2003年4月24日

キューバの素敵な驚き

直売所はハバナ中であたりまえの光景だ。それらは壮観で、新鮮で、有機で、たいがい市内で生産されている

 キューバの料理に慣れるにはある程度、時間がかかった。2003年3月に私はキューバを2週間旅したのだが、そこでの食事は、ミシガン州では、豪華なビュッフェでしか見られないほどで、キューバ農業の驚くほどの多様性の賜物だった。朝食には、多彩なトロピカル・フルーツが出たし、ランチや夕食には、ほとんど無限に思えるほど様々な果物、野菜や根菜類が多くでた。そのゴージャスな生産物の中には、常に、たくさんの卵や米と豆、焼かれた鶏か焼かれた豚肉があった。だが、私は現実的にしなければならないのは、フロリダから90マイル南にある私たちの隣人を理解することだった。キューバは、何10年間も長きにわたる米国の経済封鎖で抑圧された飢えた共産主義国家ではないだろうか?。だが、実際には、その経済封鎖やソ連崩壊にともなうソ連からの支援が断たれたことは、皮肉にも運命的な効果があったのだ。

 キューバには、今活発な自由市場の農業システムがある。そう、自由市場だ。実際、食料生産に自由市場がもたらされたとき、それは劇的で驚くべきほどだった。キューバにおいてさえ、アダム・スミスの「見えざる手」が助けになっているのであり、それは皮肉なデモンストレーションでもある。

 そのうえ、政治的な必要性と資源的な制約から、キューバが開拓した食料生産システムは、ミシガン州の小・中規模の農民たちや政府にも貴重な教訓となっている。ミシガン州の農民たちは、廃業に追い込まれる恐れのある農産物価格の下落や機械、農薬・化学肥料代の増加に直面している。キューバの農業システムは、市場からも化学投入資材の双方からも完全に同時に遮断され、1980年代後半にこうした問題よりもさらに深刻な事態に陥ったのだが、それを解決している。市場改革と農業技術の改革が、キューバが劇的なスタイルで復興し、かつ、広範な飢餓を回避するための道をもたらしたのだ。ミシガン州に同様の改革を導入することは驚かれることだろうが、さらに顕著な結果に結びつくだろう。私たちの食料供給の質を劇的に押し上げ、家族農業に本当の利益があがるようにするだろう。そして、これは結果として、さらにまた別の劇的な効果ももたらすだろう。スプロール化を止める一助となるということだ。

■戻り続ける消費者

 キューバであれ、ミシガン州であれ、すべては消費者の幸せを維持することから始まる。余るほど豊かな量。私がキューバ滞在中に口にしたほとんど食事を総括するとこうなる。それは、米国やその他の国からの農業政策専門家にキューバ農業の詳細を提供する食料と開発政策のための研究所、フード・ファーストによって組織されたスタディ・ツアーの一部だった。

 最初の一瞬から、キューバの農民たちが、消費者のニーズや好みをわかっていることがすぐさま明らかになった。ハバナの各地区を活性化している数多くの農民市場のひとつを歩いてみていただきたい。高品質のオレンジ、グレープ・フルーツ、グアバ、パパイア、パイナップル、そして小型のバナナ、美しいトマト、キュウリ、arugula、パクチョイ、水菜、様々なレタス、じゃがいも、料理バナナ、在来の白色のサツマイモ、ボニアト(boniatas)を買って、満足する人々を目にできる。それは、食品鑑定家の喜びだ。

■必要は発明の母

 1989年まで、キューバ社会主義経済は、最先端の工場的農業技術を駆使して、大量の砂糖、タバコ、豚肉を生産・収穫するよう計画されていた。政府はソ連と有利な価格でこれらを貿易取引していた。そして、ソ連はキューバに、衣類、医薬品、燃料、家畜飼料、機械類とほとんどすべてを、まさに我々の資本主義国家に沖合いにある共産主義国家を支えるため、ディスカウント価格で売っていたのだ。

 ソ連が崩壊し始め、キューバがその大口の顧客を失うと、それまで順調だった条件設定は1989年には完全に解体してしまう。キューバは突然にして、殺虫剤、化学肥料、工場で飼育される豚、鶏、牛に適合させた特別の家畜飼料、ガソリン、スペアパーツ、そして医薬品からも引き離されたのだ。1993年までに、国の輸入食料は60%まで落ちこんだ。ほぼ破滅的といえる。一人当たりのカロリー摂取量は、35%以上落ち込み、人々はとても飢えた。キューバは、すべての時代の中でも最大にして非公式な、フィデル・カストロが「スペシャル・ピリオド」と呼んだ時代へと突入した。それを「通常の時期」に戻すためには、キューバには、劇的に農業生産に拍車をかけることができるイノベーションの爆発が必要だった。政府は、重装備の農業機械や化学薬品にもはや依存しない方法を開発しなければならなかった。

 そこで、キューバのリーダーたちは、以前には考えられなかったが、いま現在は必要とされていることを行った。つまり、彼らは農民たちを消費者と直接的に結びつける市場に基づいたシステムを立ち上げたのだ。

 機械化されていないアプローチは、より労働集約的である。だから、政府は遊んでいる労働者の中でも最大の予備軍である定年退職者たちを農業へと引き込んだ。そして次には、主要作物を栽培する農民たちに、商品に対して直接支払うという米国モデルをうち立てた。さらに、トレーニングを施し、売れると考えられるすべての作物を栽培するための種子の選択のを農民やその新たな仲間たちに提供した。そして、農産物の一部を、ディスカウント価格で病院、学校とデイケアセンターへ売ることで、農民たちは、教育や種子の「恩恵」を国に還元している。その残りが、自由市場で農民たちが売れるものとなっているのだ。

リスクとそれへの報い

 今、キューバの農民たちは、利益があがると考えれば、どんなリスクも冒すことができる。彼らが利益を出すことができるただ一つの方法は、消費者の本当のニーズを満たすことだ。それは、米国連邦政府の基準に従って、土地を管理する農家に支払いがなされる米国のアプローチからすれば、劇的な改革だ。キューバの消費者向けの市場は、豊富で様々な食料を生産している。毎回の食事では、たくさんの生産物でテーブルがきしむほどだったが、農民たちの畑もあり余るほどの量や余剰を大いに享受している。キューバの生産者たちは、モノカルチャーで作物を育てるのではなく、むしろ自分や消費者のニッチを満たしている。新鮮で、味わいがあり、高品質の食料を消費者に提供することで消費者を獲得している。果物や野菜は、商業用の食堂に配達されるまさにその時に、あるいは消費者がハバナ州に散在する道端の直売所に出かけたときに、その場で収穫されるのだ。

 消費者ニーズを満たす生産が高まることで、キューバの農民たちは、今、まさに本質的に、米国を席巻している黄金色の小麦や緑色のトウモロコシの茎の大規模なモノカルチャーを回避できている。それよりも、ずっと素晴らしい網の目がキューバの大地を覆っている。例えば、レタス、カリフラワー、トマト、ホウレンソウの列。それは、しばしばバナナの木によって覆われている。間作としても知られる、そうした多様な種を注意深く選んで作付けることは、とてもきれいな風景を生み出すだけでなく、モノカルチャー農業が極度に依存する農薬や化学肥料の肥料性を減らすことで、環境にもとても役立っている。

そして所得が続く

 そうした多様な選択を育むことで、一農場からの恵で、一家族はその冷蔵庫を満たすことができるし、もっと大きな農場は、地元市場の棚を満たすことができる。キューバの農民たちが単一作物に特化するよりも、集団で多様化を選択したことが、輸送や貯蔵経費を節減している。食品ブローカーはほとんどいない。消費者から生産者までマネーが直接もたらされているからだ。キューバの農民たちは国内でも最も成功した小規模な事業家なのだ。

 サンタクララ州で20ヘクタールのサツマイモを栽培するような、熟練した農民たちの中には、年間で40,000ドルもの実所得をあげている。それは日当たりにすれば、8~20ドル以上で、キューバの多くのホワイトカラー労働者が得る所得よりも多い。そのもたらした結果が、農業参入へのラッシュなのだ。今、キューバの新たな労働者は、ハバナのスプロール化した家とアパートから、農民として空き地へと毎日でかけ、そこで、大金を生み出せているのだ。金銭が、農民への一般認識を変えた。彼らは今、下層階級の小作農としてではなく、成功した起業家と見なされている。

 農業参入へのラッシュは、都市景観をも変えた。市内には、ハリケーンからの損害、とりわけ2000年に都市を襲ったこの50年で最悪のハリケーン・ミッシェルからの災害復旧のために建設資材需要があり、建築資材の深刻な不足で数十年間も空き地になっいた場所がある。オルガノポニコは、こうした何千もの土地を小規模農場にしたのである。ビジネス街を再建する代わりに、キューバ人たちは、農場を建設した。それは、雇用を生み出し、よい所得をあげ、世界のどの都市よりも最も新鮮な果物や野菜を得られるようにしている。それは文字通りにドアの隣で栽培され、オーダーに応じて収穫されているからだ。

 キューバは、いまだに「スペシャル・ピリオド」から抜け出てはいない。だが、食料生産は、農薬や化学肥料、工業的な農業設備が可能だった旧ソ連の時代の水準に近づいている。驚くほど短い期間内で、都市における小規模農場の強化により、その多くは空き地ほどの広さもないのだが、今は首都の220万人の住民一人当たり日量280gの新鮮な果物や野菜を生産している。それは、米国の基準からしても健康な割合だ。

 キューバの様々な市場インセンティブの運動、作物補助金の廃止や商品市場は、農民と消費者とがむすびつくとき、美味しく、健康的で、無農薬で栽培された食品が、自由企業の中でもとても利益のあがる運動でありえることを示している。ミシガン州の農民たちが、持続可能な農業技術や近場の市場との結びつきにもっと関心を持つようになれば、学ぶのにとても良いモデルがあると言えるのだ。

■旅について

 氏の旅は、カリフォルニア、オークランドに本拠がある食料政策シンクタンク、フード・ファーストがスポンサーとなった2週間の実情調査によるものである。これは、1994年以来、キューバの農業変革に参加していたフード・ファーストによって組織化された第5回の視察団で、キューバを訪れたこれまでの最大の農業研究代表団のひとつだった。グループは、食料セキュリティ問題を研究する組織の農業専門家、学者や公共政策の担当者を含み、都市と農村部の農場を訪れ、政府の行政官や科学者や農民と出会い、化学集約的な工業的農業からより持続可能で有機農業へのキューバ農業の再生経験が、いかに米国やそれ以外の国々に移植できるかについて議論しあった。2002年、グループはそのほとんどがキューバの農業専門家によって書かれた書物「持続可能な農業と抵抗」(Sustainable Agriculture and Resistance: Transforming Food Production in Cuba)の翻訳書を発刊した。

 2003年3月24日、アーリン・ワッシャーマン氏がスタディ・ツアーから帰国した2週間後、ブッシュ政権は、米国人が教育目的でキューバを訪れることを禁じ、12年続いた文化・専門交流プログラムは終わってしまった。

 アーリン・ワッシャーマン(Arlin Wasserman)はミシガン土地利用研究所の政策アドバイザーである。2002年に、氏はW.K.ケロッグ財団、トーマス・ジェファーソン農業研究所、農業・貿易政策研究所(Institute for Agriculture and Trade Policy)が後援する有名な食料と社会政策フェローシップを受賞している。

ミシガン土地利用研究所のHPからの記事)
  Arlin Wasserman,Cuba’s Delicious Surprise,2003.

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