少ない化学薬品を使用する生産を通じて、供給することが求められたのだ。以前の、不在の企業所有者の利益向けに輸出していた大規模で工業的な外国所有の国有農場や生産の優先事項は変わった。輸出は続けられたが、それは、この島内では、得られない物品を得るために必要悪と考えられていた。

だが、ソ連の崩壊で、キューバはほとんど一夜にして絶望的な食料危機に陥る。それが、農業改革のスピードを劇的なまでに高めた。米国は、新たな資本主義の反革命を引き起こす機会と感じたのであろう、1992年のトリチェリ法、そして再度1996年のヘルムズ=バートン法によって経済封鎖を強化した。これが、キューバ人にとって事態をさらに悪化させた。

 我々の旅の全般にわたって、語った人々はかなり感情を込め、ソ連との貿易関係の蒸発と米国の法の歴史上の影響を強調していた。だが、振り返ってみれば、各自がなんとかして、苦しい環境を避けられたのだ。しかも、圧倒的に不利な状況に直面する中で自分たちが成し遂げたことを誇りをもって示したのだった。

 かつては貿易を通じて得られた配合飼料、化学肥料、殺虫剤、その他の化学薬品の不足によって、キューバ人たちは、政府や大学の支援を受け、多様で幅広く、良く分配された有機農業を現実化させるため、一大キャンペーンを打ち上げた。その結果は驚くべきほどで、まだ完成してはいないものの、キューバ文化の中でまだ明らかに続いている革命精神の力というものの証拠を説得力をもって提示している

ファームスタンドのコンテナ 古い鉄道車両で作られた「アメリカ」の脇にあるファームスタンド。背景のアパートに注意してほしい。食べ物は、それが消費される場所に密着して生産、出荷されている。

■都市農業の高まり

 危機を緩和するひとつの主な戦略は、人々が裏庭を耕作し、かつ、放棄された土地や失われた生産地に新たな生命を持たらし、都市農業を導入することだった。危機に対応するため政府によって確立された自由市場のインセンティブによって、今、ハバナの都市域では、250万人の各市民に、毎日最低300gの果物や野菜を供給するまで十分なほど有機生産が高まっている。

 我々が出会った都市農民のうち数人は、とても安定していた専門家としての経歴を捨てて、初めて農業に就農した。例えば、我々がであった「チューチョ」は、元獣医師で自分の子どもに食べ物を提供するため農業に転職した。チューチョは言う。

「私たちは、2人の子どもにわける卵が日当たり1個しかないことを悟った時、それが遅くなりすぎる前にチェンジすることを決めたのです」。チューチョと元化学者である彼の妻は、以前の経歴の中で得ていたよりもかなり多くの所得を得ており、いま、2つの農場を運営している。

トラクターにかわった馬と訓練された雄牛: 「チューチョ」農場のヘルパーは、すべての生産農家によく知られる問題、逃げ出すレタスに対処する。労働馬はキューバでは多少まれだが、国には今ほぼ50万頭の訓練された雄牛がおり、それらが過去の燃料に飢えたトラクターのかわりって力を提供している。

 これとはまた別の戦略は、大規模な国営農場を、小規模な協同組合、彼らが呼ぶところの協同生産基本単位(UBPC)に分割することだった。

 我々のグループは、そのひとつを訪れたが、そこは約3ヘクタールを耕作する55人の農民を雇用していた。そして、ひとりひとりは、全国平均給与の約4倍を稼いでいた。こうした農場は、社会的義務の一部として、農民市場で農産物を売る前に、地元の学校、病院、老人ホームに食料をまずもって提供しなければならないのだが、そうした事実があるにもかかわらず、これが達成できている。

 キューバで都市農業が成功した鍵は、農場がその消費者と同じ地区内に位置しているということだ。例えば、我々が出会ったもうひとつの「アメリカ」との名前が付いた農場では、彼女は近所の人たちの手助けを受けて、自宅に隣接した土地で生産をしていた。彼女は、自分の社会的責務を果たした後、庭先にある農場スタンド用に改装した鉄道車両で農産物を売っている。そうしたスタンドは、ハバナやその周囲で日々、何百、何千人もの消費者を引きつけているのだ。

 また、これとは別の鍵は、公開大学講座サービスの徹底的な再構築と若返りだった。国全体で、普及員たちは、彼らの言葉で「emancipatory」と称される「人民教育モデル」に厳密に対応している。このモデルでは、教師は、学生よりも重要だとは考えられず、ともに学び、そしてお互いにプロセスを共有するのだ。

レタスベッド: 高くしたベッドとキューバ政府により提供されたモダンな潅漑システムを備えたハバナの「アメリカの」都市農場の一部。このような個人農場は通常、協同組合を通じて運営され、地元の学校と病院用に新鮮な食物を提供した後、脇のスタンドで販売できる。

 キューバの普及サービスの目標となっている原則は、伝統的な生産システムを支持し、新技術と統合することだ。農民たちは何を生産すべきで、それがどのようになされなければならないかの最高の判断者であるように思える。ある普及員はこう語る。

「農民が口にしないものを農民は育てるべきではありません」。

 家畜生産の持続可能性の達成は、野菜や果物で成し遂げられた成功と比べて遅れてはいる。とはいえ、それも印象的で、ほとんどの場合、豚肉や鶏肉は、今では、小規模農場の多様なシステムとして生産されている。そして、家畜生産の水準は、家畜のほとんどすべてが囲われた施設内で飼育されていた経済危機以前の水準に達したのだ。

 そして、キューバでなされた大学での研究によって開発された持続可能性の指標を用い、20頭の雌牛での搾乳場が最効率のレベルをもたらすとの結論を下している。

■キューバで良く息づいていた革新的精神 

偏見なしのプライド:キューバの果実栽培者と彼の妻。彼は代表団のグループを招待した。どこでも、こうした人々が、彼らが達成したことをどれほど誇りにしているか、そして我々を受け入れるのに喜んでいるのかが明白だった。旅立ちのコメントは、しばしば涙と混ざり合った。

 旅の全般にわたって、そして、立ち止まったどの場所でも、そしてどの街角でも、我々は、革新的精神を示す証拠を見つけた。それは、米国ペンシルバニア州や各地での数多くの持続可能な実践を想起させるものだった。だが、我々の母国で共通する姿勢とは対照的に、そうした革新の成功は、キューバ人たちから、彼らの国の将来のセキュリティに重大なものとして、見られていた。

 例えば、1989年以来直面している危機に照らしあわせて、2人の異なるキューバの政府関係者が次のコメントを述べた。

「持続可能な農業は、人民の戦争、我が国家防衛の不可欠な部分となった」

「我々の土壌は戦略的な天然資源である」

 これらは大量の飢餓が、非常によいオルターナティブになるかもしれないことを鋭く知っていたリーダーの言葉である。

 我々が途中で出会ったキューバの農民たちは、圧倒的なハンディキャップに対して彼らが成し遂げたことを伝え、誇りのビームを放っていた。まず自身の家族を養うという目標から始め、今、彼らの大部分が、コミュニティ、そして社会をも養っている。

 我々自身の国の農業を持続可能なものとするために、キューバで目にしたものと我々の政府や経済状況とを交換したいとは、少数のアドボケーターがいたとしても、誰も願わないだろう。だが、将来的な我々自身のスペシャル・ピリオドを回避するために、どのように持続可能性な原則を利用するかの事例を見ることは無駄ではないのである。

■キューバでの持続可能な農業の定義

 以下の現在のイニシアチブのリストはハバナ農科大学の持続可能農業研究センターの農学者、ルイス・ガルシア(Luis Garcia)センター長からフード・ファーストの派遣団に提示されたものである。「持続可能な農業のためのキューバ・モデル」と題するリストは、現在の経済危機がはじまって以来、キューバが直面する挑戦を反映したものだ。だが、それはさらにどの場所であっても持続可能な農民のためのかなり優れた優先事項のメニューとなっている。

・統合的害虫管理
・有機肥料とバイオ肥料
・土壌の保全と回復
・家畜トラクターとオルターナティブ・エネルギー
・間作と輪作
・耕畜連携
・オルターナティブな機械化
・都市農業とコミュニティー参加
・オルターナティブ獣医学
・地元条件への順応
・農村から都市への移住の逆転
・土地の協同使用の増加
・農業研究の改善
・農業教育の変更

ブライアン・スナイダー(Brian Snyder)はペンシルバニア持続可能な農業協会(PASA)のエクゼプティブ・ディレクターである。持続可能な農業を主張する同氏は、最近のキューバへの旅で、我々が米国ではただ夢見るにすぎない持続可能な農業への制度的なコミットメントがされている証拠を目にした。

(米国のロデール研究所のHP,ニュー・ファーマーの記事)
  Brian Snyder,Cuba: a clue to our future?Let,s hope,2003.

Cuba organic agriculture HomePage 2006 (C) All right reserved Taro Yoshida